なぜ小心者のblogの引っ越しは恐る恐るすることになるのか。

なんとなく中断していたblogをgoogleのサービスに引っ越して再開しました。

そういうこともあるかもね2
http://kazzhiguchi.blogspot.jp/

はてなさんにはお世話になりました。
特に理由はないけれど、googleのサービスには広告が載らないから、というのは広告屋としてどうなのか。

よしなに。

なぜ食事を三日抜いた揚げ句にあれこれ考えているのか

食欲というものはどこから来るものなのだろうか。

胃袋が空になると空腹を感じる、という仕組みだと単純に思っていた。朝になると空腹で、昼になると空腹で、夕方になるとおやつを摘みたくなって、また夜になれば空腹だ。その度に自分でふさわしいと思っている食べ物を手に入れ、胃に入れる。朝は白米、味噌汁、納豆。昼はチャーハンや麺類。おやつはチョコレート。夜はビールと焼き魚とか。しかしこれは習慣に過ぎないのではないか。

日曜の夜、なんだか胸焼けがするなあ食べ過ぎたかなあ、と思っていたら月曜の明け方になって上から下から大惨事になってしまった。尾籠な話で申し訳ないが、身体が取り入れた食べ物を拒否し始めると止める術がない。涙目で便器を抱えつつ、さては何か食べ物に中ったかとも思ったが他の家族は全員無事である。どうやら、「風邪が胃に来た」様子である。
大騒ぎも終わったので気を取り直してシャワーを浴び仕事に出かけたが、内臓が動かないと頭も動かず、早々に退散して家で休むことにした。丸一日絶食。食欲などまるで湧かぬのだから当然だ。

翌日も仕事を休ませてもらい、約束をしていた先輩に不義理をし、お師匠様にも詫びを入れて、じっと家にいたがやはり食欲が湧かぬので食事はナシ。水分だけはとらねばとスポーツドリンクを飲んでいる。これで丸二日絶食。

翌々日は朝から体調は問題なし。しかし食欲は出ないので朝食を控えて、仕事先でもランチを遠慮して、結局口にしたのはスポーツドリンクだけ。夕方オフィスから駅へ向かう繁華街で、ふと気づいた。

空腹は自覚しているのに、食欲というものがない。

ふだんは飲食店から流れてくるいい匂いに心惹かれる。それぞれのお店がアピールする看板に魅力を感じつつ歩く。新しい店が出来ていれば好奇心も湧く。ところが、自分の中にそういう反応が一切無いのに気がついた。例えて云えば居並ぶ美女が色っぽくおいでおいでをしているのに何も感じない、といった風情。ようするに食に対して鈍感になっている。

ふーん、なるほど。いつもは決まった時間に三食摂る習慣を続けてきただけで、実は空腹と食欲と習慣は別々のものであったのか。その証拠に、こうして3日間の断食をしていても、実生活には何の支障もない。もちろん身体の中の貯金を食いつぶして活動しているには違いなく不健康極まりないが、ハンガーノックに陥るとか、気が遠くなるとか、イライラして落ち着かないとか、そういったネガティブは全く出来しない。これは実に驚きだ。。

自覚として血液型O型の原始人なので、生命とりわけ食い物への執着は動物的な本能と信じていたのである。腹が減れば不安で何も考えられなくなる。空腹時にえさを与えられると「ウホウホ!」と欣喜雀躍する。事実そうだった。家族そろってO型なので、家族そろってそうだった。それが、これはどうだ。食への執着が消えてしまった。

結局はその晩も食べずに寝ることにして、三日間の偽ラマダンを終えた。たぶんこんなに長い時間食事をしなかったのは自分史上初めてだ。訳のわからない達成感とともに眠りについた。腹が減っても眠れるものなのだ。

4日目の朝の食事は忘れられない。米の味が「隅々まで広々と」ある。味噌汁の野菜の甘みが深い。卵焼きの味が複雑に美味い。どれも途轍もないものだった。鈍感になっている?いや、感覚は敏感になっているじゃないか。

この敏感さはランチに普通のラーメンを食べたときには消えてしまっていた。非常に残念である。また機会をみて断食してみるか、と考えている自分が居る。

三度の食事をする習慣には戻った。空腹の自覚もある。以前のような食欲が蘇るかは、まだ不明。

なぜジョブズの訃報を聞いて久しぶりにblogを書いているのか

みな、成功した者をじろじろ見て、成功の理由を知ろうとする。本屋に行くとそんな本がビジネスコーナーを埋めている。大勢が電車の中で読んでいる。本を読んでわかった気になる人間は大勢いるが、ほとんどは成功なんかしない。

はっきりしているのは、スティーブ・ジョブズはそんなことをしなかったということだ。

先見と創造の天才、とAppleのサイトは訃報の中で表現する。前者はその通りだと思う。後者も「実際的な意味で」その通りだ。

ふつう人間は、並外れて新しいことは理解できない。
個人が家にコンピューターを持つ意味がわからない。オーディオセットとレコード棚を持ち歩かなきゃいけない理由がわからない。PCからキーボードを無くして画面だけにして何がいいのかわからない。電話にコンピューターを入れる魅力がわからない。

専門家も、商売人も、見つけられなかった価値を見抜くのがジョブズだ。そして自分の正しさを証明しようとする。結果、世界中がその魅力に気づく。そのとき世界は変わっている。

「みんなには見えないもの」を見抜き、自分の正しさを証明する。それがこの天才の「貫通行動」だったんだろうなあ。

先見がない人間には、地図のない場所に突進する人間が馬鹿に見えるだろう。馬鹿にされても怯まずに、他人の力も動員してずうずうしく突進する意志がないと、証明は出来ない。

まさにStay Hungry, Stay Foolishだ。

さよなら、ジョブズ。楽しかったよ、ありがとう。

なぜ昔のマンガを思い出すといのいちばんに宮谷一彦になるのか

岡崎英生『劇画狂時代「ヤングコミック」の神話』を読んだ。

マンガ雑誌ヤングコミックの編集者だった著者が、当時を回顧する。裏話やゴシップにあふれていて興味深い。話があっちこっちに飛ぶし、固有名詞がほとんど解説なしに出るしで、普通の人には何が何だか判らないだろうが、僕はけっこう楽しめた。70年代のマンガ状況を知る上でのかなり偏ってはいるけど貴重な資料だといえる。どこまでホントなのか、勘違いなのかわかんないこともいろいろあるし、誰にでもお勧めしないが、あの時代を思い出すにはいい本だ。

中心になるのは宮谷一彦上村一夫との話だ。
宮谷一彦はほんとうにかっこいいマンガ家で、COMに掲載されていた彼のマンガは、絵もセリフも中学生だった僕を魅了した。テレビでも映画でも小説でも、こんなかっこいいものは他に知らなかった。彼が描くクルマやオートバイは、他の漫画家が描くのっぺりと記号的なモノと違って、汚れや傷まで本物のクルマだったのを思い出す。

もちろんヤングコミックに彼が描いていたマンガを僕が実際に読むのはずっとあとになってからで、この本に書かれているアシスタントを連れての集団蒸発シーンはそんな売れっ子時代の話だ。編集者として執筆を見張っていた筆者がぼう然とするシーンでこの本は始まるが、読んでいる宮谷ファンとしてはなかなか痛快なシーンでもある。

ハービー・マンの『メンフィス・アンダーグラウンド」を聴きながら読了。

劇画狂時代―「ヤングコミック」の神話

劇画狂時代―「ヤングコミック」の神話

なぜ新しいCDを聴きながら懐かしい気分がしてくるのか

山下達郎の新しいアルバムが届いた。「Ray Of Hope」。ぼくはソングライターだ、という主張がアルバムを通して感じられる。料理が変わっても同じ主張があるおいしいレストランのような印象。発表済みの曲が多いのに統一感があるね。シュガーベイブの頃から聴いているおっさんとしては、安心して楽しめます。「俺の空」って落語を聴いてるみたいだ。

初回限定版はライブ音源がおまけでついてくる。
このおまけがお値打ち。自分が好きな曲のライブバージョンが聴けるから、というのもあるけどこの完成度を見よ!というくらい参加ミュージシャンのレベルが高いったらありゃしない。このミュージシャンのレベルを守るために達郎さんは全力を尽くしているのであろう。で、音楽の完成度そのものがこの人の目標なんだろうなあ。

映画「BigWave」のテーマや、鈴木茂の「砂の女」のライブ音源が聞き物です。

Ray Of Hope (初回限定盤)

Ray Of Hope (初回限定盤)

なぜ親子で自転車に乗って日に焼けたり大漁だったりするのか

何はともあれ、夏休みである。

仕事も諸々入っているけれど、今週はひとまず休みということにさせてもらった。途中打ち合わせやプレゼンなどはのこのこ出て行くことにして、基本は会社に行かない。これでいいのだ。

で、中学生の娘を連れてサイクリングに出た。夏休みの宿題の、作文のネタを作ってやらねばならないからね。娘の自転車は小径のタイヤをはいた子供用のものなので、最近背が伸びてきた娘にはすでにちょっと小さい。そろそろ大人用のフレームを買ってやらねばならない。が、サドルをぎりぎりまで上げて、今日のところは勘弁していただいた。ヘルメットは少し前に新調しておいて良かった。

サイクリングといっても家からそれほど遠くへは行けない。で、善福寺川を遡るコースを選んだ。

僕のロードレーサーに子供の自転車でついてこい、というのは甚だ申し訳ないのだが他に無いので仕方ない。ゆっくり走ることにして、環七の裏や甲州街道の裏、井の頭通りの裏、と車の少ない道を選び、大宮八幡の参道へ出たら、すぐそこが善福寺川だ。川沿いのサイクリングロードを遡ると和田堀公園に入る。緑の濃い森の中である。人は少ない。平日だからか。

途中何度か給水タイムをつくったが、あまり疲れた様子もなく娘はついてくる。えらいやっちゃ。

川沿いに延々と緑地帯が続く。ジョギングでは何度か来ているのでだいたいわかっているが、その最上流までは行ったことがない。五日市街道を越えて、住所表記が成田になっているところで、緑地帯が終わっていた。しつこく走れば善福寺川公園に出るのだろうが、オヤジはちょっと疲れて来た。青梅街道まですぐのところで引き返して昼食をとる店を探した。娘の希望で、偶然見つけたとんかつ屋に入る。甲子園の中継が流れている。小さくて地味な店だけれど、ロースカツがおいしかった。けっこうな分量があったが、親子ともぺろりと食べてしまう。

戻って和田堀公園に行き、釣り堀の「武蔵野園」に行く。いちど来てみたかったのだ。昭和がそのままのこっている釣り堀だ。粗末な竹の釣り竿を借りて練り餌をもらい、釣り始める。森の中で、静かでのんびりして、人も少ないし東京じゃないみたいだ。「雑魚」と書かれた生け簀で糸を垂れていると、ぽつぽつ釣れる。鮒やコイである。けっこう大きいのも釣れるので手応えがあって面白い。娘はコツがわかってきたのか、他の誰よりも釣り上げる。90分ほどで15匹ほどの釣果である。僕は途中で飽きたせいもあるけれど8匹で惨敗だ。

雷が鳴り出したので、急いで撤収。

下北沢まで無事帰り着き、かき氷を買って食べる。日焼けでほてった体に気持ちいい。ああ、夏休みだ。

なぜこの季節はカンヌの熱気がおつむの中を吹きまくるのか

アイディアは翻訳がいらない、というようなことを誰かがツイッターでつぶやいていて、ひさびさに強く共感した。

日本製がガラパゴス化するのは携帯電話ばかりではない。野球もそうだった。野茂やイチローがその境を突破して、メジャーとの敷居を低くしてくれた。小説も、そうかもしれない。村上春樹は世界との境を感じさせないほどの活躍ぶりだ。
僕が仕事にしている広告も、実は現在進行形でガラパゴス状態だったりもする。日本で一流と云われている人が海外へ出るとぜんぜん通用しない。国際的なコンテストで、自分たちが崇拝する広告人の作品がブーイングを浴びたり無視されたりするのに、若いクリエイターたちは呆然としているのが常でありました。

でも、その流れは変わって来た気がする。デジタル系をきっかけとして日本からの出品が光って来た。受賞作も多くなって来た。素晴らしいことであります。日本の広告界がアイディアの世界に復帰したのだと思う。思えば日本のテレビ界はあまりに内輪過ぎて、日本人でも全員がついて行けない世界になってしまったから。キャスティングという誰でも出せるアイディアのようなもの、つまりタレント広告というパワーに引きずり回されてテレビCMはこのまますすむのだろう。そして縮小傾向に向うのかもしれない。が、一方で次代を担う広告屋はちゃんと育っているのだ。

今年からカンヌ国際広告祭からカンヌ国際クリエイティブ祭に名前を変えたフランスのイベントで、会社の仲間たちがウィナーになった。ほんとに嬉しい。みなさん、おめでとう。