ウツボスキー出奔顛末記


働きざかりのウツボスキーは、またもや舌禍事件によって我が身を苦しめることになった。彼は、彼の書いたものに関する風評がどのような経緯でどのように伝えられたかについて、徹底的な調査を行う必要があると考えた。その結果次第では、風評を流した張本人をケヤキの木に吊し、この暑さの中に放置することもやぶさかではないとさえ考えていた。しかし、働きざかりのウツボスキーにとって、そうした怒りや復讐に任せて何かをすることは、もはやどうでもよくなりつつあった。


たとえ、書かれたものはすべてフィクションである、と言い立てたところで、これだけブログやSNSが流行している現在では、それは通用しない理屈であろう。ほとんどの人は、書く自分と書かれたものとは同じであると考えている。そしてそれは、至極まっとうな感覚である。


働きざかりのウツボスキーを苦しめたのは、彼自身の、言葉に反応して連想を進めてしまうという癖だった。それは、二十代の前半までにおいては、単なる妄想としてあらわれた。二十代の後半から現在の年齢にかけては、それは少しばかり変化し、もはやあらゆるものに対してほとんど感じることのなくなったあの衝動を、いまいちどフィクションの世界で蘇らせるために必要な作業といえた。働きざかりのウツボスキーはきわめてハードな環境で働いていたし、また、ある枠組みの中で文字を書かなければならない仕事をしていたので、そのようなフィクションの世界に身を委ねてそこで何かしらのものを書きつけることは、彼が唯一、息をできるということに等しかった。


しかし、働きざかりのウツボスキーの失敗は、その連想の出発点を、現実世界のできごとに置いたことである。現実から出発して、フィクションの世界を立ち上げていく、それが働きざかりのウツボスキーの基本的なスタイルである。これは、彼が自分で選び取ったものではなくて、それまでの大して長くもない人生の中で読んだ本や会った人に影響されて、培われたものだった。そのような性質を持ってしまった働きざかりのウツボスキーは、現実からフィクションを始めることによって、書かれたものが、ふたたび現実に対してなんらかの作用をもたらすであろうと無意識のうちに考えていたのである。それが彼の仇となった。働きざかりのウツボスキーにとっては、書かれたものは、その時点でフィクションであり、そうである以上は、現実の人間関係うんぬんから切り離されて、言葉の連想によって彼の中に(あるいは周囲に)秘められていたものが湧出する世界へと渡航したのであり、それが、ひるがえって現実を打つのだと、考えていたのである。しかし、結果的に人々にもたらされた作用はそうではなかった。結果的には、働きざかりのウツボスキーの書いた文章は、単なる狭い人間関係の中の騒乱として、単なるワイドショー的なゴシップとして還元し、消費されるにいたったのである。


働きざかりのウツボスキーがその連想の出発点とした当のゴウダは、彼の書いたものをよく理解してくれる友人であった。働きざかりのウツボスキーはそのことに感謝した。しかし、もちろん、すべての人が好意的に受け取ってくれるわけではない。そのような読み手の善意に頼らなくてはならないという時点で、すでに敗北している、と彼は考えた。それは読み手の責任ではなくて書き手の責任だった。つまり、彼は未熟なのだった。働きざかりのウツボスキーはしかし、たとえば小説という枠組みの中で書く、ということをしたことがない。それは、そのようなパッケージの中で書くことによって、フィクションが完全に現実から切り離されたフィクションとして消費されることを恐れたからだった。そのようなものはすでにたくさんあるし、書きたい人が書けばいい、と彼は思っていた。しかし、現実に出発点を置くという彼のスタイルが、誰かに意図を誤解される可能性を孕み、誰かを傷つけてしまう危険性があるのなら、これはもう、これ以上放置しておくわけにはいかないとも彼は考えるにいたった。





土曜日の朝はやく、働きざかりのウツボスキーは家を出た。同居人たちに挨拶をしていく暇もない、ほとんど夜逃げ同然の出奔だった。家賃や光熱費の精算については、ゴウダがよろしくやってくれるだろう。働きざかりのウツボスキーは、手紙を書かなければならないと思った。しかし、まずはどこかに落ち着くべきだ。


七日と七晩歩きつづけるうち、働きざかりのウツボスキーは、もはや働きざかりではなくなっていた。労働する意欲にさえ支障をきたしていた。今や、ただのウツボスキーになった彼は、その名前ももはや不要であると考えるようになっていた。そのため、ただのウツボスキーである彼は、湖を渡る際にその名前を魚に食わせてやった。名前のなくなった元ウツボスキーは、あらゆる人間関係を絶って、ひきこもりたいと考えていた。そのためにあらゆる場所をめぐって旅をつづけた。しかしついにそれは不可能だった。誰かの支えなしにひとりで生きていくことなど、彼には到底できなかったのである。


そこで名前のない彼は、松亭にもときおり出没していた、グルミー族の里を頼ることにした。以前、グルミー族のひとりに聞いた里の噂をたよりに、単線の各駅停車を乗り継ぎ、ときにはロープウェイを使い、あるときは船に乗り、交通手段のないところは歩いたり泳いだりもした。そのようにしてようやくグルミー族の里に辿り着いたとき、名前のない彼はもはやほとんど原型をとどめていなかった。人間であるかどうかさえ疑わしかった。実際、名前のない彼は、もはや人間というものがどのようなものであるか、忘れかけていたのである。


名前のない彼を迎えた族長ピコタン・グルミーは、一目見て、彼が、ものの名前を忘れてゆくおそろしい伝染病にかかっていると宣言した。そして、そのような伝染病者を里に入れるわけにはいかないと告げた。名前のない彼は、いや、もはや性別さえもわからなくなった名前のない彼/彼女は、族長の前にひれ伏して泣いた。五時間と十分後、その涙が川に流れ込むことで、地下水が忘却で汚染されることを恐れたピコタン・グルミーは、名前のない彼/彼女に名前を与えることにした。


新しい名前を得た彼/彼女は、里を離れ、街へ出ることにした。幸い、日本には街がたくさんあった。どこまでも街がつづいていた。だからといって新しい名前を得た彼/彼女はどこにでも住めるというわけではなかった。できることならば、さまざまなしがらみから距離をとりたいとも考えていた。グルミー族のはぐれものが何匹かついてきた。彼らはまだ若かった。外の世界のことを知りたくてたまらなかった。それで、夜陰にまぎれて新しい名前を得た彼/彼女の跡をつけたのである。しかし、里を出て幾マイルもいかないうちに、新しい名前を得た彼/彼女は追跡者たちの存在に気が付いていた。そして、彼らがあまりにも若いのを見て驚いた。若さとはなんであったかさえ、新しい名前を得た彼/彼女は忘れていたからだ。


やがて、新しい名前を得た彼/彼女は空き家を見つけてそこに住むことにした。不法占拠であったが、もちろんグルミー族の若者たちは気にしなかった。周囲に住んでいる者たちも気にしなかった。彼らもまた、同じようにしてここに辿り着いた不法占拠者たちだった。新しい名前を得た彼/彼女が選んだのは、木造のぼろい一軒家である。二階はないが、中二階はあるという不思議な構造をしていた。新しい名前を得た彼/彼女は、街へ出て仕事を見つけてきた。それは不法占拠者たちが組織的に行う下請けの仕事だった。右のものを左に移すだけで、いくばくかの金がもらえた。それでも、なんとか生活するには足りた。新しい名前を得た彼/彼女は、近所のスーパーで買い物をして、不慣れな手つきで自炊をしたりもした。そうこうするうちに、新しい名前を得た彼/彼女はもはや物忘れが以前ほど激しくないことに気づいた。こうして新しく獲得された名前については、そう簡単に忘れるものではないのだった。


そしてあるとき、グルミー族の若者のひとりとトランプで戯れていたとき、新しい名前を得た彼/彼女は手紙を書かなければならなかったことを思い出した。それと同時に、新しい名前を得た彼/彼女は捨ててきたものの大きさに気づいて涙した。しかしどうしても、何を捨ててきたかまでは、はっきりとはわからないのだった。新しい名前を得た彼/彼女は、さっそく何人かの友人たちに手紙を出した。


やがてゴウダと木村から返事がきた。その手紙によって、新しい名前を得た彼/彼女は、以前住んでいた場所についての知識を得た。そこは、「下北沢」と呼ばれる街らしい。さっそく地図を出して調べてみたところ、行政区画上では確認されなかったものの、たしかに下北沢という名前の駅はあった。


新しい名前を得た彼/彼女は、その下北沢で彼らに会うことにした。日曜日の夜6時から、と木村は書いていた。8月12日(日)の夜6時から、下北沢の駅前でラジオをやるのでよかったら来なよとあって、ゴウダもそれに出るらしかった。88.8MHzで、電波を飛ばすらしい。新しい名前を得た彼/彼女は、電波を飛ばすというその感覚にふるえた。それは、どこまで飛ぶのだろう、と想像した。道ゆく人たちに刺さったり、飛行機の計器を狂わせたりしないだろうかと心配もした。その心配はないと木村は書いてよこした。我々は安全・安心をモットーに、革命を起こすのだと書いていた。新しい名前を得た彼/彼女にとって「安全」も「安心」も「革命」もすべて意味のわからない言葉だったが、面白そうなので乗ってもいいかと考えた。なにより彼らに会えることが嬉しかった。ひさしぶりに彼らに会うにあたって、新しい名前では困るだろうというので、新しい名前を得た彼/彼女はこの日にかぎって昔の名前で参加することにした。それが終わったら、今度こそその名前は捨ててやる。


以上が、すべての顛末である。