夜の蝉、いきいそぐ。

 夏が終わると太っていた。


 ストレスをいろいろと感じる夏であったためもあったろう、体重が成人してから数度しか経験していない80キロ台にのろうとしていた。体が重かった。


 母親の葬儀を済ませてすぐにあった健康診断の結果が夏の終わりに届いた。“コリンエステラーゼ”、“総コレステロール”、“トリグリセライド”に標準値を上回る数値が並び、腎機能や尿検査の一部にも注意を喚起するアステリスクが付いてきた。エコー検査には“脂肪肝化”という文字が踊っている。


 おって職場から“血中脂質”の再検査を指示する旨の通知が出た。そこまで正面から来られたのでは仕方ない、体重や体脂肪を落とし、悪玉コレステロールとやらを減らしてやろうではないか。そこで糖質制限をベースとした減量活動を9月に入って開始した。カロリーをあまり気にしない緩い糖質制限なので3週間で4キロほど体重が落ちるというペースである。できればあと2キロほど落としたいと思っている。ものの本によればこの糖質制限でも悪玉コレステロール対策になるとあるが、念のためエゴマ油とオリーブオイルを使用し、間食にアーモンドを食べるという方法も併用している。体重や体脂肪は家にある体組成計で計測できるが、コレステロール値の方は自分ではできないため、効果が出ているかは再検査をしてみるまではわからない。



 糖質制限とともに9月の声を聞いて俄にハマったものがもうひとつある。それはこれだ。


空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)
太宰治の辞書


 “円紫さんと私”シリーズと呼ばれる作品を初めて読んだ。理由はこの春に出たシリーズ最新刊「太宰治の辞書」(新潮社)をその題名に誘われて購入してみたもののこれまでの作品を読まずに手を出すのはどうしてもはばかられ、以前からその評判だけは耳年増のように聞きつけていたこのシリーズにようやく着手したという次第。


 信頼を置いている読み手の方々が褒めているし、探偵役が落語家であり、それに絡む語り手が日本文学を学んでいる女子大生という設定が自分好みでないはずはなく、読めば絶対面白いだろうなと前々から予想はしていたのだが、まさにその通り。作中でも〈私〉が同じことを言っているが太宰治の読者が感じるような“自分だけに語りかけているような作品”ではないか。


 この日曜に埼玉に移転した知人のパン屋を訪ねた。その時の車中のともが「空飛ぶ馬」だった。『砂糖合戦』を読みながら自分の糖質制限について思ったりした。『赤頭巾』で〈私〉は、神保町から定期券のある秋葉原駅まで歩いて地下鉄日比谷線に乗っている。これはまるで学生時代の自分自身ではないか。その後、私鉄に乗り換えているが、これは東武伊勢崎線(現在は東武スカイツリーラインと呼ばれている)だろう。これも僕が埼玉の実家にいた頃に使っていた路線である。調べると北村薫は埼玉県春日部高校の出身で杉戸生まれだと知る。知人のパン屋は杉戸駅(現在は東武動物公園駅)の隣にある姫宮駅近くにある。たぶん〈私〉も僕と同じ行程をたどっているのだ。



 『赤頭巾』のひとつ前の『胡桃の中の鳥』の舞台は山形県上山市蔵王温泉そして蔵王御釜であるが、僕は東日本大震災があるまでの約20年間毎年夏に仕事で上山市内から御釜に向かう途中にある坊平高原に行っていた。これも作品への親近感を強くしてくれた。



 そしてカバーの〈私〉を描いた絵が高野文子画とくれば、もうハマらない理由はない。昨晩、「空飛ぶ馬」を読み終えて、早速第2作「夜の蝉」にかかろうとしたのだが、昼間地元の本屋の棚から並んでいた残りのシリーズ本をごっそり抱えてきた中に見当たらない。どうやら「夜の蝉」だけは売れて棚になかったらしいのだ。なんということだ、明日は必ず買おうと決意して床についた。


秋の花 (創元推理文庫)
六の宮の姫君 (創元推理文庫)
朝霧 (創元推理文庫)


 今日は川崎の等々力緑地で野外仕事だった。午後早く仕事が終わったので近くにある川崎市民ミュージアムの前を通ると“木村伊兵衛写真展”という看板が目に入る。おお、木村伊兵衛の写真なら大好きだ、これは見ておこうとチケット売り場へ。そこでよくよく見直すと展示は“木村伊兵衛写真賞40周年記念展”であった。木村伊兵衛の写真ではなく、木村伊兵衛写真賞を取った写真家の写真展であったのだ。ちょっと落胆したが、そのメンバーを見ると藤原新也岩合光昭、北島敬三、星野道夫武田花都築響一ホンマタカシ長島有里枝蜷川実花HIROMIX川内倫子佐内正史梅佳代川島小鳥と多士済々。もちろん、チケットを買って入る。50人近い写真家の作品を観ながら、不思議と今の自分は人間を写したものにはあまり強い関心を持てず、むしろ建物や街といった人工物を写したものの方により強く感応するのだなあと思う。


 その後、武蔵小杉駅へ出る。この街の本屋で「夜の蝉」を手に入れるつもりだ。まずは、駅に隣接している東急スクエア内の有隣堂へ。ここは思ったより文庫棚が少なく、出版社毎ではなく作者別の陳列。しかし、北村薫創元推理文庫は「空飛ぶ馬」しかない。


 次に向かったのは駅を出たところにあるイトーヨーカ堂内の中原ブックランド。ここには創元推理文庫がほどんどない。あきらめて近くにある中原ブックランド本店へ移動する。ここは以前に一度来て街の本屋としてはなかなかの品揃えの店という印象がある。「夜の蝉」もあるだろう。しかし、ここでは創元推理文庫の棚すらなかった。どうした創元推理文庫、大丈夫か創元推理文庫、という気持ちになる。この文庫のアガサ・クリスティーABC殺人事件」を読んでミステリーにハマり、その後この文庫でポアロ物の他作品やドルリー・レーンの悲劇物へとすすみ、僕のミステリー歴はほぼこの文庫とともにあったと言っていいくらいなので少しさびしい気分になる。


 次に向かったのは最近できた大型商業施設“グランツリー武蔵小杉”。以前にTVでこの施設の紹介を観たことがあるが、入ったのは初めて。ここの3階に紀伊国屋書店がある。思ったより広い店舗に面食らいながら3階フロアを紀伊国屋へ向かって歩いているとその途中にKENTショップがあるのを見つける。あのVANJACKETの兄貴分にあたるブランドである。もちろん、石津謙介の作った会社は既になく、その後ライセンスを持っていたレナウンも手放し、今はイトーヨーカ堂グループがライセンスを取得して店舗展開をしている。ここはKENTブランドだけでなくVANブランドのものも置いてある。ヴァンヂャケットと聞いて素通りはできない。思わず、VANのロゴが入った布製バッグとセール品のTシャツを買ってしまう。
その後、紀伊国屋へ。なかなかのフロア面積を持つ店内に期待を抱くが、ここにも「夜の蝉」は置いてなかった。


 ここまで来ると意地でも今日手に入れたくなる。武蔵小杉をあきらめて自由が丘へ向かう。駅前の不二屋書店なら置いてあるはずだ。久しぶりにあの好きな本屋にも行ってみたい。店は変わらずそこにあったが、「夜の蝉」はそこにない。ここもダメか。もう仕方ない。もう空振りはしない。確実に手に入る場所に行こう。そう、神保町だ。




 神保町にたどり着き、最初に入った東京堂書店で「夜の蝉」を見つけた時は正直ほっとした。平台にあったこちらも購入。

夜の蝉 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)
善意と悪意の英文学史: 語り手は読者をどのように愛してきたか



 時刻はもう3時を過ぎている。まだ昼食をとっていない。ただ、糖質制限の身には、カレーライスもうどんも牛丼も選択肢にない。外食の選択肢はライスやパンをつけない肉料理あるのみである。そこで三省堂地下の放心亭を目指す。途中、書泉ブックマートの前に来た時、この店が9月で閉店になることを思い出した。中学生の頃、初めて神保町に足を踏み入れた。地元では買えなかった『現代用語の基礎知識』や田中美知太郎編「プラトン著作集」などを確かこの店で買ったはずだ。そうだ、僕の神保町はこの店から始まったのだ。閉店前にせめて1冊買っておこうと店内に入る。1階はコミックス売り場になっていた。中学時代とはずいぶん変わってしまったこの店の様子を感じながら1冊選ぶ。


猫の草子 (ビームコミックス)
死者の書(上) (ビームコミックス)



 先日同じ著者の「死者の書 上巻」を読んで、やはりこの人はよい書き手だなあと思いを新たにしたので、未入手のこちらをレジに持っていく。カバーをつけてもらった。



 放心亭で単品の肉料理を食べてから帰路につく。車内で「夜の蝉」を読み始めるが、最初の『朧夜の底』の途中で、疲れが出たのか座席にもたれてウトウトする。せっかく手に入れたというのに。そういえば、思いついたことや文章の構想を書くノートを学生時代に作っていてそこに「夜のセミ、なぜ生き急ぐ」という一文を書いたことを思い出す。あれは自分で書いたのか、それとも何かからの引用だっただろうか。



 帰宅して、この日記を書きながら、しばらく前から夜に蝉の声を聞かなくなったことに思い至る。昼間の日差しは暑くても、もう秋なのだ。