『アメリカの鱒釣り』を読みました

リチャード・ブローディガンの『アメリカの鱒釣り』を読みました〜。

アメリカの鱒釣り (新潮文庫)
リチャード ブローティガン
新潮社
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ふたつの意味で、読む順番間違えたなーというのが正直なところです。ひとつは、この本は「なんとなくアメリカ文学が読みたいなー」と思って手にするものではありませんね。せめてヘミングウェイでもスタインベックでもサリンジャーでもバロウズでもムラカミでも、とりあえずアメリカモノを読みあさってないと、この本の立ち位置、1960年代米国西海岸には繋がらないかもな、と思いました。当然ながら文学以外でもアメリカそのものを把握してないといかんだろうし、いやもうホントとにかくアメリカのことしか書いてないんですよねこれ。

んでふたつめ。藤本和子さんの仕事を読むならこっちからだったか、という反省です。『塩を食う女たち』を読んだときに、「どうせなら、辞書引きながらでもToni Cade Bambaraを原書で読んだほうがいいかもしれないな」などと書いた自分が恥ずかしい。撤回します。Toni Cade Bambaraにせよこの本にせよ、はっきり言ってとても自分が原著で読めるような代物ではないです。辞書を引きつつ読むには、翻訳業を志す英語学習者ならともかく、どれだけの時間がかかるか分かったものではありません。そういう作業をまずやったのが藤本和子さんである、これがまずすげえなと思いました。

なにも翻訳論を話したいわけではないんですが、翻訳家なら誰しも突き当たる問題でしょう。膨大な固有名詞、暗喩、押韻があって、それらをどこまで非ネイティブ言語に反映させて省略しようかっていうその作業。本当はホメロスの『オデュッセイア』並みの膨大で詳細にわたる解説が必要かもしれないんです。そういう原文との格闘のありさまを、この本の場合は、かなり特殊な「訳者註」で感じることができます。訳者あとがきも同様に、素直に面白いっす。

んで、中身についてです。さまざまなクリークに鱒を釣りに行くんですが、まずクリークのさまざまな名前からして死屍累々の歴史があり、そのくせ歴史なんて関係ないという顔をしてそこにあると。だから表紙で言いたいこと全部言ってるんですねこれ。ワシントン広場の、ベンジャミン・フランクリンの前にいる、アメリカの鱒釣り。拍手したいですね。こんな読後感もなかなかありません。

いつかまた読み返したい本ではあります。が、もうこれは「アメリカの鱒釣り」じゃなくて「アメリカの鮒寿し」なんてのでもいいんじゃねえの、と思うほどのこの妄想文章を読み解いて、60年代のカウンターカルチャーを知ったところで、誇らしげなおっちゃんおばちゃんを喜ばせるだけかもしれないですからねえ。微妙なところですねーなんつって。

私の生まれた1970年の時点で、ブローディガン35歳、藤本さん31歳、村上春樹さんは21歳ですよ。文学でも音楽映画思想なんでも、だいたいこの時代の、この米国西海岸に楔が打たれていて、それに縄つないで踊っているような気になってしまうのが、やっぱり自分としてはシャクなんですよね。これは常にあります。あんまり確かめたことないですけど、やっぱり40歳くらいの世代の人たちは、みんなそういうコンプレックスあるんでしょうかねえ?

しかしまあ、いろいろ読んでみるもんですね。