TOHUBOHU(トフボフ)01

TOHUBOHU(トフボフ)01





  • コンテンツ
    • 対談     
    • 座談会  
      • 音楽で癒される? p.56-
    • 寄稿     
      • 虹釜太郎*3 / ソノヴァック p.100-
    • インタビュー 


    • 中条 護*4       
    • 佐藤 暢樹*5      
      • 日々の泡 p.48-
    • 服部 レコンキス太*6 
      • ヒルデガルド・フォン・ビンゲン ある女性と音楽 p.75-
    • 西山 栄美*7     
    • 佐伯 一彦*8      
      • 本当のことはとうとうわからなかった p.146-
    • 佐伯 一彦     
      • Sentimental Journeyの歌詞分析 〜あるsong における時間の層について〜 p.166-


    • 編集後記 p.173-











「最近あまり調子が良くない」と言っていたら3月になっていた

ここのところ、すっかりnoteによしなしごとを書きつける毎日を送っているわけですが、はてなブログのことを忘れたわけではありません。ただ、こちらには以前からかっちりとした文章をアップしたいという謎の思いがあり、しかし最近はnoteでかっちりしたものを書きたいという思いがあります。どちらに書いても構わないのですが、ある程度まとまったものを書くにはきちんと文献に目を通さねばならない。それができておらず、やむを得ず心象や日々の雑感を気が向いたタイミングでどんどんnoteにアップしていたら、もう2021年も3月になっていました。のんきな話です。最近ようやく2020年分の確定申告の作業を始めました。

noteでも書いているので重複する内容になるのですが、昨秋から禁煙をしているため、心身の不調が長引いており、最近は毎日ニコチンガムを食べています。昨冬はニコチンの抜き方に失敗し、うつ状態に陥ってしまい本当に焦りました。ニコチンを補充することはしていますが、たばこを吸うことはありません。長期的な視点では健康状態が良くなると思うのですが、今はまだ心理的に「たばこを吸いたい」と思うことがあり、そんなささいなことをストレスに感じて厄介なものです。集中力や忍耐力といった高度に精神的な働きにも乱調がみられて、読書もあまりできていませんし、何のためにじぶんは生きているのかという相変わらずの問いを日々胸に抱えながら、アンダーコロナの状況に翻弄されています。

もちろんペストや天然痘や100年ほど前のインフルエンザの大流行など歴史的な事象として疫病の蔓延は知っていましたが、自分が生きている間にそれに遭遇することになるとは思ってもいませんでした。世界の多くの人がぼくと同じ考えをもっていたでしょうが、この1年と数か月で世界は様変わりしました。でも人は生まれたら病んだり死んだりするのは当たり前なので、感染予防に努めながらも、人生を先に進めていかなければならないですね。ただし、ぼく個人の不調と世界の混乱が輻輳している感じで、新しく始めたことは中国語の学習くらいです。ぼく自身も安らかに過ごしたい、世界ももう少し落ち着いてほしいと日々願っていますが、なかなか難しい。あと5年くらいはこんな感じの不安に満ちた日々が続くのかもしれません。日本政府は米国の製薬会社に赤子の手をひねるかのように弄ばれ血税をむしり取られワクチンはごくわずかしか手に入らず、英国やブラジルでコロナウィルスの変異株も生まれており、世界の混迷を予感させる材料には事欠かないですね。むやみに希望を求めることをせず、読書に耽りたいのですが、しばらく時間がかかりそうです。

働くことは苦痛か

同い年の長い付き合いの友人―親友と呼んでもよい―と話をしていて、「働くことは苦痛か」というテーマになった。Twitterでとあるアカウントが発言していたのがきっかけで、彼が共有したツイートの要旨はこんな感じである。「どんな仕事であってもしたくない。遊んでいたい。小説を書いていたい」。ぼくもその気持ちは理解できるのだが、年々歳を重ねるにつれて、共感することはむずかしくなっている。このアカウントの中の人はライターのような感じで物を書いたり、自作の小説をWEB上で販売したりしているが、ざっとツイートを見た限りでは会社勤めもしているようで、「無職は最高だ」というツイートもあった。まあ、うなるほどの大金があれば、無職は最高だが、赤貧の無職は最低最悪だよな、とぼくは考える。また、大金があっても浪費すれば金は無くなるし、無職であってもみずからを律する意志と気力がなければ、単に自堕落に物憂げな日々を過ごすことになる。きっとこのツイート主(ぬし)はぼくより10-15歳くらい若いのだろう。彼はまだ人が老いることについて何も知らないのだと思ってしまった。

ぼくは1980年生まれなので、ことし40歳になる。40歳はもはや若くはない、しかし老いているともいえない。端的に中年である。容貌は20年前とは様変わりしている。肌艶も冴えないし、腹部はとみにわがままである。疲れると、からだのどこかが痛み出す。無理をすると、翌日に悪影響する。そういった日々のなかで感じるのは、一定の生活のリズムを守ることの大切さである。若いうちは無職で家で一年中ゴロゴロしていても、さほど気力体力は落ちないし、動き出せばわりとすぐに元の状態を取り戻せるだろう。しかし、歳をとるとそうはいかないのだ。一年中家の中で寝そべっていれば、気力体力の低下が著しく、いざ動きたいと思ってもからだが言うことを聞かない。そして経験から申し上げるのだが、からだの調子がおかしいと精神もたいてい弱る。「ああ、お金が無いから働こう...」と思っても、そういった理由から底辺のアルバイトでさえできないところまで落ち込んでしまうのである。若い人にもいろいろいる。病気やケガや家庭の問題で苦労している場合もあるから一概にはいえないが、世間の複雑さと老いや病の恐ろしさについてはどうしても知識や経験が不足する。それは裏を返せば、いくらでもこの世界についてあらたに知ることができるし、おのれを豊かにできる蓋然性が高いということなのだが、ごく聡明ないちぶの若者しか、そのことには気づかないのではないだろうか。

ぼくは30代の10年間をほとんど病臥して暮らした。厳密にいうと、病気を抱えながらサラリーマンをしていた時期が4年ほどあり、そのあと2年間は無職、そしてアルバイトや派遣社員をして実家に戻って、老いた親のすねをかじりながら日々を送っている。まことに不甲斐ないけれども、ぼくの30代はそんな感じだった。闘病しながら、恋人と結婚し、共同生活し、それも破綻し離婚し、いま振り返るととんでもない10年で、良い出来事にせよ悪い出来事にせよ盛沢山過ぎたように思う。ぼくは若い人たちに説教をしたいわけではない。だって自分だってゴロゴロ遊んで暮らしたいと日頃から思っているからだ。しかし、この歳になってつくづく感じるのは、人間はある程度の頻度で社会と接することが大切だということだ。それが多くの場合は、仕事(労働)を通じて、ということになる。世の中との接点が無いと、人は極端な思考に振れやすい。これは精神面でも情緒面でもあまりよくないことなのだ。もちろん仕事では理不尽なこともある。でもたまには嬉しいこともある。そういったことから世の中のありようが少しずつ伝わってくる。その通路をできるだけ開放しておくことが、多くの人にとっては必要なのである。

それから先にも述べたように、歳をとるとからだが言うことを聞かなくなってくる。これは自戒の念を充分にこめて言うのだが、からだは動かしておいた方がいい。激しい運動でなくても、できるだけ継続的にからだを動かすことは、たいていの人が送ることになる約80年ほどの人生において非常に肝要なのだ。いざ、働こうと思っても働けない、体力がない、気力がない、お金がない。そうなると人は追い込まれる。どうしても辛くなったら自殺すればいい、という考えもあるだろう。しかし、自殺するにもある程度の体力や気力が必要なのだ。重篤な病人や大けがをしている人は自殺をすることすら困難であることはあまり知られていないかもしれない。無職であっても、そして働きたくないから遊んでいるのだとしても、からだを動かしておくことはとても大切だ。いずれ事故や大病で死なななければ、誰も老いる。そのとき、1日でも長く自分の足で歩けたり、トイレに行ったり、風呂に入れたらどれだけ心が救われるだろうか。若い時分には、なかなかこのことの重みと幸せが分からないとは思う。しかし、これは人間にとっての真理なのだ。自由に動けるからだと心をできるだけ維持すること、それに伴って必要なお金を稼ぐこと(大儲けする必要は別にないし、大金が欲しい人は貪欲に生きればよいが)は実は人生においてより大きな苦痛を防止するための、小さな苦痛なのである。

働くことの苦痛はもちろんある。それはときに彼/彼女の肉体をぼろぼろにし、精神を蝕む。とくに長時間拘束して非生産的に労働する悪習があるこの国のしくみは少しずつでも変えていかなければならないだろう。しかし、今後も状況が不透明ななかであっても、何らかの方法で賃金を得ていかなければ、働く/働かないという選択肢を選ぶ蓋然性すらゼロになってしまう。しつこいようだが、人生においてより大きな苦痛を防止するために小さな苦痛が続くこと、それが働き続けることである。自分の持ち時間を差し出して作業をすることを通じて得られるお金であったり、また継続的に働くことで得られる社会的信用だったり、職場で生じる社会的な関係によって、あなたが護られたり、救われたりする可能性は思っている以上に上がるのである。働くことによってもたらされる苦痛について考察し、それと折り合いをつけつつ、より多くの若い人たちに比較的安定し、ときにささやかな幸福を感じられる暮らしを送ってほしいと、勝手ながら願っている。

やはりちょっと説教臭くなってしまった。しかし"真理"がここにある。できるだけ言葉を尽くしたのだが、疑問点や質問などがあればコメントを頂ければと思います。読んでくださってありがとうございました☺

読書に特化された思念体になりたい

実は6月に温めていたアイデアがあって、それは10代の頃に大切にくりかえし聴いた音楽CDの思い出を絡めて、その曲目解説をすること。最初はクラフトワークの記事と決めていたのだが、それをどうやって書こうかと思いあぐねていたら6月が終わっていた。そして、もう7月も21日。こんなことを書くのは極度に陳腐過ぎてどうしようもないが、主観時間のスピードが信じられないほど速い(当方39歳10か月)。信じられない勢いで日々が過ぎてゆく!!恐ろしい勢いで梅雨明けして、今年の夏も酷暑にじりじり、じりじりと炙られるのだろうか。そしてニュースをにぎわす全国各地での大雨洪水土砂災害…。それらを幻視して、すでにうんざりしているのは決してぼくだけではあるまい。そういえば、きのうの晩、自室のベランダでたばこを吹かしていたら、網戸に羽化したばかりのセミがじっと止まっていた。それはほんのぴくりとも動かなかった。そしてきょう仕事から帰ってきたら、家の近くで複数のセミの鳴き声が聞こえた。つまり、もう―あきらめの気持ちでいっぱいだが―夏なんですね。

夏はニガテな季節である。乳幼児の頃から敏感肌の持ち主なので、まず強烈な紫外線が肌に合わないのである(比喩的な意味ではなく、文字通りの意味だ。長時間外にいると火膨れができる)。それから、汗っかきなのだ。おまけにいろいろと事情があってこの12年間で11kgも体重が増えた。つまり、夏はもう汗ばかりダラダラかいている。タオルハンカチ2枚とハンドタオル1本を所持して、移動中はほぼつねに汗を拭きながら歩かねばならない。ああ、夏よ去れ!いますぐ去ってくれてもまったく構わない!!という思いでぼくの胸はいっぱいである(落ち着け、まだ本格的にはやってきていない)。ぼくは、子供のころから静かで優しい秋が好きなのだ。この国の気象の道理では、蒸し暑く憂鬱で憂鬱でおかしくなりそうに熱射する夏が過ぎ去らねば、涼しくて読書に最適なあの素敵な秋は来てくれない。うう、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、ことしも夏をやり過ごさねばならないのか。ああ、つらい。つらいことよ。人生はつらい。ていうか、もうこの20年ほど残暑が厳しすぎてまともな秋を味わっていない気がするのだが。

 

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最近は週4日でアルバイトをしている。おまけに気温も気圧も激しく上下する。そしてぼくはもう若くはない中年のおっさんである。仕事で疲れて帰ってくると、夕食後ベッドで本を読みながら寝てしまうこともある。ああ、虚しい。虚しいのは読書の量と質が激減しているから。ぼくは今まで読むことで生きてきたのである。

よく考えるとここ数年の読みっぷりが常軌を逸していたのかもしれない。とにかく、なるべく働かず、貯金を切り崩し、哲学の入門書や研究書や論文を、関心の向くまま読む日々を送っていた。おかげで、2019年は貯金も尽きとんでもない貧乏生活を送っていたわけだが、振り返ってみると晴読雨読の日々は幸せだった。1日3-4時間は必ず読書に充てていた。1週間で21-28時間は読んでいたわけだ。もう今は休日でもがんばって2時間しか読めない。それだけ読書スキルは低下し、集中力ももたなくなっている。最近は無理せず1時間半くらいで切り上げることも多い。悲しいが仕方がない。それまで月に10日ほどしか働いていなかったところから毎週4日働いているわけだし、新しい職場だし、湿度は異常に高いし、新型コロナウィルスは流行っているし、この国の政治もひどいありさまだし、それよりも何よりもお金が無くては生きていかれない。だから、読書に特化された思念体へと進化して―そうすれば衣食住について心煩わせることもない。お金も要らない―、図書館のなかに棲みたい...。ぼくは疲れたからだと魂で、しばしばそういった夢想に耽るのである。

複数のブログを使い分ける方法について

大学に入った年が1999年で、もう21年も前になる。この21年間いろいろなことがあったが、一貫してウェブで文章を書き続けてきた。最初は大学のサーバーにホームページ(当時はあまりウェブサイトとは呼ばなかった)を開設して、そのあとYahoo!が運営していたジオシティーズにファイルを全部移したんだっけか?いや、インフォシークのサービスも使っていた気がするぞ。インフォシークのウェブサイト事業がYahoo!に売却されたんだっけか?もちろんこのあたりのことは検索すれば情報はある程度出てくるだろうが、あいまいな記憶のまま書く。ちなみに最初に大学のサーバーで公開したウェブサイトの名称はサイキサイト(psychesite)といった。psycheギリシア語でいうプシュケーのことで、おおまかには心や魂という意味。つまり、サイバースペース上に自分の”魂の場(site)”を設けよう、といった気分だったのだと思う。メインコンテンツはなんと夢日記で、高校時代にこまめにつけていた日記などからも夢についての記述を探して、それをHTMLで書き直して―多少は加筆したり削除したりしたと思う―公開しており、約1名のクラスメイト(女性)から圧倒的な賞賛を受けたのが懐かしい。いまや彼女は結婚して娘さんが2人居り、メキシコに住んでいる。Yさん、お元気だろうか。

2000年代の前半からは英語ブログ(Cream Yellow Raincoat)を始めた。この頃はサラリーマンだった。更新するのは震災のあった年にやめてしまったが、良かったらご覧ください。ちなみに文章はさほど難しくない。中学生レベルの作文だ。


いま使っているブログはこのはてなブログとnote(さえきの哲学読書日記)だ。ぼくはそもそも最初期のはてなダイアリーユーザーで、2003年のベータ版から使っている。最古参といってもいい。2019年春にはてなダイアリーはサービス終了し、データをはてなブログにエクスポートしたあと、ここを使っている。noteのほうは、タイトル通り、哲学関係の読書メモをまとめたり、哲学エッセイや読書案内を綴ろうと思ったのだが、観て頂ければわかる通り、最近はKindle本を大量購入したという記事やパワハラ問題について考察していたりして、いささか羊頭狗肉感がある。軌道修正した方がいいのだろうと思わなくもない。5月の末から新しいアルバイトを始めて、わりと忙しくしている。梅雨時ということもあってか、そして寄る年波には勝てぬため、疲れもわりと溜まってしまう。もう少し仕事に慣れたら、複数のブログをどう使い分けるかということについても考えをまとめて、差別化を図り、読んでくださる方に面白いなあ、とか、読んで得したな、と感じていただけるような文章を書き続けていきたいものである。

ぼくのTSUTAYA小史

mistyさんがnoteで 僕とTSUTAYAとの歴史(エッセイ)

という記事を書かれていて、それを楽しく読んだ。ぼくは一時期、博多名物のとんこつラーメンにハマっていたのだが、そのころは博多天神という四文字を目にするたびに、腹がぐうぅと鳴っていた。それはさておき、mistyさんのエッセイからは、ぼくにとって未踏の地である福岡・天神地区の賑わいが伝わってきて面白かったです。コロナショックの影響で、当分旅行には行けないでしょう。でも、こうやって友人の随想的な文章を読むことで、まだ見ぬ街へのささやかな旅に出られる。このことは捨てたものじゃないと思います。

さて、mistyさんが書かれていたように、ぼくもTSUTAYAと自分との関係について少し書いてみたい。ぼくが初めてTSUTAYAの存在を知ったのは、1993年である。そして、頻繁に利用するようになったのは、翌1994年からである。その店舗は、埼玉県の飯能(はんのう)にあった田中一誠堂(たなかいっせいどう)―この書店にも思い出があるのだが、今回そのエピソードは割愛する―という書店の2Fにあった。ぼくは、狭山市の自宅から飯能にあるルター系のミッションスクールに電車で通っていた。飯能駅から学校までの間には古本屋もあったが、中学生だったころ、学校帰りにはTSUTAYAに寄ってCDをレンタルし―といっても大量に借りられるわけではなく、熱心に吟味してすこしだけ借りた―、階下の書店の雑誌コーナーで少し立ち読みするのが半ば習慣だった。1994年からTSUTAYA飯能店(だったと思う。店名は正確ではないかもしれない)を利用するようになったのは訳があって、その年の5月ころからTOKYO-FMの「赤坂泰彦のミリオンンナイツ」というラジオ番組をきっかけに、YMOの音楽にハマるようになったのだ。

中学生は親からのわずかなおこづかいで娯楽に親しんでいる。ぼくが通っていた中学は私立だったので、もちろんお金持ちの子弟もいた。でもぼくは、中学2年生のころは、月に1500円~2000円くらいもらっていただけだと思う。だから、気に入ったミュージシャンがいても、国内版のCDを買うことはなかなかできなかった。当時新譜アルバム(国内盤)であれば定価で3000円したのだ。とてもではないけれど、気楽に手を出せるものではない。というわけで、当時のぼくは地元にある市立図書館のCDライブラリを毎週のように利用し、休日はFMラジオの音楽番組をラジカセでカセットテープに録音し、平日は飯能のTSUTAYAで厳選したCDをレンタルして、音楽生活をいとなんでいたのだ。

ご存じの方も多いと思うが、YMOは1983年に散開し、93年に"再生"した。2020年現在では考えられないが、93年の再生は期間限定であり、そのあとの活動は無いとファンは思っていた。そんな時期にYMO作品のリリース元であるアルファレコードは、YMOのリミックス作品を出しまくっていた。オールドファンからは"アルファ商法"と呼ばれ悪名高いが、当時のぼくにとっては、YMOの音楽が現代のクリエイターにどう解釈されるかという点に興味があったのは間違いない。彼らのオリジナルアルバムは乏しいこづかいを溜めて買い集める一方で(当時、CDでは1500-1800円くらいで再発されていたし、中古CDであればもっと安かった)、リミックス盤はレンタルで端から聴いていった。
当時リリースされたリミックスは『HI-TECH / NO CRIME』(1992年)が一番有名だと思うが、『YMO versus THE HUMAN LEAGUE』(ひどいアートワークだった)や、再生YMOのオリジナルアルバム『TECHNODON』(1993年)のリミックス盤『TECHNODON REMIXES I』『TECHNODON REMIXES II』も飯能のTSUTAYAで借りて聴いたのだ。
「これは面白いな!!」と心から感じられるものは少なかったけれど、YMOを再発見―小学校の運動会で「テクノポリス」や「ライディーン」は何度も聴いていたから―をすることを通して、ポピュラー音楽における電子音楽に対しての関心を高め、埼玉という"東京の郊外"に住んでいる中学生としては、とにかく刺激的なサウンドを求めていたのだと思う。電気グルーヴ細野晴臣の名曲「コズミック・サーフィン」をカバーしていることを知って、彼らの『UFO』(1991年)『VITAMIN』(1993年)『ORANGE』(1996年)なども飯能のTSUTAYAで借りて聴いた。電気グルーヴのユーモアのセンスは、YMOの洗練されたそれに比べると、なんとも庶民的かつ荒々しいもので、さほど気に入らなかったけれど、ハウスやテクノといったダンスミュージックに関心をもつきっかけになった。

 

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さて、時は流れて1999年4月。ぼくは国学院大学文学部に入学した。ここでまた通学路にあるTSUTAYAを利用することになる。国学院には、渋谷とたまプラーザというふたつのキャンパスがあり、ぼくが在学していたころは、1・2年生はたまプラーザで、3・4年生は渋谷で主に学ぶというしくみだった。といっても、サークル活動に参加していれば、渋谷に足を運ぶことも多い。というより、横浜市青葉区に所在するたまプラーザキャンパスは、渋谷駅から神奈川県大和市にある中央林間駅―すごい駅名ですよねーを結ぶ東急田園都市線たまプラーザ駅近くにあるので、渋谷経由でたまプラーザまで通う学生が多かったと思う。地方から上京してきた先輩には、田園都市線沿線に下宿している人もいた。そして、田園都市線沿線には当時、TSUTAYAの大規模な都市型店舗が2つあった。TSUTAYA渋谷店とTSUTAYA三軒茶屋店である。言うまでもなく、この両店舗はいまだ健在である。

飯能のTSUTAYAを卒業して、渋谷と三茶のTSUTAYAに足を踏み入れたのはいつだったか。記憶は定かではないが、おそらく1999年中に両店とも利用開始したのは間違いない。同じ学科に在籍していたクラスメイトのYくんがソウル・ミュージック好きでDJをやっていたのだが、彼からの影響でソウルやファンクを好んで聴くようになり、高校生時代から耽溺していたジャズについてもどんどんと際限なく関心が広がっていた。そんなときに、TSUTAYA―その駅チカな都市型大規模店舗の膨大なCD在庫―はぼくの心をトリコにした。もう長くなってきたので、とくに印象深いCDをそれぞれ1枚ずつ紹介して終わりにする。

渋谷TSUTAYAで借りて心に残っているのは、何といっても『フォー・フレッシュメン&5トロンボーンズ』です。ビーチボーイズのヴォーカルワークに大きな影響を与えたフォー・フレッシュメンの洗練されたハーモニーを、5人のトロンボーン奏者が支えるというとてもユニークな編成の素敵なアルバムです。1956年にリリースされた名盤なので、良かったら聴いてみてください。TSUTAYA三軒茶屋店で借りて心に残っているのは、細野晴臣さんのdaisyworld discsの第1作『Daisy World Tour』(1996年)。いわゆるコンピレーションアルバムで、彼のプライベートレーベルからアルバムを出すことになるミュージシャンたちのエレクトロニック・ミュージックが12トラック収められています。第1期daisyworld discsのカタログを出していたのはシナジー幾何学というベンチャー企業で残念ながら1998年に倒産し、現在は入手が難しいかもしれませんが、もし機会があればぜひ...!!

心に思い浮かぶまま、ぼくのTSUTAYAについての思い出を書き連ねてきたが、1980年生まれのぼくにとってのTSUTAYAはあくまでも音楽ソフトのレンタルショップである。とくに10代のあいだにはずいぶんと利用して、さまざまな素晴らしい音楽と出会う機会を与えてくれた。もちろんTSUTAYAは映像ソフトもレンタル・販売をしていたが、ぼくの当時の関心は極端に音楽に偏っていたので、そこで借りた映画やアニメの記憶はおぼろである(借りていなかったわけではない)。そしてすこしずつ思い出してきたのだが、大学生になるとぼくは学業の傍らアルバイトをするようになり、1-2年の頃はまだしも、3-4年生になると、TSUTAYAを利用する頻度はしだいに減っていった気がする。20代になると、自分で稼いだお金でCDやLPを買うことができるようになったのだ(中古を買うことが圧倒的に多かったけれど)。いつしか、TSUTAYAとは疎遠になってしまった。むろん、会社勤めをするようになっても、渋谷や三軒茶屋に行くことはあったけれど、TSUTAYAに寄ることはほとんど無くなった。2010-2011年ころ、渋谷のTSUTAYAに本のコーナーができて立ち寄り、ケネス・アンガーの『ハリウッド・バビロン』Ⅰ,Ⅱが再刊されていたので、それを買い求めたのが最後の記憶である。音楽ソフトを求めて通った場所で、何気なく本を買ったという行為が、TSUTAYAへの関心がきわめて薄くなったことを象徴しているような気が、いまのぼくにはするのだ。

みなさんも、TSUTAYAに―あるいは音楽ソフトのレンタルショップに―思い出はありますか?
もしよかったら、なにかエピソードを教えてください。

昔取った杵柄を再度手にすることについて

学生時代に高時給を目当てに始めたアルバイトが、コールセンターの受付スタッフだった。最初は大手ISPの料金センターで1年ほど働き、そのあとやはりウェブ申し込み中心の自動車保険の見積もりセンターで1年ほど働いた。

 

2005年の4月からサラリーマンとして働き出した。江東区にある、とある商社系ICT企業のコールセンターだった。薄給なうえ、夜勤もあり、きつい仕事だった。3年目くらいから体調に異変が生じ、うつ病になった。それでも病院通いをしながら仕事を続けたので、慢性前立腺炎にもなった。もっとも前立腺炎はくすりのおかげで1年くらいで治ったのだが。

 

2011年1月に大手町にある総合商社の本店内の職場に異動し、社内オンサイト中心のエンジニア業務に就いた。顧客からの評判は良かったが、職場環境は最悪だった。嫉妬された上司たちから組織的なパワハラを受け続け、結局休職することになった。1年間休職し、2012年の夏に退職届を書いた。まぁ、正確にいえば書かされたのだが、辞めて正解だっただろう。

 

こういう経緯があったので、健康がある程度回復して2014年にアルバイトを始めたときも、コールセンターで働くことは二度とすまい、と心に決めていた。しかし、いろいろと事情がありーというか、コロナショックの影響も大きいのだがー、お金を稼ぐために、昔取った杵柄を再度手にすることにした。月末の25日から、近場のコールセンターの受付スタッフとして、週4日で勤務することになる。緊急事態宣言の前後2か月にそれなりに労力をかけて、ようやく手にした仕事だ。アルバイトとはいえ、がんばりたいとは思っている。ただし、健康を損ねない程度に。

 

ことし40才になるし、この仕事を何年も続けるつもりはないが、最低1年は働いてお金を貯めてゆきたい。そのあいだに、次のステップについて考えて、人生後半の道筋を付けられればいいのだが。いずれにしても可能な限り淡々と働いて、体調を崩さないことが最優先事項。どう考えてもこの国の将来は暗く厳しいが、そのなかでもなんとかして生き延びていくつもりである。