『実践カルチュラル・スタディーズ』を読みました

上野俊哉さん、毛利嘉孝さんの『実践カルチュラル・スタディーズ』を読みました〜。

実践カルチュラル・スタディーズ (ちくま新書)
上野 俊哉 毛利 嘉孝
筑摩書房
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カルチュラル・スタディーズ入門』に続く本ですが、「実践編」というわけでもありませんね。「応用編」でもない。強いて言うなら、「下巻」でしょうか。

私は上野さんなり毛利さんなりのなにがしかを詳しく知らないんですが、一方で東浩紀クラスタとはなにやらウマが合わないらしいことをつい最近ネットで知り得ました。東浩紀さんのこともせいぜい「朝ナマでブチキれて途中退席した人」くらいしか認識はありませんが、マンガやオタク文化を中心にした批評家ですよねー。そういったインドアな人と、こっちのレイヴ・カルチャーを論じる人とでは、そりゃウマが合う訳ねえよなあ、と思いながら読了しました。と、まあ野次馬的な見方はこのくらいにして。

『入門』から続けて面白く読めましたが、正直言ってツラい部分も多かったです。特に若い人や大学生と一緒にやっているというプロジェクトの話は、広報の紹介ビデオを見せられているような心持ちでした。それから、もうこの本が出てから9年経ってるんですが、挙げられているケースのどれもが古くなっちゃってる印象は残ります。新宿西口ダンボール・アートも、YOSHIKI天皇陛下の式典も、「ああそんなのあったなあ」という遠い記憶の彼方、という感じです。レイヴなんて最近聞かねえなあ懐かしい、ってなもんです。マイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』を観た時にも思いましたが、旬のうちに観てない、読んでないというのは圧倒的に不利です。しかしこの本、出てすぐ買って読んだとしても、なんのことやら分からなかったんじゃないかとも思います。むしろ分かった頃には旬が過ぎているという。

この本で挙げられている対象も観察者も、9年経った今ではすでに別の立ち位置、別の次元で活動しているだろうし、しかも、嗚呼、当時twitterがなかったわけですよ! その意味ではこの本のタイトル(実践)は今となっては「痛い」気がします。それはこの本で紹介されている団体・集団のURLをたどると、なにやらアップデートされていないflashの残骸があるだけ…という状況がよく物語っています。たいていHTMLじゃなくてflashだってのも「らしい」ですよね。このように、あっという間に廃墟になるのが『カルスタ』の現場なのでしょう。いかにも離合集散を繰り返すディアスポラノマド、トライブという用語が似合います。

内容で面白かったのは、サブカルチャーの現場で見られる集団をトライブ(tribe、部族)と呼ぶアイデアです。梁石日さん他が描いた在日による"スクォッター集団"であった大阪の「アパッチ族」をはじめ、「斜陽族」「竹の子族」のように、日本語でしばしば現れて来た「族」という言葉を、サブカルチャーへの帰属という意味で頻繁に使っています。んでまあ、いろんなところでこのtribeとかtribalという用語が盛んに出てくるんですが、言い換えればこの本は「tribeという用語をめぐる考察」となるかもしれません。ただ、これだ!という結論めいたものは一切ありません。それはきっと池上彰的な物言いから逃れるために、故意になくしているんだと思うんです。でもそうすると、「で?結局なに?」という問いは避けられないわけです。

だいたいがですよ、被抑圧者の抵抗の身ぶりとしてのサブカルチャー、なんてのは1960年代から言われてます。そういう物言い、もういい加減にやめて欲しいなあって。あんなもん、ソフビ人形からDJ機器まで、全部「ド産業」じゃないですか。「○○クラスタ」という類型に安住するなんて一番みっともないなと感じる一方で、ハイ・カルチャーを殺して幼稚な部族が跋扈する荒野になってしまうのか、と想像するとぞっとします。確かにバレエもヒップホップダンスも、同様に価値あるカルチャーとして論じることができたら素敵だなとは思っていましたけど、実際に論じるにはバレエを知らなければいけないし、やっぱ知らないでしょ?って話になってしまう。だから、サブカル擁護は怠惰なだけじゃん、とも見えるんです。そして「カルスタ」がいつもサブカル側に寄ってしまいがちなのは残念なことです。怠惰なだけじゃねえか、と問いたいのです。「研究の結果、地方ではDJで生活していくのは難しいことが分かった」とか読んだ時にはずっこけましたよもう…。