今、声でてないんですけど、書く分には問題なし。これは風邪の終わりかけってことなのかと思ってます。風邪だとして症状めちゃくちゃで、大抵私の場合問題になる関節とか筋肉のひっかかりとかだるさがほとんどなかったのでほんとに風邪なのかどうか微妙でした。ただひとと話していて、ある瞬間から徐々に声がでなくなっていったので、やっぱりそうだったのかと今は思ってます。不便だし不自由。


 それはそうとあるところで何か悪意の発露があったみたいで、騒ぎを大きくもしたくないのでリアクションはあえてとりませんが、何かこうこういうのって傍でいてちょっとめげます。朝ちょっとネットに乗っかって、あとは今までつなぎたくない気分でしたよ。
 それでも徐々にリハビリということで、日記を書きましょう。書かないでいると、その滅入る件もあってどんどん書きたくなくなりそうだし…

倫理的判断

 昨日が締まらない終わり方だったのもあって(あとnucさんトラックバックできてなかったですね。ごめんなさい。リンクを入れるつもりが最後に忘れてました)一応昨日のつづきでも。そんなにたいして書けないけれども。


 倫理とは簡単に言えば「何が善であるか」についてのある集団での共有される認識であって、しかもそれは純粋な形式としては導けないというのが今のところの倫理学の共通する考え方です。善とか悪とかの問題について、幾何学の公理のような体系を厳密な証明によって導きたいとする方々(「厳密主義」…倫理的な命題もまた厳密に証明できるとする立場。有名どころでスピノザ、カント、ベンサム…可能性を言っただけならデカルト、ロックも)がいまして、そこらへんについてはその後のみなさんが盛んにつついて結局うまく行きそうにもないという結論になっています。ムーアが『倫理学原理』(三和書房で訳書あり)で、善は定義できないとしたのも相当諸方に影響を与えたようです。

 善とは何か(What is good?)と訊かれたら、私の答えは善は善だ、それでおしまいだ、というものである。善は、どのように定義されるのかと訊かれたならば、私の答えは、善は定義できない、これが善についてわたしが言うべきすべてなのである。

 ムーアが考えたのは、善などの単純観念は要素に還元するという形での定義は不可能というもので、これはこれで反論の余地はなく正しいでしょう。しかしそれでもなお善いものは考えられるというのはどういうことなのかという疑問は残ります。定番ではここから直覚主義とか情緒主義の話になるのですが、そこらはおいといて(笑)集団的な(言い換えれば相対的な)善という基準はあり、それがその集団を可能にしているという「卵が先かにわとりが先か」という構成がここにあるんじゃないかと私は思っています。


 きわめて簡単にいうと、私はロジカルで普遍的な倫理判断はあると思っていません。ただ個別集団的な倫理は存在して、それは場合によっては変容したり、部分的に消えたり、他の集団に採用されるなどのことはあろうと思っています。完全に相対的で閉じたものとも考えていないわけです。


 今回の大峰山入山のケースでは、普遍的な倫理を考えて(それ自体をお考えなのは問題ありませんが)その自分たちの倫理の適用を迫ったのはイダ氏側だと見えます。村人側は山上ヶ岳以外のところでイダ氏たちがその考えを広めようが戦おうがあまり関心はなかったかもしれません(その意味で普遍性は主張していない)。ただイダ氏たちにしてみれば、この山の女人禁制を許しておくことが自分たちの普遍性を犯すものと見えているのでしょう。ですから、まさに山上ヶ岳自体も問題の場所であり、戦うべきところなのだったと思います。


 というような私の読みで、イダ氏の側により大きく「押し付け」を受け取っているわけです。繰り返しますが法的次元でしたらどちらも同じ保護は受けますし、場合によってはイダ氏の側の「権利」が勝つ場面もでてくることでしょう。それは法治国家としては当たり前。ただ個人的には「普遍の主張」があまり好きではないのと、「お互いほっといてあげる」という棲み分けの戦略に共感しているところがありまして、どうにも村人に肩入れしたくなってしまいますね。で、そこで主張しているのはあくまで倫理的判断です。絶対のものではありません。


 これはおいおい書いた方がよさそうです。根っこの考えだけ少々書いてみました(舌足らずでしょうが…)。