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2018-01-24 ももクロ有安杏果「色えんぴつ」(『ココロノオト』)

 卒業にいたる決断ドキュメントとしてのももクロ有安杏果「色えんぴつ」(『ココロノオト』)  卒業にいたる決断のドキュメントとしてのももクロ有安杏果「色えんぴつ」(『ココロノオト』)を含むブックマーク  卒業にいたる決断のドキュメントとしてのももクロ有安杏果「色えんぴつ」(『ココロノオト』)のブックマークコメント


 はじめに

ももいろクローバーZ有安杏果さんが卒業してから3日が経ち、ようやく少し気持ちも落ち着いてきたので、有安さんのソロアルバムココロノオト』を改めて聴いた。このアルバムは以前からかなり気に入っていたのでこれまでにも数十回は通して聴いていたはずなのに、彼女卒業後に聴きなおしたそれはまったく違って聴こえて驚いた。しかいちばん驚いたのは、本編最後から2番目に収録された「色えんぴつ」という曲。本当は、驚いたなんていう表現では生易しすぎる。聴きながら、戦慄して、あまりに苦しくなってしまって、動悸がしてきた。そしてもういちど曲を聴きなおして、確信した。この曲は、ももクロ卒業にいたる有安さんの苦悩を赤裸々に歌った曲なのだ、と。実をいうと最初は、このことは自分の胸の内だけにしまっておこうと思った。この曲からぼくが読み取った有安さんの思いは、これから4人で歩き出そうとしているももクロにとってけっしてプラスになるものではないからだ

いろいろ悩んだ結果、いまこうして、この「色えんぴつ」という曲について書こうとしている。その理由はただひとつ。少しでも多くの人に「色えんぴつ」を、そして『ココロノオト』というアルバムを聴いてほしい、という思いを抑えられなかったからだ。思い、というよりは責任感といった方がいいかもしれない。というのもいまぼくは、この『ココロノオト』というアルバム日本アイドル史(」音楽史」ではなく)*1に残る作品だと確信しているからだ。それはそのクオリティの高さというだけではなく、今回の卒業劇とも直接つながる一種ドキュメントとして、唯一無二の価値をもってしまった、ということだ。


 有安杏果「色えんぴつ」の歌詞分析

「色えんぴつ」は有安杏果本人が作詞作曲をつとめ、編曲は有安さんが指名したYaffleが担当。『ココロノオト』に収録された曲のなかでももっとも最後制作された作品の一つであり、おそらく、彼女卒業に向けた内部での話し合いが最終局面に入っている段階で制作が進められたのだろうと想像される。そして以下がこの曲のPVだが、その監督をつとめたのも有安さんが指名した映像作家・外山光男である

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そしてこちらがライブでのパフォーマンスである

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この曲の歌詞を、有安さんが卒業した現在から改めて読み直してみると、ももいろクローバーZというグループのなかでの自分の在り方を悩んでいたであろう有安さんの心情があまりにも直接的に語られているように読めてしまう。すこしずつ見ていってみよう(歌詞の全文はこちらを参照

歌詞の冒頭はこうなっている。

薄っぺらな缶ケース

毎日その中佇んでる

ひっそりすみっこ佇んでる

ここが僕の居場所なんだ

最初に色えんぴつの「缶ケース」が登場するが、これは、5人が5色をそれぞれ担当するももクロというグループのことを指すだろう。そしてそのなかで「ひっそりすみっこ佇んでる」のだという。ももクロのメンバーの立ち位置はいつも決まっており、緑を担当する有安さんは5人の左端を定位置としている。

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この曲をぼくはこれまでも繰り返し聴いていたけれど、不思議なことに「色えんぴつ」がももクロのことを指すのだと思ったことは一度もなかった。そして「すみっこ」が「僕の居場所なんだ」という歌詞についても、特定の心情を比喩的表現しているとしか受け取って来なかった。しかし有安さんが「普通女の子になりたい」と言ってももクロ卒業した現時点から振り返ると、この歌詞ももクロのなかでの自分のことを歌ったものしか読めない。そのことに微塵もきづかなかったという事実は、認めなくない現実から目をそらす否認機微が働いたのだとしか考えられない。

つづく歌詞はこうだ。

かに気づかれることもなく

いつだって変わらない

1mmだって変わらない

自分ファンたちにも、そしておそらくほかの4人のメンバーたちにも、自分の本当の心情は気づいてもらえてない。その事実に対する孤独感と、そして「1mmだって変わらない」という閉塞感が、これ以上なくまっすぐ歌われているように見える。

尖ったままの僕の苦しみ

誰かわかってくれるかな

まあるくなって短くなって

ポイって、ほら捨てられるより辛いのさ

尖った先が今日もまた

僕の心に鋭く突き刺さる

ここからはさらに解釈が入ってくる。「尖ったままの僕の苦しみ」とは何を指すだろうか。前回の記事ももいろクローバーZ有安杏果の卒業と一つの成長物語の終わり」では、おそらくある時点から有安さんにとってももクロ自分を成長させてくれる物語であることをやめ、自分自身物語を紡いでいくために模索しはじめていったのではないか、という仮説を述べた。「色えんぴつ」のなかの「尖ったままの僕の苦しみ」とは、ももクロ物語から分岐して、自分自身物語を求め紡いでいってしまう有安さんの自我を指すのではないだろうか。自分の成長とももクロの成長とを同期させることができていれば、そこには過酷さはあったとしても実存的な問題は生じない。でもそうした同期が外れてしまい、けれどもももクロとして日々全力で走りつづけなければならないという状況に身を置かざるをえなくなると、自分自身物語を求めてしま自我は、自分を苦しめるものとなってしまう。ももクロとして活動していくためにはそうした自我を抑えていかなければならないのだけど、しかし芽生えはじめた自我を抑えきることは不可能で、結果として「僕の心に鋭く突き刺さる」。

まっさら白い画用紙の上

みんなが色とりどりに

今日お絵かき楽しそう

誰も僕に気づかないか

まっさら白い画用紙」に自由奔放に「色とりどり」に「お絵かき」をしていく「みんな」とは、ももクロの他の4人のメンバーのことだとしか思えない。

色を持たない僕の寂しさ

誰か分かってくれるかな

上塗りされて混ざり合って

ほらって違う色になるより辛いのさ

尖った先が今日もまた

僕の心に鋭く突き刺さる

ここには、「色を持たない僕の寂しさ」という表現がある。有安さんは卒業ライブの際に、しばしばももクロに対して言われる「奇跡の5人」という表現に対して、「私は実はあまりそう思ったことなくて、この4人とモノノフさんとで5人だと思っています」と述べている。他の色えんぴつに対する「色を持たない僕の寂しさ」という表現は、現時点から振り返ると、ファンの間で物議を呼んだ上の発言と完全に呼応する。

そして重要なのはここからの展開だ。「だけど」という逆接を挟んで、色えんぴつのなかでの孤独を歌っていた前半部から、後半部では「君」という言葉が登場してくる。

だけど

君の悲しみの涙を薄め

くすんだ心のひとすじの光になる

僕にだって出来ることあるんだ

ここに出てくる「君」とは何を指しているだろうか?ここで大きなヒントとなるのはPVであるPVの「君の悲しみの涙を薄め」という歌詞対応する箇所を見ると、そこでは涙が音符に変わっていくのだ。

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から、「悲しみの涙を薄めくすんだ心の一すじの光」にできる「僕にだって出来ること」とは音楽に他ならないだろう。このPV制作にまつわる裏話をちゃんと確認したわけではないので、すでにどこかで語られているのかもしれないけれど、PVの後半部に登場してくる音符については、有安さんからPV監督の外山氏に明確な指示があったのだろうと想像される。

尖ったままの僕のプライド

君がそっと削ってくれて

まあるくなって短くなって

ハイって、やっと君の役に立てるんだ

前半部では僕の心に突き刺さっていた「僕のプライド」は、「君」に削られることで、やっと「君」の役に立てる。歌詞のこの個所では、「君」の立場が二重になっている。一方では「君」は僕を「削ってくれ」る何かであり、他方「君」は僕が役に立ちたい相手でもある。少しアクロバティックな解釈になるが、ここでは「君」を、「音楽」と「音楽を愛する気持ち」をともに指す言葉である、と解釈したい。ももクロのなかでは自分を傷つけるだけであったプライドは、音楽出会うことで、まあるくなって役に立てるようになる。それが役に立つ相手は「音楽を愛する気持ち」だ。その気持ち自分なかにもあるし、とうぜん他者なかにもある。音楽を通して、そういう「気持ち」に何かを貢献できることなることで、はじめて自分自身というものを見つけることができる。ちなみにPV上記歌詞の箇所では、音符につつまれた「君」もしくは「僕」が映し出される。

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尖った先が今日だけは

君の心を優しく映し出す

尖った僕でもいつかきっと

君の優しい心に

彩りつけられるはずだから

そして「色えんぴつ」という楽曲は、色を持たなかった自分も、音楽を通じることによっていつかきっと「彩りつけられるはずだから」と締められる。ももクロファンとしての僕は、やはりどうしても、この「彩り」という言葉最後希望を込めたいという思いに駆られる。アイドルとしてではなく、音楽をつくる人として自分の尖った心をまあるくして、いつかきっとももクロ楽曲提供してほしい。もしかしたらそのときはじめて、4人の奇跡は5人の奇跡になるのかもしれない。


 アイドル史上の異様な傑作ドキュメントとしての『ココロノオト』

2011年中野サンプラザでの早見あかりの脱退コンサートは、アイドル史にのこるドキュメントとして広く評価されている。そこでは、10代の少女たちがそれぞれ力強く前に進んでいくために避けることのできなかった別離という出来事が、むき出しの感情からなる一つの作品へと昇華されていた。2018年1月21日幕張メッセ開催された有安杏果卒業ライブは、明らかに7年前の別離劇を意識した演出となっており、実際さまざまなオマージュがちりばめられていた。おそらく演出側は、早見あかりの脱退劇に匹敵する感情作品を作り上げることを狙っていただろう。しかし実際には、その目論見は空振りに終わった。それは、感情をぶつけてくるほかのメンバーに対して、有安さんはあくまでも笑顔を崩さず、感情をぶつけ返すということをしなかったからだ。ぼくはその光景を見て、有安さんはこの卒業ライブが行われる以前からすでに卒業してしまっているのだな、と感じた。だから卒業ライブの場でメンバーとファンとが一緒になって作り上げていく卒業というリアルタイムドキュメントにはならなかったのだ、と。

しか卒業ライブがおわり数日たって、有安さんの『ココロノオト』を聴きなおして気づいたのは、卒業までにいたる感情ドキュメントはまさにこのアルバムなかにあったのだ、ということだった。このアルバムは、音楽的にも高い評価を受け、『ミュージックマガジン』が選ぶ2017年の「Jポップ/歌謡曲 ベスト10」の6位にも選出されている。しかしそういった音楽評価とは別に国民的といわれる存在にまでなったアイドルグループのメンバーでありながら、方向性について悩み、最終的には卒業決断をくだしていくその心のプロセスを赤裸々につづったドキュメントとして、このアルバムアイドル史あるいは芸能史のなかで唯一無二の存在であるのだ、と思えてならない。早見あかりの脱退劇は青春残酷さが生んだアイドルドキュメントの傑作だったが、この『ココロノオト』もまた、別種の青春残酷さが生んだ、まだ名前のつけられていないジャンルの大傑作なのだ

ココロノオト【通常盤】

ココロノオト【通常盤】

*1:このことは、『ココロノオト』が音楽的にすぐれていないということを意味するわけではない。後述するように、このアルバムは『ミュージックマガジン』が選ぶ2017年の「Jポップ/歌謡曲 ベスト10」の6位に選出されている

2018-01-20 ももいろクローバーZ有安杏果の卒業と一つの成長物語の終わり

 ももいろクローバーZ有安杏果卒業と一つの成長物語の終わり  ももいろクローバーZ有安杏果の卒業と一つの成長物語の終わりを含むブックマーク  ももいろクローバーZ有安杏果の卒業と一つの成長物語の終わりのブックマークコメント


 はじめに

一つ前の記事で、リアルファンタジー関係という観点からももいろクローバーZ有安杏果さんの卒業について書いた。そこでは、ももクロというグループの魔法が、ももクロのメンバーという存在ファンタジーのようなリアルだと信じさせることにあったと述べた。リアルに見えるファンタジーではなく、ファンタジーのようなリアル。この魔法は、すくなくとも5人で織りなすものとしては致命的に失効してしまったけれど、まだその内実についてはじゅうぶんに掘り下げることができていない。この魔法の正体の輪郭をもう少しはっきりとさせることで、21日の有安杏果卒業ライブもっと正面から迎えられるのではないか。なんとなくそう思えてきたので、駄文をつづける。                          

 ファンタジーを通して成長するということ

リアル自分、というのはどうしようもなく弱いものだ。怠けたり、すぐあきらめたり、簡単挫折してしまったり。夢=ファンタジーは、そういうリアルで弱い自分が高く飛ぶための、棒高跳びの棒のようなものだ。いまの自分とはちがう何者である自分についての空想。それに近づこうとすることで、リアル自分が強くなっていく。弱い自分が、そのファンタジーに辿りついていくという物語を生きる主人公になることができる。誰でもがファンタジーとともに生き、物語に支えられることで強くなっていく。剥き出しのまま充分に強い人間なんてそうそういない。

誰でもがファンタジーとともに、物語とともに生きているものだけど、でもある種の人たちはパブリックファンタジーを生きることになる。たとえばアスリートやアーティストと呼ばれるような人びと。もちろん彼/彼女らもまた、自分自身の夢=ファンタジーをもち、それをテコにして自分を磨いていくということをはじめただろう。しかし同時にそれらのファンタジーは、ある段階からみんなのファンタジーになっていく。メジャーリーグ二刀流で挑んでいこうとする大谷翔平の夢は、もともとは彼一人の夢だったとしても、いまでは多くの野球ファンの夢になっている。そしてきっと、自分の夢がそうして多くの人びとの夢にもなってしまうということは、彼をより強くしていく。もとから強かった存在が、多くの人びとが一緒に見てくれる夢をテコとすることで、自分だけでは飛べなかった高みにまで飛んでいけるようになる。プロのアスリートはくり返し応援してくれるファンへの感謝言葉を述べるが、それはたんに商業的にプロスポーツを成立させてくれていることに対してだけでなく、彼/彼女さらに高みにまで引き上げるテコになってくれたことに対しての感謝でもあるだろう。


 リアルファンタジーを同時に見せる存在としてのアイドル

アイドルもまたパブリックファンタジーとともに生きる存在だ。けれどそのファンタジーはきわめて特殊なかたちで生きられる。アスリートやアーティスト場合ファンタジーが彼/彼女らを成長させていくのだとしても、ファン享受するのはその成長の先に生み出される記録や作品といった成果であるしかアイドルとそのファン場合はちがう。アイドルファン享受するのは、アイドル提示する夢=ファンタジーに向かって成長していくというアイドルの姿そのものだ。とりわけ、90年代末のモーニング娘。以降の、元は素人リアル女の子たちが頑張っている姿をドキュメントとして提示していくというアイドルモデルについては明確にそうである

リアルドキュメントによって成立するアイドルにおいては、リアルファンタジー関係がきわめて独自の姿で立ち現われてくる。アスリートやアーティスト場合リアルで弱い姿は最終的には姿を消していなくてはならない。そうした弱さが完全に消えたその先に、完成した作品が生み出される。ということはつまり、成長のプロセスそのものが見えなくなっている必要があるということだ。成長が見えるというのはつまり、いまだ不完全であることに他ならないからだ。対して成長そのものファンに見せていくアイドルというジャンルにおいては、リアルで弱い部分がつねに見えていなければならない。リアルで弱い部分と、それを引き上げていくファンタジーとが「同時に」見えていなければならない。これがリアルドキュメント性を核とするアイドルにおけるリアルファンタジー関係独自性なのだと思う。


 成長の物語としてのももクロ物語

ももいろクローバーZというアイドルは、リアルな弱さとファンタジーが生み出す強さとを「同時に」見せていくという点で、ある種の究極の成功例を示した存在だ、とぼくは考えている。その成功完璧さは、ファンたちに、リアルファンタジーの二重性をほとんど気づかなくさせてしまった、という点に表われている。かくいうぼくがそうだ。ぼくはももクロという存在ファンタジーだとは考えていなかった(あえて過去形を使うならば)。そうではなく、ファンタジーのようなリアル存在だと受けとめていた。これがももクロの唯一無二の魔法だったのだ、と前の記事記した。いまから思えば実際には、ぼくが信じていたのは「ファンタジーのようなリアル存在」というファンタジーだったのかもしれない。そしてそれは、成長という出来事をめぐるファンタジーでもあった。ここからがこの記事が本当に書きたいことだ。

しばしばももクロのメンバーたちは、自分たちのことをとくに可愛いわけでも才能があるわけでもない普通女の子である、と述べる。アイドルになりたかったわけでもなく、「たまたま」このメンバーが集められそれがももクロになったのだ、と。実際ももクロのメンバーたちは、もし各自が一人で活動していたら、何一つなしとげないまま一般人に戻っていった可能性がきわめて高いだろう。しかし「たまたま」あるバランス、ある役割分担でメンバーが集められ、そこにももクロという名前が与えられ、独自戦略時代背景や時の運もあり、いつしかそこにファンたちの大きな夢=ファンタジーが乗せられていくことになった。その夢には、紅白出場、国立競技場でのライブ、そして笑顔の天下とそれぞれの名前が付けられていく。

しかももクロ場合、よくよく考えれば本当のファンタジーはそれらの目標そのものではなかった。アイドルにとっては、目標を達成することよりも、目標に向かって頑張り、成長していく姿をファンに見せていくことの方が重要だ。ももクロの本当のファンタジーは、紅白出場や国立競技場笑顔の天下といった目標を実現していくために頑張り、成長していくももクロという「ファンタジーのようなリアル」な存在そのものだったのだ、とぼくはいさら気づいた。そしてもう一つ、有安杏果さんの卒業によって、より重大な前提についてまったく意識できていなかったことにも気づかざるをえなかった。それは、ももクロという存在の成長が、同時に各メンバーのリアルな成長と完全に結びついている、という前提である

ももクロという存在の成長は、同時にももクロメンバーの成長でもある。これはぼくにとってあまり自明な前提であって、いままで一瞬たりとも疑ったことはなかった。ももクロメンバーにとって、ももクロとは自分を成長させるテコとしての夢=ファンタジーである、ということを信じ切っていた。そしてももクロという存在は、当然ながらももクロファンたちにとっての夢である。だからそこには、ファンたちの夢がももクロを成長させ、それゆえももクロメンバーを成長させていく、という完成された物語存在するのだ。さらに加えれば、多くのももクロファンたちは、ももクロという夢によって自分自身をより高めることができると考えている。ファンたちにとっても、ももクロは成長のためのテコであるのだ。だからももクロ物語の本当の姿というのは、特定目標を達成していくためのプロセスではなくて、ももクロという大きな夢によって、メンバーもファンも一緒に成長をつづけていくことができる、という幸福な成長についても物語であったのだ。


有安杏果卒業と成長のための物語分岐

今回の有安杏果さんの卒業ファンにとってあまりにもショッキングであったのは、その出来事が、ももクロ物語の核心である成長の物語根本から揺るがしてしまものだったからだ、とぼくはいまは考えている。ももクロ活動が体力的にも精神的にもきわめて過酷であるだろうことは、ファンは誰でも知っている。でもその過酷さは、ももクロという夢が自分自身の夢であればきっと乗り越えられるだろう。ももクロという夢が成長のためのテコとなって、さまざまな試練を乗り越えられる自分を作り上げていってくれるだろう。しかし有安さんが正直に告白した苦しさは、すくなくともある時点からは、ももクロという夢が彼女が成長していくためのテコではなくなっていた、ということを示しているのだと思う。だから彼女は、ももクロというテコを使わずに、どんどんと成長をつづけていくももクロ活動について行かなければならなかった。それはきっと苦しい努力だったろうし、どこかで限界が来ることは明らかだ。そして、限界がきたのだ。というよりもずいぶん前から来ていたのだ。

2016年に横浜アリーナで開催された有安さんの最初のソロコンサートは、ももクロ物語を極力排して、有安杏果という個人物語を紡ごうとするものであった。その後のソロコンサートでももももクロの色は可能な限り排除されていた。これは憶測になってしまうが、ももクロという夢が自分を成長させてくれるテコではなくなってしまった彼女は、自分自身物語を紡ぎなおす必要があったのではないだろうか。そして今回の卒業は、本当にゼロのところから、あらためて自分自身物語を立ち上げていこうというそういう決断だったのではないか。そこで立ち上げ直される物語は、ももクロの夢、ももクロファンの夢からは完全に切り離されざるをえない。もちろんももクロでの経験は、彼女を織りなす一部にはなっていくはずだ。それに、あるところまではやはりももクロの夢は有安杏果の夢であり、つまりももクロファン、有安さんファンの夢でもあって、そこには幸福な成長がたしか存在したのだと、ぼくは信じている。その上で、彼女は一から物語を、彼女自身物語として立ち上げなおすのだ。


魔法はつづく

さて、日付も変わって1月21日、幕張メッセで5人最後ライブが開催される。それが終われば4人のももいろクローバーZがはじまる。ももクロ5人の成長の物語は、残念ながら幕を閉じる。一つの魔法はたしかに解けてしまった。しかももクロをつづけていく4人が、ももクロ自分たちの夢である宣言しつづけてくれるなら、そのテコをつかってみんなが成長していける唯一無二の魔法として掲げつづけてくれるなら、ファンとしては素直にその魔法にかかりつづけていく、というのが正確な分際であるといまのぼくは思っている。

杏果ファン杏果ファン 2018/02/02 01:44 「自分の夢=ももクロの夢」なのか、「自分の夢(ももクロの夢)」なのかの違いですね。
杏果の場合は後者であり、自分の夢の一部がももクロの夢だったのでしょう。
ももクロではなく、有安杏果の物語として捉えれば分かると思います。

これが、4人と杏果の違いであったのだと思います。
「一生、ももクロでいる」と宣言する者と、常に”終わり”を意識する者の違い。

杏果の成長が別次元、別ベクトルだったことも、この違いによるものだったのかもしれません。

2018-01-17 ももいろクローバーZ有安杏果さんの卒業と残酷さについて

 ももいろクローバーZ有安杏果さんの卒業残酷さについて  ももいろクローバーZ有安杏果さんの卒業と残酷さについてを含むブックマーク  ももいろクローバーZ有安杏果さんの卒業と残酷さについてのブックマークコメント

 2018年1月15日ももいろクローバーZのメンバー有安杏果さんの卒業引退が発表されました。この記事では、「リアル」と「ファンタジー」という観点から日本アイドル史ごくごく簡単に(かつ乱暴に)振り返ったうえで、ももクロファンとして、この出来事にどう向かい合っていくか、綴っていきます。なんだかまとまりのないアンバランス記事になっていますももクロの話にだけ興味がある人は、ここからお読みください。

 80年代アイドル――ファンタジーとしてのファンタジー

 山口百恵引退松田聖子デビューによって幕を開けた80年代アイドル文化において、アイドルとはフィクションでありファンタジーだった。アイドルアイドルというファンタジーを演じ、ファンもそれをファンタジーとある意味割り切って受容し消費していた。そこには「冷めつつノリ、ノリつつ冷める」という80年代的消費文化エートスが浸透していた、と言えるだろう。アイドルのこのようなありかたを最も体現していたのが松田聖子だった。「松田聖子」というファンタジーは、松田聖子本人というリアルからは切り離されており、だから彼女結婚しても、子どもを産んでも、離婚しても「松田聖子」というファンタジーを演じつづけることができ、またファンもそういうものとして「松田聖子」を消費していくことができた。リアルファンタジーを明確に切り分け、その後者のみをファンが消費していく、これが80年代アイドル基本的な構図だった。

 80年代アイドルのこの基本的な構図は、秋元康プロデュースおニャン子クラブの登場により、極限まで押し進められることになる。そこでファンタジーを展開する主導権は、ファンタジーを演じきるプロアイドルではなく、素人女の子たちのうちに自発的に魅力を発掘し、育てていくファンの側に移っていった。それは一種ゲームのようなもので、その舞台となったのがテレビバラエティ番組だった。

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夕やけニャンニャン」を少しでも見れば分かるが、そこに登場するのはずぶの素人女の子であり、またその素人性を微塵たりとも隠そうとしない。80年代アイドル論の古典である稲増龍夫の『アイドル工学』に収録されている元おニャン子メンバーのインタビューでも、彼女たちがほんの腰掛けとしてお遊び感覚としてアイドルをやっていたことが臆面もなく語られている。

モーニング娘。――リアリティーショーとアイドル

80年代から始まるアイドル冬の時代と呼ばれる時期に終わりを告げたのが、モーニング娘。だ。おニャン子クラブと同様、モーニング娘。テレビバラエティ番組から登場した存在だ。ただしそこではまったく新しい方法論が持ち込まれている。リアリティーショーという、ドキュメントバラエティの枠組みだ。よく知られているように、モーニング娘。テレビ東京番組ASAYAN」でのシャ乱Q女性ボーカルオーディション落選したメンバーを集めることで作られた。

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オーディションへの応募から選考、メンバーでの合宿、最終選考、そして落選といったプロセス。またオーディションに落ちたメンバーが集められ、CDを5日間で5万枚売ればデビューできる、という難題に向き合っていく姿。そこに映しだされるのは、歌手になりたいという夢を持つリアル女の子たちの姿だ。そして視聴者は、CDを購入するという具体的な行動によって、テレビに映しだされるリアル女の子たちのリアルな夢を応援することができる。ここではアイドルにおけるリアルファンタジー関係が反転している。リアルな夢が、ファンと一緒に実現されていくというプロセスそのものファンタジーとなる。ただしそこでのリアルは、あくまでもテレビ画面の向こう側のものだ。その距離さらに縮められるためには、インターネット成熟SNSの登場を待つ必要があった。

AKBからももクロ、そして残酷さについて

 2005年末に始動したAKB48は、マスメディアの外で生み出されたグループだ。おニャン子モーニング娘。も、テレビの中で生まれ、テレビの中で育っていった。対してAKBは、劇場というリアル空間拠点とし、またマスメディア上でコミュニケーション組織するのではなく、インターネットという場でボトムアップコミュニケーション組織していった。そして、握手会という接触の圧倒的な「近さ」を武器とした。そこでは、一人一人のアイドルという存在の「リアル」そのもの商品になっていく。そのことをもっともよく象徴するのが、総選挙という残酷劇だ。総選挙という装置は、アイドルたちの「リアル」な感情を引き出すために機能する。ファンたちはその「リアル」を、投票という行為によって自分たち参加者することで共有する。ここではアイドルファンは、「ファンタジー」ではなく「リアル」を消費していくのであり、だからガチにならざるをえない。

 ももいろクローバーZもまた、大きくはこのパラダイムなかにいる。ももいろクローバーももいろクローバーZになるそのきっかけとなったメンバー早見あかりの脱退劇は、少女たちの青春の「リアル」を圧倒的な強度で見せつけるドキュメントであった。と同時にももクロという存在特殊性は、その「リアル」の姿があまりにも美しすぎて、それがそのまま「ファンタジー」へと昇華されてしまっている、というところにある。ももクロについてはしばしばメディアに現れる姿とそれ以外の素の場面とでまったく裏表がない、というエピソード言及され、ファンたちもそのことを誇りに思っている。実際には、ももクロ運営はすべてをさらけ出しているわけではなく、むしろ見せる部分と見せない部分とをきわめて繊細にコントロールしている。ファンたちが見ることができるのは、ももクロという存在の「ファンタジー」を裏切らない部分だけであるはずなのだしかももクロファンたちは、その「ファンタジー」をももクロの「リアル」だと感じている。ここに、ももいろクローバーZという存在魔法があったのだ、と個人的には考えている。ファンタジーファンタジーとして消費するのでなく、ファンタジーリアルとして消費するということ。ももクロというのは、ファンタジーのような、でもリアル存在なのだとみんなが信じていたこと。ここに、ももクロの唯一無二の魔法があったのだ。正直に告白すれば、ぼく自身もその魔法全面的にかかっていた。こんなファンタジーのような人たちがリアル存在するのだということに素直に驚き、そしてそのリアルさを完全に信じていた。ぼくはそれをファンタジーだとは思っていなかった。ファンタジーのようなリアルなのだと思っていた。

 今回の有安杏果さんの卒業引退という出来事は、ファンタジーファンタジーであってリアルではない、ということをまざまざと見せつける結果となった。すくなくとも5人組のアイドルグループであるももいろクローバーZとしては、魔法は解けてしまった。残念ながら、これは紛れもない事実だと思う。そしてこの事実に向き合った今、ぼくは「過酷さ」と「残酷さ」のちがいということについて考えている。

 ももクロであることは、メンバーにとって過酷であったと思う。これはおそらく多くのファン同意するだろう。絶えざる試練が与えられ、過密スケジュールのなかでそれらを次々とこなしていく。しかしぼくは、それを残酷だと思ったことはなかった。ももクロという物語が、それらの過酷さをすべて前向きなもの昇華していると、たぶん考えていた。だから、他のアイドルグループに見られるさまざまな残酷さは、ももクロには無縁なのだと信じていた。でも、有安さんが一年以上まえから卒業を決意しており、またそれ以上前から卒業という決意にいたるような苦悩を抱いていたのだとすれば、これは残酷な状況といわざるをえない。他のメンバーも、スタッフも、ファンもみな信じ切っていたももクロという魔法を信じられなくなったまま、笑顔活動をつづけなければならなかったこと。これは、残酷だ。ぼくがもっともショックを受けていることの一つは、ももクロには無縁だと思っていた残酷さが、ももクロのど真ん中にじつは潜んでいた、という事実かもしれない。そしてそのことを知らずに、結果としてはその残酷さに荷担しながらももクロという魔法享受していた、という事実。こうしたやましさの感覚は、しばしば否認の身ぶりとなって攻撃性に転化しがちだ。「裏切られた」という思いを抱くのも仕方ないかもしれない。でもぼくとしては、苦しいなかももクロをつづけてくれてありがとうと言いたい。そして本当におつかれさまでした、と。気付いてあげられなくてごめんなさいとも言いたいけれど、そんな言葉は求めていないと思うから

 ももクロの5人の魔法は解けてしまった。では、これからは4人の魔法がつづいていくのか。それは正直、わからない。これまでの5人の魔法の裏側に、じつはメンバーを苦しめる残酷さが潜んでいたということを知ってしまったいま、それと同じか、また別種の残酷さが、他の4人のメンバーを苦しめているのではないか、やはりどうしても考えてしまう。たんに魔法に甘えるというのは無責任なのではないか。間違いないことは、ももクロファンとして、ぼくたちはさらに一段成熟する必要がある、ということだと思う。ぼくたちは無邪気だった。無邪気に魔法を信じていた。その無邪気さが誰かを苦しめているかもしれない、なんて思いもせずに。この無邪気さを部分的にであれ失ったあとに、どういう形でファンたりうるのか。その具体的な姿はまだわからないけれど、ファンとしてもっと成熟しなければならない、ということはわかる。そしてこの成熟プロセスは、ももクロをつづけていく4人のメンバーとの共同作業になる、ということもわかる。この点は、ちょっとわくわくしている。

kaoruwadakaoruwada 2018/01/18 12:10 voleurknknさん

ツイッターで見かけてとても気になったので全文読ませて頂きました。

非常に論理的で、ぐいぐい引き込まれる内容でした。


文中に「苦しいなかももクロをつづけてくれてありがとう」という箇所と「気付いてあげられなくてごめんなさい」という箇所がありましたが、私もまったく同感です。

いちファンとして、そういう言葉をかけてあげたいと思います。


と同時に、「そんな言葉は求めていない」というよりは、本人の側は求めてはならないと考える自分もいます。

有安さんは『普通の女の子の生活を送りたい』と言った。

でも普通の女の子だって何らかの仕事にはつくはずです。
(仕事につかずして暮らせる女の子はその時点で普通ではないので)

働いているからには、何らかの不満は誰にでもあるでしょう。

「今日こそ辞表を叩きつけてやる!」と考えながら日々を過ごしている社会人だって少なくないと思います。

でも、その怒りやイライラをお客様にぶつけることなんてあってはならないことです。

だから有安さんがどれだけ残酷な状況に置かれていようとも、ももクロのメンバーであるうちは、ファンに対してそれを悟られることなく魔法をかけ続けなければならないのだと思います。


ドライな言い方で恐縮ですが、アイドルはファンに魔法をかけることで対価を得るビジネスです。

なので無邪気に魔法を信じて過ごせば良いではありませんか。

そして長い間、私たちに魔法をかけ続けてくれた魔法使いに感謝しましょう。

そしてこれから私たちに魔法をかけると宣言してくれた魔法使い達にエールを送りましょう。


思いのほか長文になってしまいました。ごめんなさい。

批判するために書いたのではありません。

大きな気づきを頂いたお礼と、ファンが苦しむ必要はないとお伝えしたかっただけです。


それでは、ごめんください。

voleurknknvoleurknkn 2018/01/19 07:46 kaoruwadaさん、

コメントありがとうございます。
「そんな言葉は求めていない」について、「求めてはならない」と書かれていますが、
社会人としてはその通りだと思います。
と同時に、一人の人間としては、やはり「ごめんなさい」と声をかけてもらうことはできると思います。
この二つは矛盾しないとぼくは考えます。
今回僕は、一人の人間としての有安さんに「ごめんなさい」と声をかけたくなり、と同時に
社会人(というにはあまりに大きな存在ですが)としての有安さんに敬意を表してそれを差し控えました。

ちなみに魔法に関しては、山里良太さんの「不毛な議論」を聴いて、
もう少し無邪気に4人の魔法を信じるのが正解かもしれない、と思いはじめています。

匿名の杏果推し匿名の杏果推し 2018/01/29 20:41 杏果の残像を追いかけていたら、ここに辿り着きました。
卒業発表→幕張の後、ずっと考えていたことと似ていて思わず、筆?を取りました。

魔法という表現を使われていましたが、僕は「依存」という解釈をしています。
偶像崇拝のイメージですね。

ファンが身勝手に抱いた理想的なももクロという偶像に酔いしれ、依存してしまった。
依存するがゆえに、理想を破壊する行為は、偶像への冒瀆となり、裏切りと解釈される…

杏果へ浴びせるネットの辛辣な言葉に、モノノフというものの恐ろしさを見てしまいました。
何事も表裏一体。
表が輝くほど、裏は暗く深淵になる。
魔法は、解けるべきだったのだと思います。

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