5000年史 Part6  14世紀の世界 (53) 大明暗黒政権 1398年 建文帝即位〜靖難の役

こんにちは。Victoriaです。

2013/04/14(日)、京都大学百周年時計台記念館で開催された、
「5000年史 Part6 14世紀の世界」講義録のまとめ、
今回は「1398年 建文帝即位」




極貧から身を起こし、
明建国して、
江南から中国統一に成功した朱元璋は、





死の間際まで功臣を殺し続け、
1398年、
69歳で死去、





頼みにしていた長男は早世していたので、
孫の建文帝が、
第2代皇帝に即位、
しかし、
いろいろあって、
建文帝は1402年に行方不明になっている。






行方不明?





殺されたのか、
自殺したのか、
はたまた逃亡したのか、
よくわからないらしい。





なぜ、
建文帝が、
このような悲しい運命をたどったかというと、





建文帝は、
早世した皇太子(つまり朱元璋の長男)の息子なんだけど、
建文帝からみるとおじさんにあたる人たちが、
いっぱい北の地に駐屯していて、





みんな働き盛りだし、
はっきりいって、
生かしておくと、
いつ自分がやられるかわからないので、
領地没収して、
庶民に落とした。






つまり、
おじさん達を、
皇族から追放したわけ。






それで、
順番におじさん達をやっつけていったんだけど、
ホントの敵は、
彼らではなく、
燕王(のちの永楽帝)。






いわば、
燕王を粛清するための地ならしとして、
おじさん達を追放していったんだけど、






燕王も、
それを指をくわえてみてるわけにはいかない。






自分の軍隊はどんどん減っていくし、
南京から、
お目付役(つまりスパイ)はどんどん送られてくるし、






このままいったら確実にオレは殺されるな・・・






ということで、
やられる前にやっちまえ!と、
反乱を起こす、
それが、







靖難の役(1399〜1402)。






どう見ても、
建文帝より燕王の方が、
有能だったように思うのだが、






朱元璋が、
徹底した中央集権のシステムを構築したため、
南京軍は50万、







かたや、
燕王の軍は数万で、






しかし、
燕王にとっては幸いなことに、
朱元璋が、
有能な家来をどんどん粛清していたため、
南京軍にはロクな指揮官が残っていない。






そんなこんなで、
兵力では圧倒的に勝っていた南京軍は、
有能な指揮官には恵まれず、
結果として、
戦は長引くこととなる。






最後は、
建文帝の行方不明というオチがついて、






各地に、
建文帝生存伝説が残っているそうです・・・







ちなみに、
建文帝をやっつけた燕王ですが、
朱元璋の4男で、
建文帝のお父さんとはれっきとした兄弟(母親が同じという意味)。






だから、
朱元璋の息子が、
朱元璋の息子の息子(孫)を殺して即位したわけで、
これも、
簒奪(さんだつ)、
永楽帝は建文帝の存在を歴史から抹消しようとして、
「建文」の元号をなかったことにしたとか。






殺された建文帝の方は、
為政者としての能力はなかったけれど、
「おじさんを殺すな」という命令を部下に出したり、
拷問を禁止したりしたため、
民には慕われたという。






ふ〜ん、
だから、
各地に生存説が残ってるわけね・・・






Victoriaでした。