Schubert Symphony No.7 “Unfinished“

「永久の未完成、それすなわち完成である」


二十代の頃に訪れた宮沢賢治記念館で出会った言葉。


当時の僕はこの言葉を自分に都合の良いように解釈しました。


自分で納得出来る所までは至らなくても、ある程度まで出来上がったら、締切が完成って事かな。


日々時間に追われている自分を賢治に肯定してもらえた気分。






先日出雲大社に行く事になったので、有名な八雲之図を思い出しました。


まぁ、通常は非公開なので見ることは出来ませんでしたが…。


出雲大社に納められている八雲之図は八つの雲の絵なのに七つの雲しか描かれていません。


絵をあえて完成させない事で神話の世界を終わる事のない永遠のものにしている。


未完成である事が完成であるという事。


そうか、宮沢賢治の残した言葉は本来こうゆう意味だったのかも…。





それならばシューベルト交響曲「未完成」はどうでしょうか。


1月はシューベルトの誕生月なので、普段よりシューベルトを聴いたり、


彼を題材にした映画「未完成交響楽」を観なおしたりしてみました。




えっ、モーツァルトも1月生まれ?



モーツァルトは普段から聴いているからいいんです。




シューベルトの「未完成」はなぜか第2楽章までしかありません。


第3楽章まではスケッチが残っているようですが、他の交響曲のように第4楽章まで完成させていません。


完成出来なかったのか。それとも完成させなかったのか。



楽譜もシューベルトの死後半世紀近く経ってから発見され、


シューベルト自身は初演を聴くことは無かったらしい…。


いわば忘れられていた曲。


それなのにこの曲が私達の心を捉え有名であり続けるのは、その価値を時間が証明してくれている証拠。






映画「未完成交響楽」の最後、シューベルトは楽譜にこう書きなぐります。


“我が恋が終わらざるが如く、この曲も終わらざるなり。“


真実がどうであったかは誰にもわかりません。


けれどもこの美しい交響曲は、昔も今も私達を魅了し続けます。 これから先もそうでしょう。





作品として、またその価値として。


はからずしも、シューベルトは「未完成」で永遠を手に入れた。









久し振りに書いたせいか、長い上に、ちょっと固い文章ですね。


読みづらかったらすみません。


やっぱりブログは真面目に不真面目(かいけつゾロリ)なぐらいがいいですよね〜。


あっ、今日はモーツァルトの誕生日。


けれどシューベルトを流しちゃおうかな。


そうだ、両方聴こう。


良い1日を。