生きてみた感想 このページをアンテナに追加

2015-05-30 [文学・映画]ジョバンニは富士ヶ丘高校演劇部の夢を見たか

[]ジョバンニは富士ヶ丘高校演劇部の夢を見たか ジョバンニは富士ヶ丘高校演劇部の夢を見たかを含むブックマーク ジョバンニは富士ヶ丘高校演劇部の夢を見たかのブックマークコメント

5月24日の日曜日夜8時頃、ももいろクローバーZ主演の舞台版『幕が上がる』が最後の公演を終えた。2012年出版平田オリザ原作小説を元に、映画舞台へと展開されていった『幕が上がる』プロジェクトがひとまずの終わりを迎えたわけだ。このブログでは以前、平田オリザ原作小説については感想を書いたことがあった(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20141214#p1)。そこでは、『幕が上がる』という小説が、青春物語というジャンルのなかでどのような異質性を有しているのかということについて論じた。

映画版『幕が上がる』は、青春物語という点では明らかに小説版とは異質であった。スクリーンに最終的に映し出されたのは、信頼し信奉してもいた吉岡先生一方的な辞職という喪失に遭遇しながら、それでも力強く前に歩みを進める青春の圧倒的な輝きであった。結果として、少女たちが喪失という出来事のものにどのように向き合い、どうそれを乗り越えていったのかというプロセスはほとんど描かれることなく、ももクロのメンバー(とりわけリーダー百田夏菜子)が体現する得体の知れないリアリティが、その瞬間にしか起こりえない何かという青春性を一気に説得しきってしまった。これはおそらくまったく平田オリザ的ではない何事かであり、青春映画ももクロという稀代のアイドルに出会うことで起こりえた、一種のミラクルであっただろう。

さて、では舞台版『幕が上がる』がどうかというと、平田オリザ自身台本を手がけたこの作品は、きわめて平田オリザ的な作品だというほかない。というよりも、映画版『幕が上がる』を踏まえ、そこで生み出された達成をも飲み込むことで、平田オリザ自身処女小説『幕が上がる』を取り返したのではないかという印象さえ受ける。舞台版の台本では、映画版脚本を手がけた喜安浩平が新たに持ち込んだ台詞が、繰り返し捉え返されている。ここに、二人の脚本家同士のある種の緊張感溢れる角逐を見たい欲望にも駆られるが、そこに踏み込むことはしないでおく。いずれにせよ舞台版『幕が上がる』が、まったくもって非オリザ的であった映画版を踏まえたその上で、再びオリザ的な焦点を結んでいるということがここでは重要である

以上の前置きを踏まえて舞台版『幕が上がる』について書いていこうと思うのだが、ただしこの記事で扱うのは、作品全体の大枠が見定めているテーマ設定についてのみだ。したがって、個々の俳優やその演技についてはほとんど言及しないし、細部の演出についても同様である。全体のテーマ解釈にかかわる演出については多少触れるかもしれないが、しかしこの記事が照準を当てるのは作品の骨組みとなっているもっとも大きな枠組みの部分なので、やはり台本のものがもっている構造議論の中心になっていく。

※結局「分析」は途中で頓挫し、最後カオスなことになっていますが、「わからなさ」の経験ドキュメントとしてカオスのままにしてあります。ご容赦ください。

-----------------------------------

■ 青春、祝祭、死

青春とは人生における祝祭だ、と仮に宣言してみる。すると、祝祭には必ず終わりがあるわけで、青春という祝祭の終わりとは、すなわち大人になることだろうという推論がつづく。そしてもう一つ付け加えるならば、祝祭を終わらせるには象徴的な死という犠牲要求される。この図式の普遍性は、祝祭としての青春を描いた映画作品の数々が証明している。たとえばジョン・トラボルタ主演の『サタデーナイトフィーバー』。ディスコでのフィーバー=祝祭を終わらせたのは、少しばかりやり過ぎて橋から転落した友人の死だった。たとえば相米慎二監督の『台風クラブ』。台風という祝祭の通過後に残されたのは、校舎から転落し頭から地面に刺さった少年の墓標だった。まずはこの基本的な図式を覚えておこう。

翻って『幕が上がる』はどうか。なにせ「都市に祝祭はいらない」と言い放った平田オリザである。オリザが描く青春は祝祭としてのそれではないはずだ、というのが当然の想定であり、事実小説版ではあまり淡々とした、ミクロな成長のプロセスが描き出されていったのだった。しか映画版では少し事情が異なる。それはおそらく、演技経験がほとんどないアイドルももクロが主演したということに由来する。というのも彼女たちにとって、映画撮影は初めて経験する一種の祝祭であり、そしてその出来事の一回性にともなうリアリティが、フィクション世界なかにはっきりと刻印されるとともに、そのことが作品のものの魅力と切り離しえなくなっていたからだ。

で、舞台である舞台版もまた、小説版が描く日常からは逸脱しているように見える。ただしそれは演者によるものだけではなく、平田オリザ自身による脚本に内在するものだ。舞台版の脚本には、「震災」という、日常性の対極ともいえる出来事が書き込まれているのだ。そして舞台版で新たに導入されたこの「震災」というテーマと深く結びつく形で、作品全体のテーマ的焦点も大きく変貌を遂げている。その震源地は、劇中劇銀河鉄道の夜である

■ 「銀河鉄道の夜」の変容

小説版さらには映画版でも、「銀河鉄道の夜」は「孤独」をめぐる作品として位置づけられていた。そこではカンパネルラの「死」は、中心的テーマとしての「孤独」の背景に退いていた。しか舞台版では、「震災」という具体的かつ生々しい出来事と結びつけられることによって、「死」そのものが前景化している。そして、誰もがそう感じるように、「震災」やそれに結びついた「死」は、日常からは最もかけ離れたものであるはずだ。さら作品内の「銀河鉄道の夜」は、そのテーマ性においてだけでなく、形式面においてもまったく新たな性質付与されている。舞台版『幕が上がる』では、「銀河鉄道の夜」はたんなる劇中劇というステータスを明らかに超え出て、『幕が上がる』という作品のものの枠組みと半ば融け合ってしまっているのだ。

舞台版『幕が上がる』には、0場という、芝居が始まる前の時間というものが用意されているのだが、しかし、いつどの瞬間にこの0場から本編に移行したのか、観客には正確にはわからない。そしてここで重要なのは、0場から本編の移行の瞬間には、すでに「銀河鉄道の夜」の台詞が読み上げられているということだ。つまり、『幕が上がる』という劇がまず始まり、そのなかのどこかに劇中劇としての「銀河鉄道の夜」が挿入されるという構成にはなっておらず、『幕が上がる』と「銀河鉄道の夜」は、言ってみれば同時に始まっている。あるいはもしかすると、「銀河鉄道の夜」の台詞朗読が0場ですでに始まっていることを踏まえるならば、劇中劇たる「銀河鉄道の夜」は、『幕が上がる』本編よりも前に始まっている、とさえ解釈することができるかもしれないのだ。

オープニングだけではない。『幕が上がる』のラストにおいても、「銀河鉄道の夜」の終わりと『幕が上がる』の終わりはほとんど融け合っている。『幕が上がる』の謎をはらんだラストシーン解釈する際には、この事実考慮に入れる必要があるだろう。この記事最後でも、「銀河鉄道の夜」がたんなる劇中劇ではなく、『幕が上がる』という作品全体の枠組みというなっているという事実から部分的に出発した、一つの解釈提示したいと思う。

■ 『幕が上がる』における「震災」と「死」

舞台版で一気に前景化させられることとなった「死」というテーマ問題は、そこで「死」として名指されているものの内実だ。『幕が上がる』が扱っているのは、どのようなタイプの「死」であるのか。この点について考えるには、当然ながら、この「死」というテーマを前景化させた中心的な要素である震災」というもの作品内でどのように位置づけられているかについて考察する必要がある。

劇中で、転校生中西さんが岩手県出身だということが明らかになる。この事実と、カンパネルラの台詞を言えなくなったという出来事を組み合わせることで必然的に予想されるのは、中西さんには「震災」にまつわる個人的トラウマがある、という可能性だ。実際劇中でもさおりが、「誰か亡くなったのかな、家族とか」とつぶやいている。しかしこの予想は、カラオケ屋での中西さんの独白によって裏切られることになる。

中西さんが語ったのは、個人的トラウマとしての身近な誰かの死ではなく、より一般的な生と死の問題だった。「なぜ他の誰かが亡くなり、なぜ自分は生きているのか」という、生きていることの「偶有性」。この偶有性とは、見方を変えれば、「今は死んでしまった誰かが生きていて、代わりに自分が死んでしまっている」というパラレルワールドについての想像力だ。自分は死んでいたかもしれない。でも実際は生きている。そしてそれは「たまたまである中西さんにとって「震災」は、個人的トラウマに結びついたものではなく、この生の「偶有性」を圧倒的なリアリティをもって体験したそのきっかけであった。

この「震災」の位置づけられ方は、平田オリザ作品として『幕が上がる』を捉えるとき大きな意味を持つ。中西さんは「震災」というきっかけによって生の「偶有性」に深く揺さぶられることになったが、しかしこの「偶有性」そのものはけっして特定の瞬間にしか現われない特権的ものではない。日常のあらゆる瞬間において、生はつねにすでに偶有的である。いつ交通事故に遭うか、深刻な病に見舞われるか、そんなことは誰にも分からない。潜在的な死は日常のそこかしこに散らばっているのだけれど、それらは普段は目に見えない、というだけのことなのだ。つまり生の「偶有性」というテーマは、死というもの日常とは明確に区別される非日常の側に置くのではなくて、いわば日常のただなかに位置づける。死は非日常にあるのではなく、日常に対する眼差し解像度を上げればそこに見つかるものであるのだ。

震災」という一見すると非日常の極限だと思われる出来事を扱うに際して、平田オリザはそれを日常のただなかに置く。このことによって死は、遠くの特別出来事としてではなく、誰の傍らにも存在しているものとなる。この選択は間違いなく、『幕が上がる』という作品にとってきわめて必然的帰結であるだろう。小説版から一貫して、『幕が上がる』は「普通の」高校生を描いてきた。もし中西さんが震災によって特別トラウマを受けた人物として描かれてしまったら、言葉の選び方が難しいが、彼女は他の高校生とは区別される「特別な」誰かになってしまっただろう。そしてそのときには、『幕が上がる』における「孤独」というテーマの位置取りも根本的に変容してしまう。なぜならそこでは「孤独」は、「特別な」体験によって聖別されてしまった中西さんだけの「孤独」になってしまうからだ。しか平田オリザはそのような「孤独」を選ばなかった。

■ 誰でもがカンパネルである

『幕が上がる』がその眼差しを向けるのは、青春を過ごす若者たちの誰もがもつ一般的な「孤独」だ。「孤独なのは中西さんだけではない。さおりだってユッコだってガルだって明美ちゃんだってさらには吉岡先生だって孤独なのだ。でも、そのことはみんなが単に「離ればなれ」であることを意味するわけではない。最終的には誰もが孤独であり一つにはなれないけれど、でも「離ればなれ」でもない。それらはいわば寄り添い合う「孤独」であり、そこに青春の力強さとまた同時に覚悟の深さが現われる。

『幕が上がる』で描かれる「死」が「特別な」ものではなく、またそこに結びつく「孤独」もまた一般的孤独であるということ、この事実は、劇中劇銀河鉄道の夜」におけるカンパネルラという人物がもつ意味に直結してくる。カンパネルラを演じるのは中西さんだ。では、カンパネルラを演じることができるのは中西さんだけだろうか。中西さんは、カンパネルラを演じるべき特権的存在だろうか。もしも中西さんがトラウマをもつ存在として描かれており、そしてカンパネルラを演じることでそのトラウマを乗り越える、という物語構成になっていたとしたら、カンパネルラを演じるのは中西さん以外あり得ない。またその延長線上で、カンパネルラと中西さんとのオーバーラップを極限にまで押し進め、カンパネルラと同様、中西さんもまた死んでいたのではないかという解釈余地も生まれるかもしれない。

しかし実際の『幕が上がる』では、中西さんは特別存在ではなく「普通の」高校生の一人であり、だから彼女に取り憑く苦悩もまた、彼女一人だけのものではない。このことを具体的な演出としてこれ以上なく明確に示しているのが、「台詞渡し」である演劇部の練習の一環として行われるこの「台詞渡し」では、役柄に関係なく、誰かの台詞を別の部員が次々と引き継いでいく。そのパフォーマンスはそれそのものとして身体レベルで迫力をもって観客に迫ってくるけれど、それと同時にこの「台詞渡し」は、カンパネルラという存在作品内で持つ意味を鮮やかに示してくれるという役割果たしている。

台詞渡し」では、誰もがすべての役柄を演じていく。これはカンパネルラだけでなく、そのほかのすべての役柄においてそうなのだけれど、そのなかでも、誰でもがカンパネルラを演じることができるということがとりわけ重要だ。というのも、カンパネルラの「死」と「孤独」とが、特定の誰かに結びついたものではなく、みなに等しく結びつけられたものであるということがそこで示されるからだ。そのことを強調するかのように、部長のさおりは中西さん不在の「台詞渡し」の稽古のなかで、「みんな、誰でもカンパネルラになれる」とつぶやいている。

中西さんが「震災」を通して直面した「死」の問題、「自分が死んでいたっておかしくはない」という偶有性感覚、これは中西さんだけの「孤独」ではない。「みんな、ちょっとだけカンパネルラだもん」というさおりの台詞に対するガルルの「みんなちょっとずつ死んでるってこと?」という反応はおそらく核心を衝いている。『幕が上がる』では「死」は、どこか遠くで起こった非日常出来事ではなく、誰でもがあらかじめ分け持ってしまっている何事かであるのだ。だから誰もがカンパネルラを演じられるのだ。

ここまで書いたところで、急に何を書いていいのかわからなくなってしまった。いや、実際には色々と書いたのだけれど、なぜかどこにもたどり着かずに結局は消してしまった。キーボードを打つ指が固まったまま何日か経ち、色々と考えた結果、自分はまだ、自分なりのものとしてでさえ舞台版『幕が上がる』の答えにたどり着けていないのだと理解した。だから書けない。当然のことだ。もう少し詳しく書くと、作品内の個々の要素や、それらがどうつながっているかについてはそれなりに整理できたと考えているのだけれど、ではそうやって組み立てられた全体がどこにたどり着いているのか、というところがまだぜんぜんわかっていないのだ。

から方針を転換して、ひとまとまりの「感想」や「分析」を書くことはここで放棄し、この記事の残りでは、むしろどこで止まってしまったのかというその地点を指し示すことを目指すことにする。もしかしたら誰かが、欠けていた秘密スコップを持ってきて、その地点で何か宝物を掘り起こしてくれないとも限らない。

■ 『幕が上がる』の基本シンタックスとわけのわからなさ

「死」、「震災」、「カンパネルラ」、これらは作品構成する基本的要素のうち、とくに重要であるとみなしたものだ。構成要素の整理のつぎに求められるのは、それらの要素の組み立てである作品全体のシンタックスが、どのように各要素を結び合わせ、一つの物語へと結実されているのかというそのロジックを整理する必要がある。ただしこのシンタックスの核は、それほど複雑なものではない。

物語の中心にあるのは、自分たちのもとを去って行ってしまった吉岡先生喪失であり、またその喪失をいかにして乗り越えていけるか、というプロセスである。そしてこの「喪失の克服」というプロセスが、「大人になる」という成長のプロセスに重ね合わされる。これが舞台版『幕が上がる』の背骨となっているという点については異論はないだろう。

次に問われるのは、この物語プロセスを達成するための手段であるが、これも明確だ。すなわち、「銀河鉄道の夜である。劇中、部員たちはかなりの時間をかけて「銀河鉄道の夜」を演じつづける。この「銀河鉄道の夜」の稽古を通してその解釈を深めていくプロセスは、物語構造内においては、「喪失の克服」のプロセスであり、「銀河鉄道の夜」を理解する難しさは、「喪失の克服」の難しさそのものである。少なくとも、『幕が上がる』内での物語機能としてはそのように位置づけられている。

では、「喪失の克服」の手段としての「銀河鉄道の夜」の難しさを乗り越えていくためのポイントはどこか。これも、中西さんという存在によってはっきりと示されている。すなわち、「死」というものとどのように向かい合いうるのか。そしてこの問題設定は、「カンパネルラの父」という存在によってより明確化されている。なぜカンパネルラの父は、息子カンパネルラの死をたった45分という短い時間で受け入れることができたのか。『幕が上がる』ではこの「謎」が、「大人になること」という観点で位置づけられている。さおり自身言葉を思い起こしておこう。

そう・・・大人になるって、たぶん、そういうことなんだよ・・・それは、いいことばかりじゃないけど、でも、人のために何かをしたりとか、そういうことは大人じゃなきゃできないでしょ

ここに、「銀河鉄道の夜」に向き合うことでさおりたちがたどり着いた新しい地点が示されているはずなのだ。ただ、それが「震災」という要素によってとりわけ前景化された「死」というものとどういう関係にあるのかはけっして明確ではなく、いくらでも解釈が分かれるところだろう。

さて、問題はここからである。上に挙げた台詞を含むたった三つの連続するさおりの台詞によって、吉岡先生喪失という出来事に対する物語内での解決が一気に果たされる。ガルルとゆっこの相づちの台詞を省いて、上に挙げたものにつづく二つの台詞を以下に引用する。

私もはっきりとは分からない・・・大人になるのがいいことかも分からない・・・でも私たちは、どうしても大人になっていく。ずっと、ここにはいられない。

私は、吉岡先生を許さない。でもね、私は先生を憎まない、恨まない・・・私たちは、こんなところで、止まってるわけにはいかないから

この前者の台詞は、カンパネルラの父をめぐる「大人になること」の問題系と、吉岡先生喪失という問題系を接続する役割果たしていると思われる。それを踏まえた上で吉岡先生名前が挙げられるわけだけれど、これはいかにも唐突に思えてならない。そしてこの唐突さが、自分にとってのわからなさのほぼすべてであるのではないか、と現時点では考えている。「死」を受け入れること、他人のために何かをすること、大人になること、これらのことが、どのような通路を経て吉岡先生を「許さないけど憎まない、恨まない」という結論につながるのかが、どうしてもわからない。実際には仮説的に考えていることはいくつかあるけれど、それはまだどうしても文章にはならないということがはっきりとわかったので、ここではこの分からない地点を指し示すことにとどめておく。

■ ラスト中西さんと「ありえたかもしれない世界

現実なのか空想なのか、時間軸がどうなっているのか、誰がどのステータスで登場しているのかがきわめて両義的なラストシーン、これについても、物語のものシンタックスがどこに辿り着いているのか理解できていないのだから、確定的なことが言えるはずもない。でもあのラストシーンは、舞台を観終わった後には個人的にとても腑に落ちていたのだった。この記事ではこれ以上ちゃんとしたことを書くのは諦めて、自分が受けた印象だけを備忘録的につづるにとどめておく。

中西さん不在での稽古の後半、舞台が暗くなり上部から星空の照明が降りてくる。このとき僕は、もう現実の部室には帰って来ないで、それまでの時間の流れや脈絡も全部無視して、「銀河鉄道の夜」の世界のまま舞台が終わって欲しいと咄嗟に思った。そして、まさにそのような形で舞台が終わった、と感じた。実際には中西さんが制服姿であったり、さおりが舞台上にいたり、最後に抱きしめ合ったりという場面があったかもしれない。しかし僕は、そこでも現実世界に戻ってきたという印象は受けなかった。それは同時に、物語の内容という点でも、現実世界に帰ってくる必要はないはずだと考えていたからだと思う。

もしラストで戻ってきたのが現実中西さんで、彼女自分のなかの何かを乗り越え部員たちの元に帰ってきたのだとすると、カンパネルラの物語中西さんだけの物語になってしまう。でもすでに書いてきたように、カンパネルラの物語は同時に全員の物語でなければならない、と僕は感じていた。『幕が上がる』は、中西さん個人が、彼女だけの問題を克服する物語であってはならないのだ。でもあそこで中西さんは、カンパネルラの衣装ではなく制服を着ていた。もしそこで中西さんがカンパネルラの衣装を着ていたのだとすれば、あれは中西さん個人ではなく、同時にみんなでもあるカンパネルラそのものなのだ、という解釈も成立したかもしれない。しかし実際には中西さんは制服を着ている。それでも僕は、あれは自分自身の苦悩を乗り越えた中西さんなのではなく、みんなが程度の差はあれ同じように持っている苦悩を体現している中西さんなのだと思う。これにはあまり論理的な説明を付け加えられないけれど、直感的にそう思うのだ。

そしてそのことと関連して、最後にきわめて乱暴な仮説を置き石のように放り投げて去って行くことにする。自分が『幕が上がる』のラストから受けた印象を事後的に振り返ってみると、僕は舞台版『幕が上がる』をつぎのようなものとして理解したのだという気がしてならない。ラストシーンでの「銀河鉄道の夜」の稽古の中、照明が落とされ空から銀河が降ってくる。そこでゆっこ演じるジョバンニが目を覚ますしかし実際にはそこでは、ジョバンニが富士ヶ丘高校演劇部の夢から覚めたのではないか。そしてさらに、カンパネルラが制服を着ていること、さおりが舞台上にいること、彼女らと最後に抱き合うこと、これらは、夢の中の登場人物がジョバンニが目覚めた後の世界に現われたということなのではないか。もちろん相当な飛躍であり、このような解釈正当化される余地が微塵でもあるかどうかさえ疑わしいけれど、自分自身作品から受けた印象を後から再構成するときに取り出されるのは、なぜかこのような作品であるのだ。

もう少しだけ加えると、劇中で繰り返される「銀河鉄道の夜」の重要台詞、「私たちは一つですか、それとも離ればなれですか?」は、人と人との関係として理解するのではなく、一つの世界ともう一つのあり得た世界との関係として理解するべきなのではないのか。カンパネルラが死んでしまった世界カンパネルラが生きていたかもしれない世界震災が起こった世界震災が起こらなかった世界吉岡先生が去って行った世界吉岡先生と一緒に全国を目指せていたかもしれない世界、これらの世界は「一つですか、それとも離ればなれですか?」。

世界ひとつしかない、ように見える。いや実際そうだろう。でも想像力は、つねに「あり得たかもしれない世界」をこの現実世界のうちに保持する。そしてそのことによって現実を少しばかり膨らませる。この現実は、あり得たかもしれない世界墓場だ。その墓地の中心に、実際の現実という一本の道が延びている。幾多の墓石に取り囲まれて。さおりたちにとっては、その墓石ひとつに、吉岡先生と一緒に全国を目指していたかもしれない世界名前が刻まれている。

さおりたちの青春には、ひとつの大きな墓標が立った。吉岡先生とともに歩めたかもしれない青春という墓標が。このありえたかもしれない世界を、さおりたちは最後に抱きしめる。死んでしまったカンパネルラを抱きしめるように。死んで行ってしまった人たち、生きていたかもしれなかった人たち、喪われていった可能性、一緒に進んで行けたかもしれない人々、これらはすべて、「あり得たかもしれない世界」だ。これらのパラレルワールドを、たんに忘れるのでもなく、モニュメントの向こうに遠ざけるのでもなく、そっと抱きしめる。それは、今生きているこのひとつ限りの世界肯定ということを超えて、潜在的には、あり得たかもしれないすべての世界肯定だ。

舞台版『幕が上がる』で描かれているのは、一つの望ましい世界を選び取る青春ではない。「銀河鉄道の夜」が、友達の死を受け入れるために宇宙さえも一周してしま物語なのだとすれば、舞台版『幕が上がる』は、吉岡先生と一種に進んで行けたかもしれない世界喪失を受け入れるために、すべてのありえた世界を一周してそれらをまるごと肯定する青春旅路であったのではないか。一つの世界現実化されるその裏側で、実現したかもしれなかったそして実際には実現しなかったすべての現実を踏破する、裏返された青春ドキュメントであったのではないか。

さおりたちはジョバンニの夢を見、ジョバンニはさおりたちの夢を見る。一つでも離ればなれでもない、しかし互いに引きつけ合う二つのまったく異なる世界。そこに現われる孤独と優しさと力強さに、僕は思わずくしゃみをしたはずなのだ

風の旅人風の旅人 2015/05/30 23:00 k_t_618さん

はじめまして。

ドリアンさんのブログから拝見しました。

わたくしにはなんだか複雑というか、深すぎます。(笑)

私は単純になんで制服姿のままなの?

それだけで、あんな感想を持ってしまいました。

舞台から受ける印象は人それぞれですから。

voleurknknvoleurknkn 2015/05/31 00:41 風の旅人さん

コメントありがとうございます。
基本は妄想みたいなものなので、
そのくらいのものとして受け取っていただければと思います。

2014-12-14 [文学・映画] 平田オリザ『幕が上がる』――青春物語の向こう側

[] 平田オリザ『幕が上がる』――青春物語の向こう側について(ほぼ非ネタバレ 平田オリザ『幕が上がる』――青春物語の向こう側について(ほぼ非ネタバレ)を含むブックマーク  平田オリザ『幕が上がる』――青春物語の向こう側について(ほぼ非ネタバレ)のブックマークコメント

 現代日本代表する演劇人平田オリザ執筆した小説『幕が上がる』。高校演劇を題材とした青春物語として2012年出版されたこの作品が、ももいろクローバーZ主演での映画化によって、再び脚光を浴びている。おそらく一般的にはこの『幕が上がる』は、『ウォーターボーイズ』や『スウィングガールズ』のようないわゆる「青春モノ」の一つとして認知されるだろう。もちろん、高校演劇に取り組むことを通して成長していく高校生たちを描くこの『幕が上がる』が、「青春モノ」の系譜に属する作品であることは間違いない。しかしこの作品は、あるきわめて巧妙な仕掛けを施すことによって、通常の「青春物語」の枠組みを突き抜けてしまっている。「突き抜ける」という言葉がここで意味しているのは、異端的な変化球が投げられているのではなく、王道を進み尽くしたその果てで、「青春物語」そのものの可能性を次のステージにまで押し上げてしまっている、ということだ。この記事では、この一点について説明していく。

(なおこの記事では、物語構成する要素の配置というメタなレベルで議論をするので、原則としてはほぼネタバレなしになるはずです。ただし断片的な部分、とくに作品内で大きな役割を果たす宮沢賢治作品の少し引用がされるので、厳密にネタバレ回避したい方は読まない方がいいかもしれません)

------------------------------------------------------

■ 青春あるいは光の物語

 青春モノには基本的な図式がある。

a) ごく普通少年少女主人公となる

b) ぼんやりとした夢や目標があるが、その達成方法がわからない

c) 援助者が現われ、少年少女方法技術を授ける

d) 夢や目標に向かって確固として歩み始める、という成長がゴールとなる

しかし上記に挙げられた要素の多くは、プロップ物語論を援用するまでもなく、物語のもの一般的構成要素である。そのなかで、青春モノに固有の要素として見いだされるのは、a)の「ごく普通少年少女主人公」という点である。そしてここにこそ、青春モノというジャンルが有する普遍性がある。すなわち、ほぼほとんどの人々(大人)がかつては「ごく普通少年少女」であったという点で、青春モノには特権的情動喚起力が備わっているのだ。

 とはいえ、誰もが「ごく普通少年少女」であったのだとしても、青春モノのなかで描かれるような輝かしい努力友情と達成の経験を誰もが持っている、というわけではない。となると青春モノが有する普遍性には必然的に大きな制限が課せられると思われるかも知れない。つまり青春時代にそうした輝かしい思い出をもたない人々は、青春モノの物語は「自分物語」にはなりえず、その分だけ普遍性は損なわれるはずだと。しかし実はここにこそ、青春モノというジャンルが持つ魔法の力がある。たとえ青春モノで描かれるような物語等価物を自分のなかになかったとしても、いやむしろ持っていなければなお一層、人々は青春モノに感情移入することができるのだ。それはなぜか。

 それは青春モノが、人びとの「自分のものであったかもしれない青春」という想像力に強く働きかけるジャンルであるからだ。この「青春」という言葉を「可能性」という言葉に置き換えてもいいだろう。青春時代に限らず、「あのときもう少し頑張れていれば」、「あのときもしも一緒に頑張ってくれている仲間がいれば」といったくすぶった想いは、どんな人の胸の内にも眠っている。「自分のものであったかもしれない(そして現実には自分が逃してしまった)可能性」は、澱のように時の流れのなかで沈淪していき、一種のメランコリーをともなって人びとの精神を年取らせていく。青春モノは、こうした取り逃された可能性をめぐるメランコリーに対する浄化効果を発揮することで、おっさんおばさんたちの心を揺さぶるのだ。もちろん若者たちには、「自分のものにもできるかもしれない可能性」という形で、カンフル剤のように作用するだろう。

 だから青春モノの主人公たちは、少なくともその導入部分では、脆く危くそして心許なく、ちょっとした巡り合わせや特別出会いさえなければ、そのままなにも為し遂げずに青春を終えていってしまう、そういう存在として描かれなければならない。どんな困難でも自分で乗り越えていってしまうような主人公であれば、そこに描き出されるのは、「そもそも自分のものではない可能性」でしかない。自分は結局なにも為し遂げられていないのだから。放っておけば自分のように何も為し遂げられなかったかもしれない少年少女たちが、自分とは異なりある巡り合わせと出会いを得ることによって、その危うい精神に潜ませていた可能性を花開かせていく、そのプロセスを目の当たりにすることで、おっさんおばさんたちは、胸の底に沈殿している「自分のものであったかもしれない可能性」を救済することができるのだ。

 これが青春モノというジャンルが一般に持つ、強烈な情動喚起力の根本であると考える。


■ 偶然あるいはつきまとう影

 「青春モノは、花開かなかった可能性を救済してくれる」、このテーゼが仮に正しかったとして、しかし、そこには根本的な批判がつきまとう。すなわち、「それは結局その場限りの癒やしではないのか」、「自分自身の弱さや限界と向き合う代わりに、口当たりのいい物語を代償行為として消費しているだけではないのか」。おそらく、この批判真実を突いていると思う。まったく人に優しくない批判だし、僕自身は誰かに対してこんなことを絶対に言ったりはしないが(自分に対しては言うかも知れないけど)、真実はそもそも人に優しいものではない。

 この人に優しくない批判の射程は、たんに物語や娯楽の消費という文脈限定されるものではない。たとえば子供を育てるという行為自分自身の夢や目標を諦めた大人が、その代わりに、子供の可能性を最大限に生かしてあげるため、労働自分をすり減らす。こんなことは世の中にありふれている。たとえば僕の父親は明らかにそう考えていた節があり、だから僕はかなり好き勝手自分のしたいことを追求することができた。かなりの年になるまでそのありがたみにまったく気づかないままその贈り物を享受してきた自分が、父親の選択を否定することはできない。それにそもそも、父親が自分の選択をほんのちょっとでも後悔しているかどうか、僕は知らない。それでも父親の選択に、「逃避」とまではいかなくても、ほんのちょっとでも「目を逸らした」という部分がなかったかどうか、僕は最近とくに考える。そこにはきっと、数日後には自分も父親になっている、という個人的な要因も働いているだろう。

 青春モノは、ごく普通少年少女たちが、仲間とあるいは指導者との幸運出会いを通して、成長し、自分の可能性をしっかりと自分の手でつかんでいく光を描く物語だ。しかし本当は、光の裏には影がある。素晴らしい仲間にも理解ある指導者にも出会えず、自分の可能性をどうしたら形にできるのかがわからないまま、結局何事も為し遂げえず、ぼんやりとした後悔と燻りを抱えて大人になっていく多くの「ぼくら」がいる。「自分のものであったかもしれない可能性」をつかむことができた主人公たちのような光の「ぼくら」の裏には、その数十倍、数百倍もの影の「ぼくら」がいる。この光と影を分けるのは、「偶然」でしかない。なぜならどちらも元々は「ごく普通少年少女なのだから。実際、高校演劇世界では、優秀な指導者がくればすぐにその高校は全国クラスにまで引き上げられるという。これはどの部活動においてもある程度はそうだろう。そして「ぼくら」が優秀な指導者出会うかどうか、これはかなりの部分、偶然の産物だ。つまり、ある「ぼくら」は偶然光をつかみ、別の「ぼくら」は偶然そうはならない。ただそれだけのことなのだ

 物語はほとんどの場合、偶然を必然であるかのように描く。そして、その偶然が生じなかった場合、という可能性を突き詰めることはしない。光はあたか必然的にもたらされたかのように見える。そして偶然という名の幸運をつかめなかった影の「ぼくら」は、端的に描かれない。それはこの影の「ぼくら」が、自分の見たくないものを突きつけかねない存在からだ。青春モノは、輝かしい光によって影を消し去ってしまう。そのことが観る者に癒やしを与えてくれるのだけれど・・・

 以上は、いわゆる青春モノに関する一般論だ。しか平田オリザの『幕が上がる』は、実はこの青春モノの一般的な図式には収まらない。というのもそこには、ある巧妙な仕掛けによって、青春の影の部分がしっかりと書き込まれているとともに、この影に対する応答までもが組み込まれているからだ。青春モノがもつポテンシャル、すなわち「自分のものであったかもしれない可能性」をめぐる救済力はそのままに保持しながらも、『幕が上がる』は光によって影を消し去ることをしない。それだけではなく、青春光と影とがどのように和解されるべきかという、正解ではないにしても、すくなくとも示唆差し出すところまでは確実に行っている。この点で僕は、『幕が上がる』は青春モノを突き抜けていると評価する。そしてこの「突き抜け」を可能としているのが、演劇という題材である。先取り的に少し踏み込んでおくならば、青春物語という光のなかに、劇中劇という形で宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」(「夜」!)を組み入れることによって、青春という舞台上での光と影本質的対話とでも呼ぶべきものが、そこでは上演されているのである


■ 「銀河鉄道の夜」あるいは光としての夜

 部活動を素材とする青春物語クライマックス構成するのは、主人公たちが一緒に作り上げた成果が提示される場面である。『ウォーターボーイズ』であればシンクロの演技、『スウィングガールズ』であれば吹奏楽演奏、そして演劇を素材とする『幕が上がる』では、当然ながら芝居の上演がそれにあたる。ただしこうした青春物語構造という点で、演劇という素材は、その他の素材とは本質的に異なっている。というのも、演劇はそれ自身物語であり、それゆえ必然的演劇部を素材とする青春物語は、物語物語、あるいは劇中劇という構造をとることになるからだ。通常の青春物語であれば、クライマックスとなる成果の発表場面は、作品全体の物語のなかで、主人公たちが困難に打ち勝ってなにかを為し遂げるという物語構成要素の一つであるにすぎないのに対し、『幕が上がる』においては、その構成要素そのもの物語構成することになる。つまり物語とその一要素という関係だけでなく、そこには、二つの物語同士の関係性、というものがどうしても発生せざるをえないのだ。

 『幕が上がる』のなかで演劇部部員たちが上演する作品として選んだのは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜である。ここでもちろん問われるべきなのは、『幕が上がる』全体の物語と、賢治の「銀河鉄道の夜」とはどのような関係にあるのか、という点だ。ところで、ここまでに述べてきた青春モノの基本構成、すなわち「ごく普通少年少女」が、ちょっとした巡り合わせと出会いによって、努力し成長していくとによって可能性をつかんでいく、という光の物語と、そこで排除される影という構成を思い起こすと、「銀河鉄道の夜」の物語が、青春モノの図式をいわば裏返したものであることに気づくことができる。というのも「銀河鉄道の夜」が描くのはカンパネルラという少年の死、すなわち、前途に広がるはずの無限の可能性の消滅という事態からだ。カンパネルラだけではない。主人公のジョバンニだって、家が貧しいせいで働きながら学校に通わなければならず、授業中も眠たく終業後も遊びに行くことができない。つまりジョバンニもまた、生活によってその可能性を早々にすり減らし始めてしまっている少年であるのだ。

 少年という、可能性の塊であるはずの存在が、すでに可能性を失ってしまった、あるいは失い始めてしまっている。このようなきわめて暗鬱な背景を従えながら、しかし周知のように、賢治が描き出す「銀河鉄道」の世界は極めて美しい。そのコントラストが読む者の胸を打つのだけれど、そこに観られる美しさの正体を、光を描く青春物語との関係性という観点から捉え直すとき、そこには一つの仮説が浮かび上がってくる。それは、銀河鉄道の美しさとは、失われてしまった可能性そのものの美しさである、というものだ。

 たとえば。銀河鉄道に乗るジョバンニとカンパネルラと、鳥の狩りを生業とする赤ひげの人との間でつぎのようなやりとりがある。

あなた方は、どちらへいらっしゃるんですか。」

「どこまでも行くんです。」ジョバンニは、少しきまり悪そうに答えました。

「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまでも行きますぜ。

また、『幕が上がる』での劇中劇でも重要役割を果たす次の箇所。車掌さんがジョバンニとカンパネルラの検札にやってくる場面。

「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえも行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまでも行けるはずでさあ、あなた方大したもんですね。

ここで描かれているのは、いうまでもなく「可能性」であるしかしそれはどんな可能性か。カンパネルラは、このときにはすでに川で溺れてしまっている。すこしこじつけかもしれないけれど、こうは考えられないか。死の直前には、人生記憶走馬燈のようにめぐるという。ではまだそれほどの人生の蓄積のない子供場合にはどうなるのか。そのときには、過去を呼び戻す走馬燈の代わりに、「この先に生きることができたかもしれなかった未来の可能性」を見るのではないか。少年は、まだ何にだってなることができる。その「何にだって」が逆回しの走馬燈のように眼前を通り過ぎていく、これが銀河鉄道光景なのではないか。青春モノが過去の「自分が生きることのできなかった可能性」との関係を作るのであるとしたら、「銀河鉄道の夜」は、少年から見た将来の「自分が生きることができなくなった可能性」を描き出しているのではないか。

 これはもちろんかなり自由な仮説だけれど、しか平田オリザ自身が『幕が上がる』のなかで、この「可能性」をめぐる問題意識的であったことは間違いない。オリザは『幕が上がる』の後半のきわめて重要な場面で、宮沢賢治の「告別」という詩をを登場させている。

この詩の前半部分を引用する。

おまへのバスの三連音が

どんなぐあいに鳴ってゐたか

おそらくおまへはわかってゐまい

その純朴さ希みに充ちたたのしさは

ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた

もしもおまへがそれらの音の特性

立派な無数の順列を

はっきり知って自由にいつでも使へるならば

おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう

泰西著名の楽人たちが

幼齢弦や鍵器をとって

すでに一家をなしたがやうに

おまへはそのころ

この国にある皮革の鼓器と

竹でつくった管くわんとをとった

けれどもちゃうどおまへの年ごろで

おまへの素質と力をもってゐもの

町と村との一万人のなかになら

おそらく五人はあるだらう

それらのひとのどの人もまたどのひとも

五年のあひだにそれを大抵無くすのだ

生活のためにけづられたり

自分でそれをなくすのだ

(全文はhttp://why.kenji.ne.jp/haruto2/384kokubetu.html:こちら]を参照)

ここには、少年少女)が手にしている無限の可能性に対する希望と、その可能性が途上で萎んでいってしまうことへの圧倒的な恐怖とがはっきりと表現されている。つまりオリザは、青春にともなう希望やその可能性を青春物語として描き出す一方で、その裏側にある、可能性の摩耗という影の側面にもはっきりと意識を向けている。そして宮沢賢治という名は、青春の光からその影の側面へと通り抜けるための、秘密の通路となっている、というのがここでの仮説である

 青春モノというジャンルに身を置きつつ演劇という素材を選ぶことで、そこに劇中劇という構造を導入する。そしてその劇中劇として宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を選ぶことで、たんに光が影を消し去ってしま青春物語という構図ではなく、青春という舞台において光と影とが正面から対峙するという構図をオリザは創り出した、これがこの記事の中心仮説である

 

■ 光と影和解あるいは止揚された青春

 光と影との対峙しかしこれはあくまでも物語構成の整理によって導かれる仮説であり、ここにはまだ、ある重要な点が欠けている。それは、この光と影との対峙、実現した可能性と自分のものにはならなかった可能性との対峙という構図を創り出した上で、最終的にその対峙をどのような出口へと導いているのか、という物語的解決についての考察である。ただしあらかじめ述べておくと、この記事ではこの点については詳述しない。というのもこの説明を行うためには、たんに物語構造を整理するだけではなく、その内容や細部に踏み込まなければならなくなるからだ。この点については、2月末に映画公開がなされたあと、ネタバレ心配がなくなった時点でもしかしたら書くかもしれない。

 とはいえこれだけでは締まらないので、上記の物語的解決の問題が、作品内のどこの部分に集約されるはずであるのかという物語構造に関する基本的な指摘と、また論証を省略した結論だけを最後に記すことにする。

 『幕が上がる』のクライマックスは、劇中劇としての「銀河鉄道の夜」の上演場面である。ただしこの物語における役割として、劇中劇の上演という要素は、たんにうまく演技をできたかどうかというパラメータ価値が計られるものではない。というのも、『幕が上がる』の主人公である演劇部部長演出家であり、その成果は、部員たちによる演技だけではなく、この部長による演出、すなわち「銀河鉄道の夜」という作品をどう解釈したのかという点によって、成否が分かたれるからだ。すなわちこの劇中劇の上演の部分は、『幕が上がる』という光の青春物語が、「銀河鉄道の夜」という影の物語をどう解釈するのかが現われる部分であり、ここにこそ、オリザが仕組んだ青春という舞台における光と影との対峙の結果が現われるのだ。

 その対峙の結果については各自確認解釈をゆだねるとして、最後に、最終的な結論だけを述べる。『幕が上がる』は光の物語というしての青春モノというジャンルに、その影と正面から対峙させるという新たな課題を持ち込んだ。そしてその試みは成功している、と僕は考える。この点において、『幕が上がる』は青春モノを明らかに次のステージに進め、より根源的な問い、「可能性」というものに対するより根源的な対峙の仕方を提示している。ぜひ、一人でも多くの人にこのマスターピースを読んでいただきたいと考える所以である


■ 補遺

 ちなみにこの『幕が上がる』についての論は、その全体を通じて、実はももクロ論とも読み替えうると個人的に考えている。『幕が上がる』をももクロ主演で映画化することのインパクトはそれゆえ圧倒的であるはずだ、という主張を本当の結語にしてこの記事を閉じる。

幕が上がる (講談社文庫)

幕が上がる (講談社文庫)

2014-03-16 電王戦第一戦感想―「強さ」とは何か

[] 電王戦第一戦感想―「強さ」とは何か  電王戦第一戦感想―「強さ」とは何かを含むブックマーク  電王戦第一戦感想―「強さ」とは何かのブックマークコメント

昨晩の電王戦第一戦、菅井五段vs習甦の対局結果は衝撃的でした。

習甦はコンピュータ同士での予選では第五位、優勝したponanzaとはかなりの差があったというのは大方の共通認識だったと思います。また今回のレギュレーションでは、出場ソフト大会時点で開発を止め、プログラムを対戦棋士提供すると定められています。つまり棋士は、十分に対局相手の研究を積んだ上で本番に臨むことが出来るわけです。さらに今回は対局時に使用されるハードも固定されており、クラスタ暴力も発動できないようになっており、総じて、前回に比べてかなり棋士に有利な条件になっています菅井五段は若手とはいえ、誰もが認める実力者であり、今回の出場ソフトの5位である習甦とでは、圧倒的に菅井五段が有利だろうというのが下馬評でした。ところが・・・

対局結果は既報の通り習甦の勝利だったわけですが、問題はその内容です。僕の棋力ではもちろん細かいところはわかりませんが、習甦が横綱相撲とでも言える差し回して菅井五段を圧倒した、というのは衆目一致するところだと思います。ほとんど手合い違いと言えるほどの力の差を感じてしまった人も多かったのではないでしょうか。個人的には、トッププロ棋士がどう頑張ってもコンピュータに手も足も出なくなる、という未来がもうそこまで来ていることを、深い絶望とともに実感しました。と同時に、将棋の「強さ」とはいったいなんなのか、という根本のところに思いを致さざるをえませんでした。それは同時に、プロ将棋の魅力とはいったい何なのか、という問いともつながるものです。

単純な「強さ」、つまり将棋に勝つか負けるかという「強さ」でいえば、コンピュータ人間凌駕する日も遠くないでしょう。そのときプロ将棋の魅力は消えてしまうのか。もし単純な「強さ」だけがプロ将棋の魅力の指標であるとするならば、コンピュータに完全敗北したときプロ将棋の魅力もまた消滅してしまうでしょう。しかし僕は、たとえ「強さ」という点でコンピュータ凌駕されたとしても、プロ棋士の魅力がその時点で消えてしまうわけではない、と確信しています。それはなぜなのか。昨晩の対局の最期の場面、すでに結果は見えており、あとはどのタイミングで投了言葉を発するのかだけを誰もが見守っている場面で、将棋の内容をゆっくり反芻するように、苦悩の表情を浮かべ何回もお茶に口をつける菅井五段の姿を見つめながら、プロ将棋の魅力とはなんなのかを僕は考えつづけていました。

そのとき僕がふと思い出したのは、三浦弘行九段でした。かつて、将棋と時間―将棋に見る有限性の考察という記事の中で、名人戦での三浦九段を題材として、将棋における時間と有限性の問題について書いたことがありました。そこでは、有限な時間のなかでの「不安」との戦いを通してそれぞれの一手を紡いでいく姿のなかに、棋士という存在の魅力を見て取ったのでした。奇しくも、前回の電王戦の最終局では、この三浦九段GPSに苦杯をなめました。実はそのときすでに、棋士が対局の際に向かい合う「不安」という問題を、コンピュータ将棋との対比においてぼんやりと考えていたのですが、そのことを不意に思い出したのでした。

一つ一つの手を、将棋というゲームを進展されるたんなる出力として捉えるのならば、その出力者が人間であるコンピュータであるかはどうでもいいことです。そこで問われるのは、それぞれの一手についての評価値だけであり、優れた評価値を得ることのできる出力者に優位が与えられる、ただそれだけのことです。しかし、人間コンピュータは、それぞれまったく異なるプロセスを経て一つの手を導き出し、そしてこの差異は、将棋を観る別の人間にとって大きな意味を持っています

人間は、将棋に限らず、強くなるということがとても難しいことであるということを知っています。そして強くなるということは、すなわち弱さを克服することであり、しかも弱さをたんに葬り去ってしまうのではなく、弱さとうまくつきあっていくことであることも知っています。つまり、強さとは弱さを持たないことではなく、弱さとうまく折り合いをつけながら、そのつどその弱さを克服していく絶えざるプロセスであるわけです。将棋というゲームは、とりわけその時間制限によって、「強くなる」ということに伴うこの普遍的プロセスを、いわば拡大して見せてしまうという点で、きわめて残酷です。一局の将棋に勝つためには、集中力を持続させ、苦しくなっても踏みとどまり、勝負所で踏み込み最後時間が切迫したなかで正しい一手を発見しなければなりません。そのどこかで弱さに負けてしまえば、将棋にも負けてしまますプロ棋士将棋はしばしば、最後まで弱さに負けなかった者こそが一番強いのだ、ということを教えてくれるように思えます

将棋を観るぼくたち人間は、プロ棋士の「強さ」が、たんに優秀な出力=一手を導き出す強さなのではなく、その一手を導き出すために、数え切れない「弱さ」を克服してきたことの「強さ」であることを知っています。つまりぼくたち人間は、「強さ」をそれそのものとしてだけで観るのではなく、その「強さ」を獲得するために踏破された「弱さ」の踏破距離として計っているのだと思います。だからこそ、時間のない切迫したなかで、苦悶の表情を浮かべながら指された素晴らしい一手に、ぼくらの心は震えるのです。その一手を導き出すために克服された「弱さ」の総量を直感的に感得して、自己を極限にまで高める人間の偉大さに敬意を払い、素直に頭を垂れるのです。

そしてまたぼくたち人間は、敗者の姿にもまた、「弱さ」との苦闘の跡をしっかりと読み取って突き動かされるのです。習蘇への敗北という現実を前にして、その事実をかみしめるように受け入れようとしてしていく菅井五段の姿に、ぼくたちははっきりと「強さ」を感じ取ります。あの地点にたどり着くまでに、どれほどの「弱さ」を乗り越えてきたのか、にもかかわらず届かなかったという現実に、どのような思いで向き合おうとしているのか、敗北を受け入れた上でどのように次の一歩を歩み出そうとしているのか、そういったすべてが、まるでテレパシーのように伝わってくるのです。もちろんそれらの感慨は、観る人間側にもとから備わっている経験値のストックが、菅井五段の姿をいわばスクリーンとして鮮やかに映し出されたものであるでしょう。だからおそらく幼い子供とさまざまな苦悩を経験してきた大人とでは、そのスクリーンのうちに見いだすものはまったく異なるでしょう。しかしそれでいいのです。プロ棋士という戦う存在は、それぞれの人々が日々のなかで展開している戦いとそのプロセスとを、いわば偉大化してくれるのです。そして重要なのは、その偉大化の作用は、コンピュータではなく人間しか果たせない、ということです。なぜならコンピュータの強さは、人間的な「弱さ」の克服というプロセスを経ずに獲得されているものであり、それゆえその強さはそれを観る人間スクリーンとはなり得ないからです。

電王戦の第一局は、逆説的ではありますが、人間が敗北することによって、そもそも人間の「強さ」とは何なのかということを振り返らせてくれました。そして僕の心は、投了をつげる直前の苦悶する菅井五段の姿に、いまだ打ち震えています。敗北してしまった菅井五段にこのように言うのはおかしいけれど、本当に素晴らしいものを見せてもらったと感謝しています。そして、人間将棋というものの魅力をさらに深く感じることが出来ました。このあとの電王戦の結果については、正直に言って、人間立場からすると悲観的にならざるをえないという気がしますが、それでも素晴らしい「何か」を観ることができるはずだという一点においては、きわめて楽観的に構えています

勝負論ファン勝負論ファン 2014/05/28 14:50 初めまして、将棋には興味ないけど、こういった話には興味があってたまたま来ました。

記事の件ですが、それ言っちゃうと、強さなんて幻想だよね。どんなに努力したり、才能があっても、
負ける事はあるし、自分が弱いと決めつけた人に負ける事もあり得る。って考えちゃうな。
ポジティブに考えると、みんな強くなれるさ、みたいな方向に持っていけるのが、自分の意見の強みだけどね。

>トップのプロ棋士がどう頑張ってもコンピュータに手も足も出なくなる
それはあり得ないと自分は思いますね。そもそも強さ=実力って物自体が、信じる人の生んだ幻想であり、
コンピューターがいかに優れようとも、その知恵に追いつく人間は出てくると思います。
また勝負の世界は、単純に強い弱いで決めつけれる世界じゃないからね。勝ち負けだけで強い弱いを決める事が
どれだけ愚かか!を見せてくれるのが勝負の世界だと思っています。
弱いと世間が評価していた人が勝つこともあるのですから…

だから記事の将棋を観るぼくたち人間は〜(中略)〜素直に頭を垂れるのです。って意見も正論になるんだと思います。