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uumin3の日記 RSSフィード

2005-07-22

ある満月

十六夜日記 十六夜日記を含むブックマーク

 昨日は満月、となれば今日は十六夜(いざよひ)の月です。『十六夜日記』の名は耳にしたことがあっても、なかなか文章とか内容まで覚えておられる方は少ないのではないでしょうか?

 私の個人的な感じでしたが文章が巧みなわけでもなく、紀行文としても描写は少なく、和歌がやたらでてくるのですがしっくり感じ入るものもなく、結局は面白くないと思っていました、いきさつを知るまでは…


 古今集以来の勅撰和歌集(いわゆる八大集)の一つ『千載和歌集』を編んだ藤原俊成と、その息子で八大集の最後『新古今和歌集』の選に加わった(というより『小倉百人一首』(小倉色紙)を選んだ)藤原定家の名は多くの方に知られるものです。鎌倉幕府が開かれた年に俊成は78歳、定家は30歳という年齢で御両者とも平安から鎌倉にかけて活躍した歌人です。

 世の中よ道こそなけれ 思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる   (俊成・千載集/百人一首


 憂き夢はなごりまでこそ悲しけれ 此の世ののちもなほや歎かん (俊成・千載集)


 来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の身もこがれつつ  (定家・百人一首


 見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとま屋の秋の夕暮   (定家・新古今集

 しかし定家の子、藤原為家やその子為相などの名は、よほど興味がなければあまり聞くことはないでしょう。実は『十六夜日記』の成立には、ここらの人間関係が深く影響しています。


 『十六夜日記』(十六夜日記テキスト・もしくはこちら

 阿佛尼の紀行文。一巻。弘安三年(1280)ごろ成る。作者は定家の子為家の後妻で、為家の死後、先妻の子とわが子との間に、細川の庄をめぐっての財産争いがあり、その訴訟のため、京都から鎌倉へ行ったときの道中記や、鎌倉滞在中の記事をまとめたもの。建治三年(1277)十月十六日京都を出発したので名づけられた。

(旺文社『古語辞典』より)

 

 藤原俊成・定家の家は、あの道長の六男御子左(みこひだり)大納言長家の子孫で御子左家と言われます。歌道の宗家(的存在)でした(御子左家系図)。定家を嗣いだ藤原為家もまた歌人で、鎌倉幕府御家人で歌人としても著名な宇都宮頼綱の娘を妻に迎えておりました。頼綱の娘との間に為氏と為教の二人の男子がおります。

 しかしこの為家、55歳と老境に入った頃に宮中の女房、安嘉門院に仕える四条という京女と関係ができます。この四条こそ後に阿仏尼と呼ばれた女性なのです。


阿仏尼(安嘉門院四条)

 十代半ばで安嘉門院(後高倉院の皇女邦子内親王。後堀河天皇の准母)に仕え、はじめ越前、のち右衛門佐、四条と呼ばれた。若い頃失恋の痛手から失踪し衝動的に出家。その後御所に戻ったり遠江国に下向したりしたが、やがて再び出奔し法華寺などに住んだ。建長五年(1253)頃、すでに歌壇の重鎮であった藤原為家と知り合い、まもなく側室となって為相・為守を生む。

 生年は未詳ですが、おそらく三十代に入った頃に為家に出会ったと考えられるでしょう。上の略歴だけ見ても相当情熱的?で行動派の女性であることは歴然ですね。調べる過程で「側室説」と「後妻説」の両方がありましたが、武家ではなく公家のことですし突っ込んで調べてはおりません。四条は聡明な女性で歌もよくできたと言われております。

 とにかく晩年の為家は阿仏尼を寵愛し、老いてからできた子*1を可愛がります。そして嫡男の為氏に与えていた播磨国細川荘などの所領を為相に譲るという遺言を書き、さらに御子左家に伝わる典籍なども為相に譲って死んでしまうのですが、家を継いだ為氏*2は細川荘をおさえまだ十代の為相に譲ろうとしませんでした。

 これにおさまらないのが行動の人、阿仏尼です。可愛い息子のため、都で手を尽くしても埒があかず、鎌倉幕府に直訴するために東国へ下ります。この道中の紀行文が『十六夜日記』なのです。

 …建治元年(1275)の為家没後、為氏は細川庄の譲渡を拒絶し、阿仏尼は弘安二年(1279)、訴訟のため鎌倉へ下る。四年間の滞在後、事件の解決をみないまま、弘安六年(1283)四月八日、鎌倉で客死した(帰京後に没したとの説もある)。享年は六十余か。鎌倉英勝寺の傍に墓がある。法名阿仏。北林禅尼ともいう。(以下略)

 事件が解決しなかったのには、為氏の母方の祖父御家人宇都宮氏の勢力が鎌倉で強かったということもあるでしょう。しかし彼女の東国行きは直には報われなかったものの、その後の政治情勢の変化から結局為相は細川荘を所領とできたのです。我が子かわいさの母親の執念は実ったと考えてもよいかもしれません。

 また結局御子左家は、長男為氏の二条家、次男為教の京極家、そして為相の冷泉家へと三流に分かれることとなります。そうです、阿仏尼が必死で守ろうとした男の子の子孫が、今も京都に残るあの冷泉家へと続いているのでした。(冷泉という名は、為相の邸のあった冷泉通に由来します)

 傍流に近い冷泉家でしたが、南北朝時代に二条と京極の家は断絶してしまっていますし、祖父の定家の書など家伝来の典籍を受け継いでいましたので、唯一の「和歌の家」として貴重な文化遺産・資料を今に伝えてくれているのです。


 こういう「いきさつ」を聞いて後は、私は『十六夜日記』を面白くないなどとは全く思いませんでした。これほど面白い背景があれば、古典などと敬遠する人にもきっと興味を持っていただけるはずです。

 なにしろ…


  • 奔放な知的30代シングル女性
  • でも魔性の女
  • 京都の歌道の先生の老いらくの恋
  • 前妻の子と後妻の確執
  • 遺産相続のごたごた
  • 義理の兄弟間の揉め事
  • 訴訟のゆくえ
  • ぶらり鎌倉の旅

 と、ワイドショーや女性週刊誌なら涙を流して飛びつくような極上の素材があるのですから…


 勅として祈るしるしの神風に よせくる浪はかつくだけつつ (為氏・増鏡)


【補記】弘安四年(1281)、蒙古襲来の風聞で世情騒然とする中、伊勢神宮に敵国降伏を祈る勅使が派遣された。蒙古の軍船は九州目指して侵攻したが、閏七月一日、大風によって難破し、かくて未曾有の国難は回避された。勅使が伊勢からの帰途、この報に接して詠んだのが本作である。



 誰(た)が契り 誰が恨みにか変はるらん 身はあらぬ世のふかき夕暮(為相・風雅集)



 はかなしな みじかき夜半の草枕 結ぶともなきうたたねの夢(阿仏尼・うたたね)


【補記】若き日の手記『うたたね』より。失恋の傷心から衝動的に出家した後、愛宕の仮住居に移った頃の作。この直前に作者は偶然かつての恋人を見かけている。「結ぶ」は草の縁語。「願いが結実する」或いは「契りを結ぶ」意が響き、夢で恋人と逢えたことが暗示される。

*1:為相が生まれたとき為家は66歳。父が弟を作ったとき長男の為氏は41歳。

*2:この時為氏53歳で、異母弟為相は12歳。

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