押野武志『童貞としての宮沢賢治』読了



思わずその場にひれ伏したくなるような表現も好きですが、どこか不器用な表現も好きです。気分や体調によって欲しいものも違うんだけど。
宮沢賢治の作品の、読んでいると思わず泣きたくなるような比喩ってのも、そこに入るかな。
(泣きたくなるは、おおげさだけど、心にずしっとひびいてくる感じですね)


この本での「童貞」というのは、実際問題、宮沢賢治がセックスを体験したことがなくオナニストだったんじゃないか、
という仮定からはじまっているんだけど、オナニーとひとくちにいってもそれは深く賢治の精神と結びついている。
単純にひとりしこしこやっていたか、いないか、という問題ではなくて、彼の精神性を語るさいのアナロジーとしての「オナニー」ですね。
彼がオナニーしてたか、してなかったかという話ももちろんおもしろいんだけど。


そんなわけで、この本で著者が試みているのは今までのように賢治を「聖人君子」風に偶像化するのではなく、
賢治像をちょっと身近なところへ下ろしてみて、彼の人間くさいところを覗いてみようとする試み。
端的にいうと、賢治はコミュニケーション不全だったんじゃないかという話なんですが。


すぐれた表現者がコミュニケーションに問題を抱えているというのはよくある話です。
他者に何かものごとを伝えよう、とするときそのことにかんしての問題意識が切実であればあるほど、伝える方法も磨かれるから。
方法を磨くには気力も体力も必要だと思うんだけどね。単なる問題意識がある、だけじゃダメ。
考え続けたり、執着して、それを表し続けるということが必要。


円滑に意思疎通できる傾向が強ければとくに伝えよう、伝えたいと思うことはないでしょう。
まあだからといってコミュニケーションに問題を抱えている人間がみなじょうずにパフォーマンスできるか、
というと、そうでもない。ある一部分ではうまくいくけど、ほとんどうまくいかないってことも多い。個人差は甚だしい。
たとえば、日常会話がうまくいかなくて、文章を書くとか。
絵で伝えるとか、歌をつくって歌うとかね。ネットで公開日記を書くのもそうか(笑)。
みんな伝えたいってことではおんなじなわけだけど、それぞれおもしろさが違うという。


賢治はシスコンで女性恐怖で自己の肉体を嫌悪していて、でも同時にすごく愛されることを求めていて、
強いアンビバレントを抱えた人間だったということが書かれています。
病的な自己犠牲精神をもった強烈なナルシストとしての賢治像はとても興味深い。
こういう風に語られると、賢治にすごくシンパシーを感じますね。もちろん彼の作品がすばらしいのがいちばん好きな理由になるんだけど。


おもしろい本です。気が向いたら、読んでください。