われわれの周囲の、…(まえがき)

 われわれの周囲の、世界に与えられるいろいろな意味は、もはや部分的な、一時的な、相互に矛盾さえし、いつも異議を申し立てられるていのものでしかなくなった。いったいどうして芸術作品が、たとえどんな意味にしろ、前もって知られたなんらかの意味を、図解するのだなどと称することができるだろうか。

 われわれは、…小説とは、ほんとうの小説とはどんなものであるべきかを知らない。われわれはただ、今日の小説とは、われわれが、今日つくりあげるものなのだということ、われわれは、過去においてあった小説との類似を深めるのが任務ではなく、もっと先へ進むべきなのだということを知っているだけなのである。
                        byロブ・グリエ(平岡篤頼訳)


 冒頭からこんなものを引用するのはどうかと思うけど、あまりにも正当すぎることをロブ・グリエはいっていて、このエッセーはすでに半世紀も前に書かれている。そしてそれは当然、今でも有効だといえるはずだ。基準や制約としてでなく、ここをひとつの出発点として、今後さまざまな対象を選んでいこうと思う。

 それにしても、堅苦しい出発だ。いまどきヌーヴォー・ロマンなんていうどん詰まりから始めてしまって誤解され悲惨にならないためにも、次回はパリッと軽くしよう。現代思想みたいにハマって抜け出せなくなる前に、迂回…じゃなくて(笑)雑食系男子でいこう。たとえばミシェル・カルージュの「機械」をカルヴィーノに移植する、クレーの日記を精神現象学的成長物語として読むとか、あまり生産的でなくとも、人文系かき混ぜごった返しで。