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2018-05-31

少子高齢社会に対する意図的な無策という犯罪的行為


  少子高齢化がもう何十年も前から問題になっているが、当然な事としか言えない。

資本主義に少子高齢化への問いを求めたとすれば、以前のような、労働組などと対峙し否応無しに認めざるをえないと考えさせられていた、資本の長期的な増大を前提とする資本主義なら、「労働力の再生産」のための必須な費用として、労働者側から要求された「子供や家族の養育費用」の分の賃金の増額を求める声に、資本主義自体の要請から応じていただろう。また、高齢化の場合もまた、年金制度のように、「労働力が退役後も生活が保障される担保」として、介護費用なども、最終的には資本家は受け入れる形になっただろう。


  そのような中、それらが認められず、そのような事はファンタジーで企業にとって無駄な負担として、「スマート」な雇用形態として、日本では派遣労働から、解雇の自由などが認められるようになり、また、増大した新興企業では労働組合などは組織を暗に禁じられ、そして既存の連合のような労働組合は労働組合組織自体の既得利益を守るための御用組合と化してしまっていたため、その結果、平均所得は下がるのは当然として、非正規率も大幅に増加してしまった。そのような、「労働力の再生産の担保」としての育児費用、「労働力が安定的に供給される担保」としての、高齢者の養育費用を、「今現在の私達には関係ない事で生活を、生きるのを維持するのに手一杯」と労働者を追い込み、「将来を見越した費用まで何故必要なのか。労務者が生活するに最低の賃金を払えばいいではないか」とバッサリと切って、賃金を極限までに切り落とした結果のデフレ経済での勝者争いが、現在であるのではないか。


  そうなった場合、民間、つまり一個人、一企業、つまり「全体」ではない場合では、いくら善意で革新的な制度を取り入れたとしても、悪貨は良貨を駆逐するではないが、「短期的な利益追求を求める市場で、短期的な利益追求目的としてを行い、有用な長期的利益追求のプロジェクトが駆逐される」という形で、実現は不可能である。


  だからこそ、そのための場合のの、政治の役割が必要なのだが、バブル崩壊以降、日本政府は「短期的な利益追求を求める市場で、短期的な利益追求目的として行い、有用な長期的利益追求のプロジェクトが駆逐される」事を繰り返してきた。金融機関への公的資金注入も、損害を出した当事者は罪を問われずというモラルハザードで、その後に「罪を問われない前例があるし、やってもいいんだ!」という結果を生み出している。その事は、不適切な公的資金注入時の証券取引法やら商法違反やらの場合の企業も、労基法違反の労働基準法違反の場合の企業も、同じで、モラルハザードがこの国を壊し、そのモラルハザードを行ったのは政治であり、その政治を担ったのは自民公明であり、それを「選挙時にはその政策は自民・公明は言ってなかったけど、他の事で支持した」というのが自民・公明支持した国民の一部である。

  

  そのように、政治の役割は「長期的な市場全体の利益」のためにも必要なのだが、資本家…いや、投機家達は、それを過去のものであると喧伝し、そして自民・公明などの政治屋も「過去のもので、現在はこれが『グローバルスタンダード』だ!」と主張し、定し政治を殺し続けた。そして「株主主権」というものを、まるでグローバリズムの中の「民主主義」と対等のような、「民主的原則」のように主張し、「株主主権」として、短期的な利益追求ばかり求め、そして売りさばく。そう、イデオロギーなど無いと主張する割には、主張が多い彼らほど、新自由主義ほど、「イデオロギーを否定する『イデオロギー』」は、なかったであろう。


  ここで書いているのはグローバリズム自体をすべてネガティブに言うためのものではない、アルテルモンディアリスム的に、グローバリズムの一部の内容は、基本的人権や民主主義の一部を支援した面はある。ただ、グローバリズムの本質的な内容となると、そういったアルテルモンディアリスム的な価値観ではなく、打算的な資本主義からの要請であるのは、否めないものかと思う。


  話が逸れたが、そのように、数十年前から予見されていた少子高齢社会に、単に「目先の利益のみ見てすべてを孫の代に回し、政治、そして経済全体の事を考えなかった守銭奴とその追従者と政治屋などの幇助者」として、「意図しなかった不作為」なのなら、単に国民と政治屋の無能という結果になるが、バブル崩壊後の政治経済の歴史を見ると、「この少子高齢社会へ無策で放置する」という行為が、「意図した不作為という作為」なのではないかと思ってしまう面がある。


  現に彼らの支持層である人々は、今さら遅いのは確かだが、本質的な問題である少子化対策をしようとは言わずに、ただ「ミンスのせい!」とか、もう7年前にもなるのにいまだにデマを言ったりと、はぐらかし責任を免れようとしたまま、現在進行系で自民党が進める移民政策を不気味なほど批判せず「少子化対策のためには仕方ない」と国粋主義レイシズムを持つのに「隔離をすれば問題ない、自民公明なら分かってくれて隔離してくれる」とでも思ってでもいるのか、その移民政策を支持し、自民党を支持している。仮に自民党・公明党が移民社会にした場合、その後景気後退のときに移民が「産業予備軍」として失業者としてあふれたら、今度は自民党・公明党などの「自称・保守政党」と、それを支持した彼らが、移民を入れたのは自分たちなのに、「移民に日本人の職を奪わせるな!」と主張するのが、パターンとして欧米で見られたので、目に浮かぶようだ。


  そのような茶番劇が容易に想像つくのに対し、その茶番劇を演じる自民公明が少子高齢社会に無策なのは、そしてその「代替的」な案として「移民政策」を掲げるのは、私のような無名で無学な素人の人間ですら、少子高齢社会となると予言されていた数十年前の段階から、もしくはせめて10年前から、行うべきだったはずと思うのに、それら少子高齢社会の対策を行わず、移民政策を進める自民公明とその支持層のネトウヨが、民主党政権時に子ども手当をデマも数多く含め、口汚く罵倒して廃絶させたのを見ると、本当にこれは意図的なプログラムに組み込まれた無策なのではないかと思えてくる。つまり、「短期的利益の究極的な追求としての、短期的な最小賃金労働者確保のための、段階的方策」としての「新自由主義的改革」と意図されて、である。


  意図的に「所得格差拡大による中産階級の廃絶」を行っているなら、それら所得格差の拡大した、一握りの富裕層と大多数の貧民層という社会は、ある意味で、先例多数で予想区可能性の高い、極めて統制しやすい社会で、ある種良識的な面を担っていたインテリの中産階級が無くなる事で、ただただ、「その日を生きるために精一杯で、政治など考えていられる余裕などない層」が生まれ、結果、少数派なのに支配できる、という形態ができるのではないか。


  どちらにせよ、もうここまで何もかもが、経済方向では新自由主義などでのデフレに、政治方向では、グローバリズムを大義として掲げた新自由主義での、「『脱イデオロギー』というイデオロギー」に、向かっていて、個別の政治的問題すらも、「グローバリズムでの大義の前では小事だ」と、例えば「景気回復の大義の前では、民主主義における公文書の行政機関による改ざん問題は小事だ」、などと言うようになり、先人の叡智が歪まされ、愚劣極まりない短期的利益を求めるポピュリストや、もしくはただ「その『後押しされてる立場』の雰囲気に同化して、自らを偉大なものだと思う者」などが「突撃隊」となり、民主主義を蝕んでいくのは、止められないのだろうか。

2018-01-09 ユートピアかディストピアか

ユートピアかディストピアか

  「AI革命」と「労働力の補助」として、AIとロボットの時代だという言葉が聞かれ、これは20世紀に思い描かれていた、人間は働く事を必要とせず、ロボットにすべての労働を任せ、自由な人生を歩める、といったユートピア像が実現しそうなように見えてくる。


  しかし、そのような一見ユートピアが成立するような、労働力をAIやロボットに置き換える場合に問題になるのは、まず、そもそも、そのAIとロボットの所有権は多くの人には無く、ほとんどが、いわゆる1%の富裕層が握る事になる、という事だ。


  つまり、AIとロボットというと言葉が近未来的だが、基本的に単に生産手段と労働力が、AIとそれの指令に従ったり自律的にAIを持ち動くロボットが生産手段となり、その所有者は1%の富裕層であり、そのAIとロボットによるもののような、第四の産業革命で生まれる富を、1%の富裕層が国民に分配する理由もない、という問題がある。


  そして、その生産手段で創られた価値を持った商品は、もはや労働力を売る場所がどんどんと縮小され限定的になった時代には、いわゆる労働者、もしくは従業員でも会社員でもいいが、99%の人にとっては、労働力を売る市場が縮小するため、商品が買えない、という状況を生み出す可能性がある。その場合、一体誰が「商品」を購入できるのか。


  恐らくは個々の資本家、もしくは「資本」の運動原理でも、そのような「労働力を究極的に削減する事によるコスト削減での利潤追求と、労働力が究極的に削減され労働力を売る事ができない、文字通り【根無し草】の99%の人間が、そう製造された『商品』を買う事ができないという矛盾」の事を全然想定せず短期的な運動を繰り返す事しか考えていないのではと思う。


  個々の資本家に善良な人は居るし、それを危惧する人がいるかもしれないが、個々ではそれを理想主義的に、例えば新しいユートピア的共同体を創るとしても、ニューラナークのように失敗する可能性はかなり高いし、結局は根本にあるその究極的な矛盾に衝突することになる。


  一般的に、「生産手段の発達による生産力の発展」とその「生産手段を用いた生産関係」の矛盾は、かつてのマルクスが言った、史的唯物論的に、そう生産関係が、生産力の妨げになる時、革命が起きるという事が言われているが、そう、革命が起きてもおかしくないような、極めて大きな矛盾が起きうると個人的には思う。


  しかし、そういった「革命」、そこまでいかないなら政治による解決といった「政治の季節」のようなものが起きなかったとしたら、もしくは、「『政治』、『民主主義』という不確定的な予想の難しい要素」を「生産力の発展など、資本の発展と運動の足かせになる」と、1%の資本家だったり、もしくはそうでない存在だったりが判断した場合は、最近は「レガシー(遺産)」という言葉が用いられているが、その名の通り、民主主義やその思想から派生するものは「遺物」として、急激に投げ捨てられる危険性がある。


  少なくともこの文章を書いている2018年1月までに、政治の舞台では予測がつかない事が立て続いた。それが、ブレグジットだったり、様々な無益な戦争や紛争だったり。トランプ大統領の当選だったり、そういった予想がつかない「非合理的な」結果になることは、そういった「ローカル」な「政治」での不確定性での混乱があった。


  グローバリゼーションが終わったか終わってないか分からないが、少なくともグローバル企業は多数存在している中で、それらを所有している1%の資本家が、「民主主義やその思想によるものの政治は、推測できず合理的でなく経済原則に反した非合理的な選択をしかねないシステムなリスクファクターに過ぎない」と判断した場合、本当にそれらは「レガシー」として、文字通り瞬く間にひっくり返されて、民主主義や、その思想である基本的人権などそれらの思想でない、とても良い結果となるとは思えない、「政治の終わり」の結果になりうると思ってしまう。


  一体、「政治の季節」となるか「政治の終わり」となるか、分からないが、そういった矛盾、「生産力が爆発的に増え、生産手段の所有者と、その生産手段で生み出された価値の所有者が1%の富裕層にあり」、「生産関係が崩壊し、労働力が不要になることで、大多数の人間が労働力を売る事で以前はお金を得て商品を購入していたのに、できなくなる」という、「商品を買う主体の消滅」と、「商品市場の究極的縮小」と「商品の爆発的な量の効率的生産」という、とても矛盾に満ちた事に直面するのではないかと思う。


  ただ、先述のように、各資本家だったり企業がそう生産力を上げ、人間から労働力を購入する事を辞めるのを、と進めていくと、「商品は膨大にできるが、買う人がいない」という結果になるので、どうしてもそこで、仮に近代民主主義などを「レガシー」として放棄し「政治の終わり」となるか、しかし、なりふり構わない抑圧で矛盾を押え付けようとしても、矛盾は根本的には解決されない問題として、「政治の季節」として矛盾が解消されるまで残る事になる。


 さらに言えば、「資本の運動」には、必ずしも資本家などの人間形態などは必要ない。もしもAIが法人と結びつき、今以上の法律上の権利の保障がなされれば、1%の富裕層という人間主体すら必要としない。合理的判断が成されない可能性がありAIに拒絶される可能性があるのは、民主主義での主権者である人々だけでなく、1%の生産手段たるAIとそれが生産する生産手段を所有する資本家という人間存在もまた、リスクファクターでしかない。法人名義で所有され、法人が自然人を必要としなくなったら、1%の富裕層すら排除されるかもしれない。そうなると、ただただ、人間が労働力を売る事ができず、買うお金が無く買えない商品ばかりの市場で、恐慌と好景気を繰り返しながらの資本の運動が複雑な形で繰り広げられる中で、しかし長期的には資本の自己増殖で無限に発展していく、人間主体が無いゲームとしての資本主義、などが起きる可能性がある。


  その大きな矛盾の極みの時に、果たして「政治の季節」の再来になって、「革命」などの変動が起きるのか、現代では思い付かなかった何かしらの変動が起きるのか、分からないが、少なくとも、今のまま進んだ場合、あまり良くない結果になるのが予想でき、今はまだそうなっていない、というのを考えると、別に「革命」が起きたり起こしたりなのかは置いておいて、せめてそういった地獄のような矛盾とならないように、人間が人間であり理性的な存在として長い歴史と思索の中で産みだして来た、民主主義や基本的人権や哲学・思想が「過去の不要となって放棄されたもの」、「レガシー」とならないよう、近代民主主義やその周辺の思想である、基本的人権などの思想や、自由や平等や様々な政治哲学的成果を守っていくのは、今私達ができる、精一杯の事ではないだろうか。

(何だかよく分からない結論になりすみません・汗)

2018-01-05 暗号通貨について思う事

 暗号通貨について思う事

  もうずっとブログをサボっていてすみません…前にも思ったのですが、「かえって『間違いがないように、色々調べて学んだ上で完璧に書かなきゃ』と思うと、僕の場合は長続きしないようです…。。それなので、今ですら不確かな裏付けと不十分な知識しかなく書いているのに、さらに不確かで不十分になるにせよ、書かないようはマシなのかも、と思い、ちょっと気持ちを楽にしてブログをしようと思うようになりました。


  今、極めて日本の政治において、憲法をないがしろにするどころでなく破り立憲主義も守らず、そして民主主義すら放棄しようとしている中で、色々書かせて頂きたいのがあるなとは思っているのですが、何故か久しぶりに書いた内容が、時間がもう5時ですが、2,3時くらいになんとなくメモでまとめていたら、こういう内容になり、全然関係ないものですみません(汗)、


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  あまり詳しい訳ではないが、突然書きたいと思ったので、書かせて頂くと、恐らく、今、よく話題となっている暗号通貨は、まず総量をビットコインなら1600万枚と限定して「希少性」を持たせ、そしてブロックチェーン技術での改ざんができない存在であると「信用性」を持たせ、「mining」の名の通り「Gold」の持つ「希少性」と「信用性」を持たせ、「採掘」後もそのブロックチェーンの相互チェックとなどが利益になる事で、途切れる事がなく回る事で、成り立たせようとしていると思う。


  しかし、「Gold」と違い新しい暗号通貨をいくらでも作れるので、単に例えば今メジャーなのはビットコインなのでそれを例にすれば、それが「メジャーである」だけでは「希少性」も「ビットコイン内で存在する有限性」でしかないので、他に産まれる新しい暗号通貨が林立する事で、Goldと違って「希少性」は低くなり、また、「暗号技術の高さ」は確かに「信用性」を多少高めるかもしれないが、しばらくしてそれと大して変わらないかそれ以上の暗号技術のものが産まれるとすれば、結果的にどの暗号通貨も「信用性」で極端に差異はないとなって、そう暗号通貨が新しく産まれるたびに、「希少性」が減りと「信用性」も他のとあまり変わらないため決定的なものではなく、「その価格が大きく変動せずに価値を保存してくれる」という意味での「信用性」も低くなる。


  暗号通貨は、中央銀行による発券や政府の介入など通貨システムでの中央集権性を覆す画期的なアイデアで、それを設立した人もおそらく、そしてそれ応援していた初期の人は特に、その非中央集権的な、分権的で自由な存在を愛するからこそ応援していたのではと思うが、ただ、「信用性」が「ブロックチェーンの偽造のほぼ不可能な事による信用」で、価値自体を裏打ちする「価値があるから信用がある」というものでなく、裏打ちする存在も居おらず、中央銀行のように何かあった場合、「責任(もちろん中央銀行が責任を放棄した例はあるが)」を持つ存在がおらず、例えば1ビットコインはGold何グラム分か、というのにはとても難しい。


  Goldに相場があり価格や価値の変動があるにせよ、「他にそれ以上適切な、信用性と希少性での価値・価格を持つ溶かして固めたりして分割が自由にできる物質」がないため、底が見えない価格の暴落もなければ、それが流動性は低く通貨に十分信用性があれば、希少性はインフレやデフレの抑制がされれば、通貨で事足りるので、実際に持ち歩くのは現実的でないのもあり、極端に天井知らずの上がり具合を見せる事はない。


  それに対しビットコインなど暗号通貨は、それ自体がある意味で本当に純粋に市場価格で変動し、市場価値は現実の中央政府の通貨との交換比率であり、交換価値を極めて具現化して媒介するにしても、流動性は「通貨」並みかそれ以上に高いものの、媒介しようにもその基準となるのは、実際の中央銀行発行の通貨との交換比率で、その交換比率は少なくとも今現在は投機もあるので極めて大きく上下しているため、とても価値の尺度とし価値の貯蔵をしようと思う「信用性」が無い。


  逆に言えば価値の保存、つまり、世の中の、価格ではなく価値では、過去の労働により産みだした価値がかなり大きく占めると思うが、それが保存される存在として選ばれた場合は、価値は蓄積していくので、蓄積していった価値で、「信用性」も産まれるかもしれないし、だからこそ、数少ない「信用できる交換を媒介するもの」として、「希少性」も産まれるかもしれない。ただ、人々が労働力を提供した結果得られた賃金を、暗号通貨でもらって、暗号通貨に貯金しようと思う人は、今の段階だからこそ想像できないだけか頭が古いせいだからかもしれないが、居るように想像できない。少なくともそうなるまでには、金貨銀貨といったものから、金本位制の兌換紙幣、そして今現在の不換紙幣となるまでに、かなりの時間がかかったのを考えると、もしそうなるとしても、そう暗号通貨が「価値を保存する存在」という「信用性」を持つには、相当な時間がかかると個人的には思う。


  それに加え先述のように、今現在は投機の状態だからだと言われるが、投機が収まったとしたら、1ビットコインが1億円になる、などの話を言っている人の話を聴くにせよ、それは先ほどの「ビットコインしか存在しない場合で、1600万枚しかないため、それを現実に流通している中央銀行の通貨と置き換えた場合」だろうし、先述のようにその「希少性」はビットコイン以外の暗号通貨が林立する事により、薄まり、それが暗号通貨が林立する上限の数というものが、理屈の上では存在しないので、果たして十分に「この暗号通貨なら、価値を保存する存在と認める事ができる」と思えるほどの暗号通貨ができるかは、林立する暗号通貨の数がいくつになるか分からないし、どれだから安全という保証もないので、分からない。


  そういった場合に、提唱者と、特に初期の応援者であった方達が思い描いていたような非中央集権的なものでない、少なくとも何らかの裏打ちのある価値と信用にリンクする必要があると思われる。果たしてそれが何なのかは分からないが、ドルかもしれないし人民元かもしれないし、ユーロかもしれないし、円かもしれないが、そうなると通常の電子通貨とそれほど変わらなくなってしまう。確かに各通貨同士を媒介する存在とも言えるが、媒介をするといっても各通貨の相場変動に合わせる形になり、もし一つの通貨に依存する形に信用性と希少性をつけようとすれば、あまり意義があるとは思えない。


  あえていれば、例えばIMFのSDRは、外貨準備高が尽きた時のために各主要な通貨をプールしておいて行使しその欲しい通貨を引き出すものだが、ここで見方を変えるとSDRは、通貨バンケットによりリスクを分散した金融商品とも言える。それとリンクする事ができれば、ある意味で世界通貨になることができてしまう。


  といっても、SDRは各国に分配されているもので、IMFが勝手に発行したり分けたりするものではないし、現実的には複数の信用性がある金融機関が、おそらく最初は単独にしても、結果的には複数の金融機関が合同で、その資産や極めて複合的に持っている債権や商品で、信用性と価値を担保して、暗号通貨を発行する可能性が高いかもしれない。


  実際日本でもMUFGがそうしようとしていると聴くが、結局は一国に頼らないで済むリスク分散とか新しい金融商品とか、そういうものになって、「採掘」して「掘り当てた」り、非中央集権的に相互が保証し合って、そして相互に維持する、そして当初の理念とは程遠いものになる可能性がかなりあるかもしれない。


  どちらにせよ、お金が余っていて「たくさんあるお金のうち、一部をリスク分散のために」と回すかたは居るかもしれないが、まだ少なくとも私のような気の小さい人間は、投機目的にせよ実際店頭で買う手段として持つにせよ、不確定な事が多すぎて、手がだせないように思える。