2004年12月17日の日記へのコメントへの返事



昨日BROWNさんから頂いたコメントへお返事いたします。
その前にこの話題はタテイシさんの書かれた日記と関連がありますので、
この件にかんしてご覧になっている方々は理解を深めるためにもそちらを併せてご覧いただけると助かります。
牛タンに命を懸けろ(仮題)(12月8〜10日分)



>そこまで筆者は自分の文言に責任を負わなければいけないのかという疑問


うーん、でも批判されると「19歳にまともな判断など出来るわけがない」なんて平気で言っちゃう人でしょ?
いくら読者の読解能力も試されると言っても責任持って作品発表してる人はそんな事言わないよ?


僕個人としては、論争で精神的苦痛をこうむったら、2/3キロ走るなりしてストレス解消すればいいと思うんですけど。
美味しいもの食べるとか、そういう基本的なことで気分って変わるよ。
あるいは、そのダメージを創造的なことに使うとか。副作用ゼロなら、僕も薬を使いますけど。


このコメントに対し、昨日は以下のようにお返事しています。



「19歳にまともな批判が出来るわけない」という判断を述べることと「責任もって作品を発表している人」が
「そんな事言わない」というのは全く別問題です。


運動や美味しい食べ物で解消できる程度の精神的ストレスであれば、薬を使う必要はないと思いますが、
そういった対処では抗し得ないストレスだから、服薬するのでしょう。


精神的なダメージを創作の動機に昇華させている事は小谷野氏の著作にも見受けられます。


さらにこのコメントへのお返事を以下のように頂きました。

うまく伝わってないようなので書きますが「作品を責任を持って発表する」とはどういうことでしょう。
まずはあらゆる批評を受けとめる器を持つことです。批評を誤解と受け止めるのは、大人のすることではないと思いますね。
ましてや「19歳にまともな批判が出来るわけない」なんてね・・・


薬に関して言えば、僕も薬に逃げられたらどんなにラクか、と思うことはしょっちゅうです。
薬を飲もうと思ったら、まず美味しいもの食べて2/3キロ走る、それ一ヶ月続けてダメならそこで初めて薬飲めばいいんじゃないか、
と思います。薬飲む人ってそういう事しないんじゃない?

「批評」とは何か



まず、BROWNさんがタテイシさんの書かれたものに対して「批評」であるという理解をされているようなので、
わたしの理解との差異を述べておきたいと思います。タテイシさんが12月8日の日記で書いているとおり
わたしは彼女の文章を「感想」、つまり「心に浮かんだ思い」(広辞苑)であると理解しています。
「批評」というのは「物事の善悪・美醜・是非などについて評価し論じること」(広辞苑)であって、そこでは最終的に
もしそれが書物にかかわることであればその本がおもしろいのかおもしろくないのか、最終的には有用であるか無用であるか、
ということまで述べるものです。タテイシさんはその点についてまで述べていないのだし、文章のはじめでこれは「感想」であると
まず自身で定義しているのだから、これはあくまでも「感想」です。「感想」には当然筆者によって「誤解」と
判断される稚拙な内容も含まれていることでしょう。


それとは別に個人的な意見として、いかなる文筆家であっても「あらゆる批評を受け止める器」を持っていることが
望ましいとはわたしは思いますが、それは理想に過ぎないと思います。だいたい物理的に可能かもわかりません
(「あらゆる」という形容を文字通り受け取れば、不可能でしょう)。さらに「批評」というものが今も昔もどのように
存在しているのか(あるいは、したのか)把握していません。実際問題、「ある程度の批評を受け止める器」を
持っている文筆家が存在する、ということは、わたしの想像力から、言うことが出来ると思います。


「大人のすることでない」という表現が、小谷野氏のmixi内での発言からBROWNさんが受けた印象であるというのは、理解できますし、同意します。
しかし、小谷野氏の著作に溢れる「大人気ない」文章の数々というのがわたしにとってはむしろ魅力的に感じられるのです。


薬に関しての「薬飲む人ってそういう事しないんじゃない?」という発言はいささか軽率ではないかと思います。
わたしは、精神安定剤抗鬱剤睡眠導入剤等を用いて生活している友人(その幾人かはわたしたちの共通の友人ですが)を
知っていますが、彼らがどういう経緯で服薬するに至ったかその詳細については知りません。彼らが薬を飲む前に
どういう行動をとったのか知らないし、加えて、一般論として「薬飲む人ってそういう事しないんじゃない?」という意見には同意しかねます。