交換可能な財物(女)

 女性が「交換」可能なものとしてあった(あるいはそれこそが一部の社会システムを維持していた)という人類学的知見(もしくは主張)は、取り敢えず他分野においても作業仮説としては採り上げてみるべきものだと思います。
 それは、なぜ社会の視線が性犯罪被害者に対して「価値の低下」を見るのか(被害者自身にさえそう感じられるものであるのか)を説明する大きなヒントになるかもしれません。またそれは、イスラムにおいて(子どもではない)未婚女性がどうして家族以外の男性の目に触れてはいけないとされるのかの理由をほのめかすものであるかもしれません。
 現在の多くの社会では人格というものに最上位の価値をおきます。ですから女性が交換可能な財物であるなんてとんでもない、あってはならないと考えられるはずです。でもそれは「そうであってはならない」、つまり各自の人格は等しく尊重されなければいけないという(社会的)命令が私たちの社会システムを成立させているからであって、それが過去から現在に至るまでのどの社会においても本質的な格率であったかといえばむしろ明らかにそうではないでしょう。
 ハヤカワの文庫で『ようこそ女たちの王国へ』(SF1639)というウェン・スペンサーの作品があります。これは極端に男性が少ない(生まれてこない)という世界の物語ですが、この初期条件の違いによって男性が「交換」されるものとして存在し、男が交換可能な財物となっている社会がどういうものであるのかがそこに描かれています。何が正しいのかではなく、何故そうなっているのかという視点でものごとを見るといろいろ面白いことがあり、自分が軽く自由になってきます。こうした「何故」を気付かせてくれるものとしてのSFの働きというものはまだまだ十分にあるなあと私には思えますね。


 たとえば「男らしさ」であるとか「女らしさ」であるとか、そういったジェンダーがいかに所与の社会というものによって規定されているかということは最近人口に膾炙していますが、それが現在の自分の立ち位置(社会の中の自分)を相対化してくれるものになるならばいいのですが、単に従前の社会の価値を破壊して異なる「べき論」がそこに現れてくるだけならばそれは「違う支配者」が出てくるだけで不自由さには変わりがないということになるでしょう。