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2010-12-24

[]ローラン・カンテ監督 / パリ20区、僕たちのクラス(原題:Entre les murs) ローラン・カンテ監督 / パリ20区、僕たちのクラス(原題:Entre les murs)を含むブックマーク ローラン・カンテ監督 / パリ20区、僕たちのクラス(原題:Entre les murs)のブックマークコメント


[]HOMENAJE A LA MUSICA COLUMBIANA MAS FIESTAS CON EL SONIDO BING MIX 4.15.2010 HOMENAJE A LA MUSICA COLUMBIANA MAS FIESTAS CON EL SONIDO BING MIX 4.15.2010を含むブックマーク HOMENAJE A LA MUSICA COLUMBIANA MAS FIESTAS CON EL SONIDO BING MIX 4.15.2010のブックマークコメント

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2010-12-17

[]高橋昌一郎『東大生の論理―「理性」をめぐる教室』の感想の前に―1たす1ができなかった。‏ 高橋昌一郎『東大生の論理―「理性」をめぐる教室』の感想の前に―1たす1ができなかった。‏を含むブックマーク 高橋昌一郎『東大生の論理―「理性」をめぐる教室』の感想の前に―1たす1ができなかった。‏のブックマークコメント

東大生の論理― 「理性」をめぐる教室


 自分自身の経験からことばを紡ごう。わたしはかつて1たす1ができなかった。このように口にすると、きっと大方の人には理解されないか、嘲笑されるだけだと思って、1たす1ができなかったことを30歳になる今日までひたすら隠してきた。しかし、わたしは『東大生の論理』を読んで、そのことをまず言わなければまったくわたしの感想を述べられないと考えたり感じたりしたのである。むろん、考えと感じのどちらが先立つのか判然としないことを書き添えておく。

 わたしは1たす1ができなかった。1たす1が分からなかったのである。こう書くと「いったい何のこと?」と思われる方もいらっしゃるだろうから、すこし細かく述べていきたい。  

 まず1とは何か、ということからはじまる。1とは1である。然り。つまり1とは1と見なされるところの何かであり、これは記号である。記号というのはある一定の秩序、ルールに従って判読される。いまあなたが読んでいるこの文章も、日本語で書かれていて、そのコードを意識することも無く、しかし実は意識しながら読んでいるのである。たとえば qefeth/:poj\]-9]@ という文字列はまったく意味が分からない。これはさしあたり何語でもないから、である。でたらめに打った記号の羅列であることは分かるが、これが意味するところはわたしたちの習慣的な意味においては分からないので、無意味と見なされるのである。


 というわけで、わたしは1の意味するところが分からなかった。小学校の授業では、1という数字をイメージしやすいように、たとえば黒板にリンゴの絵を描いて、それがひとつのリンゴである、という認識と、1という数字を対応させて、児童に1という概念を把握させる。しかし、わたしはここからもうよく分からなくて、このリンゴをじっさいに足すことはできるのか、と考え始めてしまうのである。つまり、1+1という数式があった場合、この1と1を足すことではなく、具体的なひとつのリンゴとひとつのリンゴを足すことのほうへ考えが逸れていってしまうのである。

 ひとつのリンゴとひとつのリンゴを足すということはどういうことか。ここでリンゴをそれぞれ、リンゴAとリンゴBとしてみると、リンゴAはほかのどのリンゴ(さしあたりリンゴB)とかかわりなく独立に存在するところのリンゴAである。リンゴBも同様に、独立に存在するところのリンゴBである。するとこれらのリンゴはそれぞれ独立して存在しているわけだから、足せない。足すというのは、リンゴAとリンゴBを等しく見なさねばならない=1としてあつかうという、このごく当たり前のことが分かっていなかったので、わたしは、たちまち算数が嫌いになった。もう少し厳密にいうと、足し算も引き算もできなかったのである。


 驚かないでほしい。たとえば 4+4 という数式がある。これは 4-4 とどう違うのか。もちろん+と-という指示が異なるのである。だから4+4=8 で 4-4=0 であるというのが正解である。ところがわたしは小学生のころ、4+4=0 とか 4-4=8 とか平気でやっていたのである。これは今だからこそ笑えるが、かなりの重症で、+や- というルールが分からないし、分からない以上、守る気もないのである。わたしがテストの答案を家に持って帰ると、いつしか母の顔は青ざめるようになったであろう。そして、やがて母は父に相談した。

 わたしの父は東京都の小学校に長く勤め、還暦を過ぎたいまも都の非常勤教員としてはたらきながら、休日はボランティアで日本語教師をしている。さすがに父も、いや教員である父だからこそ、わたしの重症ぶりに強い危機感を覚えたらしい。たちまち手作りの―つまり、これは父が実際にその教室で使っていたプリントだろう―大量の練習問題が、長文の手紙を添えてわたしに手渡された。そこに書いてある文言は今でも大意を覚えていて、「かずひこへ きみがさんすうのべんきょうができないというのはほんとうですか?(中略)まいにちぷりんと1まいずつもんだいをときなさい。そしておわったらおかあさんにまるをつけてもらいなさい」というものだ。実際わたしは算数の約束を文字通り、からだに叩き込まれたのである。学校から帰って、計算問題を泣きながら解いたことを今でも覚えている。だから、これは世間でいえば計算が苦手ということになるのだろうが、実は苦手どころの話ではなくて、まったく分かっていなかったし、いや、分からなかったし、おそらく加減乗除の約束など実はどうでもいいと思っていたのである。なぜなら、分からないからである(ここでどうしても理解に苦しむ方もおられると思うが、そういうものだったのだ、としか言いようがない)。

 小学二年生になると、掛け算九九を覚えたが、たとえばわたしは数の理屈が分かっていないので、7x3=21 とか 7x4=21 などとやっていた。これはいま考えると、音で覚えているのである。たしかに九九は理屈というよりは音で覚えるものではあるが、たしかに、いま、わたしが小学二年生になってみると―オカルティックな言い方だが、これまたそうなってみる、としか言いようがない―にじゅういち(Niju-ichi)とにじゅうはち(Niju-hachi)は音が似ている。ichi と hachi は前の子音(i と ha)が違うだけで、あとのうしろの音は同じである。あとは 7x4=28 とか 4x7=21 というのもやった。これも完全に音であいまいに覚えている手合いで、7x4 や 4x7 というルールをまったく受け入れていないのである。わがままというか、やや頭がおかしいというか、まあそういう感じである。ここから分かるのは、わたしはいまもむかしも何かをただ暗記するのではなく、自分のことばで考えて、腑に落ちるまでは一切納得しないというそのかたくなさである。


 これは本当の話で、むろん本当の話といっても人間の記憶というのは編集=美化改竄が加えられるのが常だから、どうしようもないが、しかしもし美化したとして、こんなでたらめな話があるだろうか?おそらくこんなでたらめな話が美化した結果だとしたら、かつてわたしがいったいぜんたいどんなにものすごい阿呆だったのか、想像がつかないだろう。わたしもまったく想像がつかない。というか、もしそうだったらいまここでこういった文章を書けていたかどうかさえおぼつかないと思う。したがって、これは本当の話なのである。事実は小説より奇なりというが、わたしの体験・経験、それを事実と見なすのであれば、かなり変てこな話がたくさんある。ただこの話は、『東大生の論理』の感想の前書きとしてこのへんにしておく。

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2010-12-13

[]武満徹トリビュート -映画音楽を中心に-@渋谷オーチャードホール 武満徹トリビュート -映画音楽を中心に-@渋谷オーチャードホールを含むブックマーク 武満徹トリビュート -映画音楽を中心に-@渋谷オーチャードホールのブックマークコメント

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2010-12-06

[]TOHUBOHU 補遺(訂正一覧) TOHUBOHU 補遺(訂正一覧)を含むブックマーク TOHUBOHU 補遺(訂正一覧)のブックマークコメント


1.Sentimental Journeyの歌詞分析 訂正個所

1-1.付録 楽曲データ(172ページ)脚注が事情により全て抜けてしまったのでここに訂正し全文を掲載する


 今回わたしが取り上げた歌は「Sentimental Journey」(作詞:バド・グリーン、作曲:レス・ブラウン、ベンジャミン・ホーマー、ASCAP Work ID: 490033282)である。ドリス・デイの出世作であるこの曲は、Les Brown and His Orchestra名義で1944年(昭和19年)11月20日に録音された*1。歌詞のテーマはかつて夢見る気持ちで汽車に乗り、帰郷したときの喜びを感傷的に回想するという内容である。のちに米国NBCが放送する朝の長寿番組「The Today Show」(司会:デイブ・ギャロウェイ)のテーマソング(1952年〜1961年)となった。

 楽曲制作に当たった作家について簡単に述べる。

 作詞のバド・グリーン(Bud Green,1897-1981)は、オーストリア生まれ。幼少期に米国に移民し、ニューヨーク市ハーレムで育った。家計のために小学校を退学し、新聞配達員としてはたらいた。10代でボードビルショーの為に作曲を開始。長じて音楽出版社に、作詞家/作曲家として雇われ、ブロードウェイミュージカルの音楽、映画音楽で活躍した*2

 作曲のレス・ブラウン(Les Brown,1912-2001) は、1932年にニューヨークミリタリーアカデミー*3卒業後、ノースカロライナ州の名門デューク大学へ入学。大学在学中に、Les Brown and His Blue Devils を結成した。1936年に大学卒業*4後も、バンドリーダー、作曲家として活躍した*5。ベン・ホーマー(Benjamin Homer,1917-没年不明)は、1938年にニューイングランド音楽院に特待生 として学び、レス・ブラウン楽団所属の作曲家の一人であった。

 歌唱のドリス・デイ(Doris Day,1924-)は、オハイオ州シンシナティ出身。1940年にボブ・クロスビー楽団(Bob Crosby and the Bobcats)に加入。1942年頃からレス・ブラウン楽団(Les Brown and His Band of Renown)の専属歌手として活動。その後、歌手のみならず映画女優としても活躍し、現在も存命中である*6


2010/12/6 0:55 JST 第1版(随時更新予定)

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2010-12-05

[]フライヤーを、ビルボードへ―想い出のフライヤー展(id:flyer-info)開催によせて フライヤーを、ビルボードへ―想い出のフライヤー展(id:flyer-info)開催によせてを含むブックマーク フライヤーを、ビルボードへ―想い出のフライヤー展(id:flyer-info)開催によせてのブックマークコメント


文学フリマに出品しているものとしては、アンビバレントな気分になるのですが、掲題のフライヤー展が本日最終日です。梯子してくださるとうれしい。ってもっと前に言えって感じですが。


フライヤー展に寄せてわたしが書いた随筆を公開します。これ読んで「いいかも!」と思われた方はぜひ足をお運びください。




「想い出のフライヤー展」を開催すると、10年来の友人である細谷さんから聞いて、まず「日本で宣伝チラシをフライヤー(flyer)と呼ぶようになったのはいつからなのだろう」という素朴な疑問が沸いた。おそらくパルコが運営するクラブクアトロが『flyer』という宣伝冊子を無料配布しているから、それが起源ではないかと思うのだが、確証は無い。今手元に無いので心許ないが『flyer』そのものは、1枚の紙でそれを折りたためるようにしていたから、冊子と呼ぶのは適当でないかもしれない。そうか、文字通りflyerだったのか(!?)。


 宣伝チラシにはいろいろある。新聞販売店では日夜新聞の間にスーパーや墓地やパチンコ屋や不動産屋のチラシが挟み込まれている。また、近所の駅前や繁華街で配られているポケットティッシュも、あれはチラシの一種である。チラシにティッシュという付加価値をつけて通りがかる人々になるべく受け取ってもらおうと知恵を凝らしたわけだ。もちろん手渡しするわけだから、flyerというよりはhandbill(文字通り、手渡しするチラシ)の仲間といったほうが正確かもしれない。

駅で電車に乗れば、中吊り広告がある。中吊り広告は、車内の送風機や空調から吹き出る温風や冷風によって揺れる。あー、ふらふらしている。ふらー、いやー、というダジャレを思わず言いたくなりはしないか。そんな愚にもつかないことを考えていると、いつの間にか、ここは新宿だ。駅前には、待ち合わせ場所の目印として使われさえする大きなビルボード(billboard)がある。ビルボードというとなんだかかっこいい。でもビルボードとは、掲示板や広告板のこと。だから、実は新宿区坂町町会が設置している掲示板だって、ビルボードなのだ。ビルボードといえば、米国の音楽週刊誌もBillboard という誌名だった。Billboardはもともとサーカスや移動遊園地の巡業を知らせる雑誌だったから、町の掲示板が出世街道を驀進した成れの果てなのかもしれない。いや、成れの果てというのは失礼か。


きょうここでいろいろなフライヤーに目移りして、うっとりと音楽の響きを思い返したり、一緒に催しに行ったけれど、その後別れてしまった恋人のことを思い出してちょっとブルーになっているあなたも、たぶんビルボードチャートやオリコンチャートのお世話になった時分があるだろう。お世話になった覚えが無いという人もいるだろう。人は自分が溜め込んだ記憶の束を、いろんな風に、基本的には自分に都合よく、美化編集してしまうものだ。また、同時に驚きもあるだろう。この時に、こんな催しがあったんだ、うは、観たかったなあ、いやこれは観たんだけど、ひどかったなあ、あの日はなぜか大雪でさ、これ行けなくなっちゃってさ、云々。ちょっと感傷的で懐古的になってしまうことうけあいだ。

またビルボードの話で恐縮だが、billboardには錨床という意味がある。これは船の甲板に引き上げた錨を据えておく場所のこと。わたしはフライヤーの提供者のひとりとして、この展示が小さくてささやかだけれど確かな錨床になることを祈っている。コレ、ホントヨ!

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2010-12-04

[]高橋昌一郎『理性の限界』から読まれるわたし―本当は身近にある理性について、あるいは弄弁的自己批判 高橋昌一郎『理性の限界』から読まれるわたし―本当は身近にある理性について、あるいは弄弁的自己批判を含むブックマーク 高橋昌一郎『理性の限界』から読まれるわたし―本当は身近にある理性について、あるいは弄弁的自己批判のブックマークコメント

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)


 2010年の冬も本番。ところは、都下世田谷区のとある公園近くのアパートの一室。サリーちゃんのパパとウランちゃんがミックスされたようなすさまじい寝癖をなおさずに、寝巻きのままでだらしなく電気カーペットの上に寝そべっている男が本を読んでいる。会社員Sその人である。


S「いやー、面白いなあ。面白いなあ。面白かったなあ、『理性の限界』。いや、いったい面白いというのはどういうことなんだろう、まったく分からないな。twitterで先生とも再会できたし、今年はいろいろあったけど良い一年だったよ。もう一度最初から読み直そう…」


RF「ちょっと待ってください!あなたは『知性の限界』の書評で、次のように評しています。「わたしの理解では『理性の限界』『知性の限界』は2冊で併せて1冊である。 つまり、これらはふたごの姉妹のようなものだ」と」


S「わっ!びっくりした。どこから入ってきたんですか?きょうは妻も実家に帰っていて留守だし、これで思う存分本が読めると思っていたのに。せめて玄関でドアチャイムを鳴らしてください。そうしたら居留守を使ったのに…」


RF「突然ですが、あなたは読書行為をいったいどのように捉えているのでしょうか?2冊の書籍を魅力的な姉妹に喩えることはあなたの男根主義的なテクスト理解、つまり現今の家父長制に無反省な読書行為のあらわれに他ならない。そのような強制的異性愛を強化する読書行為は断固廃絶すべきでしょう!」


S「う……」


RF「反論しないのですね?それではあなたは2冊の書籍を魅力的な姉妹に喩える男根主義的なテクスト理解者であることを認めますね?」


S「いや……あの、その…フェミニズムについては勉強中でして…永遠に…というか…どこから…?」


RF「逃げないで下さい!話をそらさないで下さい!あなたは自分の名前で文章を発表しているのですから、自分の発言に十全な責任をとるべきです!いや、十二分にとるべきです。だいたいあなたは毎晩のようにあなたの奥さんと性交しているでしょう?あなたは男が女とセックスすることをいったいどのように批判できますか?」


S「あの、妻とは………そうですね、この3年くらい性交はしていないんです。もちろんきわめて稀にすることもありますが、基本的にはしないんです、できないというか…あの、正確に話すととても長くなるんですよ、それはですね……いろいろありまして…」


RF「…えっ!あの、と、、、ともかくですね、い、いずれにせよ、あなたがかかわりあう男女の性交自体が男による女性支配に与していることに異論はないでしょう?個人的なことはすべて政治的であるはずです!」


S「うーん…ちょっと考えさせてください」


RF「即座に答えるべきです!」


S「わたしは、ゆっくり考えるのが好きなんですよ。ええとね、なんと言えば良いでしょうかね。あなたは男女というのがはっきりといまここに存在していると信じているわけですね?」


RF「当たり前じゃないですか!現今の日本社会を見れば自明のことでしょう?男どもは相変わらずその既得権益を維持高進せしめようと欲し、日夜その男性中心の伝統と家父長制にもとづいた支配のもとに我々女性を置きつづけようとしているのです」


S「そう考えられるのはうらやましいです」


RF「!!! な、なんですって。とうとうあなたも認めましたね。あなた自身が男性中心の伝統と家父長制にもとづく支配に無反省に加担していることを!」


S「ところで、男って何ですか?」


RF「男は男です!男という存在ですよ。男であると見なされているところの存在です!社会的にも、文化的にも、生物学的にも!」


S「ああ、なんだ、あなたも科学の敬虔でない信徒なんですね」


RF「なんですって!」


S「お帰り下さい。わたしは科学を信じたい。しかし科学に対して敬虔であるなら、科学については常に徹底的に批判的であり続けねばならないでしょう。同様に、フェミニズムについてもそうあるべきではないですか?というかそもそもあなたは言葉そのものの恐ろしさについてどれだけ反省しているんですか?そのように断定的に言葉で世界を切り取ることへの恐れが無いというのが一番問題でしょう?」


RF「な、なんですって!なにこの男の腐ったようなアンチフェミニストは!何なの!こんなに話しても分からないなんて理性のかけらもありゃしないわ。こんな男はまったく男らしくない男の中の男、くず男だわ!今すぐに死ねばいいんだわ!こんな男、社会の害悪、いや人類全体における悪そのものよ!この、醜男が!」


〜〜〜バタンッ!!!〜〜〜


S「ふうやれやれ、帰ってくれた。しかしどうやって入ってきたんだろう?家のドアというドア、窓という窓、すべて鍵をかけてあるのに。まあいいや、わたしはわたしの読書を邪魔する者にたいしては容赦しないのだ。さあ続きを読もう」


PA「ああ、なんという画に描いたようないわゆるひとつのファザー・コンプレックス!君は父親と距離を置くような厳格な家庭で育ったんだね。そしてお父さんに表面的な愛情表現をされないまま成長してしまったんだ」


S「ちょw今度はw誰!?wwwああーそうですねー、仰りたいことは分かります。その欠落感を埋めるために、父性的なものに憧れている、つまり<掟>への憧れがあるというんでしょう?」


PA「む!鋭い!しかも自己演出が巧みだね」


S「それは否めません。わたしの知性や理性への恋焦がれる気持ちは精神分析や臨床心理の考えではそのように名づけられるのが妥当と考えます」


PA「この落ち着きはまさに、そうだ!父性的なものに憧れている、つまり<掟>への憧れのあらわれだな。君は憧れのあらわれを生きているのか。でもそのことに気づいているのなら、その憧れる自分を受け入れてはどうかね。そうしたほうが生きやすくなるよ」


S「生きやすくなるですって!でも『たまたま地上にぼくは生まれた』わけで、『どうせ死んでしまう…… 私は哲学病。』なので『ひとを愛することができない』んです。『人生、しょせん気晴らし』、『人生に生きる価値はない』んですよ。ニーチェの言うようにいまここにあると広く信じられている『キリスト教は邪教です!』」


PA「そのように君が君自身の言葉で語らないのでは、君は本来的な自分自身にはなれないのだよ。そのことは分かっているはずなのに・・・」


S「フロイドやユングの考えはわかっています。もちろんその差異や変遷については詳しく知りませんが、しかし、これだけは言える。彼らは真剣にいままさに使えるものを切実に使おうとした。否、使い続けた。しかしそれは意味の体系に過ぎません。言葉に自明のものとしてまとわりついているイメージを濫用しているのですから、科学的であるとは言えません!」


PA「なんだって!なぜ使えるものを使おうとしないんだね、君は?君が君自身を治癒するための最大最強の武器が言葉とその意味、イメージなのだよ。君は偉大なる先人の遺産と方法、そして人間存在への根本的な畏敬のこころが、欠如しているんじゃないかね?」


S「お帰り下さい。そうやって<掟>そのものを押し付けようとするところが、わたしが精神医学に心から得心できないところなのです。このように精神医学、精神分析と臨床心理を並べるところにわたしの暴力性があることはもちろん認めます。暴力などと言うまでもない、端的に言って雑ですね、詳しく言うと長くなるので割愛しますが。しかし、そのように認めながらも、わたしは非科学に対して敬虔であるなら、非科学についても常に徹底的に批判的であり続けねばならないでしょう。反科学についても同様です。


PA「な、なんだって!メチャクチャだ…。わたしは心から心を配って、心無い心から君の心を護ろうとしているのに…。そんな言い方はないだろう。不遜にも程がある!それではこれで失礼する 。これからの君の為を思って言うが、言葉には気をつけたまえ!」


〜〜〜バタンッ!!!〜〜〜


S「ふうやれやれ、帰ってくれた。しかしどうやって帰ったんだろう?家のドアというドア、窓という窓、すべて鍵をかけてあるのに。まあいいや、わたしの読書を邪魔する者にたいしては容赦しないのだ。さあ続きを読もう」






T「佐伯、おい、佐伯!聞こえるか!わたしの声が」

S「あっ!また誰か入ってきた!もう明日死んでしまおうかしら

T「お前、大丈夫か?顔色が悪いぞ。それはそうと、『理性の限界』の感想を聞かせてくれないか?」

S「ああっ、先生!どこから入っていらしたんですか?」

T「いや、何度ドアチャイムを鳴らしてもドアを叩いても応答がないので、取っ手を握って手前に引いたら、ドアが開いたよ」

S「な、なんですって!最初からドアは開いていた、ですって?そんなバカな・・・」

T「まず佐伯がドアを閉めたのかどうかも問題だが、ちょっと考えてみれば分かることだよ」

S「わかりました!論理的に推論してみます。第1の命題、「すべてのドアは閉まる」、第2の命題「すべてのドアは閉まらない」、第3の命題「あるドアは閉まる」、第4の命題「あるドアは閉まらない」…ええと、このことから…ううう…あああ、ちょっと紙に…紙に書かないと…わ、わからない。」

T「ちょっと佐伯、落ち着け、ちょっと落ち着け、そして考えろ」

S「え、ええ…?ええ、………?………」

T「どうだ、分かったか?」






S「ドアに鍵をかけたと思い込んで、鍵をかけ忘れていました………orz」

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2010-12-03

[]相対性理論と大谷能生 / 乱暴と待機 相対性理論と大谷能生 / 乱暴と待機を含むブックマーク 相対性理論と大谷能生 / 乱暴と待機のブックマークコメント

「乱暴と待機」


[]グレンスミス / Roman Album グレンスミス / Roman Albumを含むブックマーク グレンスミス / Roman Albumのブックマークコメント

Roman Album


 胸が痛い。ロマンアルバムを聴いてしまったから。ロマンは時間を、くぐり抜ける。前からずっと、胸は痛かった。有史以来、ずっと唄が永遠に恋い焦がれている。おでこをこつんとくっつけあう。白い息吹たちが、胸の中を行きつ戻りつする。歌を生きると、あなたの過去も未来も現在に流れめぐる。

 人がことばをつむぎ始めたのはいつだろうか。うたが生まれたのはいつだろうか。そんなことを考える。それはロマンがロマンと初めて呼ばれた時だろうか。たぶん違う。だのにそう思う。知恵と技量を凝らして、ロマンは取り戻された。耳をかたむける人全員がたちまち恋をし始め、同時に失恋し始めるだろう。細い川の、あえかな支流のように。

 グレンスミスは、見晴るかす。篤実に、見晴るかす。

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2010-12-01

[]音楽評論集 TOHUBOHU(トフボフ)が文学フリマで販売されます 音楽評論集 TOHUBOHU(トフボフ)が文学フリマで販売されますを含むブックマーク 音楽評論集 TOHUBOHU(トフボフ)が文学フリマで販売されますのブックマークコメント


対談 岸野雄一x柳川真法(AMEPHONE)

インタビュー 原雅明

寄稿 虹釜太郎 / ソノヴァック

座談会 音楽に癒される?


佐伯 一彦      本当のことはとうとう分からなかった-菊地成孔×大谷能生『アフロ・ディズニー』書評

佐伯 一彦      Sentimental Journeyの歌詞分析 〜あるsong における時間の層について〜

佐藤 暢樹      日々の泡

中条 護        (民族音楽に言及しない神話学者の)都市と星―スプートニクの愛人

西山 栄美      食べ合わせ

服部 レコンキス太  ヒルデガルド・フォン・ビンゲン ある女性と音楽




ブース番号:U-15

サークル名:レコンキス太通信(レコンキスタツウシン)

ジャンル:評論




第十一回文学フリマ

開催日:2010年12月 5日(日)

開催時間:11:00開場〜17:00終了

会場:大田区産業プラザPiO 大展示ホール・小展示ホール

入場:入場無料

主催:文学フリマ事務局




よかったら、みなさんお越し下さい。

わたしは本名(佐伯)で2作品執筆しています。書評と評論ひとつずつです。

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