いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「飲み直す」という表現がどこか気に入らない

飲み会が一段落したあとに、「もう一軒行こう」などというときに「飲み直す」と表現することがある。
辞書には次のようにある。
酒を飲む場所や相手を変えてまた飲む。


最近この言葉が気に食わないのだ。「飲み直す」ことが嫌いなのではなく、「飲み直す」と言われることが嫌なのだ。



というのも、どこか欺瞞的ではないだろうか? だって「飲み直す」と言っても全然直していないのだ。
例えば「作り直す」というときのそれは、いっぺんできあがったものを解体して、再度作ることだ。これはわかる。
だが酒に関しては「直す」ところがどこにもない。ずっと飲んでいるだけで、「リセット」という側面が全くないのだ。


いうならば「飲み足そう」という表現の方が実像には近い。
ぼくが「飲み直そう」が気に入らないのは、この「リセットするでもないのに、あたかもリセットしているかのように見せる」ところなんだと思う。「飲み直す」といった人が、口に指を突っ込み吐き始めたところを見たことあるだろうか? おそらく多くの人はそんなの見たことない。「直す」「リセットする」わけではないのだ。


ではなぜ、「リセットするでもないのに、あたかもリセットしているかのように見せる」のが気に入らないのだろうか。
たぶん「直す」という表現に、「もっとよりよいものに改善する」姿勢がみられるからだと思う。「飲み直そう」と言うとき人は、あたかも自分の飲酒をもっと実りのあるものにしようとする「上昇志向」を装おうとしているような気がしてならないのだ。あからさまではなく、微かにではある。けれど、そのかすかに漂う上昇志向が、鼻につくのだと思う。

繰り返すが飲酒が嫌いなのではないし、現実に「飲み直す」行為が悪いわけではない。店を変え、相手を変え、その人がどれだけ飲もうがそれは本人の勝手だが、飲酒についてのスタンスが気になるのだ。

飲み会なんて蕩尽でしかない。くだらない話題でくだらない盛り上がり方をして、その場かぎりで後には何も残らない――それでいいのだ。

飲酒について、進化や進歩なんて望むだけ虚しいだけだ。「飲み直す」という表現にはどこか、飲酒を蕩尽だと認めきれない諦めの悪さが見え隠れしている。へべれけになりながら「飲み直そう」というときの人は、どこか「飲酒は実りあるものにならなきゃいけない」という強迫観念に囚われているような気がする。本当はそんなことを気にせず、飲み"直す"なんてエクスキューズはいらない。「飲み倒す」あるいは「呑んだくれる」で充分なのだ。