続・なぜいつまでも水伝?

 えー、取りあえず小中学生には微生物の発見につながるエピソード、パスツールの白鳥の首型フラスコを使った実験>自然発生説の否定を語って聞かせればいいと思います。
 以下のような杜撰な実験には大した意味がないんだということは子供にもわかるのではないかと。

私は以前,ごはんに言葉をかけ続ける実験をしたことがある。
ビンに入れたご飯に「ありがとう」「天使」「ばかやろう」「死ね」「悪魔」と
書いて毎日その言葉を子ども達とかけ続けた。
すると,色が変化し,においが変わった。
前の二つの言葉は黄色に変色し,こうじのにおいがした。
後ろの三つは黒く変色し,カビが生え,ふたを開けられないほどの悪臭になった。
その出来事はビデオにも収められている。

 それから「よい言葉」をかける云々全般については、なぜ日本語に反応しているのか、というあたりで問いかけて見ればいいのではないでしょうか? それでもわからない人はそう多いとも思えないんですが。


 もちろんそういったすぐに思いつくようなことは皆さんなさっているとは思います。
 そしてそれでもなお、という人が本当に今でも多いのかということについてはこれこそ検証しなければいけないことではないかとも考えます。
 水伝本が売れたのはもう2、3年前の話。そして具体的な水伝を広めようとした事例も、もう1、2年前のものが多いのではないかという印象も受けました。ネットで検索しただけなのですが。(近々の事例というのがありましたらどうかご教示ください)


 「日本書紀」に記された大生部多(おおうべのおおし)による虫神>「常世の神」の熱狂的流行以来、たびたび日本ではうわさ話のようなものから流行する「はやり神」を生み出してきました。近くはおかげ参りとかエエジャナイカもその類のものですね。(宮田登氏の『江戸のはやり神ちくま学芸文庫、などにそういうものの記述は満載です)
 で、その流行はどうなったかといえば、結局どれも数年で火が消えたように祀り捨てられているわけでして、もしかしたら水伝についてもその類のものではないかという感触がないではありません。


 あと1、2年も放っておけば、自然に消滅してしまうようなものではないかという印象が強いんですよ。それこそ何か陰謀的なものがない限り、私でしたらほとんど消えるほうに賭けたい話ですね。そういう妙な危惧(陰謀論につながりかねない不安みたいなもの)も批判なさる側に実はあるんじゃないかと思えたところもちょっと…ということなのでした。


※Intelligent Design論の時も、実は言い過ぎれば陰謀論になるのに…という思いが少しありました。
 これについては過去記事:「知的計画」をご参照ください。

なぜいつまでも水伝?

 suikanさん@脇見運転の「我々は、水からの伝言を受け入れるべきだった」。こういうおちょくりは嫌いじゃないです。面白い発想です。


 でもこれを読みながらふと思ったのが、「硫化水素自殺を広めたのはマスメディア(ネットの所為にするな!)」という主張と相似の形が水からの伝言のケースにもあった(ある)んじゃないかなということでした。
 つまり「水からの伝言を広めた(そして広め続けている*1)のはネット」だった面もあるんじゃないかということです。*2


 この記事じゃないですけど「これほど長い間」水伝がどうのこうのと騒いでいるでしょう?ネットでは*3
 これは「水からの伝言というものがあって、それは…」という形での叩き記事をいつまでも書きたいと思って書く人がネットに多い所為で、いつまで経っても「水からの伝言」についての言及がなくならないという、ちょうどメディアで「硫化水素自殺についての情報がネットにある」と流すことがその追随者を無くならないようにしてしまった事態と相似のことがここにあるような気がして…


 それを信じている人が今どれだけいるでしょう?
 しつこく言わなければわからないと思わせる人が多いのでしょうか。いまだに私の周辺では一度もこれを信じているとかいった人は見ないのです。だからわからないのですが。


 似たようなものとしてid理論批判というのがありましたが、あれはさすがに日本で言う人が凄く少なかったでしたから、あっという間に陳腐化してしまった感があります。(いつまでも批判する人はいなかったという意味で)


 なぜこの水伝ネタがずっと続くんでしょうかね〜。騒げば騒ぐほどそれこそ話題として残ってしまうような気もするのですが…
(※上に追加記事を書きました)

*1:たとえネガティブな意味でも

*2:少なくとも私はこれについて初めて聞いたのがネットでした

*3:私の見聞きする狭い範囲内かもしれないのですけど

用語

 ナショナリズム関係の議論は用語がややこしいといいますか、その是非を含めてどう考えるかで違った定義を(意識・無意識を問わず)採用してしまっていたりととても混乱するところです。

nationalism 愛国意識、民族意識民族主義国家主義(cf.ethnocentrism)
(特にアイルランドの)国家独立(自治)主義、産業国有主義

 手許にあった研究社の「現代英和辞典」で引いた*1訳語がこれです。ここには「愛国主義」という訳語は採用されていません。
 その訳語は通常patriotismにつけられる場合が多いのですが、この辞典では

patriotism 愛国心

 とだけ書かれています。語幹を共にする語のほうでは

patriot 愛国者、志士、憂国の士
patriotic 愛国の、愛国的な、愛国心の強い

 というようになっていて、編者がこの語にマイナスのイメージをあまり抱いていないのがわかります。
 ではこの辞典で愛国主義は無いのかと言いますと、それは

jingoism(感情的な)愛国主義主戦論

 というところにありまして、この語は一般的に批判的なニュアンスを含んで愛国主義を言う時に使われるような語です。

jingo(=jingoist)(対外政策で)示威的強硬論者、主戦論者、盲目的愛国者

 ここに「盲目的」なんていう形容がついているところからもその使われ方が想像されます。
 アメリカの人に批難するつもりでpatriotと言っても、案外褒め言葉になってしまっていたりしますが、jingoと言うとまずむっとされるでしょう。
 またこれと同様にネガティブイメージを強く持った語として

chauvinism 狂信(好戦)的愛国主義
chauvinist 盲目的愛国者

 があります。こうした語彙がnationalism以外に結構あるというのは、まさにchauvinisticではないnationalismなどが考えられている所為ではないかと考えます。価値判断は揺れているということですね。


 さてnationalismに戻りますが、その訳語に「国家主義」というのがあって参照先にethnocentrismという語が挙げられています。この語の訳は

ethnocentrism 自民族中心主義(多民族に対し排除的、蔑視的)

 という具合で、非常に悪いイメージがあるものですね。そしてこの語の「中心主義」という部分を除いたのがethnoという語幹(人種・民族の意の連結形)で、これは

ethnic(=ethnical) 人種の、民族の、異邦人の、異教徒の

 から来ています。またこの辞典では「★ethnicalは言語・習慣などから、racialは皮膚や目の色・骨格などから見た場合に用いる」という注記があります。


 この辞典では他のナショナリズムの関連語に

nation 国民、国家、民族
national (ある)国民の、全国民の、(ある)国民特有の、(ある)一国の[に限られた]、一国を象徴する、国民的な、国家の、全国的な(opp. local)
 [米]連邦の、国有の、国立の、国定の、愛国的な(patriotic)
nationalist 国家[民族]主義者、国家[民族]主義の
nationality 国民であること、国民性、国民的感情、民族意識(nationalism)、(民族国家の)国民

 などなどという訳が採られています*2
 ナショナリズム関係の議論ではよくベネディクト・アンダーソンの「nationとは想像の共同体(imagined community)である」という言葉が引かれることがあります。この語を持ってくる方は往々にしてnationはfictional(虚構的)なものだからという意味を込められます。でもこれに対して「国民国家形成の過程で生まれたnationalismは確かにfictionalなnationを目指したが、その基盤となるのは時に歴史的なethnicity(民族性)である」という反対意見もあります。ちなみにこの辞典にはethnicityの語は採録されていません。
(※ここらへんの議論については →過去記事:ナショナリズムについて で少し触れています)


 あとちょっと面白いのは、本筋とは離れますがZionism(ザイオニズム)なんていう語があることです。まあ何のことはない、これは普通日本でシオニズムと呼ばれる語なんですが、

Zionism シオン主義、シオニズム(国家的統一のためにユダヤ人のPalestine復帰をめざすユダヤ民族運動)

 そしてZion

Zion シオン山(Jerusalemの聖峰)イェルサレムの天堂、ユダヤ民族(の祖国)、天国、理想郷

 例のあのアニメが海外へ持っていかれた時に、ジオンだのジオニズムだのがどう訳されているかとても気になります。


やる夫で学ぶナショナリズム カナ速 を今朝方見て、触発されて少し書いてみました。
 あとぜひ意識して欲しいのが、nationalism(国家主義)自体には色が無い(というか善悪で捉えられるものではない)という見方です。賛否もあるでしょうが、私は以下の薬師院氏の言葉に納得するところ大です。

 フランスの1848年憲法は、民主主義を自由主義から解放する契機を体現している。そこには、「国家的支配からの自由=民主主義」という保守的な図式から、「民主主義=国家的支配への国民参加」という図式への移行が見受けられるのである。…なおこの場合、全国民が参加して作る官や公こそが、民主主義の担い手となるのである(p.144)


…となると、愛国心軍国主義帝国主義と混同することほど、非論理的な誤解はないことになる。愛国心、国家への奉仕義務、征服戦争の放棄、民主主義、国家が国民の守護者たる義務、これらの項目は、少なくとも論理的に考える限り、相互に矛盾するものではないのである。


…いずれにせよ、愛国心があるのなら軍拡路線を容認せよという主張もバカげていれば、軍国主義に反対するならば愛国心も否定せよという主張もまた、同じくらいバカげている(p.145)


…戦時体制下の日本において、民主主義や社会主義自由主義が同列に弾圧されたのは、それらが、どれも滅私奉公型の国家主義の対立項に置かれたことに起因する。


…日本の戦後左派は、戦時体制下の価値観を批判してきたのであるが、この対立図式そのものは、無批判に受け継いでしまう。つまり、国家主義と民主主義を対立させるという考え方において、戦時中の指導者と戦後の左派は完全に一致するのである(p.148)


…しかし、国家主義は必ずしも排外主義や帝国主義と結びつくものではない。国家主義は、それ自体が民主的であるわけでもなければ、非民主的であるわけでもないのである。それは時と場合によって、軍国主義にも民主主義にも社会主義にも結びつくのだ。そもそも、国家主義が具体的に形成されはじめたのは、民主主義を求めたフランス革命を大きな契機とするものであったという歴史的事象を忘れてはならない。


 実際、民主主義と国家主義は必ずしも矛盾するものではないし、自由主義個人主義がいつも同じ側にあるとは限らない。さらに、国家主義個人主義もまた、必ずしも対立するものではないのだ。そして、社会主義国家主義は、むしろ切っても切れない関係にある。現に、フランスの左派は、国家主義的で社会主義的で個人主義的な民主主義を標榜しているのである(p.149)
薬師院仁志『日本とフランス 二つの民主主義 不平等か不自由か』光文社新書265 より)

*1:抜粋ですが

*2:抜粋です

風邪は

 少し軽快。洗濯もできました。気持ちのよい晴れた日です。寝てばかりもいられません。
 ただ連休中に全部やろうと思っていた草取りは中途で、45lの袋4つも取ったのですがまだまだです。これは仕方がないと思って諦めましょう。