イダヒロユキ氏の内田樹氏批判

 ブロガーとしての内田氏の文は好きです。内容には肯えないときであっても、文体としては好ましく思います。またこの頃は内田氏批判の文を読むのも結構好きだったりします。自分の気付かぬ側面からの突っ込みなど、批判の当否は別にしても興味深いです。


 さて、そんな内田氏の「1999年当時のフェミニズム批判」を批判する御説をたまたま目にしました。
 ソウル・ヨガ(イダヒロユキ)「内田樹氏の「フェミ批判」を批判する---バックラッシュ状況の中で考える」です。
 1999年あたりの内田氏の日記(ブログ化以前)は私が最も好むあたりだったりします。そこにどう突っ込みを入れているのか、とても興味がそそられましたが…論になってないです。申し訳ないですが個人的には失望しました。まあ感想や不満、好悪の感情だけを書くサイトもありだとは思いますが、大上段に批判と銘打っている割にはまったく議論になっていない感を受けました。


 最もいけないのは、筋道立った「自分のフェミニズム理解」が何も語られていないことでしょう。内田氏のフェミニズムに関する記事には、簡単ながらも(論文じゃないですから)彼のフェミニズム理解やその周辺の見取り図が描かれています。だからこそそれは論として批判もできるのです。
 しかしイダヒロユキ氏は、「わかってねーよ」「だれもそんなこといってねーよ」「話を勝手にずらすな」と言いつつ、自分のフェミニズム理解については驚くほど何も語っていません。これではろくに揚げ足すら取れていないのではないかと見えます。

…ああ、この人はダメだなと私は思う。それは私の嗅覚・直感だ。(内田氏は、私のこのような反応こそ「正義の人」のスタイルだというだろう。)このあたりの感覚がわからない人には、何をいってんだと思う人もいるだろう。
 でも、今の時代に何かしら社会運動をしている人の多くは、内田氏のこうした文章に、胡散臭いものをすぐにかぎつけると思う。

 結局のところ体験主義なのかとも思えますし、何よりこれは自分の話をニュアンスでわかってくれるはずの仲間内に向かってのみ書かれた文章ではないかと思えます。


 それにしてもイダヒロユキという名前には何処かで聞いた覚えが…と思っておりましたら、

 そういう人だから、「大峰山」の「女人禁制」を批判する運動にもかみついた。何も実態を知らないのに、運動に参加した人をバカにした文章を書いた。サイト荒らしを支持し、バックラッシュ的な動きを促進した。(これについては、後日別稿で書きたい。)

 ここではたと気付きました。この人は昨年いくつかの記事で触れたことがある

「女人禁制の大峰登山目指す」
 女人禁制を守る修験道の根本道場、奈良県天川村大峰山(山上ケ岳)の開放を求める市民らが2日、心と体の性が一致しない性同一性障害の男女らと3日に大峰山登山を試みる、と発表した。呼び掛け人の1人で立命館大非常勤講師の伊田広行さんは「男女の性の境界があいまいな現代における『女人』とは何かを問題提起し開放に向けた議論を深めるきっかけに」と話している。約30人が参加する。
[共同通信社:2005年11月02日 21時30分]

 あの伊田さんでした。
 そういえばこの問題に関して内田氏は記事を書かれていましたね。当時の私は、この記事での内田氏のスタンスに(少なくとも伊田氏サイドより)かなり近いものでした。この記事に書かれたことを伊田氏はまだ拘っておられるご様子。でもそれで批判を書くにせよ、きちんと論で書かなければ結局逆効果でしょう。


 また伊田氏は内田氏を

 ここで、ああ、そういう人なのねとわかってくる。左翼とか人権とかが嫌いなのである。

 とラベリングしておいでですが、『9条どうでしょう』などの本を最近お書きの内田氏が単純な左翼嫌いであったならば、いったい何をもって日本のリベラルというものを考えたらいいかわからなくなって参ります。さらに

自分は、大学の先生で高収入でもある。日本いいじゃん、というわけだ。 論文や講義や本で少し右翼やサヨクや政治やメディアを困ったものだと批判していれば、自分はえらいと思っている。

インテリって、いやーな感じだ。

この程度のことを述べて悦に入るのが大学の先生のダメなところである。

 という言い方で内田氏を語りますが、あの大峰山の時「立命館大非常勤講師」ということでメディアに出ていた方がこういうことを言われても…。ご自分は「活動」「実践」しているから違うんだとお思いなのでしょうか? こういう印象操作じみた言葉を並べるより、御著作が何冊かあるような方でしたら、やはり議論で何事かを語って欲しかったというのが正直なところです。


 そして何より伊田氏は内田氏を「スピリチュアルであるようなところとまったく対極なのだ」と批判し、ご自分はスピリチュアリストと広言なさって

 だから私は、スピリチュアルという私の価値観を示す概念を入れた。わかる人にしかわからない概念だが、内田氏には、スピリチュアルな感覚が全然ないから、こうした「恥ずかしい自分」が恥ずかしいと見えないのだ。

 とまでおっしゃるのですが、大峰山側に対し以下のような質問書を提示された伊田氏が、どのような意味であってもスピリチュアリストを名乗られるのはとても不自然に思われるのです。

質問書 
1 「大峰山」に女性が入山してはいけない理由をお聞かせください。「伝統である」という場合の、その伝統が作られた理由(なぜ「女人禁制」にしたか)を教えてください。文書があれば、それも教えてください。 
…
10 男性同性愛の人は、入山してもいいですか?女性同性愛の人は、入山してもいいですか?  
…
16 男性が修行するのに、女性はジャマですか。 

17 「大峰山」に関わる修行するもの、宗教者、修験者などの中には、結婚されている方もいると聞いていますので、性交渉(セックス)自体の否定はないとおもいますが、では、「大峰山」の中で性交渉することはどうなのですか? その理由も教えてください。 また修行に行く直前に、あるいは修行を終えて下山してきた直後に、「大峰山」のふもとの宿の中で性交渉することは戒律上どうなっていますか。 

18 山の上で、男性どうしが性交渉(セックス)するのはいいのですか? 登山者やハイカーの場合はどうですか? 

19 山の上で、マスターベーションをするのはいいのですか? また山の上にポルノ雑誌を持ち込むことはいいのですか? 登山者やハイカーの場合はどうですか?
… 

(抜粋。全文は過去日記に)

犬が死ぬ夢

 夕べはいやな寝汗をかいて、変な夢を見ました。筋立ての中心は「死」だったような気がします。わんこを家(なぜか実家)において、私は(親戚筋の?)葬儀を手伝いに出ていました。あれやこれや準備をしているうちに実家の方からも人が来て、その話ではどうやら犬が死んでしまったらしいとのこと。そこらへんで、ああそういえばわんこは車にぶつかって、それで家においてきたのだったと後付の理由を思い出し、死ぬこともないだろうと家においてきたのはいけなかったかと反省。わりに冷静に犬の死を受け止めているなあと他人事のように自分の気持ちを見つめていました。


 それで四時ごろ一旦目を覚ましたのですが、気がつけば漬物石のようにどてっとうちの犬が布団の上に(頭を下向きに、私の身体に並行に寄りかかるように)横たわっていて、私の足は布団の右三分の一ぐらいのスペースしか動けないようになっておりました。夕べは妙に生暖かく湿った夜でしたが、犬の体温で布団の中の温度は10度ぐらい高かったんじゃないかと…。


 夢は逆夢と申しますし、葬式の夢は吉夢とされることも多いので心配はしておりませんが、これから暑くなっていく時期に、知らないうちにのしかかられていると悪い夢をいくらでも見そうだと、それだけは心配です。