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uumin3の日記 RSSフィード

2008-02-03

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 昨日は休日出勤だったこともあって疲れがとれたような気もしない雪の日。ぼた雪が降ってますね。

 おとといぐらいに読んだ記事でかなり気になるものがありまして。

 →人権教育は、ありえない

 というものなんですが、いえ突っ込みどころは満載で、でもそれを突いて否定するというだけではもやもやしそうだったので…。何が一番気になるのかというところを考えてみたら、

…わたしにとって、授業にならない教室というものは、とても自然なことだと おもえる。50分も席に すわりつづけるなど、すべての人間が できることではない。あたりまえのことだ。


ではなぜ進学校では、だいたい みんなが授業に参加できているのか。それは、学生を選別したからだ。

 という視点が、自分の考えたこともないものだったからなんだろうなと今考えています。突っ込みは取りあえずおいておいて、この考え方は正直したことがありません。時代的なことや地理的なことでもあるでしょうが、私は地方の普通の小学校に行っていたわけですが「授業を邪魔するようなあり方」をする子は当時全然見たことも聞いたこともなかったです。かつてちらっと書いたこともある学習障害があったかもしれない同級生*1を含め、興味がないなら上の空というのはあっても、授業を成り立たせないようにしてしまう子供も動機も当時の私や私の周囲には見当たらなかったし思い当たらなかったものでしたね。

 もちろんいろんな友達がいて、何かのはずみに授業を放棄して裏山に逃げ込んでしまった子もいたなあと今思い出していますが(その時は大人が大勢青ざめて、半日ぐらい授業はつぶれました)、誰かが普通に授業を受けたいと思っている以上その邪魔はすべきではない…という感じで大学あたりまで思ってきた自分は、よほど「飼いならされて」いたのかとふと思ってしまいました。(当然大学に入っても、出たくない授業は黙って一人で休むという感じでしたし…)

 それこそ「校内暴力」云々の話も(あれは80年代でしたか)、自分は全くかからずに大学まで行っていますので生の状況としては知ることがないものでした。もちろん「学級崩壊」の話になりますと、それがどういうものなのか想像するのにかなり苦心したことも憶えています。

 ですから

 わたしにとって、授業にならない教室というものは、とても自然なことだと おもえる。

 とかいう表現は実にインパクトがあるもので、それでどうにも心に残ってしまっているのではないかと…

 当事者かどうかは微妙なところですが、自分では全く意識してもいないところで「お前は排除(選別)してきたのだ」と言われているようで実にアジとしては訴えかけるものがありました。

 「かんがえてみていただきたい」

 と言われて、本当に考えてみたくなる力をこの文に感じます。何を考えるかはそれぞれでしょうけれども。


突っ込み

 それで突っ込みのポイントも少し記しておきます。私が一番大きい問題だと思ったのは、この文で「教育」が即「学校教育」としか考えられていない点です。これではあなたが言っているのは教育の問題ではなくて学校の問題だろうとすぐ言われてしまいます。制度としての「学校」についてはいろいろな論考もあります。でも家庭教育や社会教育を全く考えもしない教育論というのは見たこともないですし、それだけで「勉強しなおしておいで」とか言われそうでそこはとても残念なところ。

 それから、ここで言われている「選別」ということと「人権」ということの関係が実はよくわからないのです。勢いで、話し言葉で聞けばつい頷いてもしまうかもしれませんが、実は「人権を守る」ということと「一切の選別を許さない」ということにはかなりの懸隔があります。それぞれが自分なりの人権概念を持つことは自由ですが、他者を説得するためには自分の考えている「人権」をもっとよく考えてみることが必要でしょう。なんらの条件を考慮せず「一切が平等であるべき」という考えは、むしろ宗教的な概念であるように私には思えます。


教育

 教育とは何であるか、という考え方にはその人が考える「人間とは何か(どうあるべきか)」というところが大きく関わってくるものだと思います。ですから未だまとまって簡潔な形での「教育とは何か」という答えは出ていません。

 たとえばそれを馴致という面で強く捉えたデュルケイム(E.Durkheim, 1858-1917)の考え方に照らせば

 教育とは、成人世代が社会生活に未熟な世代に対して及ぼす作用である。教育の目的は、子供が将来参加するであろうところの国家社会や、特定の社会集団などの要求する一定の身体的・知的・道徳的状態を子供の中に出現させ、かつ発達させることにある。

 …一口でいうと、教育とは若い世代の方法的社会化である

 私が気になったこの記事に書かれている内容など一顧だにされないものになってしまうでしょう。


教育は人権侵害を前提にする?

 ご自分にとっては「自明」でも、ここの部分を説得的に再考していただきたいなあと、もったいないなあと私には思えます。何があなたの言う「人権」なのか、私のようにその「選別された」側で人権教育を受けてきた者にわかるように言えてこそ本当にそうした連中を動かすことができる言葉になるんじゃないかと考えます。

 ちょっと気持ちを動かされるものを感じたからこそ、こう言いたいですね。

*1 特殊学級の改称 という記事です

antonianantonian 2008/02/04 03:23 お久しゅう。
面白い記事のご紹介ですね。
元記事。静かに授業を受けたい人の人権がないがしろにされてる状況とかはどう考えるのかな?などと思ったりしました。教えるという行為が出来ない先生の人権とか。

野放図であることを承認するというのは、平等でも、多様性の容認でもないですし、平等といわれるものを目指す宗教だって、実は多様性を容認してるわけではなく、個々の教団の中でローカルルールを設けてますよね。(カトリックなんて「教会法」なんてのがあり、裁判所まであるんだよな・・・。)

ガッコは50分の授業を受けられるようになる訓練も含まれていると思う。じっとしていることがすこぶる困難である多動性児だと小学校のときに認定されたわたくしが、そう断言するですよ。訓練されたおかげで90分の授業でもじっと出来るようになった。

uumin3uumin3 2008/02/04 14:39 お久しぶりです。
平等云々のところで頭にあったのは「一切衆生悉有仏性」(涅槃経)とか「山川草木悉皆成仏」とかいうものでした(笑)

私が知りたいと思っているのは、おっしゃる「野放図」なところを求める声が、ほんとうは何を望んでいるのか?といったあたりかなと自分では思います。それは平等なのか、自由なのか、あるいは駄々っ子の要求なのか、共感に値する主張なのか…といったところですね。
以前大検予備校みたいなもの(今なら高認予備校でしょうか)にも関わっていましたが、彼ら/彼女らの根っこのところの欲求には届けなかったような気がしています。そうした子が「馴致」になぜ馴染めなかったのかといったところを知るより、自分でその場でできることをしていこうと思っていた(していた)ので、今思えば少し心残りになっているようです。一人、二人とはじっくり話せましたが、あまり距離感を崩すとお互い辛くなりそうで、あの頃は踏み出せませんでしたから…

あ、それから、もう島にお戻りなんですよね。お時間がある時で結構ですのでuumin3@yahoo.co.jpによろしければご一報を。私も忘れかけてましたが、お送りしようと思っていたものがありましたので(連絡先がわからないのです…)。

hituzinosanpohituzinosanpo 2008/02/05 14:51 こんにちわ。言及ありがとうございます。

わたしは成人の知的障害者の入所施設で生活支援員をしています。まだ みぎも ひだりも わかっていないのですが、とにかく最初に おどろいたのは、「みなさん、従順だなあ」ということです。統制が きいてるなあってことです。

教育を「社会化」の手段とするなら、入所施設に いれられたひとたちは、教育に失敗したからなのでしょうか。失敗した教育者の責任? それとも、学習者の責任? そもそも養護学校に かようようになったのは、なぜ? 養護学校から施設へという ながれは、あたりまえなことなの? と、こたえなんか しらなくて、ただ疑問ばかりが あたまをよぎります。そして、みんなに ききたくなります。そういう、「こどものような」ことを、わたしは したいのです。説得だとか、そんなことには興味はありません。ですから、「実にアジとしては訴えかけるものがありました」と いっていただけたことに、たいへん よろこんでいます。ありがとうございました。

uumin3uumin3 2008/02/05 18:59 コメントありがとうございます。あなたの記事が、また別の見え方をしてくるように思っています。でもとりあえず、お聞きになったことに答えたいと思います。
デュルケイムを挙げたのはあくまで例でして、私がそれと同じ意見を持っているというわけではないのですが、しかし確かに馴致という側面が学校教育に重くあるということは考えています。だからこそこの例を選んだといいますか、hituzinosanpoさんの意見にぶつけてみたかったということはありました。
さて「入所施設」ですが、それは教育施設であるよりまず隔離施設のような意味合いを(社会的には)持っているんじゃないかという考えです。ただ、そうした施設に関わる人たちが(昔から)それでいいと思ってきたわけでもないことも認識しているつもりではあります。そしてかなりの制限の中でできることをしようとなさった方々も少なくなかったと伺ってはおります。
ただ、おそらくそこで考えられる教育はハンデを持たない人に対するものと違ってくることになるとは思います。ちょうど疾病や障害でリハビリをする人たちの目指すものが完全な健康体というものではないように。
それでその隔離なのですが、これは両方向への隔離かもしれないと感じます。つまり施設の中に入れられた人が外に出てこないようにという意味と、逆に外部からのシェルターという意味との両方です。
その隔離の不自由がベストだとは絶対に言えないでしょうが、同じところに無造作に存在して、中の人たちが普通に不幸にならないですむほどこの社会も成熟していないし、いい人ばかりではないと私には見えます。
今の社会や制度はまだまだ理想形には遠いものでしょう。今のそうした施設の在り方は「途上」だと思います(今入っている方を納得させられるかどうかはわからない言ですが)。
私はわりにシニシストで、理想のものが手に入らないなんてこの世ではあたりまえとすぐ考えてしまう方です。それだけに性急に完璧を求めるような意見には疑念を示すことがたびたびでした。あなたの記事に対しても、それに近いアプローチだったと思います。でも、またこれは考える点を持っているなあと正直思い返しつつあるところです。十分なお答えになっているかわかりませんが、とりあえず今帰ってきたところなのでこのぐらいで…

antonianantonian 2008/02/06 01:47 どもどもです。
わたくしは初等教育の場に馴染まなかったんですが、平等均質意識から出た教育のありかたってのを克服する術を自分で見つけなきゃならなかった。結局。そういう訓練は自力で行うしかなかったですよ。能力別クラスとか飛び級制度でも設けてくれたらどんなに楽だったかもしれません。
しかし今となってはそういう多様な人間が共通の社会で生きるルールや考え方をその時に勉強したかもってことは思いますね。ゆえに一般的価値から外れることに意識的に外れていけるようになったというか。

ただ「特殊学級」となると、これはまた別の文脈になるなとは思います。昔の特殊学級とは様相が異なるようですね。

PS
メールしなきゃと思いつつ、忙しさにかまけてご無沙汰してしまいました。ごめんなさい。どーもぱそから遠ざかってしまっております。近いうちにご連絡いたしますね。

uumin3uumin3 2008/02/06 18:55 機会の平等っていうのもほんとは難しいことなんだと思います。それでも要求されて当然といったところの現場で頑張られている方々は大変だと思います(従姉妹で小学校の先生が一人、かつての同級生では十人以上います。以前からいろいろ聞いていて、あまり悪くはいえないですね〜)。
(メールのほうは締め切りぢごくから逃れてからでもちろん結構ですよ。まあぼちぼち。これは自分の備忘も兼ねてだったのでした…)

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