社会認識を基礎づける「個人的−感覚的」生活体験


 本質論の当否はさておき、社会関係の本質論や文化の本質論などは、顕在化しているかどうかは別にして人間存在の本質的規定と分けて考えることはできないでしょう。社会関係を担うものは人間であり、文化は人間の社会関係によってその存在の根拠を与えられているからです。各論的に語られる、社会関係や文化形象の経験的レヴェルでのあらわれは、個別的なテーマに即して論じられるべきではありますが、それら社会と文化を可能にする基本的構造については、統一的な本質的視点から考察されねばなりません。ちょっとここでほんの少しばかり、社会認識の「人間=個人」の側からの基礎づけについて考えてみたいと思います。


 Alfred Schutz によれば、既に構成されたものの第二次的構成である社会科学や人間科学は、科学以前に人間現象それ自体の中で構成されているもの(第一次的構成)の記述から出発しなければなりません。この、科学以前に人間によって生きられており、構成されている世界というものが生活世界(Lebenswelt)であり、生活世界の諸領域の中で、生きている人間自身にとっても科学にとっても最も重要な領域が、日常的な生活世界の現実(reality of everyday life-world)なのです。日常的な生活世界の構造と、その中で生きている人間が自らの現実を解釈し説明する場合に構成している知識(代表的には常識的-知識)の構成過程の記述分析が、シュッツの生活世界論の中核をなしています。


 しかしその知識や「自らの現実」への確信を基底的に支えているのは私たちの直接的な知覚であり、まさに「体」験と言うのがふさわしい感覚的なものであると思われます。そしてその基盤の個人性にも関わらず、日常的世界は決してプライヴェートな主観的世界ではなく、他者と共にある相互主観的な世界なのです。私も他者も意識生活を持ち、それぞれの生きられた経験(体験)とそれについての知識を持っているからこそ、この世界において相互伝達と相互理解が成り立つのです。


 そして生活世界の日常的現実は、外的自然の世界のみならず社会的文化的世界をも含みます。そこには自然的事物を文化的対象へ、人間の身体を他者へ、他者の動作を行為や身振りや伝達へと変換する意味の層位が含まれているからです。


私たちの社会についての経験は、他者を直接に経験することから時間空間的拡がりをもった社会的世界を間接的に経験することまで様々な段階を含んでいますが、発生的にも構造的にも後者は前者(直接経験)に由来するでしょう。
 他者を直接に経験する場合、私と他者は生活世界の時間と空間を直接的に(face to faceの出会いの中で)共有し、私は他者の生きた身体を彼の意識生活の表現として経験し、彼の意識の流れと私のそれとの同時性を経験します。私の他者経験は類推や反省によるのではなく直接的なものであり、他者を私と同じ人間として直接経験するこの普遍的な形式は、「汝志向」(thou-orientation)とよばれます。


 直接的なわれわれ関係においても、すでに親密さと深さ、解釈の視野の異なる諸次元が区別されるのですが、この段階づけは直接経験できない同時代人の世界(the world of contemporaries)にまで拡がりうるものです。同時代人の世界とは、私が現実にわれわれ関係を持たないけれど、その生活が私の生活と同じ世界時間の範囲の中にある人たちの世界と定義されます。


 他者を直接経験するわれわれ関係から間接的に経験する同時代人との関係への移行は、原理的には質的な差異が含まれているのですが、そのことは日常生活の自然的態度においてはたいして問題とされず、解釈や説明を要する問題となりません。その理由は、直接的に経験された他者との関わりの構成的特性が相手と別れた後においても把握され記憶されるからです。
 社会関係の結合意味が持続するということは、自然的態度の自明の中に含まれています。厳密に言うと夫婦関係にしろ友人関係にしろ、直接相手を時間空間のコミュニティであるわれわれ関係の中で経験するのは常に断続的でしかなく、絶えず同時代人との関係と交代しあうにも関わらず、それらの関係を統一ある持続的なものと見なすことができるのは、この自明さによるのです。


 いま述べた自明と、先ほど来述べてきた自明、「私と同じような構造をもった意識によって住まわれる他者の存在と、生活世界の中の諸対象が他者にも原理的に私と同じように経験されているということ」が、自然的態度の中で社会生活をしている我々にとっての基本的自明であり、個人的体験が社会認識を基礎づけることを説明する基盤となるものなのです。

中国では疫病感染のfactは国家機密だそうです

 ヒロさん日記(7/27の記事)「SARSの嘘」:恐るべきメディア・コントロールの実態 をごらんください。ここから「日々是チナヲチ」などの中国情報ワッチブログへのリンクもあります。
 特に四川でおきている正体がよくわからない感染症中国当局曰「ブタ連鎖球菌」あるいはその変種)については、「チナヲチ」さんあたりで注目し続けたほうがよさそうです(何でもなかったら儲けものです)。


 現中国政府の情報管理は、AIDSのこと(過去日記参照こちらも)もそうですが、私の中でほんとうに信じられないものに映っています。何も起きなければよいのですが、SARSの二の舞はごめんですし、当今の世界では完全に対岸の火である感染症はないと考えるべきではないでしょうか?

中共広東省委員会は当日(=2月11日)と2月14日、17日に書面と口頭による通知というかたちで全省の各メディアにたびたび警告を与え、SARSに関するいかなる情報も独自報道してはならず、報道には当局が提供するプロパガンダ原稿を一律に用いるように命じた。それと同時に、当局はSARSに関する統計数字を国家機密とし、これを漏洩した者には一律に国家機密漏洩罪を適用するとした。

SARSの死者数・患者数も国家機密ですかい?


SARSは中国が開発中の生物兵器なのだろうか? この「兵器」のいかなる数字を漏洩しても、国家機密漏洩罪が適用され、ヘタをすると10年以上も牢屋にぶち込まれるかもしれないのだから、恐ろしい話だ。


 国家機密といえば、中国と同じ共産主義国家のソ連のジョークが思い起こされます。

 フルシチョフ首相を馬鹿だと言ってしまって、ある男が「国家反逆罪」で捕まり20年の刑期を宣告された。
 獄中でいるうちにフルシチョフは失脚、解任されたので、男は釈放されるものと期待した。
 しかしいつまで経っても釈放はない。
 フルシチョフが失脚した以上、それを「馬鹿」だと言っても反逆罪はないだろうと男は看守に訊ねた。
 看守は言った
 「お前の罪状は国家機密漏洩罪に変わっているんだ」