だがちょっと待って欲しい(子猫殺し問題エントリー 楽屋裏)

 bluepinkさんのこの記事(■犬猫に生存権はあるさ。でも「苦しむか」だけを基準にしていいの?)からトラックバックをいただいております。何と申しますか「自分の表現力のなさ」を嘆くべきなのでしょうか、あまり伝わってないなあと、連続して書いたのは無駄だったのかとちょっと精神的に疲労を感じてしまいました…OTZ


 bluepinkさんのご意見はリンク先をご覧いただくとして、私が22日から24日にかけてどう日記を書いたか簡単に触れます。


 まず、坂東眞砂子日経コラム(子猫を間引いている…)を知りました。そこでこのコラムの論旨や書き方では批判されるだろうなと考えると同時に「母猫を避妊させる罪と子猫を殺す罪の比較」という点で、強いひっかかりを感じました。(これが21日ぐらいでしたか)
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 それでちょっとだけ書こうとしましたが、いろいろ書き付けてみても何か自己弁護じみてみたり(私も犬を避妊させていましたから)、直接のコラム批判になってみたり、こういうものが書きたいんじゃないという気持ちが拭えませんでした。(いろいろ没)
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 で、他の方々はどう考えておられるのか、あちこち見て回りました。21日の時点ではまだ猫記事はそれほど多いものではなかったと思います。
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 ここで、orochon56さん@なんでかフラメンコの[考察]可愛くなければ殺してもいいのか、という問題という記事に会います。

 この手の話を猛烈に批判する人は、猫殺しがダメでゴキブリ殺しがアリとされる矛盾に気がついているのだろうか。

 というorochon56さんの言葉に対して、いやそれは猫が可愛いから殺してはいけないとかゴキブリは可愛くないから殺してもいいんだという話じゃないですよ…と言いたくなりまして、「哺乳類を殺すことと昆虫を殺すことは等価でないと考える理屈がある」という記事を書き始めたのです。
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 ところがそれを書き始めてみると、そうかと自分で思うところがありました。生(なま)な感情、生な批判を紡ぐということでなく、今自分が書きたいこと・書くべきこと・書けることは(坂東氏のコラムを一旦棚に上げて)「生命倫理」のことを書きながら、自分が何に引っかかっているのかを考えのままに出してみることだと思ったのです。
 それで書き上げたのが■[倫理] 子猫を殺すことでした。
(orochon56さんは何だかご自分で他の方の記事に得心されたようで、今さら感がありましたので直接の言及はいたしませんでした)
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 次の日にかけて、antonianさんやnucさんはじめいくつか考える材料としてのトラックバックがあり、続きを書かなければなあと思いながら、まず前日の補足として■[倫理] 妊娠中絶についての生命倫理学的議論をアップしました。仕事絡みでもあり、生命倫理学関係は調べて書き付けたファイルが結構ありますので、これはちょっと手を入れただけでそれほど手間をかけずに出したものです。
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 23日の夕方には、nucさんなどに代表される(ような)「間引きって結構あったのでは?」系のご意見に、■ドナドナで思うところを述べ、それにちょっと没原稿の段階で入れようと思っていた日本書紀の一節もついでに入れ、これも「線引き」の難しさを示す資料になっているなあと思ったり…。
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 そして、この問題に集中的に関わっているうちに思いついたこと
「なぜちょっと前まであったような間引きの当然視を忘れ、子猫が殺されるのを問題視する人がこれほどいるのか」
 という問いに対する自分なりの答えを書こうと、■猫の人格・犬の人権を書き始めたのです。
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 それは、たとえば「人種的平等に正義を感じる心…弱者への配慮の心」などが強く言われるようになったことで象徴されるような時代の風潮として、人権意識が(ひそかに)拡大し、それが近代社会での動物愛護の方向に行っているのではないか、という暫定的な考察です。
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 この「人権意識が擬似人格にまで拡がる」という脈絡をつなぐものが、引用したベンサムの言葉でありますので、私の議論はこれをはずしてどうにかなるものではありません。(だからこそそういった主旨がbluepinkさんに全く伝わっていないようで、ダメージがあったということです…)
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 もっともこの記事については、最後に延々と中野孝次『犬のいる暮し』(文春文庫)及び犬小説『ニキ』の紹介を書いてしまい(だってすごく感動を伝えたくなったのです)、全体のまとまりとしてはおかしなものになってしまっています。でも商売ものの文章ではないですから、そこらへんは深くも考えずに書いてアップしてしまいました。


 こういったところが「楽屋裏」です。これを書くのは不粋すぎますし、書いたものはすでに私の意図を離れた意味を持つものになっているのかもしれませんが、それこそbluepinkさんのように

 …5つの人格基準は一部の中絶や嬰児殺しを正当化するために作られたものでしょう。 「だけど犬なんかはクリアしてるように思われる。だから動物の一部にも人権を認めてもいいんじゃないか」

 という「主張」を私がしていると思われてしまうような拙い表現をしているとすれば、そこには忸怩たるものがございますので、あえて恥を忍んで楽屋裏を書き連ねた次第です。

追記

 25日に書いた■姥の物語は、antonianさんの記事に触発されて書いたものですが、直接には「子猫殺し」と関係ないと(自分では)考えております。ですから木走さんにご紹介いただいて、関連のものとしてお読みになる方が多いかとも思いますが、上の楽屋裏には入れておりません。

下のbluepinkさんのコメントにお答えして

 犬猫に「人権」というのはまずおかしいじゃないですか。それなのにそこに人権的なものを見てしまうのは、隠された形でいつの間にか「人格(person)」の(定義の)拡大をしてしまっているのでは? というのが元記事の言いたいことの中心的な筋です。
 私は引いたところの人格基準に全面的に承服しているわけではありません。それは、中絶問題のリベラル派に対する批判に共感的としたところで明らかなのではないかと考えます。ただこの人格基準に納得する人は一定数以上いるという判断もありますので、24日の記事においてはこれを(そうした人たちの)説明原理として採用し、状況を推論したということです。ですからもしbluepinkさんがこの部分に「共感しねーよ」とお思いになったとしても、それはあなたがそうした人たちでなかったというだけのことです。
 またbluepinkさんは思想史的な人間中心的な議論*1、そして理性中心主義的な議論という側面を御存知でしょうか? それらは(私的にも)すでに説得力をなくしつつある過去の議論であって、今さら「理性」だ「言語」だというところで人間を特別視するという線へ戻ることに大きな意味があるとは思えないのが正直なところです。こういう人間中心的(anthropocentric)な議論がまず近代に至るまであって、それがひっくり返されてきているところに、何らかの近代の変容(もしくは近代後の展開)がありはしないかと考えるところが私の問題意識にはありまして、それをお汲みいただけなければ話がかみ合おうはずもないのかなあとふと思いました。
 犬好きとしての私の個人的な心情は確かにあります。でもその個人的な気持ちから演繹して議論を立てているわけではないんです。いくら犬好きだからとは言え、無条件に「犬に理性やコミュニケーション能力を感じ」ることはできません。実際のところ「理性」を語ること一つとっても、その背景には多くのああでもないこうでもないという議論の積み重ねはあるわけです。それを無視して語るというのは、私の任ではないですね。
 bluepinkさんが私の論を批判する上で考えるべきは(批判は当然あってしかるべきと考えますが)、コメントで書かれたような筋では少なくともないと思います。むしろご理解いただけていないと私には感じられ、それが多数の人にも言える事ならば非常に悲しく思うのです。

*1:「人間が自我の意識をもつ人格であることが人間を動物や物(=Sache,物件)よりも上位のものとしている」(カント)や「動物機械…動物は無感覚で非理性的な機械であり、動物は時計のように動くが痛みを感じることができず、動物には精神がないので危害を加えられてもそのことを感じることができない」(デカルト