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2019-01-24

酸とアルカリと、善悪と

季節外れだけど、紫陽花の話をすればわかりやすい。


紫陽花は、どこに植えるかによって、花の色が変わる。

この色が可愛いなあと思って、気に入って手に入れてきても、

自分の家の庭に植えたら、全然違う色になったりする。


これは、色に限らず、形状がどんどん変わったり、

あるいは、移植したら育たず枯れてしまうことも、そうだ。


なんの実験だったかな、金魚もそうだ。

金魚は、人工的に、あのキラキラした鱗になるように交配させられてる。

だから、レメディを与えたら、もとのグレーなフナに戻っちゃう。



何が善で、何が悪か、というのはまさにこういうエリアの話で。

それ単体で、周囲との関連性や、ストーリーの変遷なくして、断定できるものじゃない。


別のことを調べてたのに、ひょんなことででくわした知恵袋のテーマから

いろいろ思い出していた。


「梅シートをたべすぎると歯が痛くなるのはどうしてですか? 」

という投稿だ。

歯が傷むときには、2つのベクトルがあって、ここでも書かれているような、酸によって、

外からの影響によって腐食する場合(酸蝕歯)。

それから、乱暴な言い方をするなら、体液の状態が酸性過多になっていることにより、

菌の温床になってしまうことによる、腐食。


安直に、pHの酸性が強いものを食べないことが大事、みたいなことだけで話が終わるのは、

ちょっと乱暴すぎやしないか、とわたしは思うのだ。

こういうブログはまちがいなくグーグルの検閲にひっかかって上位には入らないようになるだろう。

自分で読み解ける人だけ読んでくれ。


古くからの食養では、歯痛のときに、梅干しを歯に詰めると痛みが止まる、

と言われることもある。

これは、体全体が酸性に偏っていることへの中和、という意味でもまっとうな対処なのだ、本来。


梅干しは確かに、酸っぱい。pHも酸性であろう。

だが、よく健康界隈で言われる酸性アルカリ性、というのは、食品単体のソレではなくて、

体内に入ったときにどう働くか、という、わたしと食品の相互作用の結果について問うている。


中動態みたいなものである(ちょっと違うけど)。


大体、酸っぱいものを食べると、否、食べなくても、この記事で「梅干し」というキーワードを

視界に入れただけで、人はもう、口の中に唾液がたくさん分泌されるだろう。

その、身体の持っている自然なバランスをとろうとする力。


酸っぱいものを摂取して歯が溶ける、という話は、酸っぱいものを摂取したせいだけではなくて、

その、唾液が自動的に出てきて、相互作用がはじまる、ということが鈍っている、

そこにテーマがあるのではないか、とわたしは思うのでした。


ドライアイとかドライマウス、という病もあるけれど、あれだって、外から薬品や生理食塩水的なものを

補給する、というのは後手後手なのである。

そういうことをいろいろと思ったときに、

その人の身体、そして、その人が生きてきた経緯においてにじみでてきた色、というものを踏まえないと、

単体だけで、とってつけたように、何も扱えないと思う。


偶像崇拝や、春を売買する世界は、経緯をぶったぎる世界だ。

それは、ネガティブなストーリーのどつぼにはまっている人にとって、それをかなぐりすてて

逃避できる手っ取り早いツールのように輝いて見えるだろうが、

実際はより、そのストーリーから出られなくなり、泥沼に足を取られることを深めてしまうだけに、なる。


見ていないけど気になっている映画に、MOST BEAUTIFUL ISLAND がある。



映画『MOST BEAUTIFUL ISLAND』オフィシャル・サイト



この映画がテーマにしている領域について、わたしもわたしなりの方法でずっと追ってきて、

それなりにいろいろ思うことがある。


つくづく、表層的にきちんとしていることの闇の深さへの対峙、これしかないと思っている。


昨今、いじめられている側でなく、いじめている側へのケアがないとどうしようもないのではないか、

という論点がでてきて、世の中変わってきたなと思ったりするけれど、

それは、自分に置き換えてみると、どこかでそういう、嘘くさい自分と、そのしわ寄せを無自覚に、

弱い誰かに押し付けて救われようとしてないだろうか、ということへの対峙になってくる。


そういうことをもやもやと、ずっと考えてしまう今日このごろの、メモでした。


・・・そういうことをごまかさないまま、揺らぎをそのまま見据えながら、生きていきたい。

2019-01-06

言わずもがな、とアンスクーリング

言わずもがな、というのは、辞書によると「言う必要のないこと」だそうだ。

わはは、わたしはほぼこれしかやってないような気がして、ずーんと落ち込むのだが、

それでもあえて、言語化することの効用、についてちょっとメモしておきたい。


言葉にして現象化させることは、囚われのツールにもなりうるし、解放のツールにもなる。

では、解放にはたらくときは、何が起こっているのだろう?


言葉にして、ひととおり腑に落ちるところまで完結できると、忘れることができる。

これはわたしにとってとても大事な過程だ。そのおかげで、根に持たずに全部流すことができていることが、

たくさんある。そして、その過程をシンクロニシティとして、自分のテーマと重なるように味わっている人がいるとき、

その人も同時に、自身のテーマの熟成、葬り、手放しを早めることができるように思う。


これに対して、まったくそのテーマに現在無関係な人にとって、唐突にある話が持ち込まれたらどうなるか。

それこそ、「もう、今宿題やろうと思ってたのに!言われたことで余計やる気がなくなった」みたいなことになったり、

「なーんだ、そんなしょうもないことだったのか」と見くびるきっかけになることもあり得る。


この、言葉を手に入れたことで即座になめてかかる系の人は、どんな場面でも常にそういう構えの人々なので、

これはもうほうっておくしか無いといつも思っている。

こないだ見かけたどなたかのツイートで、「外国人がたくさん増えた風景になったから、ある文化が衰退した」

と嘆くことは、一見筋が通っているように思うが、その気のない人々は、そういった外国人が増えようが増えまいが、

もとから着物は着ないし、和食は食べないし、雅楽なんか嗜まないだろう、というのがあって激しく首を縦に振ってしまった。

(もっともこのテーマは、こういった、ティピカルな日本文化イコール日本らしさ、という決めつけについて、それどうやねんという意味で

かなりツッコミどころがあるが、その話は今は脱線するので割愛したい。。)

随分前、フィギュアスケート安藤美姫さんが、解説業にあまり呼ばれなくなった、みたいなエピソードをどこかでみかけた。

その理由は、彼女の言語感覚がかなり抽象的であり(擬音語や指示語ばかり)まったくもって「解説」としては意味不明だから、

ということが話題になっていた。


安藤さんも確か射手座だった記憶がある。太陽と水星はほぼくっついているので、おそらく彼女の水星は射手座ではないか?

かくいうわたしも水星射手座持ちなので、彼女と同じ指摘をされやすい言語感覚を持っているので他人事ではない。


安藤さんのような言葉の用い方は、言葉ですべてを説明せず、風景や体感などが連動することを前提に、補助的に用いている。

音楽のレッスン風景は、ほぼこれと同じような状態で、録音して文字起こししたら、他人にはなんのこっちゃさっぱりわからないであろう。

だが、当人たちには、しっかりこれで意思疎通が成り立っているのである。


アンスクーラーや、一子相伝的世界観は、かなりこの感覚に近い。

それは、必然性がある、当人同士に、伝わる相手を絞ることで、より正確に同じ世界をわかちあおうとする試みだからだ。

これに対して、外的ストーリーテラー達は、何の必然性もないくせに、土足でずかずか踏み込んできて

「なになに?わたしも知りたい!教えて教えて」という割に、まったく、その世界への敬意や関心がない。

そういう人には、伝える必要はないのである。


そういう話を踏まえた上で、言葉が「解放」にはたらくとはどういうことだろうか、もう一度考えてみたい。


今日たまたま手にした「母を支える娘たち」高石浩一 日本評論社 1997年 からちょっと引用したい。

「いらんことしい」である言葉を媒体にするからこそ、理解が深まる瞬間とは。



”精神分析のオリエンテーションを持っている人に比べると、ユングの分析心理学に興味を持つ人々は、一見優しいように見える。それは彼らがあまりものを言わないからで、理詰めでものを考えると言うよりは、むしろイメージで語ることを好むからである。(略)外から見たとき、カウンセラーへの励まし以外、ほとんど事例に関するコメントがなされないカンファレンスは、奇妙で優しいものに映るかもしれない。「深いね・・・」という先生のコメントに皆がうなずくさまは、時に異様にすら映るだろう。しかし、である。語られない背後にあるのは、「言わずもがな」の世界である。そしてたいていの場合、カンファレンスの場で一番わからないままに置かれるのが報告者である。その意味で、ユング派のケース・カンファレンスは怖い、というのが体験した筆者の感想である。もっとも、こうした特徴を逆手に取った、変にカリスマ的なカンファレンスが多いのもこの学派の特徴ではある。「言わずもがな」と「言えない」の違いは見えにくく、「言えない」コメンターが「深いね・・・」を連発して周囲を煙に巻く場合も少なくない。まさに「裸の王様」的状況である。(P78-79)”


”要するに、ユング派には発達論はないし、治療目的も混沌としている、ということであろうか。しかし、具体的にそれが何かを捉えきれないにしても、やはり何らかの意味がそこにはあるに違いない。いたずらに実感主義に走るのは危険だし、筆者も好きではないのだが、それでもユング派の分析を受けた人たちの感想は「ああでもあるし、こうでもあるし、よくわからないけど、いろいろ考えさせられる・・・」という類のものが多いように思う。つまり「言葉にはならないが、何か意味があることをしているように感じる」のである。これは「ああそうだったのか」と解釈がクライエントに「受け入れられる」ことをめざす精神分析とは、やはり相当異なっている。もちろん「諸元型との接触」など、毎日やっていたらセラピストもクライエントも身が持たないし、基本的に神田橋條治(1992)の語る「コツ」はとても重要である。「人間はあまり変わらない方が良いよ、行き詰まったから、仕様がないから変わるの」と彼は言う。「絶え間なく変容し続ける」という上記のユング派の治療目標とは必ずしも相容れないのだが、とりあえず筆者は今の所、この葛藤の中に身を委ねながら面接を行うのが性に合っているように感じている。(P101-102)”



・・・・・・。

結局、こういう境界を越えたストーリーがどんどん進んでいく場面にたちあったとき、「業務」としてこれにどこまで携わるべきか、

という問題が横たわってくる。だから、わたしは、このエリアを仕事にすることはとても危ういといつも感じている。。


あとがきにおいて高石さんは

”「気づかなければ、知らないほうがよい。薄々気づいて苦しいときは、納得できるところまで正体を見極めたうえで、蓋をして知らないふりをしたほうがよい」と本気で思うようになった。ただし実はもう一つだけ、そこでは書かなかった一文がある。それは「どうしても、どうしても知らないふりができないときは、肚をくくって正面から取り組むしかない」ということである。この覚悟を決めること、本気で「肚をくくる」こと、死と混沌の渦に直面する勇気を奮い起こすこと、それも最大限に懼れおののきながら心底仕方なくそうすること・・・。おそらく筆者にとっては、それがこれからの課題である(P238)”

と締めくくってらっしゃる。


心理学という世界の元ネタはシャーマニズムであり、それが、社会システムの潤滑な運用に関して有用な部分だけ、いいとこどりをされたものが心理学という社会的な権威となって大手を奮っている。だが、その運用次第で、人をさらに、深く病に突き落とすことも可能なのに、その暗黒面についてはほとんど取り沙汰されることはないように思う。

それは、わたしも含め多くの人が、経済に見放されたらどうやって生きていったらいいのか、という恐怖を全く持たないわけにはいかない、

というテーマと密接に絡んでいるように思う。経済と生命は反比例なのである。


その根源的なテーマについて、自分はどういう生き方をしたいか、ということと、「治る」ということとは切っても切り離せない。

その過程に丁寧に向き合っていくことは、どうしたって、めちゃくちゃ、個人的な話ではないか?1時間いくら、で請け負えるような仕事ではない、、

でも、なにかしら、私的な範囲、というものをもう少しゆるめて、試みることは、できないものだろうか?


・・・だんだんまとまりなくなってきてしまったけれど、日食の今日、今年のテーマだろうな、と思うような内容になった、気が、します。

アンスクーリングというのはまさに、日々この種の対峙、に素直に在ることだと思う。外的ストーリー的な、必ず誰にとってものっぺりとした「答え」はないとしても、今の自分にとって「これだ!」と、目をキラキラさせるような、しっくりくる体験、というものは、必ずあるはず。

それを追い求めることが、本当の治癒であり、表現というものが、どのエリアを触発したいのか、そういうことではないか、と。

2018-12-16

表層に惑わされない

キネシスからエネルゲイアへ、のその2を、とりあえずなんとか書き上げて、先日の文学フリマで販売させてもらった。

なにかしらの形で販売ルートに乗せるのと、内容を公開するのと、きちんとやっていきたいと思ってます。



で、今日はそれに連なるストーリーを、スーザン・ケインの「内向型人間のすごい力」(講談社α文庫)から

ちょっと引っ張ってきたい。



”好奇心をそそる答えが、ミシガン大学ビジネススクールの研究からあきらかになっている。

研究対象は違う性格型の夫婦ではなく、アジア人とイスラエル人という文化が違う人々だ。

被験者は香港とイスラエル出身のビジネススクールの学生七六人。

数カ月後に結婚を控えて、披露宴のことについてケータリング業者と最終的な相談をするという設定で、業者が説明するビデオを見せられた。


一部の被験者が見たビデオでは業者は親しげな笑顔で、他の被験者が見たビデオは業者は腹立たしげにきつい調子で説明するが、話している内容はいずれも同じだ。当日に披露宴をやりたいというカップルがもう一組いて、料金が高くなったが、依頼するかどうか、というのが要旨だ。


香港出身の学生とイスラエル出身の学生は、まったく違う反応を示した。

前者は敵対的な業者よりも友好的な業者からの提案を受ける確率が高かった。気難しい業者の提案を受けると答えたのはわずか十四%、笑顔の業者からの提案を受けると答えたのは七一%だった。

だが、後者はどちらの業者からの提案も同じ確率で受け入れた。

つまり、アジア人は交渉の際に内容だけでなくスタイルも配慮したが、イスラエル人は与えられた情報だけをもとに判断したということになる。交渉相手が友好的だろうと攻撃的だろうと影響を与えないのだ。(P372-373)”




スーザン・ケインはこの研究結果を、わたしとまったく違う文脈において例として用いて本を展開してるのだけど、

わたしはちょっと違う視点からこの話を膨らませたい。


わたしは、世のビジネスが、なぜ、質が高く、きちんとしたストーリーを担保することにつながらないのか、の端的な理由の一つが、

ここにあるのではないかと気づいた。


セラピーは、真の意味で心身が癒えるためにある専門技術ではなく、ただただ、無条件に自分を受け入れてもらうための時間を金で買う行為、

という定義の方が近いが、この実験のようなアジア人のような人ばかりが溢れているとき、

結局、商品の質の高さ、きちんとしているかどうか、ということよりも、営業の人の「感じの良さ」だけで、粗悪な商品が

がんがん売れていく、ということを招く。



わたしが感情労働に危機感を抱いているのは、おおもとの仕組みがめちゃくちゃであることにより、商品やサービスの質が低下しているにもかかわらず、

そこにデコレーションのように、とってつけたように、スイッチを押せば必ず「快い感情」を提供する係が、

粗悪なスポンジに、こってりと生クリームを塗りつけることで、商品として売りさばいていく、

そういう役割として利用されてしまうからだ。


イスラエル人は、冷徹で金の亡者でなど、悪イメージが強い人々であろう。

民族をキーワードとして対比させると誤解を生じやすい。実際は、人種を問わず、

ある種の専門教育を受けたエリート的な人々は、みんなこの思考回路を後天的に身に着けている、という言い方をすると正しい。


こういった冷徹さを身につけることで、自分の中のキネシス領域と、エネルゲイア領域の混線によって、

自分がまんなかの肥溜めに落っこちて四苦八苦することから、脱していくことができるのではないかなあ?



なにもない日々で、いつもデフォルトで機嫌が良い人というのは、

要所要所で、わけのわからない機嫌取りにだまされない生き方を身に着けている。



わたしもだいぶ肝が座ってきたが、より極めて生きなくちゃ、しっかりしなくっちゃ、と思う今日このごろのメモとしてシェアです。

2018-08-27

元型イメージというリアリティ

久しぶりにブログを書きたくなったので。


最近しみじみと、イメージとの対峙というものについていろいろ思う。

真摯にイメージと対峙することは、深く人生を味わうことであり、

それは必ずしも、物的・肉体的領域にかかわる現象界における出会いでなくても同じことなのだなあと。



たとえばいて座のサインは、旅行であり図書館である。

どちらもサインの世界観としては同じといわれる。



このことの意味がわかる人は、元型イメージと日々、しっかり対峙するひとたちなのだろうと思う。

よく「やってみないとわからない」「やってみるのと想像するのは違う」

と言うけれど、それも程度と方法次第で、肉体が思い知ることだけが深い体験、とも思えないのだ。



しばらく、ちょっとアカデミズムに偏りすぎた興味のアンテナを、

すこしまた怪しい方向に戻しながら、最近ずっと思っているのはそういうこと。


わたしは人とかかわるときも、その人の向こうに透けている、その人由来でないなにか、

がいつも気になって仕方がない。


そこに焦点をあてた状態で、コミュニケーションをはかっていると、

同じストーリーを抱えている人が、各地で同時にスイッチが入りシンクロがおこっていく。


ネットと現実と、あんまり区別しないで生きてるのは昔からで、それは何もネットの人とリアルに会って常々交流する、

わたしにとってはそういう意味じゃなくて。



このニュアンスはたとえば、クリエイティブな活動をしている人は、なかなかリアルな恋人や子どもと縁がない

という話にもとても似ている。


キネシス的な引き合いは、浅い故に、ぽこぽこと数を現象界に増やしていく。

だけど、そうやって数が増え、体験がちらばっていくことが、はたしてほんとうにそれだけが価値なのだろうか。


そういう心持で、わたしは「良家の子女の昼下がりのおなぐさみ」でないやり方で、

書いたり、話したり、演じたり、そういう世界を、どこかできちんと持ち続けていたいとあらためて思う。


そのことが、わたしの、無自覚にかかえてきたカルマの浄化なんじゃないかなあと思うのだ。



向き合わねばならない、向きあいたいと思っている元型イメージと出会うきっかけが、

閉じた深いリアルコミュニケーションとも限らないとほんと思う。

いろいろな人のかかわりから、その全体性をわたしが見いだしていく、そういうことだと思うのだ。



これは、完璧なただひとつのストーリーに固執しない、ということにも似ているだろう。



そういうことに、なぜかふと開眼したような今日この頃で、

なので肩の力を少し抜きながら、そう、どこにでも同じ質の、本質というかみさまが偏在してる、

アニミズムっぽい発想で、毎日ありがたく暮らしていこうと。



ここを読みに来てくださっているみなさんも、いつもありがとう。

2018-07-16

成熟さと無垢さは矛盾しない

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ものすごく久々に、ブログを書こうかなと思ったので書きます。


東京にひっこしてきてもう半年になろうとしています。早い、、



「日常がシンボル解釈そのもの」な感じで生きるのはいつものことで、

そのことでいろいろ蓄積したことがあるけれど、


もうその「!」という高揚した瞬間を過ぎてしまうと、

なんかもうまた文章化する気にならない、さてどうしよう、、といった気持ちが半分と、

それでも、それをしないからこその鬱々とした気分が

両方ごちゃまぜになってわたしに語りかけてくるので、

支離滅裂なまま、できる範囲できちんとストーリーに成仏させてあげて、

秋の文学フリマ東京への出店および、ここやカクヨムなどへの連携、をしていけたらと思ってます。



で、今日書きたいテーマは、

「成熟さと無垢さは矛盾しない」というおはなし。



キネシス的な世界では、

若さが重視され、老いることは無価値ということになっている。

成熟というものへの価値がない。

エンデの「硬直したハビトゥス」そのもの。


そのことへあらがっていくスタンスというものは、

外的ストーリーテラーから、簡単に嘲笑の的になるし、

重箱の隅をつつくようなやり方で


「ここがおかしい」

「まちがっている」

と指摘するのは

あまりにも簡単であり、

その安直な裁きによって、あっというまに、

なんとかあらがおうとすることにあきらめて萎えてしまいがちである、

そういう無防備さ、弱さについてしみじみ感じる。



そういうときにこそ「めげちゃだめだ」という励ましが必要なのであって、

自分を殺す方向に「よしよくやった、大人として立派」という方向へ励ましてはいけない、



そういった、力学に貢献しない、内的ストーリーをまもるためにあらがおうとすることを

「幼稚」であると矮小化し、子どものたわごとと切って捨ててしまうことが「セラピー」と化している世界もある。



そういう、力学に貢献しない世界をきちんと守りぬくことこそが成熟であるということを

受け入れられない、というのは、幼稚。




キ的な世の勝者は、ルールの設定権を握った側である、とよく言われる。

他のどんな権力もいらない、貨幣の製造権さえくれればいい、という話もあったよね。



そういった外的ストーリー=力学に対して、

唯一効力を発揮することができる、個人の生命ストーリーとしての強さは、


内的ストーリー=幼さを引き受ける成熟


しかないはずなんだ。



そういうことをいろいろ思う今日この頃。


今読んでいる本は「成熟のための心理童話」アラン・B・チネン

で、とても深い内容なので、あとでおっかけていきたい。


とりあえずメモ

 
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