1984ルパール

メスナーつながりで 1978年のディアミールの記録の方も読み直す

ナンガ・パルバート単独行 (yama‐kei classics)

ナンガ・パルバート単独行 (yama‐kei classics)

「裸の山」を 熟読したおかげで 歴史的背景(山の年表)が
頭の中で 数字の年表から 絵に描いた年表に変化し
それに 付随する形で 山の各面からのルートが把握できるようになった
さらに「第三の極地」「ヒマラヤ名峰辞典」も合せながら熟読
どうしても 自分の行った事のないエリアは 名前だけが先行してしまうが
読み込んだせいか déjà-vu と言ったら大げさだが
遠征隊に参加した雰囲気にはなってきた
・・
忘れもしない1984のルパール壁での事故
シャモニで クライミング三昧の生活をしてた所に飛び込んできた友達の訃報・・
長い間 記録や経過さえ 読む気になれなかったのだが
30年近く過ぎ ようやく しみじみと手にとり ひも解く

ずっと 敢えてさけていた事柄だったので
友が亡くなったという現実以外は 何も理解していなかったのだが
今 ようやく 関係書類とナンガの文献を合わせ持って読み
ほんの少しだが理解しはじめた・・
自分の中で、30年ぶりに時計が少しずつ動きはじめた
1984 HAJ隊は 1970のメスナー兄弟の往路をとったのだが
京都隊 長谷川隊の報告に合せもてば、メルクルリンネまでは到達しておらず
やはりリブ上で 第三キャンプテントごと 大雪崩で持っていかれたというのが
推測ではあるが 一番 事実に近いような気がする
メスナー隊も 記録では かなり降雪に悩まされていた所でもあり
HAJ隊も 降雪に悩まされていた
スピードこそが安全のルートであり そのあたりは隊員も理解していたのだが
それをうわまわる客観的な危険が 彼らを襲ったと言う事なのか・・
「裸の山」には もっとも危険な第三キャンプの設営地が
幸運な事に 大きなアイスドームを発見して その中に設営したため
雪崩と強風を避ける事ができたと書いてある・・
対してHAJ隊の第三キャンプは 長谷川隊の著述では その場所に何(テントは)もなかったと
記されている
ドイツ隊の隊長のヘルリヒコッファーは隊長であってもクライマーでなく
自分の目で キャンプ3を確認したわけではない・・
となると 隊長とメスナーの葛藤 確執の裁判により
このキャンプ地などに関し述べれていた「赤い信号弾」が発行差し止めになっていた事を想像するに
HAJ隊は ひょっとするとヘルリヒコッファーの文献からだけで
メスナーのキャンプに関する詳細な著述を目にしていなかった可能性もある
(おおまかな 「大岩壁」(山と渓谷社)のほうはトポとして利用している) 
あるいは 14年の月日をへて 大きなアイスドームは崩落していたか
探しても見つからなかった可能性もある
HAJ隊の残された記録には どのような場所に設営したかまでの記録がなく
写真もないので 今となっては そのあたりは 永遠の謎・・・
..
HAJ隊の記録で 心が和むのはBCでの牧歌的な表現
まさに桃源郷の名にふさわしい風景だ
これほど 山とBCが天国と地獄にわかれる場所も珍しいのではないか
今となっては 敵討ちをする気力も体力もないが
いつの日か BCまでは 追悼をかねてトレッキングしてみたいものだ