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uumin3の日記 RSSフィード

2005-11-23

小泉批判の倫理的色調 小泉批判の倫理的色調を含むブックマーク

 私たちは生き永らえれば誰しも老います。働けなくなる時がきます。身体も思うようには動かせなくなるでしょう。そういう意味では誰もが「弱者」をその中に持っています。先の話でなくても、それこそ生殺与奪の一切を自分以外のところにおいていた赤ん坊の時もあることですし、弱者の話は他人事ではありません。盛者必衰を忘れているのは愚かなことです。


 ただし、弱者に配慮した社会を望むということと弱者中心の社会を作るということは必ずしも同義ではありません。もちろんできるだけ弱者に配慮し、社会的資源の多くをそこに注ぐという「福祉社会」を目指すのは一つの立派な理想であり、主張であると思います。ですがそれは、他の選択肢に無条件に優先する究極の理想と言えるのでしょうか?


 小泉政権批判、あるいはそのポリシーとされる新自由主義批判を行う方々は、弱者切捨ての非道な政治とそれを語ります。この語り口は政策(ポリシー)を批判するものではないような印象を受けます。むしろそこで轟々と浴びせられる批判は(無意識にでも)倫理的な悪というものに向けられてしまっていないでしょうか?

 私は小泉氏とその周辺が何か一つのイデオロギーに基づいて意志を統一して行動しているとはとても思えませんし、強烈な小泉批判・新自由主義批判に対してはどこか違和感がありました。新自由主義など所詮は政策の一つの考え方。百歩譲ってその理念的極地が自由競争にあるとしても、実際の政治の中では修正も効きますし、何よりそれを支持する人が少なければ政権は移譲され、また新たなポリシーが掲げられる…それだけのことではないかと思っています。


 政治は社会的資源の再分配という側面を持ちます。何を重視し、どこにどれだけの資源を割り当てるかという図面を引くのは、今の社会では政治の役割です。そして基本的にはすべての人を満足させることは不可能という諦観も持ちます。さもなければそれはユートピアの思想でしょう。要はどれだけ多くの人に納得してもらえるような再分配ができるかであって、政治を行う者が神に匹敵する能力を持つことは期待していません。運良く日本は民主主義国家ですので、多数が納得できない政治は投票によって換えることが可能です。本当に取り返しのつかない事態は、今まさに脅かされている生命以外のところではまずないのではないかと思います。


 新自由主義、もしくは小泉政治は非情だとよく聞きますが、社会資源の再分配が私情によって行われたらそれこそ危険です。民意によってある時期権力を任された人間たちは、それが大権であるがゆえに情などできるだけ絡めずに政治を行って欲しいと私は考えています。もちろん完璧な人間などいませんので、完璧な政治などはあり得ないでしょう。常により良い者を探す試行錯誤がそこにあります。


 一つ冷静になって考えていただきたいのは、新自由主義批判をされる方はその先の政治に何を目指しておられるかということです。私にはどうも「福祉社会」がそこに透けて見えます。つまり弱者を一人も切り捨てない、税や社会資本の再分配によって貧富の格差を極力縮める、そういった理想像がこの批判の裏側にあるのではないかと感じられます。しかしその理想が共有されているかというと、若干そうも思えない節もあります。

 批判するのよりも代替を提案する方が大変であるのは自明でしょう。批判から提案に変われば、その自分たちの理想もまた批判にさらされることになります。しかしだからこそ「小泉後」の政治を真面目に考えられておられるなら、しっかり代替案は示されなければなりません。それがなければ選択肢としては不可視だからです。それでは政治を変えることはできません。


 喉もと過ぎれば…と申しますが、高福祉社会に対してはかつてそれなりに批判もありました。いわく、高率の課税による重税感、悪平等による意欲の減衰、弱者の側にいようとするモラル・ハザード…。

 ある面、政治はバーターでしょう。手厚い福祉の反対側には税負担。安定した社会を望めば新規参入の機会は減少しますし、自由貿易を推進すれば国内産業のある部分は疲弊します。どちらの顔をどれだけ立てるかという組み合わせでポリシーが作られていきます。多様な人々の多様な利害がそこに関わるだけに、すべてを満足させることは最初から無理にも見えます。小泉政治というか、そこで何か批判を受けている新自由主義とかもこういうポリシーの一つに過ぎないと私は認識しています。その適用に問題があり、不幸になる人々が増えるならば、それを改めさせればいいのです。


 ところが、意識しているかどうかはわかりませんが新自由主義批判は強く倫理的主張の色彩を帯びています。

 それは「弱肉強食の政治」であるとか「弱者を切り捨てる政治」、あまつさえ「殺す政治」だと叫ばれている方もおります。これは普通一つのポリシーに向かって投げかけられる言葉ではありません。

 残念ながら今の私には「弱者を殺せと命ずる」ような思想が目の前に存在しているとは見えません。何か思いっきり自分の頭の中で思考実験し、思い詰めたところに架空の「悪」が見えているように見受けられます。そこではもはや政治が語られているのではなく、何か別の倫理が語られているのではないでしょうか?

 福祉社会を目指される方がいらっしゃるのは当然でもありましょうし、その声が多数となれば日本の政治がそこへ向かうというのもあり得るでしょう。それは真っ当なことです。ですが、福祉へのリソースの減少を「弱者殺し」と断定して立論するのは、意識的ならやや悪質ですし無意識なら若干的外れと言いたくなります。個別の案件で議論ができるのなら賛成もできましょうが(例えば障害者福祉法案とか介護法の運用の当否についてなど)、それを超えて語られる言葉は弱者を聖化して福祉を聖域化することにつながるのではないかと、そんな印象があります。

 冷静な議論に立ち返って、絶対の倫理を振りかざすことなく「政治」を見ていった方が、結局は自由な社会を作るうえで益があると思うのですが…。


 放言じみた言い方があったならばご容赦を。小人が閑居して書き散らした日記ですので。

速報 「はやぶさ」は着陸していた 速報 「はやぶさ」は着陸していたを含むブックマーク

 でも成功なのか失敗なのかは微妙な線です…

「はやぶさ」の第1回着陸飛行の結果と今後の計画について

はやぶさ」は、平成17年11月20日に、着陸および試料採取を目的に、第1回目の緩降下を試みました。以下は、取得されたデータとその経緯に関する速報です。

はやぶさ」は、日本時間平成17年11月19日の午後9時にイトカワから高度約 1kmの地点で降下を開始し、接近から降下、および垂直降下にいたる誘導と航法は順調に行われ、翌20日の午前4時33分に地上からの指令で最終の垂直降下を開始して、ほぼ目的とした着地点に「はやぶさ」を緩降下させることに成功しました。(中略)


当初、「はやぶさ」は表面への着陸を行っていなかったと判断されていましたが、再生したデータによれば、「はやぶさ」はその後ゆるやかな2回のバウンドを経て、およそ30分間にわたりイトカワ表面に接触を保って着陸状態を継続していたことが確認されています。これは、近距離レーザ距離計の計測履歴や、姿勢履歴データから確認することができます。(中略)

 やっと出た公式報告ですが、嬉しさ半分、なんだって〜というのが半分。

 タイミングがずれすぎです。


 しかしまあ、ターゲットマーカーの写真も取れてますし、なにより

 「はやぶさ」は、小惑星から離陸した最初の宇宙船となりました。

 それでひとまず成功と認めてもいいかなと(高飛車ですが 笑)

 静かに嬉しい…


 発表の遅さ云々は後で問題にすればいいとして、まずはおめでとう。そして再試行にも慎重にがんばってください。応援してますから。

drmccoydrmccoy 2005/11/23 12:46 小泉批判というか新自由主義批判ではたしかに「弱者」切り捨てという論調は一部に確かにあるとは思いますが、それは本流ではないと思います。uumin3さんは日頃の論調を見ても、「弱者」というキーワードにこだわりすぎではないでしょうか。新自由主義は別に弱者切り捨てだからという理由がメインで批判されているわけではないと思いますよ。中間層は別に弱者ではありませんし。結局「小さな政府」の話とかかわってくるもので、今更イギリスのサッチャーやレーガン時代の失敗をどうして後追いするのかと疑問に思っているのです。倫理とは関係ないと思いますし、そこにこだわって見るのでは本質からそれてしまうと思います。

反小泉の一般論は私はよくわかりませんが、少なくとも今までよりもっと「福祉社会」をめざせとは言っている人はほとんどいないように思います。日本はもともとそれなりに福祉社会だった、というか、日本にはもともと社会の安定化装置といえるような制度(共同体として機能していた会社、簡保、医療制度など)がいろいろあり、そういった最低限のものをアメリカの要求にしたがって壊しつつあるところが問題だと私は思っています。そして日本人に安定志向を捨てて経済のシステムをハイリスク・ハイリターンのものにしようとしているところ(会社法の改正やら郵政民営化の一部もそうですがいろんな法律ができましたし、あと竹中大臣があきらかにそういう事を奨励しています)が問題だと思います。

drmccoydrmccoy 2005/11/23 12:59 それから、倫理面から新自由主義を批判している人がいるのは確かでしょうが、すべての新自由主義批判が強く倫理的主張の色彩を帯びているかのように言うのは乱暴な話だとも思います。
というか、おかしな政策を実行しようとしていることを「けしからん」と言えば、そこには当然倫理的な観念がつきまとうものだと思います。批判というものの根底には大なり小なり倫理観がつきまとうのは避けられないというか、あたりまえの事であるとも言えると思います。

uumin3uumin3 2005/11/23 13:29 マッコイさん、だから問題だと思うのです。つまり新自由主義批判の口調は福祉社会待望の言葉の裏返しということに気付いていない人が多いことが…。
意識してそれが語られるならまだしも、相手が否定できない倫理を背景に(隠れて)批判がなされているという読みがあります。そして新自由主義批判の中核層が、倫理によりかかった批判というところにあると思っておりますので、そこへのもの言いという形をとりました。この部分が萎めば、批判の言説にさほど危惧は抱きません。

drmccoydrmccoy 2005/11/23 15:55 どうも、新自由主義の批判が、倫理うんぬんとか「福祉社会待望の言葉の裏返しということに気付いていない人が多い」というのは私にはよくわかりません。具体的に誰の事を言っているのか。新自由主義の批判をしている人のほとんどがそうだとおっしゃるなら、それは違うと思います。まあ弱者ウケを狙って意図的にそちらに話を持って行こうとしている人はいるのかもしれませんが。ただ、そうした旧来の大衆迎合的なやり方は最近では逆効果だと思いますから、心配するほどのことはないと思いますし、そんなに重要なポイントでもないように思います。

いずれにしろ、賛成の側も批判的な側も、そうした精神論・・・というとちょっと違うかもしれませんが、倫理だとかなんだとかいう部分で見るのは逆に目をくもらせてしまうんではないでしょうかね。
>この部分が萎めば、批判の言説にさほど危惧は抱きません
これは人それぞれの認識の違いなどもあると思いますが、私など、まさにこの部分がuumin3さんと認識が反対なわけです。倫理面以外の批判、福祉社会とか弱者救済うんぬん以外の部分でも新自由主義は問題だと思っています。新自由主義に賛成側も反対側も、議論するなら、倫理面や感情論以外の点で議論するのでなければ建設的な議論にはならないという気はしますね。

uumin3さんのおっしゃっている事が、「新自由主義を批判するのに倫理など持ち出すのは卑怯だ」と言っているならまだ理解できますが、どうも読ませていただくと、「新自由主義の批判は、倫理的なものを除いてしまえば、あとは取るに足らない批判ばかりである」とおっしゃられているような気がして、ちょっとどうかと思いましたので、しつこく長たらしいコメントで失礼します。

uumin3uumin3 2005/11/23 18:27 政策に対する批判があるのは当然でしょうし、それよりもっとこうするべきだと言われるのは建設的です。その類の論争はむしろ見てみたいと思う方です。選択肢は広がります。
でも多くの新自由主義の批判から「弱者」という言葉を抜いたり、倫理的に許せないという感情を抜いた場合そこに残るのは何でしょうか?
私はそれが通常の(というか当たり前の)福祉主義ではないかと思うのです。それならば議論にもなります。今福祉を優先させるべきか否か。どれくらいそこに重きをおくか。これは政治的議論です。
まあ、そういう普通の議論ができるようになればいいなと思っているだけでして…。もしそんなんじゃない、と自分の主張を明確にしてくれる人が一人でもいたら、それはもう収穫です。