utopiapartment

about something too important to be taken seriously

水都百景録

ぼちぼちとやってたアトリエオンラインがサービス終了して以降、何個かゲームをダウンロードしてみてはなんか違うなーと思って続かなかったんだけど、やっと新しくハマってるゲームが出来たのでこのゲームの良さをあとでまとめて書きたい。

 

わたしがゲームに求める条件は

①絵が好みの可愛さ

②素材集めが楽しい

③廃人防止のため永遠に遊び続けることができず時間制限があること(ゆえに据え置きで遊べるあつ森は我慢している)

④ものをいろいろ置いてインテリア(またはエクステリア)が楽しめる

あたりかなと思うんだけど、水都百景録はこのあたり完全にクリアしてる上に、歴史や文化関連情報がガンガン散りばめられてて細かい情報好きのわたしに直球ヒットしている。

 

The Rachel Divide

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https://www.netflix.com/title/80149821?s=i&trkid=14751296


そんなニュースを何年か前に見て、そうか黒人憧れかーって思ったのを覚えてる。その彼女のドキュメンタリーが出て以来見たいと思いつつリストに積んだままで、今日やっと見た。

そもそもこのドキュメンタリーを見るまでは、ブラックカルチャーに憧れて黒人風の格好してたら黒人に間違えられるようになって、ついつい本当は白人だってあえて言わなくなっちゃって結果的に「否定しない嘘」で装っちゃったのかな?と思っていた。

でも、実際の話を聞くとそれは違っていて、彼女はあくまで「白人に生まれたけれど黒人をアイデンティティとしている」という主張で、嘘をついたつもりはないのだった。
むしろ「わたしは黒人だ」と言う方が(多くの人にとってはそういう風には映らないが)本人にとって真実で、「わたしは白人だ」と言うことに本人は抵抗がある。だから、インタビューであなたは黒人か白人か?と聞かれるたびに言い淀み、答えが揺れる。でも大衆は彼女が「白人だ」と答えることを求めていて、マイクを通してそう言うと客席の人たちが拍手していた。

人種はさも生物学的にくっきり決まっているかのように見えるけど、実際には植民地時代の白人が唱えた社会的通念とも言える。
彼女の主張は生まれ持った特性ではなく自認する特性をアイデンティティとしたいというもので、言ってみればトランスジェンダーと重なるようなものに思えてきた。ただ、トランスジェンダーの場合は本人が後天的に選んでいるのではなく初めからその入れ物が違う、違和感があるということだと理解しているけど、彼女のケースは後から本人が、こういう言い方が合っているかわからないけど、別の意図をもって選んでいると感じた。生まれたときそれぞれに原則として性器を基準に与えられる生物学的性別と違って、人種や民族というのは個人だけじゃなく血のつながりのある家族や先祖から連綿と続いていて一人だけのものではないとも言える。人種の問題は常に何代も何代も前からの問題でこの後も何代も続いていくからこそ重く複雑なこともあって、個人個人に付与される性別と同列に語るには背景が違いそうに思う。

黒人女性の一人が「あなたは黒人女性として自認するための条件を満たしていない。黒人差別の被害に遭いながら苦しんで自分を獲得していない」「自分の肌の色や体の形を憎んで、受け入れていく段階を通っていないし、理由なく車を停められたりしない」と言っていて、ちょっと驚いた。
結果的に、現実の社会ではそうなのかもしれないけれど、「肌の色」のような目に見える特徴ではなく「差別を受けたこと」が条件になるのは、人種が社会的通念によるものである証左の一つになり得る(差別を受けたら黒人として認められるのだろうか?)し、そもそも本来であればない方がいい条件だ。「苦しまなければ自分たちの仲間に入れない」という言い方はその苦しみを肯定するものにならないか?レイチェルが糾弾されるのは「自分たちが投げ捨てたいと思ってるものを彼女が喜んで拾ってしまったから」という台詞もあった。

女性として生きたい生物学的男性がいたとして、彼女が子ども時代に例えば男として生きてたから性差別を受けなかったことや例えば生理で苦しんでいないことを「通過儀礼を受けていないから女性として認めるのは相応しくない」とわたしは思わない。差別を受けてないから、肌の色や自分の体の形を憎んだことがないから黒人女性として認められないって言う言葉に、黒人女性の条件ってそんなところにあるの?とわたしは思ったけど、ただやっぱり黒人女性として生きたことがないからわからない。

男性と女性の社会的立ち位置に比べると、白人と黒人の立ち位置はやはりだいぶ違う。黒人でしかも女性に生まれることで受けるスティグマはその立場に立った人たちにしかわからない重さがあるだろうし、ちゃんと理解するにはわたし自身の勉強が足りないなと思った。黒人女性であることのアイデンティティとスティグマが分かち難いというのは紛れもない彼女たちの実感なんだと思う。レイチェルが黒人差別を自分に向けられた時に「本当は白人だ」というカードを使わずに立ち向かう覚悟があるかというと、そこまでの重さを引き受ける覚悟があるのかはわからなかった。

彼女の実際の話は、掘り下げるともう少しレイヤーがある。
まず彼女の両親は強い保守キリスト教徒の白人で、実子の彼女と兄以外に黒人の養子がいたが、両親と兄はその子たちに凄惨な虐待をしていた。彼女自身も虐待を受けていて「自分はアフリカから連れて来られた黒人奴隷で、白人たちとは違う」と信じ、兄弟たちを虐待から守ろうとしながら育っていて、白人で血のつながりのある家族とより黒人で血のつながりのない家族と強い絆があった。現在も両親と兄とは没交渉だけど他の兄弟とは繋がりがあり、法的にも一部の兄弟の保護者になっている。

彼女にとって白人のステレオタイプは彼女の両親や彼らが望んでいた白人女性の姿で止まっているような気がした。自分が「白人だ」と認めることはそういう人間になるように感じるのかもしれない。
また、彼女が作り上げた黒人としての自分像はあくまで想像上のもので現実には白人として育ってきているわけで、彼女が想定する以上の現代社会での苦しみと誇りが黒人の人たちにはあり、それを彼女は共有していない。

話を聞くに連れどうしても「白人でありたくないがために黒人を装っている」感じが際立ち、まるで自己イメージの世界に一人でいる感じがした。「グループ」の一員になるためには見た目か内面か目標か、なんらかの共通項を持って連帯する必要性と動機があるけど、彼女にはそれが薄いかもしれない。人種のトランジションが可能かを語るには、彼女の物語はあまりにも個人的過ぎ、自己都合が過ぎると感じてしまった。それは番組の作りのせいなのか、それとも彼女自身が十分に言語化出来ないからか。

グループのために働くのに必ずしも当事者である必要はなくて、アライになればいい。現代社会で有利に使えるカードを持っていてグループのためにそれを使えるなら、それを使った方が目的には役立つ。白人であると認めても、自分のなりたくない白人像にはならずに、自分なりの新しい良い白人になることも出来る。でもそうするには彼女の場合は自分の中で育てた自分像を守る必要があって、自分が白人であることをまっすぐ受け入れられない理由があるんだろうなと思った。


わたしに彼女を裁いたり決めつけたりする権利はない。これを問題として考えるには白人や黒人として生きるか、その分類が強く影響している社会の人の話をもっと聞かないとわからないなというのが感想だった。人種の話はいつも最初の印象がだんだん話を聞いているうちに薄れてきて、深く広く思ってた以上に複雑に物事が絡んでいることがわかって呆然とするっていうことが多い。

やっとパラサイト

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(時間も経ってるのでネタバレあります)
話題になってた頃には正直ソンガンホさんしか顔がわからなかったのに、ステイホーム生活の間に韓国ドラマやバラエティを見まくってた時期を経ていたため、いざ見たら見たことある人ばっかりだ。豪華キャスト!とくに家政婦出てきたとき、うおーってなった。なのでわたしとしては今見て良かったかもしれない。

見終わって最初はポンジュノ作品にしてはクリーンで薄味だなと少し拍子抜けしたんだけど、そのわりに見終わってからずっと気づけばパラサイトのことばかり考えている。世界中みんなこんな気持ちになってそれであの快挙なんだな。遅まきながらわかりすぎた。そりゃそうだな。


しかしカンヌやオスカーをとってもそこまで俳優たち一人一人にはスポットが当たらなかった(SAGアワードでキャスト賞を取っているので対象者を俳優たちに絞れば彼らの演技は伝わっているのだろうけど)のが一部で話題になってたことにも納得した。シンゴジラでも感じたことだけど、役者それぞれが元々持ってるイメージにぴったり当たる役回りすぎて、しかも彼らも与えられた役を完全に忠実に演じていて、それゆえに俳優や役の個性が抑えられてる。
この作品、完璧に計算された箱庭の中で駒のように配置されたキャラクターたちが巧妙に動かされて物語が進む。観客が各人物に必要以上に感情移入せず感情でドライブされないように、出てくる人たちが食べる描写もセックスも描かれるわりに彼らが何が好きで何が嫌いか、何を喜び何に悲しむのかは描かれない。貧富の差は関係なく全体的に人間ではなくてもっと脱臭された無機的なものを見ているみたいな感覚だった。上手いほど没個性になる仕組み。

とくにキム一家が自分たちと違う生活をしているパク一家の優位性に怒りも悲しみも向けず、格差をまるで害のない壁紙のようにそこにあって見えているのに気に止めず淡々としていることに肝が冷えた。「この世はなんて不公平なんだ!」と登場人物が叫んだりせず、格差自体に無頓着であるようにすら見える方が分断が深く、じつは現実社会に近くて、より残酷に思える。しかも半地下で生きる彼らはあくまで「半地下」であって「地下」にいる人とも線を引く。そして何かあったときに争うのはこの下層にいる同士で、構造そのものを疑問視したり、上層にいる人に理由なく怒りや憎しみを向けたりはしない。

パラサイトの原題は寄生虫だそうだけど、たしかに虫が何度も出てくる。物語の最初に彼は便所コオロギをただピンッと爪で弾くし、町の消毒の時は便所コオロギを殺してくれるだろうと窓をそのままにしたりするし、彼が冗談で怒ってみせる場面も虫扱いされたときだった。
その彼が「匂いの存在」を知ることでだんだんと自分が虫だったことに気づいていくのがこの映画のメインストーリーラインかなと思った。虫が自分が虫であることに気付いていき、気づいたとき虫扱いした人を壊そうとするけれど、結局は行き場なく虫らしく前よりさらに下層に潜ることを選び、外に出るチャンスがあっても二度と出てこなくなる。

他にも家父長性なのか男性性なのか重たくて離れないものとして息子のギウが抱える石や、くり返される半地下の匂いという大きなモチーフに一切触れないダヘの存在、おそらく先住民(インディアン)に寄った位置にいるダソン、なぜ死んだのがあの二人だったのかということまで、計算し尽くされてて気になる点がてんこ盛りなので考えるほどじわじわ引き込まれる。今までの作品よりもメタフォリックが進んでるから「文化の違いでわからなかったのかな」と思う部分がほぼない(わかってないところはあるかもしれない)。これは国籍を問わず受けるよなあ。これはこの先いつかポンジュノ監督演出のオペラとか見れるかもしれないな。

自分の性別を選ぶ

今から15年くらい前だったと思うけど、映画関係の仕事をしている友達がチケットが余ったけど興味ある?とアジアンクィア映画祭に誘ってくれて、わたしは映画は好きだしアジア映画、とくにクィア関連の作品は必ずしもどこでも観れるわけではないので喜んでついて行った。

 

参加者にはアンケートが配られたので、映画を見終わって答えようとして、わたしは性別欄にたくさん選択肢があることに気づいて驚いた。そして、クィア作品を扱う映画祭なんだからそりゃそうかーと思って自分に当てはまるものを探して、そんなの今まで考えたこともなかったな、と思った。
たくさんの選択肢を見ながら「間違ったものに丸をつけないようにしなきゃ」というようなことも思ったのを覚えてる。間違ったものってなんだろう?自分の無自覚さと、無意識に持っていたかもしれない排他的な気持ちに気づいてドキッとした。わたしは「クィア作品も見る偏見のない自分」に特別感を見出していなかったか、いざ自分ごとになったら、自分の関わる世界の一部として、というか自分自身はどうなのかということに対して、ちゃんと考えたことがなかったんじゃないか?ぐるぐる考えながら一生懸命書いてアンケートを出して外に出た。もう何年も昔のことなのに、そのアンケートの紙の感触と出口まで歩いたときの絨毯の感触を今もすごくよく覚えている。

 

その頃のわたしは、生まれ持った性別に違和感を感じる人や同性が好きな人もいるし、そういうのを決めつけたくない人もいるというざっくりとした知識はあった。でもフィクションでしか触れたことがなくて、自分の生活の一部として考えたことはなかったし、わたしが「突然聞かれてもわからない」「この答えで本当にあっているかわからない」と感じたような気持ち、「男性/女性」というわたしが選ぶことにとくに躊躇も考えもなくスルーしてきた日常的によくある問いに対して、困ったり、嫌な気持ちになったり、そんなの自分でもわからないと感じる人がいるんじゃないかと初めて気づいた。それ以来いつも性別欄を選ぶたびに少し引っかかる。生命に関わる場面ならまだしも、これを聞いた人はどんなつもりで聞いているんだろう?どのくらい考えてこの問いを入れ、答えは何に使われるんだろう?と考えてしまう。今わたしが答えているものと同じものに、答えたくないけど仕方なく二つから一つを選んで答える人がいるんじゃないか。こんなの単なる慣習で聞いてるだけでデータを取ってもその項目は使わないかもしれない。なぜこんなに簡単に聞くんだろう?と思ったりする。なので自分で仕事上誰かに性別を答えてもらわざるを得ない時は最低でも「その他」を選択肢に作ることにしている。例えその他を選ぶ人がいなくても、選択肢が必ずしも二つではないと思ってる表明くらいはしたくて。

 

個人の性別についての呼ばれ方を考えるとき、生物学的性別(sex)と社会的性別(gender)、それとセクシュアリティ(sexuality)、つまりどういう人に性的に惹かれどう行動するのかみたいなことがあると思う。わたしは女の子として生まれて戸籍にもそう記載され、女子校出身で性別を聞かれたら自分を女性と答え、男性のパートナーがいるので、女性シスジェンダーヘテロセクシュアルといえると思う。

でも、15年くらい前アジアンクィア映画祭から帰ってきてその3つについて初めてよくよく考えてみた時、それまでの人生で性別に違和感を持ったことがなくてもいざ把握しようとすると思っていたより難しいと気づいた。まず、はっきりしてると思ってた生物学的性別ですでに引っかかった。正確に把握するにはどうするんだろう?どちらの性器がついているかで決めるんだろうか?性器が両方ある人や発達が不十分な人もいると聞いたことがあるし、形や機能には個人差があるからいざ決めるとしてはっきり二種類ではないはずだ。生まれたときに判断されてそれが戸籍に載るはずだけど、一般的にどのくらいわかりやすさに幅があるんだろう?生まれた時に女と判断されたんだろうし女子校にいたし自分でもそう疑っていなかったけど、かと言ってわたしはこれまで生物学的に女性かどうか確認された覚えがない。体内の生殖器にも男女差があるけどそれで決めるんだろうか?じゃあ病気などで臓器をとった人は?染色体にはxとyの別があるから正確に把握するなら染色体だろうか?染色体にも個体差があるはずだけど、なんらかの数値の基準があるんだろうか?わたしは生物学的に何パーセント女性なんだろう?基準があるとしたら、何パーセント以上からが女性なのか(事実、生物学的性別もじつは正確に二種類に判別するのは難しいらしいということが世界的に年々わかってきている。スポーツの大会において性別検査がいかに難しいかというのを歴史を追って見ていくとよくわかる)

次に社会的性別。自分自身の生活や性格や振る舞いについて生物学的要素を横に置いて考えてみると、服装はブルーやグリーン、モノトーンなど寒色が好きでピンクは苦手だし、スカートは嫌いだった。どのくらい「男らしい」服装から離れていてどのくらい「女らしい」服装に近いだろう。おもちゃ売り場で女の子向けに売られている人形やぬいぐるみよりも、昆虫を捕まえたり恐竜のおもちゃで遊ぶ方がずっと好きだった。嗜好が性別を決めるなら男の子のおもちゃが好きなら男の子なんだろうか?修道院の手すりをシャーーッとスカートを土台にして滑って逃げたり、水たまりにザブザブ入って革靴を駄目にしたり「女の子らしい」とは言えない振る舞いでよく叱られた。サラダの取り分けなんてバカバカしいと感じるしやったことがない。考え方や性格や振る舞い方について考えるにつれて、どの項目も完全にすべてが「女らしい」には当てはまらない。じゃあ男かというと、そうとも思えない。男だと認識したことはないが、かといって自分が社会的にどのくらい女としての規範にはまるのか、正確に把握しようと細分化するたびに曖昧になり、確信が遠ざかっていく。

最後にセクシュアリティを考えて、なるほどいよいよ難しいと思った。恋愛においてわたしは自分から誰かを好きになることはなく、好きだと言われて初めて考えることばかりだった。たまたまわたしを好きだと言う人は男性だけだったけど、じゃあ女性に言われてたらどうだっただろう?自分は男性だけが好きなのか考えてみるとわからない。むしろ女子校時代に憧れの先輩がいたし、女性に対してきれいだなかっこいいなと思うことがあるけど、性的に惹かれていたのではないと断言できるか考えると自信がない。わたしが最初に人に対して性的興奮を覚えたのは女性だった。知らない男性の裸を見てとくに興奮しない。むしろ女性の裸の方が見たいくらいだけど、それがどのくらい男性優位社会の影響で、どのくらいわたし自身の願望に基づくものなのか、わからなかった。男性としか恋愛をしないのも、男性としか性的関係を持っていないのも、結果的にそうだったとしか言えない。誰かに心惹かれる理由を考えたとき、理由の一位は相手にペニスがついているからではないし、自分の感覚と社会的文化的学習の結果は混ざっている。社会が偏っていたら、そこには偏りが生じるのではないか?

 

”concept of fluidity really is a part of everybody’s everyday life, but we maybe don’t always recognise that.”  
フルイディティ(性的流動性)という概念は、全員が気づいているわけではないというだけで、実はすべての人の日常の一部にある 
- Cortney Act

 

この言葉が響くのは、わたしが性別について考えたときに感じたことが言葉にされていたから。わたしたちには思っているよりわかっていないことがあり、掴もうとしている性というもの自体、じつは曖昧ではっきり白黒分かれていないものだと思う。いつだったか若い世代ほど自分の性別について「ノンバイナリ」「フルイド」と捉える数が増えていると書かれた記事を読んだ。うまくリンクが見つけられなかったのだけど、世の中にある考え方や分け方を知れば知るほど、そして自分のことを真剣に知ろうとするほど、決められない決めつけたくないという感覚になるとしたらそれにとても共感するなと思う。

「考えたことがないということが、特権を持っているということ」だという。マジョリティに属していると多くの場合トピックについて考える必要すらない。より深く何度もそのことについて考えるのはマジョリティから外れたときや外れた人にばかり課せられる。それなのに、考えたこともないトピックについてマジョリティはさも何かを知っていて自分に判断力や権利があると勘違いし、実際にはよく知りもしないで判断を下しているんじゃないか。考える必要がなかった人ほど、本当は自分から学ぶ必要があって、よくよく考える必要があるんじゃないかと思う。

Disclosure(トランスジェンダーとハリウッド: 過去、現在、そして)

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ハリウッドにおけるエンターテイメントの中でトランスジェンダーがどう扱われ、それがどのような影響を与えてきたかをたくさんのインタビューによって語るドキュメンタリー、Disclosure。
現代に生きる人類全員見るべきと思った。(Netflixで見れます)

 

改めて時系列で見ると本当にそうだと思うのが、トランスという存在がいかにテレビや映画などで登場した途端に見た人が吹き出すような「お笑い」の対象や、トランスであると知った相手が嘔吐を催したりミステリで最初に殺される死体役として出てきたり、まるで「夜の街」にだけいるかのように扱われたり、そんな設定でしか扱われてこなかったかということ。(日本でどうだったか考えて自分がギリギリ覚えている日本の主流なエンターテイメントでの扱いでは、はるな愛さんが元の名前で呼ばれてそれがジョークとして扱われたり、マンガのONE PIECEでボンクレーが出てきたときその描かれ方に笑えなかったのを思い出した)

自分の身近にトランスの人がいない場合、トランスという存在もトランスとはなんであるかということも、人々はメディアを通して知るしか方法がなく、この奇妙で不快で特殊なステロタイプしか知りようがない。そんな存在に対してどう反応するかもメディアでの扱われ方をくりかえし見て、例えば「笑っていいものなんだ」と理解したりする。
Disclosureを見て「たしかに…」と思わされたのは、自分自身がトランスである場合すらそうであるということ。トランスが少数派である以上本人も身近に自分と似た存在がいるとは限らず、多くの場合はこの笑われたり嫌悪されたり誰にも愛されず殺されたりするステロタイプを見て、自分と似ているその人物が受ける反応を見る。ただでさえも他人が向ける冷たい厳しい残酷な無理解や視線や言動があるのに、自分が自分自身に向ける嫌悪とも戦わなくてはならない可能性がある。それがいかに苦痛か想像しただけで心どころか体まで痛くなる気持ちがした。

トランスの役をシスジェンダーの俳優が演じることについて、最近一度決まっても降板するケースが続いているため話題になっている。このDisclosureを見てハルベリーは降板を決めたと言われているけれど、公平なキャラ設定をされた役柄も雇用も足りていない現状ではその判断をわたしも支持する。

トランスの俳優たちが数え切れないほど死体役をし、娼婦役をし、自分自身が真実ではないと思う間違ったイメージを演じさせられて、それでも生きていくためにそんな役しかまわってこないことを受け入れざるを得ないのが現状だ。
トランスジェンダーのキャラクターが端役ではなく主役や重要な助演で出てくる作品では、トランスの俳優はオーディションにも呼ばれなかったり「十分トランスに見えない」と評価されたりして、シスジェンダーの有名俳優がときに不十分な理解に基づいていたり真実ではない演じ方をしても、役設定自体に誤解があっても「すばらしい変身ぶり」を称えられたり賞を獲ったりしている。

わたしが純粋にポジティブでリアルで重要な役柄としてトランスジェンダーがTVに登場するのを見、さらにそれをトランスの俳優が演じているのを見たのはNetflixの「オレンジイズザニューブラック」でLavern Coxが演じたソフィアだと思う。

 

Lavern Coxはこのドキュメンタリーのエグゼクティブプロデューサーで出演もしていて、彼女が出てくるのがわたしがこのドキュメンタリーを見た個人的理由のひとつ。
きれいで、知恵があって、思いやりがあって、胸を打つ背景ストーリーがあって、ドラマの中でもいちばん大好きなキャラクターの一人だった。ああいう役がもっと増えてほしいし、トランスの優れた俳優や製作者によってきちんと公平に役が語られてほしい。

周りに同じ人が見つからず自分自身にたくさんのクエスチョンマークを抱えて誰にも相談できず、相談しても誤解されたり拒絶されたりしている若いトランスの人は世界中にまだいる。
その人たちが当たり前の平和で幸福な自分として生きられるためにも、その周りにいるわたしたち自身が不必要な偏見や間違った言動で誰かを意図なく傷つけないためにも、もっともっとソフィアみたいな人をメディアの中で見たい。

特別な意味も理由もなくただ生きているわたしのように、誰かをインスパイアするためでも誰かに証明するものがあるからでもなく、ただ普通の日常を送りたい人がたくさんいる。メディアには力と責任があるので、その真実を不当に曲げないでほしいと切実にそう思った。

RuPaul’s drag race のこと

 

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We're all born naked And the rest is drag (RuPaul)


「この番組を知らなかった頃何をしていたかが思い出せない」と冗談で夫と言い合うくらい大好きなTVショーがこれ。

ファッション、ヘアメイク、アート、ポップカルチャー、ミュージカルシアター、造形技術、プレゼンテーション、ダンス、ウィット、言葉遊び、政治、LGBTQ+や人種などマイノリティに関わる社会問題、そして人間関係、競争下における人間心理、成長譚などなど、好きな要素がとにかくたくさん詰まっていて、それを毎週コンペティションとして楽しめる。

番組はドラァグクイーンという存在をポピュラーにしたRuPaulが自分に続くドラァグスーパースターを探すオーディション番組と位置づけられていて、毎シーズン(一年に一度)十何人の出場者が与えられる課題を元に勝ち抜き戦をして一人ずつ落ちていき、最後に勝者が一人決まるシステムで、今年12年目を迎えている。

課題は二種類あり、歌やダンスや演技、コメディなど様々に与えられるパフォーマンスと、テーマを解釈して衣装を作り、ヘアメイクをし、自分をモデルにしてランウェイを歩くファッションに分かれている。

毎回かなり限られた時間(1、2日が多い)で課題をきちんと理解し、求められていることを解釈して自らの個性をいかしてパフォーマンスしなければならないし、もし訊ねられたら即座にコンセプトを説明しなければならない。かと言って過剰に説明がないと伝わらないものは容赦なくダメ。「なにを表現したいのか」ということが個々に問われていてそれぞれに答えが違い、仕上がりも違うので、何年見ててもずっと面白い。

 

出場者たちは全員ドラァグクイーン(日常生活は男性として暮らすゲイでパフォーマンスで女装する人がマジョリティ。トランス、ノンバイナリーなどの場合もある)で、ゲイであることやドラァグをやっていること、人種や生まれ育った地方、家庭環境の違いから周りに必ずしも理解されず場合によっては爪弾きにされたり、アウトサイダーだと感じてこれまで生きてきた人も多い。逆にその全てが良い方向に働いて家族や周囲から応援されてきた人たちもいる。人と違う自分を受け入れ周囲とどう接するようになったかは人によって違い、誰に対しても疑心暗鬼になったり攻撃的になる人、すべてをユーモアでいなす人、共感しやすい人など、いろんな人がいる。彼らが時間とともにお互いを知り、共感し、対立し、学び合って関係性が出来ていく様子を見るのはすごく面白いし、衣装作りやメイクアップの途中で出場者同士がするお喋りの中にはLGBTQ+を巡る社会問題や人種差別について当事者たち自身が話す個人のストーリーが入っていて、聞いていてとても教育的で、心に残る。

 

わたしはドラァグカルチャーのことをこの番組を通して知っていったので知らないことや理解できていないことがたくさんあると思うんだけど、それでもドラァグとは単に「ゲイ男性が女装してパフォームする」というだけじゃなくて、知れば知るほどもっと深くて普遍的な問いなんだなと思うようになった。
ドラァグは女装かというと、それだけじゃない。女性を真似るわけでもない。世の中にある性別や性的役割を問い直し、からかい、美の定義や規範に中指を突き立てるものでもある。宝塚で女性が女性を過剰演出した娘役を演じるように、ドラァグクイーンは必ずしも女性の姿をするとは限らず、ときにあえてステージ上で男性の姿を見せることもある。なぜなら男性の体を持った人が演出して見せる「男性」もまた所詮は作られた姿であって、冒頭のルポールの言葉の通り、わたしたちはみんな誰もが何物でも何色でもない素の姿で生まれ、徐々に学習して理解して見せ方を覚えて自分という人間を作り上げているからだ。
そのメッセージに共感し、惹かれるのもあると思う。

 

シーズンが12あって出場者もたくさんいるので、出場者同士の関係がどう育つかどんなダイナミズムになるかはそれぞれにだいぶ違う。わたしは、出場者同士が友情で結ばれて協力関係になっているシーズンが好きで、最終的に残る人たちがみんな仲良しになるS6、S9、S12が最も好き。逆に苦手なのは出場者同士が意地悪、険悪になるパターンで、それが最も目につくS5はいちばん苦手…(でもアリッサファン)

個人別では、課題の解釈に知性があって、スタイリッシュなファッションで、正直な性格に見えるクイーンが好きなので、好きな順で5人あげるとしたら
S12のジェイダ
S9のトリニティ
S9のサーシャ
S7のヴァイオレット
S10のミズクラッカー  あたりがとくに好き。

(特別枠でアリッサエドワーズは抜けた人も含めハウスごとみんな好き)

https://youtu.be/W6brfqiKSLw (参考: S10予告)

 


ここから先は今わたしが見直しているS10の話で、主にヴィクセンというクイーンについて書く。多少ネタバレがあるかもしれないのでS10を見ていない人は注意。

現在放送中のオールスターシリーズ(すでに出場経験のあるクイーンたちが出るスピンオフ)S5でわたしはミズクラッカーを応援してるんだけど、彼女の出演したS10は実力者が多く、後半は見てて楽しかったはずなのに不思議と記憶が薄かったので最初から見直している。で、見直してみると記憶が薄かった理由は前半ヴィクセンという特別に好戦的なクイーンを中心に居心地悪くなるほど歪み合いが発生していて、気持ちよく集中して見れず、大部分をそのまま忘れてしまったから。(似た理由でS9も後半になってからが好きなんだけど、やはり前半の印象が薄いのでこれも見直してもいいのかもしれない)

改めて見直してもヴィクセンの攻撃性はすごい。
異常と思えるほど他人の発言を曲解し、細かな発言に過剰に噛みつき、一度噛みついたら執拗に口撃し、折り合うことをしない。
例え相手が歩み寄っても、一度戦いを始めたら相手には一切いい顔をしないと固く決めているかのように心を開かない。
最初に突いたのが例え自分でも、相手が言い返した途端に自分が攻撃されたと思って怒り、何が言い争いの理由なのか相手が何を言おうとしているのかには耳を傾けず、最後には「自分は嫌われている」と言う。
口論は常に個人攻撃で、人格を否定されていると受け止めるので、言い争いになったが最後、和解のチャンスがない。

その態度について、エイジアという別のクイーンが「アングリーブラックウーマンシンドローム」に陥っているのではないかと懸念を示す発言をしていて、これが一見あまりにも自分本位で過剰反応しすぎに見えるヴィクセンの態度を別の目線で見る助けに、また学びになった。単なる個人の性格と思い込む前に、人を見るときには背景も含めてもっと全体像から理解する必要がある。

Angry Black Woman(怒れる黒人女性)というステレオタイプは、「声が大きく、態度が失礼で、頑固で、悪意があり、威圧的」とされる。もちろん必ずしもこうではないのに、最初からこういう先入観をもって黒人女性を見る人が少なからずいる。また、TVや映画などのフィクションにおいて黒人女性のキャラクターは安易にこのような性格設定をされやすい。人種差別が解消されない社会で黒人であることはいまだ間違いなく不利な条件だ。加えて女性であれば尚更その声に公正に耳を傾けない人が増える。この先入観をもって他人を見る人が、例え相手が正しく真っ当なことを言っても耳を傾けないのは容易に想像がつく。また、ヴィクセン自身も言っていたけれど黒人でゲイでしかも女装するとなると生まれた場所によって更なる試練が待っている。

 

Angry Black Woman syndrome(怒れる黒人女性症候群)は、すべてに対して常に苦々しさを感じ、神経を尖らせていて、自分を少しでも悪く言う人、見下してくる人に対して過剰に反撃し、改善は望まず、他人の不幸を願う態度らしい。
エイジアはヴィクセンに「自分とは逆の属性を持つ白人が必要以上に持て囃され過大評価されていると思い込んでいて、他のクイーンを個人として見ず過去に出会った同属性の人を重ねて過剰な恨みを投射して攻撃してしまっているんじゃないか?」と指摘していた。残念ながらヴィクセンがその発言をストレートに受け取ったようには思えなかった。彼女の態度や思い込みは長年様々な事情や学習が蓄積して形成されたもので、おそらく彼女が自分をしっかり守るための盾でもあり、その指摘だけを境に変わるには根が深すぎるんだと思う。

わたしは個人的にヴィクセンのファッションの方向性やスタイルは好きで、自分自身のドラァグに誇りを持っているところも好きだし、とにかく過剰に警戒し過ぎていて必要以上の攻撃をすることでどんどん自分の立場を悪くしているのが残念でたまらなかった。
自分が傷つく前にとにかく他人を早く傷つけて安心したがっているみたいで痛々しかったし、周りの人たちも気の毒だった。

 

スターになるための条件として番組内で最もよく言及されるのはカリスマ、ユニークネス(独自性)、ナーヴ(胆力)、タレント(才能)の4つなのだけど、たまに出てくるのがLikability(好感度)だ。
歴代クイーンの中でも抜群のlikabilityを誇るシャンジェラは、初登場時ヘアメイクも衣装も雑で洗練さがなくパフォーマンスに関しても真摯にやり切るというよりノリでなんとかするいい加減さが目立っていた。4つの条件が揃っているとはとても言えなかった。それを理由に細部まで徹底して真剣に取り組んでる他のクイーンたちの神経には触れていたし最後まで勝ち抜けなかったけれど、今や番組に出た中では圧倒的な人気で最も稼いでいる一人になった。スターの条件としてlikabilityがいかに大きいかを表しているなあと思う。

その点、ヴィクセンは番組に出て勝ち抜くにはこのlikabilityへの目配りがぜんぜん足りなかったように思う。自分以外に様々な才能や性質を持った人たちが集まる中で最も輝き、スーパースターになるにはみんながその人を好きになる要素が何かしら必要なのに、ちょっと何か言っただけでがしがし噛みついてくる相手を人々は積極的に好きになろうとはしないだろう。過去に出演したヴァイオレットのように態度が悪くて自分本位でもその欠点も気にならないほど他者を圧倒する何かがある人もいるけど、それはかなり稀なケースだ(それともそれがあると本人は思ったのかもしれない)

でも、どうしてもどうにも性格が悪いように映る人物がいたとして、それが必ずしも本人だけの責任じゃないっていうことは忘れないようにしたいと思った。この世には個人が負うにはあまりに大きすぎる不条理や不公平があって、全員がそこから逃げれるわけではなく、すっぱいレモンからレモネードを作る知恵や技術や道具が全員に与えられるわけじゃない。

焼きあがりの香り

おやすみは終わったけど、3日に一度書けたら何かを書くチャレンジ続けてみる。

冷蔵庫に卵がないけど、なんとなくお菓子を作りたいのでまたスコーンを焼く。初めて作ったお菓子は祖母の家の古いオーブンで焼いたアップルパイとチョコチップクッキーでわりとアメリカ人の王道という感じなんだけど、わたしが自分ひとりで初めて作ったお菓子はスコーンかもしれない。

たしか教科書に載ってたこんな詩を読んで、詩ってこんな感じでもいいものなのか!って子ども心に大変な衝撃を受けて、それ以来なんとなくわたしの中でスコーンは特別な位置を占めている。

 

小麦粉とベイキング・パウダーと塩。
よくふるったやつに、バターを切っていれて
指さきで静かによく揉みこむんだ。
それに牛乳を少しずつくわえて、
ナイフで切るようにして混ぜあわせる。 のし板に打ち粉をふって耳たぶの柔らかさになるまでこねる。
めん棒で平たくして型をぬいて、
そして熱くしておいたオーヴンに入れる。
スコーンは自分の手でつくらなくちゃだめだ。 焼きあがったら、ひと呼吸おいて
指ではがすようにして横ふたつに割る。
割り口にバターとサワークリームをさっとぬる。
好みのジャムで食べる、どんな日にも
お茶の時間に熱いスコーンがあればいい。 一日にいい時間をつくるんだ。
とても単純なことだ。
とても単純なことが、単純にはできない。 (長田弘/いい時間の作り方)


スコーンは材料も少ないし、パンのように上手にこねなくてもいいし、時間もそんなにかからず作れるのに、ざくざくしてカリッとしてふわふわして、焼き菓子のいいところがたくさん詰まってる気がする。焼きあがりの香りもいい。

いつから通常勤務が始まるんだろう。わたしの仕事はほぼ全てが海外とのやり取りで、どこの国も今動きが止まっているので今あまりやることがない。どのくらい何もしなくてもいいのか、休み明けの今週はわざと働かないモードで勤務時間を過ごしてみたけど、メールが溜まってる以外はやることがぜんぜんなかった。

わざわざ出勤しても大してすることがなかっただろうからせめて家にいられてよかったけど、家でのんびりしていると、休みが続いてるみたいな錯覚がしなくもない。ベッドでごろごろしてたせいか、夫に「今日お休みなの?」って聞かれた。

夕飯を作る時間だけど、スコーンが焼けるのを待ってる。