全国学力テスト(続きの続き)

 何か勘違い、思い込みといったものがおありなのでは? 再度トラックバックをいただきました。
 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20080928/p1

 なるほど「単純にどこそこの方面で弱い生徒が多いと判断されれば、クラスもしくは学年単位でそれを補う努力を考える」ということですね。しかし、これが有効であるためには条件があります。ある学校において今この箇所に努力を払うべきであるという問題点を学校が自分では把握しておらず、逆にこのテストが教えてくれるという条件です。これが正しいことをあなたは証明できないはずです。しかもそうしたことを知るために設計されたテストではないのですよ。

 で、記述は前後しますが

 そのためには全国すべての児童を対象にしたテストを行う必要はないですね?

 いえいえ、これは全国で同一のテストを行う必要が「ある」のですよ。


 私は一般に使われる「学力」という言い方に実は若干懐疑的です。国語と算数(数学)と理科と社会と…そうした尺度の違う点数を合算して、これで学力でございますとするのは本当は乱暴なことだと思います。
 しかし同じ問題を設定して全員の結果を見ることができるなら、各教科(分野)ごとのある時点での相対的な評価は出せますし、それを暫定的に(各教科での)「学力の現れ」と判断するのには一定の合理性があります。
 そしてそれぞれ違った取り組みをしている各地の各所の学校の相対評価を曲がりなりにも出すためには、一律のテスト以上に有効と考えられる手段はなかなか考えつきません。
 各学校の立場というものはあろうかと思いますが、全体に責任を担わされている側がこの発想をするというのは立場的に自然でしょう。


 ある学校で「うちはどこそこの分野で生徒は良くやっている」と評価しても、それが本当に良くできているものなのか、あるいは相対的にまだまだなものなのか、それはこういうテストでもしなければきちんとした評価はくだせません。
 もちろんそれぞれの学校(あるいは先生)が主観に傾いた評価を出すことはできますよ。今までほとんどそうだったと言っても良いですし。ただこの場合は全体的、総括的な話はまずできない(してはいけない)ということになるはずです。そして中山氏のようないい加減な言葉に対しても、これまた「〜はずだ」的なあやふやな言葉で返す以外の手段は出てこないのです。


 一人一人の人間には顔がある。それぞれを見ずに対応するのは間違っている、というのは確かに人格としての人間を尊重する態度を言うものでしょうし、正しい態度であろうと思います。しかし同時に統計的なデータが全体像を見せたり、各々の相対的な位置づけを見せる次元というのもあるもの。統計的なものの価値を知っていれば、全員に試行するテストを一概に否定することはできないと思うのですが。


 「国の責務として果たすべき義務教育の機会均等や一定以上の教育水準が確保されているかを把握し、教育の成果と課題などの結果を検証する」ための手段として「同内容のテストを全員に課す」ということを考えるのは、統計的調査の発想からはきわめて常識的なことです。
 ですから「そうしたことを知るために設計されたテストではないのですよ。」とどうして言い切れるのか、私には見当がつきません。それでは何のためのテストだとあなたは判断されるのか、根拠をあげたうえでお教えいただきたいものですね。


 それから、大阪の子供は「いちびり」だったから結果が云々というご主張についてですが、そう語られるあなたの印象論がほとんど中山大臣の思いつき発言と同レベルでしかないということを意識された方がよろしいかと存じます。

今回の企画*1は国家からの押し付けであり学校現場には迷惑感がただよっていた。2回めの場合も評論家によればなぜやらなければならないか疑問視する声が強かった。回りの大人が心からは真剣に取り組んでいない何の役にもたたないテストになぜ生徒たちが真剣に取り組んだと、uumin3さんを始めとするすべてのみなさんは考える権利を得たのだろうか??


それがすばらしい文化かどうかはまったくわかりませんが大阪には「いちびり」という文化がある。権威に対して素直にならず、ちょっとおちょくってみるわけだ。このテストは選択式であり、鉛筆を転がして答えを決めたりあるいはすべて「1番」にばかり丸をするといった悪ふざけが容易にできる。大阪の生徒は学力が低かったわけではなかろう。「いちびり」率が全国で一番高かっただけだ。


 わたしは根拠もなく言っているわけではない。実際に私の息子はそうした「いちびり」答案を提出し受理されている。*2わたしは大阪府民ではないがその近くだ。
id:noharra:20080918:p1)

 大阪の子だけいちびりで、京都や兵庫の子は違うのでしょうか? 秋田や福井の子は大阪の子より素直なのでしょうか? そのご発想は思いつきの域を出るものではありません。
 「なぜ生徒たちが真剣に取り組んだと、uumin3さんを始めとするすべてのみなさんは考える権利を得たのだろう」とおっしゃいますが、これは方向が逆で、テストを課す側が「受ける生徒たちがまじめにやらないだろう」と考えてテストをするはずがそもそもないとは思われませんか。むしろ「まじめではなかった」という証明はそれを主張される側にあるはず。


 それぞれの方がご自分の印象・意見を持たれるのは自由だと思いますが、その発想に縛られて他が見えなくなるというのは不自由なことだとも感じます。「国家の押しつけ」云々を一旦横において、一律のテストを試行する意味について再考なさるのも無意味なことではないと愚考します。