『それでも夜は明ける』を観ました

スティーヴ・マックイーン監督の『それでも夜は明ける』を観ました〜。


なぜ突然またこのブログに感想を書きたくなったかというと、この作品があまりにもつまらないシロモノで、これは評価がひどいだろうなと思ったら、各所でのレビューの評価が一様に高いという状況に絶望しかけたので、そのバランスを取るためにもこれはなにか感想を書かなければならないと思った次第なのです。

ムチで打たれた背中の傷跡をアップで映すような、観客に対するサディスティックな行為は良いとしても、それ以前の問題として、あまりに見え見えな悲しい音楽はまったくエモーショナルではないしかえって白けましたし、どういう感情を読み取れというのか意図が読めないような顔ドアップの絵が多すぎ。虐待にワンワン泣く演者を見るのは、どうしてもこちらの緊張感が切れてしまう。そんなもん見たくないっつーのに、こいつらは見せるんだよな、その根性が気に食わない。奴隷主の奥さんのヒステリーの描写も、踊ることを強いられる奴隷たちの踊りのシーンも、「ここは悲しい感じでね!」という学芸会かと思うような演出ではないかと思われます。労働そのものや主人との人間関係においての描写も近視眼的で、これはもともとの原作がそういうものなんでしょうけど、背後にある当時のアメリカ南部の大きな産業経済的なシステムっていうものがまるで見えてこないのはせっかくの映画としていかがなものでしょうか。

奴隷商人のひどさばかりを目立たせるようなテクニックは、韓国中国が戦時中を舞台にした映画を作るときの日本兵の描写を思わせるというか完全に一致しました。この作品の内容が事実かどうかは、もちろん事実でよろしいんですよ。北部の自由黒人がある日突然南部の奴隷にされたという、原作に忠実に描写した結果がこの描写になるのはナットクなんですが、映画的にはまったくダメじゃないかという気がするんですよね。製作者の意図がまるで奴隷主のようであり、観客が奴隷のように見ることを強いた映画です。ナニがイイたいんだこの野郎、とトマトを投げる余地くらい与えろって言いたい。

さらに二百歩くらい譲って、お話が原作に忠実であればこそのこの歴史観であるなら、それはそれとして飲み込みましょうという感じで観ても、ブラッド・ピットが演じるカナダ人の大工さんのキャラは型破りといいますか、映画として反則ではないかと思います。あのオトコがナニをどうしたら最後にああなるのか。きっと何かをどうにかしたらああなるんだろうね、やっぱり最後に正義は勝つよね、良かったね、とナットクしろってのかおい。

なんてクソ映画を見ちまったんだろうと思って検索すると、さまざまな受賞歴と評価の高さに唖然としました。これほどの差は最近では珍しいです。「奴隷の生活のひどさの描写に感激しました」とかの小並感の多さにも痺れました。評価する者が奴隷になっているとしか思えない。

大体、アメリカ合衆国南部の奴隷制について少しでも勉強したり読んだりしたヒトなら、当時のアフリカ人奴隷の生活がいかに辛くて酷かったかは理解しているはずなんです。その奴隷制の前提を共有した地点に立って、ではどうするか、というこれからのことを考えさせたり主張したりするのが映画だ、という風に私は思ってしまうのですが、どうもそうではないようです。「奴隷制について知らないヒトだって多いじゃない〜」というのも馬鹿にしている話です。こんな内容で奴隷制というものを振り返っている場合じゃないでしょう。「差別そのもの」にルーツもクソもない。現在の差別をえぐりなさいな。デモやってるでしょう全米でさ。

まあ賞レースをにぎわした作品としての意義はあるのだと思うので、ヒートアップするのもこのくらいでしょうかね。原作をチラッと目にすると、体験したことの描写は、北部の自由黒人の視点であるわけで、自然と酷く耐え難いものになっているでしょう。しかも識字率の低さを考えたら、こうして資料として残っているものを、映像としてさらに残したということが、意義のあることかもしれませんね。とか適当にフォローしておきます。

例えば日本映画で、有名な俳優を使って関東大震災時の朝鮮人虐殺をテーマにした映画を描けますか、描けませんよだからこういう映画は凄いよね、という論評も目にしたんですが、なるほどそう言われてみれば確かにそうですが、朝鮮人虐殺のみがテーマという映画は果たして映画として面白いんでしょうかね? 例えば震災当時、朝鮮人と間違われてリンチされて死んだ日本人もいたのですが、作家でも映画人でも、焦点を絞るテーマにセンスがあるかどうかってのは、存在意義と同レベルで問われることではないのかなって思うのです。よく見るとこの作品、タニマチがブラッド・ピットで、監督は技巧的な映像表現で評価された方とのこと。こういう制作者側の思惑や成り立ちによって映画の枠組みも決まってくるというのは、まーあ、仕方のないところなのかもしれません。

私なら、ソロモンを映画にするなら、この後に起こる秘密結社「地下鉄道」まで描くべきで、なんていうのかな…、結局エンターテイメントですから…、この作品のように「やられ損」で終わるのはどうも満足できない。家族と再会できて良かったね、で終わるのは到底満足できない。そういう意味です。

ポール・ダノの弱キャラ白人役、やらしい感じがしてよかったです。