がまん神殿 RSSフィード

2013年11月01日

[]『風立ちぬ』と「美しい」ということ

 大人は利害で、青年は善悪で、少年は美醜で説き伏せよ。


 「美しいもの」に対して心惹かれる気持ちは少年の心からくるものだという意識があります。「美しい」というとどうもお高くとまっているようなので「カッチョイイ」とか「可愛い」とか、そういった言葉で言い換えても良いかも知れません。映画『風立ちぬ』では「美しい」という言葉が1つのキーワードになっていましたが、美しいものをテーマにした作品を「第二の青春」を扱った作品として評することが出来るかも知れません。


 実はこのテーマで文章を書くことに長らく抵抗があって、というのは、これは正に私自身の問題だったからなのですが、私が青年として第二の青春を、今まさに、悩みながら生きているという問題を突きつけられたと感じたわけです。


第一の青春

 大人のやっている事の薄汚さに気付き、それを批判して乗り越えようとするエートスが青年期にはあります。ライトノベル作品にも、正義をテーマにしたものも多いでしょう。

 ジュヴナイルの世界観は、主人公の破天荒な性格や想いの強さといったものが窮屈な現実や大人の事情を突き破る原動力として働きます。現実問題を考えれば、論理的に破綻していたとしても物語的には破綻しません。「俺はお前を絶対ぇ許さねぇ」と口にすれば、どんな強い敵にも勝てます。

 少年を乗り越え、大人を批判することに青年のアイデンティティがあります。ここでは「美しいこと」よりも「正しいこと」が求められます。


第二の青春

 大人を批判しつつも、自身が大人にることを受け入れなければならないとき、矛盾が生じます。『風立ちぬ』では、美しい飛行機を作るために戦争の道具を作らされる矛盾、仕事に専念するために身を固める矛盾など、随所で矛盾が語られています。

 第二の青春に横たわるのは大人の世界観です。第一の青春のようにラノベ的に戯画化できないぶん、欲望が剥き出しになります。少年、青年の頃に求めた「美しいこと」や「正しいこと」を大人の世界観でどのように処理してゆくのかが課題となります。


男のロマン

 大人になってゆく過程で最後に残された美しい感情を「男のロマン」と呼ぶのかもしれません。……ああ、恥ずかしい! これは第一の青春の側からは「卑怯」だと罵られることでしょう。また少年の側からは「ダサい」と馬鹿にされることでしょう。こうした批判に耐える覚悟こそが、その人の「成長」なのかも知れません。

 現実と折り合いをつけながらも、譲れない部分をどこか持っていて、そういう感情が、もしかすると生きる意味というやつなのかも知れません。よく分からないですが。


ヒロインについて

 『風立ちぬ』は、基本的に菜穂子萌えの作品だと感じました。宮崎作品全般にいえることですが、ヒロインに背負わせている使命が大きすぎますね。ナウシカはファンタジーの仮面をかぶっていますが、菜穂子は極めて現実的なキャラクター設定です。

 一般に女子の方が、男子よりも精神的に成熟するのが早いと言われています。正直な話、私も(他の人もそうみたいですが)、精神的に成熟している同年代の女性に引け目を感じたり、嫉妬を感じたりすることがありました。しかし「女性ってそういうものなのだ」と思ってしまえば気は楽です。確かにイメージの押しつけは乱暴なんですけど、向こうも乱暴してくれれば後ろめたさは感じません。

 こうした女子への葛藤は『風立ちぬ』にはありません。上流階級の「お坊ちゃん」と「お嬢さん」どうしの恋愛ですから、互いに精神的に成熟するのが遅いという問題もあるかと思います。菜穂子のもつ負の部分については作品では言及がないため、菜穂子のヒロインとしての「格」の高さに、次郎の身勝手さが目立つのですが、一方で私は二人はお似合いだという印象も持ったので、バランスが取れているのかも知れません。


少年という罪

 作品では、次郎は肯定も否定もされませんでした。「ただ美しいものを作りたいだけ」という言葉は純朴なエンジニアによる、戦争や産業社会への批判に聞こえる一方で、戦争に荷担しておきながら、その責任から目を背ける者の子供じみた言い訳にも聞こえるのです。美しいものは大人の世界観からも、青年の世界観(第一の青春)からも絶えず、批判を受けることになります。

 しかし、少なくとも次郎は美しく描かれていたと思います。もし同じセリフを彼の上司の黒川氏が言ったら似合わないでしょう。けれど、そうは言っても、一見「ダサい」ように見える黒川氏も、黒川氏の味があり、かっこいいと思うのです。無責任な少年を制御しつつ、ロマンを抱けるような美しさを求めたいものです。

2011年08月17日

[][]市民プールに思う

今日、市民プールに行ってきました。屋内プールと屋外プールがあって、主に屋内で泳いできました。屋内プールのレーンには「ウォーキングコース(主に歩く人)」「ゆったりコース(泳いだり立ち止まったりする人)」「スイスイコース(泳ぐ人)」という区分けの看板があって、私はそれを目印に行動しました。


するとある時、監視員の人が「ゆったりコース」と「スイスイコース」の看板を入れ替えました。”健康管理のための休憩時間”ではなく、普通に皆がプールに入っている時にです。どういう事かと思い、周囲を見回すと「スイスイコース」にいた中学生(?)たちがプールに浸かりながら談笑していて、「ゆったりコース」にいた大人たちが普通に泳いでいました。たぶん監視員は〈実際の〉プールの様子を見た上で、ルール(というより、緩やかな規範?)を変えたのでしょう。

2010年04月21日

[]2010ガバナンス論/演習始まる

またガバナンス論の季節がやってきました。元履修生のvanyaです。

このブログ、なぜかまだ閉鎖していません(笑)


「ガバナンス」とはどういう意味か、というストレートな課題が出されているようです。

素直に第一回の講義の復習をせよということなのでしょうか。

一方で1年次の授業で「ガバナンス」というキーワードを見聞きしたというエントリーも見受けられます。例えば八神蒼真さんは「社会システム論?」で学んだと書いていますし、アズさんは「ガバナンスって1年生のときからよく耳にする言葉」と書いています。「きっと情報学部ではかなーり重要なキーワードなんだと思う」のだそうですが、確かに重要なキーワードだと思います。キーワードに溺れずに頑張って欲しいなあと。

「意志決定機関」という言葉がありますが、従来型の意志決定機関による統治(Government)ではなく、関係者が非暴力的な手段で有機的に*1参加する統治がGovernanceなのでしょう。もっとも、私はGovernmentはGovernanceの成果物のひとつであると考えていますが。NPMみたいなものも「ガバナンス」と呼ばれていますが*2、従来型の統治(Government)の行き詰まりを解消するような新しい統治(Governance)を象徴するキーワードとして「ガバナンス」という語が都合良く使われてきた気がしないでもないのですが……。

*1:有機的に……例えば情報が偏っていたり、(ほぼ)一方的なコミュニケーションだったりしないで参加者が意志決定のプロセスに参加することを指します

*2:NPM……岩崎正洋ほか『政策とガバナンス』(東海大学出版会、2003)ではガバナンス論の2つあるアプローチの方法のうち、「国家中心アプローチ」に該当すると位置づけている。一方で市民パワーによって水平的に統治する方を「社会中心アプローチ」と位置づけている。

2010年03月30日

[]教科「情報」の英語表記について

高等学校、教科「情報」は一部では「Word / Excelの使い方」と揶揄(?)されていますが、「何について学習する教科なのか」という事がよく分からないまま、新課程に移行しようとしています。新課程の学習指導要領(PDF)が出ましたが、課題と経緯は示されていますが、学習内容と有機的に結びついてはいません。

そこで標題の話になるのですが、情報科を英語表記にするとどのようになるのか。「国語科」ならば"Japanese"です。「理科」は"Science"です。情報学の英語表記である"Informatics"を素直に当てはめればよいのか*1、某社の教科書のように"ICT Education"とすべきか、日本情報科教育学会にならって"Information Studies"とすべきか。*2

少なくとも"ICT Education"は却下すべきだというのが私の考えです。冒頭で述べたように情報科は「Word / Excelの使い方」を教える教科だという、実に的を射た「誤解」でしょう*3。"Informatics"にするか"Information Studies"にするかですが、「教科は学問の(初歩的な)内容を取り扱うものである」という考え方に立脚すれば前者にを支持することになるでしょうし、「教科と学問は(多少)異なるもので、生徒が生きていくのに必要なことを学ぶ課程である」という立場ならば後者を支持することになるでしょう。後者の立場は前者の立場を内包しうるので、"Information Studies"とした方が無難でしょう。このように命名(?)することで情報科は訳の分からない教科であることが浮き彫りになることでしょうけれど。

*1:"Information science"という語を見聞したことがありますが、あまり聞き慣れないです。

*2:英語の先生が英作文指導の際に「『情報』って何て言いますか」と生徒に質問されたらどう答えるのでしょう。"Computer Science"とか(笑)

*3:ICTという語を広義に解釈すれば、あらゆる「情報に関する工夫」をICTと呼べなくもないのですが、通常ICTという場合はコンピュータ技術を前提にしていると私は捉えています

2009年08月22日

[][]情報学のゆくえ(1)

情報学部というところにいて、自分が学んできたことが他のどの学問でもないことに今更ながら気付かされます。かと言ってそれを情報学と言い切れる自信もありません。

「情報学会」という学会はありません。情報処理学会や社会情報学会ならばありますが。純粋に「情報学会」と名乗っている学会はありません。

「21世紀の知のパラダイム「情報学」の創造」という理念を掲げて探求されてきた(?)「情報学」ですが、未だカギ括弧が取れません。

何を情報化と呼ぶかも不確かで、「物質、エネルギーに次ぐ第3の科学的な対象」なんていうダイナミックなスローガンも色あせているように感じます。

氷のステージに乗った男がホログラムの観客に夢を売っているような漠然とした危うさを感じています。

2009年07月18日

[]非ITから「情報」を語る

恭子さんが便乗してくださったので、更に便乗してみましょう。


私の主張は*1Webの中で閉じていたとしても(「長崎」のキーワードと修学旅行を楽しみたいという本人たちの意志以外は)情報検索/情報収集は可能である。しかし、Yahoo!などの検索エンジンが使えることが即ち、情報検索できることと直結はしない。情報検索は単純じゃない。というものでした。*2

今の時代、ITの利用を前提にしないで情報検索を学習しても多分、リアリティに欠くと思います。けれどITが使えれば即ち「情報活用能力」*3が身に付いたと評価するのは少し違うんじゃないかなと、思うわけです。


>ネットリテラシーを越えたメディアリテラシーの育成にも繋がります。

教科「情報」の性質を考えたらメディアリテラシーの育成は重要な課題だと思います。ただし「メディアリテラシー」とは何か、という問いは常に付きまとうはずです。修学旅行の例ですと「修学旅行先(長崎)について学習することによって、修学旅行をより楽しく有意義なものにすることができる」ことが「情報活用能力」だと思います*4。しかし「メディアリテラシー」というともう少し狭い意味な気がします。私ならメディアリテラシー教育の目標は「テクスト(情報源)から必要な情報を選択し、かつ批判的に読み解く(嘘を見抜く)ことができる」としますね。

むしろ私は「ネットリテラシー」という狭い枠組みの中で議論していて、その中でももっと狭く、いわば「検索エンジンリテラシー」の話がしたかったのです。ロボット型検索エンジンが上手に活用できるかどうかは検索キーワードに如何に依存しているかを暴きたかった、それを通して「検索エンジンが使える」≠「情報活用技術としての情報検索ができる」を示したかっただけです。


>どういうわけか「情報=IT(技術)」だという認識が世の中にはあるようです

一般レベルで「情報学とコンピュータ工学は違います」とか「情報だからってITとは限らないんだよ」といった議論が有意味かどうかは不明ですが、コンピュータやインターネット等の枠組みだけで「情報」について議論するのは勿体ないと思います。「どうしてブライユは六点式点字を考案できたか」「なぜ天使ガブリエルはムハンマドにコーランを復唱させたか」「新しいアイディアが生まれやすい職場環境は一体どういうものか」これらはIT(電子メディア)の枠組みだけで捉えられるものではありませんよね*5

ただし「俺、IDだし、情報=ITじゃないし、パソコンとか別に勉強しなくていいよね?」といった「逃げ」を促進するだけならこの批判には意味はないと思います。


>情報学部の人間なら「情報ってなんですか?」という問いに対する解答ができなければならないという哲学的課題が暗に課せられています(私の経験上)。

……あ、解答できますかね……? 多分できないです(笑)


>「情報がもてはやされて社会がどうなる?どうあるべき?」

「情報」とは何か、よりもこちらの方が”解答”しやすそうな問題ですね。

話を覆すようですが、IT化の影響は大きいと思いますね。具体的にはインターネット(ブロードバンド)とデータベース技術(とその周辺技術)は大きいかと。コミュニケーションが可視化され、インフォーマルなものの多くがフォーマル(形式をもつような)になりやすい(なることを強制されるような)空間が成立したと思います。あとはcopy&pasteで世界のあちらこちらで実装すればいいわけです。

それが故に、だからこそ、IT化としての情報化の”可能性”を過大評価せず、批判的に評価すべきだと思います。月並みですが。

*1:「地べた系情報収集術」というのをよく知らないですが

*2:別にインターネットの外部に拘っていた訳ではありません

*3:中教審(1997)が体系的な情報教育の実施を行うために提唱した情報教育の目標

*4:「情報A」では「問題解決」と呼ばれる領域に近いですね

*5:意外とCSの人達はまじめにこういったことを考えていたりします。

2009年07月04日

[][]目的に合わせて適切に情報検索することができる

ここに書くべき事でもない気がしますが、最近更新していないので。


「情報通信ネットワークやデータベースなどの活用を通して,必要とする情報を効率的に検索・収集する方法を習得させる」(情報A)〔参照

検索エンジンを使って「カテゴリ検索」「キーワード検索」を行うような実習をイメージしてほぼ間違いないでしょう。今日は高校の情報教育の中で、この辺について思ったことを書きます。


  • 状況

ただ単にYahoo!等で検索するなら簡単でしょう。情報科.netのアンケートでも「インターネットによる情報検索の操作は身に付きましたか。」という問いに「授業で習う前から扱える」と回答した生徒が57%(2003年度)だそうですから、現在はもう少し多いでしょう。

新学習指導要領でも近い内容は扱うようでが、目的が多少異なってくるようです。「社会と情報」ではコミュニケーションに焦点が当てられ、インターネット上の情報の信憑性や著作権への配慮が中心的な関心になります。「情報の科学」では情報の共有や問題解決に焦点が当てられるようですが、具体的にはよく分かりません。


  • 立論:これからは、情報検索能力は取り立てて教育する必要はない

検索エンジンの発達もあり、誰もが簡単に(小学生でも)Web検索ができる現在、情報検索を取り立てて指導する必要性はない。また指導要領改訂の背景と関連して、小中学校での情報教育の充実を受けて高校でWeb検索を改めて指導する意味がない。


  • 反論

確かにWeb検索はある意味で「誰でも可能」となったし、小中学校での情報教育も充実した。しかし、「目的にあった」「必要な」情報を取り出すという意味での「情報検索」を学んだことになるのだろうか。例えばGoogleで「ガバナンス」というキーワードを用いて検索すれば(ほぼ)あらゆるWebページの中からガバナンスに関連したページだけを絞り込んで表示してくれるため、ある意味では「情報検索」に成功したと言えるだろうが、それは目的にあっているのだろうか。機械的にキーワードが一致しているだけだろう*1


  • 思考実験

といった具合に「情報検索」を学ぶとは何なのかよく分かりません。

そこで、授業に取り入れやすそうな課題設定として修学旅行のプランニングを例に思考実験します。

3泊4日で長崎に修学旅行に行きます。

3日目は班ことに自由行動です。

それでは班ごとにどこを回りたいか計画を立てましょう。

(何時出発で何時までにホテルに着いて……云々といった説明が続く)

「特に長崎で何がやりたいこと、見たい物がない」という班を想定して考えます。

すると彼らが知っているキーワードは「長崎」だけです。あるいは中学の「地理」やテレビ等で見聞きした僅かなデータしか持っていないでしょう。長崎に対して何の目的意識も持っていません。従ってWeb検索システムの使い方がを知っていたとしても「目的に応じた」検索はできません。

まず彼らが目の当たりにする世界観はこれです。そして観光地が載っていそうなこの辺を調べるでしょうか。サイト内を色々とクリックして回って「いやぁ、ここ、団体行動で回るしなぁ」「何か微妙」などと会話しながら課題を進めます。ここで新たなキーワードを発見して検索しなおす生徒がいれば相当機転が利く方でしょう。あまり上手く課題が進められない班は「ビミョー」と言いながら、あるいは横道に逸れながら、漫然とクリックを繰り返すだけでしょう。

意識の高い人は「公式ホームページは網羅的だけど、面白いかどうかを判断するようなリアルな情報がない!」と気付くかも知れません。この場合は「リアルな情報」が「目的」な訳です。

班内のある生徒が、ある旅人のブログを見つけました。班員は「良いかもしれない」と思いました。ここでブログというサービスについて知っている何人かの生徒は「リアルな情報はブログの方が手に入りやすい」という事を学習します。次回検索の際は「長崎_ブログ」だとか「長崎_行ってきた」といったキーワードを使うかも知れません。


  • 分析*2

「目的に応じた」といっても初めから目的を持ってWeb検索を行っている訳ではなく、検索−吟味を繰り返す中で「あ、自分の目的ってコレだったのね」と気付かされる事が意外と多い。

Web検索は今のところ、キーワードが思い付かないと絶望的。極端に言えば「何か面白いものなぁい?」というニーズにはほとんど応えられない。Web上のコミュニケーションの大雑把な特徴をつかまえて、自分のニーズを明確にキーワードの形で表現しないと情報検索は難しい。

「Web上のコミュニケーションの大雑把な特徴」というのは例えば「リアルな情報はブログの方が手に入りやすい」といった事で、修学旅行に限らず様々な目的を持ってWeb検索にトライする中で色々と学習する。旅行なら旅行に関するコミュニケーションの様式と広がりがあるはずだから。

こうしたトライの経験を級友や先輩らと共有することで学習に繋がる。ネットへのアクセスばかりでなく、オフラインの情報交換によってもたらされる「ネットリテラシー」も意外と多い。例えば思考実験ではブログを発見した生徒が班のメンバーにそのページを紹介していた。


  • まとめ

技術としてのWeb検索は非常に簡単ですが、活用能力としての「情報検索」はかなり奥が深いです。当然「修学旅行に関する情報検索」ができるだけでは授業としてあまり意味がありませんから、できるなら自分自身の除法検索を相対化して、「目的が明確になるプロセス」や「Web上のコミュニケーションを把握するプロセス」を意識化させるような指導が必要なんじゃないかと思います。

*1:勿論、Google内部では適合性を高めるための様々な工夫がされているのだが

*2:断っておきますが、自分の経験からくる判断も含んでいます。

2009年05月19日

[]合意形成についての私的見解(本日の発表・質疑応答)

「合意形成って何ですか?」という質問をid:tetsuyasatoが受けて、後の方で話題になりましたが、「合意形成」って説明すしようとすると厄介ですね。「選挙は合意形成なのか」みたいな話で盛り上がっていました。

合意形成を考える

議論の便宜のため「ガバナンス論(講義)」では否定されていましたが「全員が同じ意思になること、全員が同じ感情になること」を含めて、また単に「合意形成の場に居合わせた」結果として決定を受け入れることも含めて〈広義の合意形成〉と呼ぶことにします。

ここでは思考実験として幾つかの事例を想定してその中から〈狭義の合意形成〉の要件を考えていきたいと思います。


事例A

星野「道路にゴミが落ちているよ」

加賀「本当だ」

星野「じゃあ、ゴミを拾おう」

加賀「僕も同じ気持ちだ」

星野「僕たち、合意したね」

事例B

星野「道路にゴミが落ちているよ」

加賀「本当だ」

星野「拾ってあげないとカラスが来て大変なことになっちゃう」

加賀「この町にはカラスなんていないよ」

星野「いや、いるよ。見たことがあるもの」

加賀「本当に? 信じられないなあ」

星野「だからゴミを拾いたいんだ」

加賀「むしろこんな所にゴミが落ちていることは僕の美学に反するんだ」

星野「じゃあ、ゴミを拾おう」

加賀「僕もそうするべきだと思う」

星野「僕たち、合意したね」

事例C

星野「道路にゴミが落ちているよ」

加賀「本当だ」

星野「拾ってあげないとカラスが来て大変なことになっちゃう」

加賀「でも僕たち急いでいるんだよ?」

星野「うん、そうなんだけど、放っておけないじゃないか」

加賀「困ったなあ」

星野「お願いだ、2人でやれば早く終わるんだ、協力してくれ」

加賀「うーん……」

星野「25分までに終わらせよう。もしできなかったら諦める。どう?」

加賀「分かったよ、ゴミを拾おう」

星野「僕たち、合意したね」

事例D

星野「道路にゴミが落ちているよ」

加賀「本当だ」

星野「拾ってあげないとカラスが来て大変なことになっちゃう」

加賀「でも僕たち急いでいるんだよ?」

星野「うん、そうなんだけど、放っておけないじゃないか」

加賀「困ったなあ」

星野「お願いだ、2人でやれば早く終わるんだ、協力してくれ」

加賀「いや、絶対間に合わないって」

星野「間に合うよ、きっと!」

加賀「しょうがないなあ、分かったよ」

星野「僕たち、合意したね」

事例E

星野「道路にゴミが落ちているよ」

加賀「本当だ」

星野「拾ってあげないとカラスが来て大変なことになっちゃう」

加賀「でも僕たち急いでいるんだよ?」

星野「うん、そうなんだけど、放っておけないじゃないか」

加賀「困ったなあ」

星野「お願いだ、2人でやれば早く終わるんだ、協力してくれ」

加賀「そう言われても……」

星野「バスに乗れば間に合う」

加賀「僕はお金がない」

星野「僕が出すよ」

加賀「そういう訳にはいかないよ」

星野「君はゴミを拾うのが嫌でそんな事を言っているんだろう」

加賀「何でそこまで言われなきゃいけないんだよ」

星野「だってそうだろ、そうでもなきゃ、ここまで反対しないだろう」

加賀「僕たちは急いでいるんだってさっきも言っただろう」

星野「そんなに重要なことかよ?」

加賀「ああ、重要だね」

星野「僕と君とは価値観が違うようだ。君一人だけ先に行けばいいだろう」

加賀「なるほど、それもそうだ。じゃあ僕一人だけ先に行かせてもらうよ」

星野「僕たち、合意したね」

事例F

星野「道路にゴミが落ちているよ」

加賀「本当だ」

星野「拾ってあげないとカラスが来て大変なことになっちゃう」

加賀「まさか拾おうって言い出すんじゃないだろうね?」

星野「そのまさかさ、拾おうよ」

加賀「嫌だよ、面倒くさいじゃないか」

星野「そういえば君、僕から100円借りてたよね?」

加賀「ぐ……」

星野「僕の頼みは断れないよな?」

加賀「ああ、はいはい、わかりましたよ……!」

星野「僕たち、合意したね」

事例G

星野「道路にゴミが落ちているよ」

星野「拾ってあげないとカラスが来て大変なことになっちゃう」

星野「よし、拾おうじゃないか」

星野「僕たち、合意したね」


事例から合意形成を考える

事例Aは「心が通い合っている」場合です。これも〈広義の合意形成〉ですが、〈議論〉が行われていません。

事例Bはゴミを拾う理由については食い違いがありますが、ゴミを拾うことに関してはお互いがそもそも同意しています。その上で合意形成だと言うわけです。

事例Cでは加賀はゴミを拾うことに難色を示していますが、星野の説得的な〈議論〉によって加賀の態度が変わります。説得を受けて加賀は納得します。

事例Dでは星野は〈議論〉による説得を試みますが、加賀に却下されます。しかし星野は理性に依存しない手段(「間に合うよ、きっと!」という気迫や情熱)によって加賀を説得し、加賀は妥協します。

事例Eではゴミを拾うことに関しては合意形成できませんでした。星野は加賀を〈議論〉によって説得しようとしますが、加賀は聞き入れません。結局、星野は二人でゴミを拾うことを諦め、加賀は二人で目的地に急ぐことを諦め、両者の態度がコミュニケーション前と変化します。そして互いに干渉しないことを合意するのです。

事例Fでは星野には債権者という地位が与えられています。つまり権力にものをいわせて(理性ではなく)加賀を説得?しようとしています。これに対して加賀は渋々、服従します。

事例Gでは星野が勝手に加賀が合意したとみなしています。会話文で見ると分かりやすいですが、加賀が一回も登場していませんね。


事例の評価

ガバナンス論の視点から見ると、事例A、事例E、事例F、事例Gは〈狭義の合意形成〉から排除します。理由は説明するまでもありませんが、事例Aでは「心が通じ合っている」ことが前提となっているため*1、事例Eでは「分かり合えないことを分かり合う」という変な構造になっていますが、「公の秩序を形成する」というガバナンス論の趣旨とは逆の性格を持った合意でしょう*2。事例Fは理性による説得・納得が存在せず、権力関係で説明できます。合意形成のためのコミュニケーションの中身はあまり問われません。事例Gは加賀にとって〈参加〉も〈包含〉もなく、合意形成が成立したと評価しづらい面があります。

事例Bは〈狭義の合意形成〉に含めるかどうか微妙なところですね……。


〈狭義の合意形成〉とは?

〈広義の合意形成〉のなかで、〈議論〉を含み、〈秩序形成〉を志向し、発案者の提案に対して参加者*3全員によって納得或いは妥協(これを仮に〈了解〉と呼びます)されたものを〈狭義の合意形成〉と呼んで構わないと思います。

また広い視野、長期的な視野に立って、〈秩序形成〉に支障を来さない〈了解〉である必要はあると思います。例えば後で文句がつくような〈了解〉は不完全な〈了解〉ということになります。結局誰も提案の趣旨を理解せず、実行の際に困ったことになるような〈了解〉も不完全な〈了解〉です。不完全な〈了解〉を含む合意形成は〈狭義の合意形成〉からは除かれます。


合意形成の考え方

実際のガバナンスには〈広義の合意形成〉がたくさんあります。ですから〈狭義の合意形成〉(理想の合意形成と呼んでもいいかもしれません)という概念を活用して、合意形成がうまくいったかどうかという基準でガバナンスを評価することができるでしょう。

勿論、↑で私が提案した〈狭義の合意形成〉は私個人の考え方に過ぎませんから、それぞれ自分自身で「望ましい合意形成とは何か」について考えてみると良いと思います。私に対する批判もどうぞ。

冒頭で「選挙は合意形成か」という話が出ていましたが、確かに選挙の一部分で合意形成と思われる説得的な議論が繰り広げられることもありますが、選挙自体、ルール(枠組み)に過ぎませんので、合意形成とは考えがたいです。その辺はid:tetsuyasatoの授業で……*4


メディエーター

最初のグループの議論の核心はメディエーターだったと思います(?)

合意形成のコーディネーター(ファシリテーターという場合もありますが*5)が中立的な立場で議論をうまく促進するという考え方ですね(事例Eのように喧嘩別れにならないように)。

しかしメディエーターが本当に中立的になれるのか、メディエーターはどうやって選ばれるのか、誰がメディエーターになるのかといった様々な問題を抱えていると考えます。


共通した前提を探る

2番目のグループは「先生側」と「親側」の二者の意見の共通項を見いだしたという点で良策でした。

メディエーターにとって平行する2つの議論を噛み合わせて合意を導くためには二者が互いに認めている前提や互いに共有している価値観から出発するのは非常に有効な手だてだからです。

先生の講評にもありましたが、「先生側」と「親側」を勝手に想定して「神の視点」に立っていたのが気になった点です。まぁ想像力は重要なのですが……。




合意形成って難しいですね。

*1:これはこれで背後に同調圧力などの問題がありそうですが

*2:ゆえに「ガバナンス=合意形成」という図式は崩れる

*3:例えば市民と言ったり、有権者と言ったりするわけですね。ここでは参加すべき人のこと。実際に参加すべき人が参加しているかどうかは「参加の問題」ですので

*4:やらないかも知れないけど

*5:厳密な違いはよく知りません

2009年05月17日

[]グッド・ガバナンスかどうかをどうやって評価しますか――当事者意識の形成という観点から――



先週のガバナンス論は「合意」だったそうです。

授業形式について一部で不満の声を聞きますが、直接言ったらいいと思います。



>ガバナンスにおける合意プロセスで最大の課題は,参加している人たちがどれだけ当事者意識を持っているかということでしょう

赤尾先生の指摘の通り、参加者の問題はあると思います。

同時に人はどのようにして当事者意識を持つのかについて考えることも必要だと思います。


>アツく議論や批判を展開している人たちをシニカルに傍観してしまったりします

逆に周りがアツ過ぎると相対的に自分が冷笑的になってしまう場合も多々……。

「社会システム論?」で学んだ「熱心派と非寛容」の問題で、より不理解や「溝」を感じてしまうおそれがあるでしょう。

「なぜ議論しているのか」「どうやって議論しているのか」「誰が議論しているのか」といったメタな視点は不可欠だと思います。


>当事者意識を持つ人たちで形成した合意に対して,感情論などを持ち出して(あるいは「私は聞いていない」とか),異を唱える人がいるのも困ったものです。

これも「熱心派」によくある不満だとおもいます*1。社会道徳や愛国心は特効薬にはなり得ないだろうし、フリーライダーのくせに文句だけを言う人もいます。

しかし「溝」をつくることは決して良いこととは思えません。もし「当事者意識を持つ人たち」が「溝」をつくることを是としないなら、当事者意識を持たない人を取り込む努力をすべきでしょう。

こうした努力は、一方で「熱心派」の正統性を強化する働きもあると思います。例えば形式的に「みんなの意見」を募集しておいて、実際にはほとんど意見が寄せられていないのに「みんなの意見を反映しました」と主張する。そして「何も言わなかったお前らが悪い」と。

しかし問題なのは、ある権力者が、潜在的な当事者(従ってガバナンスに参加できる)に対して(意図してか意図せずかは問わないが)適切な情報提供を行わず、その結果として潜在的当事者に当事者意識が形成されない場合がある、ということなのです。

そして意志決定が終了した段階で、潜在的当事者たちが当事者意識に目覚めるわけです。「私は聞いていない」、と。

権力者が意図的に情報操作をした場合、非難されるべきですが、意図せずに当事者意識の形成を抑止してしまう場合も考えられます*2

そのための「ガバナンス論」という訳ですね(笑)。


では、よりよい合意のために、何をすべきか?

Consensus oriented

There are several actors and as many view points in a given society. Good governance requires mediation of the different interests in society to reach a broad consensus in society on what is in the best interest of the whole community and how this can be achieved. It also requires a broad and long-term perspective on what is needed for sustainable human development and how to achieve the goals of such development. This can only result from an understanding of the historical, cultural and social contexts of a given society or community.

WHAT IS GOOD GOVERNANCE?

合意に基づく

現在、社会にはそれぞれの視点をもった色々なアクターがいる。グッド・ガバナンスは幅広い社会的合意に達するため、社会における様々な(立場の)調停を求めている。その社会において全てのコミュニティの最も多くの関心のあるものについて、またどのようにしたら目的(幅広い合意形成)を達成することが出来るかについて。グッド・ガバナンスには、持続可能な人間発達に必要とされるものと、こうした発達の目標に到達する方法について、見通しの立った長期的な視点が必要だ。これは、歴史と所与の社会或いはコミュニティの文化的社会的文脈の理解だけが結果をもたらすだろう。

訳:vanya*3

国連は「合意」のために、ある社会(コミュニティ)の歴史、文化、社会的文脈を理解しなさいと言っている訳です(たぶん)。

こうした理解をどうやってよりよい「合意」に結びつけるか、潜在的当事者意識の可視化が重要です。

情報技術は歴史、文化、社会的文脈の理解、及び当事者意識の可視化に貢献するでしょうけれど、いかに活用していくべきかという視点が必要です。


>それではたしてグッドガバナンスが可能なのかどうか――。

この問いかけに意味があるのかどうかは分かりかねますが、理解しようとする努力を欠いて「あのわからずや」と怒鳴る人間にはあまりなりたくはないです。

*1:ええ、分かります、分かりますとも!

*2:例えば一般の人が関わるような問題について難しい言葉で語って、一般の人が理解できない議論にしてしまうなど

*3:"best"の解釈がこれでよかったか……。おかしな点があればコメントください

2009年04月28日

[]ブログ演習でのアメブロ率が高いことについて

嫌な予感がします。

ある論題に対して、他の受講者のブログを巡回して意見の分布を調べたいなぁと思ったとき、全てのブログがチェックできる状態である必要があります(特にとまとめエントリを作成するとき)。

私個人の経験則ですが、アメブロは「サーバのメンテナンス中」などが非常に多い印象があります。あれには何度となく歯痒い思いをさせられました。今年は改善されているといいのですが。


昨年、赤尾先生がはてな批判(?)をしたらゼロでした。一昨年は佐藤先生がはてなをプッシュしたので相当なはてなダイヤラーが誕生しました(私自身はべつにはてなに帰属意識はないですけど)。

今年こそは、と思っていたhamazoユーザは誰一人現れませんでしたね。写真等をアップし続けると、知らない人が絡んできて楽しいのに。カテゴリの作り方などが若干面倒くさいけれど。