姥の物語

 antonianさんが■[芸術]女の業という記事で、子猫を殺した坂東眞左子さんのことから発展させて、文学のある側面について書かれています。

 女の業。女の鬼畜の典型というか。古典的な女の業。

 というところでantonianさんは作家坂東眞左子の一面を把握し、そしてそれゆえに評価できるところがあり、作品に反映するその女の業の「凄さ」を無視できないとされておられるようです。

彼女らの作品に相対する時のあの深遠をのぞき込むような感覚。或いはフリーダ・カーロのごとき痛々しい自分語り。「見て見て私はこんなにも痛いのよ。」的な。正直拒絶感を伴うと共に、しかしまた見てみたいと思わざるを得ない暗黒の深遠さ…

 この記事を読んではっと思ったのですが、もしかしたら「一ツ家の姥伝説」、そこに出てくる姥とその娘というのは「女の中の葛藤」というものではなかったのでしょうか…

「一つ家の石の枕に旅人を殺したという姥の物語」について

 これは「浅茅が原ひとつ家伝説」として知られるもので、舞台は金龍山浅草寺の東側一帯です。かつてここは武蔵野の東南端にある荒れ地で、茅が生い茂り、沼沢が散在し、付近にはわずかに浅草寺一宇建っているのみの寂しい場所でした。現在の東京都台東区花川戸1、2丁目から浅草6丁目に相当します。


 この話の初出は、道興准后の文に現れるものとされます。道興は左大臣近衛房嗣の子息、関白政家の弟で、大僧正から聖護院門跡にのぼり、准三后となりました。彼は室町時代の文明一八年(1486)に若狭から北陸、越後から関東、東北に足をのばし、同年十月『廻国雑記』という紀行文を書いた人です。その紀行文の中で、浅草寺の辺りの「石枕」の話が採り上げられています。

この里のほとりに石枕といへるふしぎなる石あり。そのゆゑを尋ぬれば、中頃の事にやありけむ。なまさむらひ侍り、娘を一人持ちはべりき。容色おほかたよのつねなりけり。かの父母、娘を遊女にしたて、道ゆき人に出でむかひ、かの石のほとりにいざなひて、交合のふぜいを事としはべりけり。兼ねてより、あひずの事なれば、折をはからひて、かの父母、枕のほとりに立寄りて、ともねしたりける男のかうべをうちくだきて、衣装以下の物を取りて一生を送り侍りき。
さるほどに、かの娘つやつや思ひけるやう、あなあさましや。幾程もなき世の中に、かかるふしぎの業をして、父母もろともに悪趣に堕して永劫沈淪せむ事のかなしさ。先非を悔ひても益なし。これより後の事さまざま工夫して所詮わが父母を出し抜きて見む、と思ひ、ある時道行人ありと告げて、男の如く出立て、かの石に臥けり。いつもの如く心得て、頭を打くだけし。急ぎ物ども取らむとて、引きかつぎたる衣をあけて見れば、人独なし。あやしく思ひてよくよく、見れば、わが娘なり。心もくれまどひて、あさましともいふばかりなし。それよりかの父母すみやかに発心して、度々の悪業をも慚愧懺悔して、今の娘の菩提をも深くとぶらひはべりける、と語り伝へけるよし。古老の人申しければ、


つみとがの尽くる世もなき石枕
さこそはおもき思ひなるらめ


 当所の寺号浅草寺といへる十一面観音にてはべり。たぐひなき霊仏にてましましけるとなむ。
(『廻国雑記』)

 どこまで実話だったのでしょう。娘に春を鬻がせ、それに引っかかった旅人を殺して金品を奪う父母がいたという話です。娘があまりのその非道、惨さに耐えかねて、自分がその引っかかった男の振りをして石に寝、両親がいつものことと心得て殺してみたらそれはわが娘。それで気付きを得た両親は発心して娘の菩提を弔い、娘が寝ていた石が石枕と呼ばれるようになったという浅草寺の辺りの土着伝説です。


 この話が江戸時代に入るとさまざまなヴァリアント(異文)を生みます。一つ注目すべきは、その数々の異文が皆「姥」と「娘」の物語に変わっているところです。

浅草野辺の彼一ツ軒の口碑に伝ヘたる鬼をもあざむく老姥あり。一人の娘を持ちけるが、親の鬼姥には似もやらず、みめかたちの美しきのみかは、心ざまも最やさしく、世にもまれなる孝女なる。此鬼姥、此娘を餌として宿取りおくれし旅人を留めて娘をもて酌など取らせけるゆゑ、旅人も興に乗じてうつつをぬかすもありけり。宵には娘を旅人と添伏さして寝静るを伺ひ、大なる槌をもて旅人の首を打ってうち殺し、持参せし荷物衣類を奪ひ取りて活業とす。娘これをかなしみて度々異見を加ふるといへども天質得たる悪業なれば耳にも更に聞き入れねば、言甲斐なくも其侭月日をおくる其中に、姥のために計られて、彼悪計に玉の緒の命を落す旅人の其数凡九百九十九人に及べり。娘はそれとも心付かねど、母の邪見を直さんため、亦二つにはおのが身の罪障消滅あらんことを観世音へいのりけるが、前世の宿業悪かりしにや、終りをよくするまでには至らず。或時、娘は例の如く母にせかれて夕化粧涙もてとく白粉も、不二にはあらぬかりがねの、額ににじむ空の色、しぐれに宿を乞ふものあり。いかなる人やと娘は立出で、障子の間よりうかがひ見れば、二八計りの美少年美服著たる姿なり。斯くと見るより心のときめき止めたくもあり止めかぬる娘が心のやるかたなさに引かへて、情もしらぬ主の姥は、はやくもこれを見留めつつ、心に笑をふくみながら姿形もうつくしければ、懐に物あらんとて最喜びて留めつつ頓て娘と添ぶしさして終夜これを伺ひしが、慥に娘は納戸のかたへ身を隠すと見てければ、折こそよけれと寝間にしのび、密に是をうかがへば、石の枕にすりかへあり、さては娘が心ききていつもの如くなせしよと例の槌を振上げて無慙にも打殺し物とらんとあかしを携へはじめてこれを能く見れば、児にはあらで我娘なり。姥は忽ち悪鬼の如く炎に等しき息をつき、偖は児めに計られしか、左なくば娘が少年の色情にまよひて身を代りしか、餘りといへばうつけにもいと口惜しといきまけど、亦今更に詮方なく、足ずりする間に夜は明けたり。是年来の積悪をこらさんために、観世音の児と化現し給ひしとは知らぬ悪姥は、家中を荒し戸もあららかに蹴はなして、西を東と駈けめぐり、児の行衛を尋ねしが、葭蘆繁る古池に児の姿の見えければ、おのれ娘の仇なりといひつゝ狂気やしたりけん、深さ浅きの瀬も知らず、身をおどらして池水へさかしまにこそ飛入けれ。これしかしながら、悪報と衆生済度の方便力にて姥は自滅をせしなるべし。今も中田に小池ありて姥ケ池とぞ呼びなせり。
(『金龍山海潮音記』の初篇上)

 この話では浅草寺観世音菩薩の利生譚という側面がはっきり出て参ります。また、九百九十九人を殺した後の千人目の美少年(笑)、そしてそれに恋してしまう娘、という物語要素が付け加えられます。そして姥は観音様のお力で、悔いるというのではなく自滅して果ててしまいます。(ちなみに「二八ばかりの美少年」は28歳ほどの〜ではなく、2×8=16歳ほどの〜、でしょうね)


 欲に取り付かれた「姥」と人の心を持つ「娘」の葛藤。そして「姥」の自滅。何よりこれ以降の物語には、実は肝心の石の枕のことがまったく中心の話題ではなくなっています。 元の伝説が伝えようとしたものが、ここに来て全く異なるものに変わってしまっているということの暗示ではないでしょうか。


 怪異物語を多く残した浅井了意撰の『江戸名所記』第二の浅草明王院附嫗淵の項になりますと、観音様の笛の音が和歌として聞えるという話が加わります。また姥は竜王の化身だったということにされ、それに姥が死んだ淵の水は咳の病に効く、などというご利益が語られたりもしています。

浅草寺のうち明王院の嫗が淵はいにしヘこの所に人里まれにして旅人道に行暮やどをもとむるにくるしめる所なり。野中に柴のいほりありて年老たるうばわかきむすめと二人すみけり。旅人行暮て此のいほりに立より宿をかれば嫗すなはち夜のうちにその旅人をころす。かくて九百九十九人をころしけり。然るに浅草の観世音ぼさつこれをあはれみたまひ草苅に現じて笛をふきたまふ。そのふえの音をきけば


日はくれて野には臥すとも宿からじ
あさくさてらのひとつやのうち


 旅人この笛の音を聞きつけてあやしく思ひこの庵りに宿はかりながら宵の寝所かへてふしけるを夜ふけてあるじのうば ひそかに宵のねやに忍び入てみるに旅人なし。
 うば大におどろきあやしむ体にてわかふし戸に立かへりしかば 旅人は夜のうちにかの庵をにげ出てあしにまかせてのかれゆき いのちをたすかりぬ。これひとへに観音の御利生なり。
用明天皇の御宇三月十六日に浅草の観音うつくしき児と現じ この庵に来て一夜の宿をかり給ふにむすめはなはだ愛まよひてみづから此児のふしたる所に忍び来り寝臥けり。嫗ひそかに来りてかのちごをころすとおもひて、わがむすめをころしけり。それより大に歎き悲しみて ついに本体をあらはしてそのたけ十丈ばかりの大龍のすがたとなり龍宮にかへりぬ。これ沙竭龍王の化身として嫗とあらはれ観音の御利生をあらはさんためにかゝる御はうべんをめぐらしたまひけり。かのうばのりゆうぐうにかヘりしところ今に淵となり嫗が淵と名付く。白川院御製に


武蔵には霞の関やひとつやの
石のまくらや野寺あるてふ


と詠じたまひけるも かの嫗がすみけるひとつやと 浅草の観音おはします野寺の事をよみたまひしと申つたへたり。
今は人の家居たちつゞき軒をならべてにぎやかなり。のち浅草の寺内院宇おほくたちて明王院もはじまれり。子どもの嗽入てわづらふ時は竹の筒に酒をいれて木のえだにかけ うばが淵にいのれば 咳嗽の病たちまちにいゆる也。池のはたに洞あり。その洞の両方は小篠しげれり。


風ふけばささ波たつやうばが淵
水のおもてに雛のよりつゝ


(『江戸名所記』)

 浅井了意は江戸時代初期の人で、怪談集『伽婢子』などを著したのが寛文六年(一六六六)です。この頃には浅草寺境内が浅草寺の東側の浅茅が原まで広がり、嫗が池の所に明王院まで建ち、「人の家居たちつゞき軒をならべて賑やかなり」という景観に変わったものの、いまだに池沼があって嫗が淵と名付けられ、ひとつ家伝説は名所伝説的に人の口に乗っていたと考えられています。


 業が深く欲に取り付かれた「姥」、そしてその美しい「娘」という二人の葛藤として描かれたこれらの話は、実は一人の女の中での二つの側面の葛藤として人々に受け取られるようになったのではないか。これが私の思いつきです。それゆえ最初の伝説の中の「父親」パートは切捨てられたのではなかったでしょうか。
 いつまでも心の中に鬼を飼っている女性に人の心を取り戻しなさいと訴え、物語の中の「姥」の自滅で、それが可能なんだというところを教える。この物語が何より伝えたかったのは、そういう話だったのかも…


 ちなみに姥が淵が咳の病と結びつくことに関して柳田國男は、
・諸国の姥ヶ池、姥ヶ井伝説には、「子ども」の「咳」の治癒の功徳が語られるものが多い
・咳を鎮める神への信心に、三途河の婆等の話が絡むことがあり、十王も同様である
・これは三途河の婆、奪衣婆と姥神の関連で考えられよう
・姥神は「せき(関)のおば様」だから「咳」に利くという話がある
・「関の姥」はすなわち道祖神で、即ち「咳の神」だとするのは説得力があるがそれだけではない
・姥神といえば子を愛する神という信仰が古層にあったのであろう
 という推測をしています。(柳田國男『妹の力』所収、「念仏水の由来」)


 柳田が資料を収集した当時の「江戸三十三カ所観音第二番」(明王院)縁起も、先の『江戸名所記』とほぼ同工異曲の話を伝えていると記されています。 また姥が池が埋め立てられ、その碑が近くの公園内に移動する以前には、都市跡としての立札があったそうです。

「姥ケ池立て札」
往時この辺を浅茅原といい、浅草の名もこゝから起ったと伝えられる。推古天皇の頃、原野の一軒屋で姥と姫が盗賊を石の枕を用いて滅し、その数千人に満たんとする時に、姥は竜王に、姫は弁財天に化して身を池に投じたと言う伝説に由来する

 現在はこの立て札は無くなって、『廻国雑記』記載の石の枕伝説を略記した看板が立てられているとのことです。

参考文献
笹間良彦『鬼女伝承とその民俗』雄山閣、1992
柳田國男柳田國男全集11 妹の力』筑摩書房