第35話  科学者への希望の郵便 / The mail for Scientist

「なに!?暑中見舞いだと?馬鹿野郎!そんな物はいらん!!研究者はな、そいつの論文を読んでいれば、今何をしているのか、元気なのかは分かるんだ!」



「はあ、すみません」



阿弖流為アテルイと読む、私が付けられたあだ名)!こんな無駄な事で電話するな!そんな暇があるなら論文出せ!それで、何か面白い報告は無いのか!?」



とほほ、な苦い記憶である。ある特殊測定に私が従事していたとき、この特殊機器の専門家であり、理論と測定のイロハを私に叩き込んでくれた先生との会話である。この方は関東の方で(私の師匠とは別の人、旧帝大卒は同じだがこちらは東大)、目下の者の名前を覚えるのが苦手だとかで、すぐにあだ名をつけてその人を呼ぶ。私は東北出身だったから、「アテルイ」となった。この先生はまた、かなりの切れ者であった。研究者で切れ者であるとなると、まあ大体人間的にどこかしら面倒な所を持っている。このときも、例年にない猛暑で、高齢な先生を心配して電話でご機嫌伺いと思ったのだが、上記のような雷を落とされた訳だ。電話の声は激高しているようだし、言葉も決して穏やかではないが、これでも先生は「俺は元気だ、心配いらない。それよりお前は元気か?」と言ってくれている。この癖の強さで、上の人とすぐに喧嘩をして、能力の割に出世しない方だった。私もまた、ナケナシの野心に燃え、某有名研究所で肩で風を切っていた頃の話だ(今思い出すとちょっと恥ずかしい)。


3月のブルキナファソは気温が40℃を軽く超え、湿度が低いと言っても、かなり暑い。猛暑の日々は猛暑の夏の記憶を蘇らせる。



「よし次の案件だ。各地方農水局への根回しは済んだな?」


「それがKayaの事務所からまた活動費についての文句が来ています」


「またか、うちプロジェクトは研究プロジェクトだ。援助じゃない。そう言って断るんだ」


「はい。ドクター」



「次はNigerへの出張に必要な国際出張命令書はどうだ?」



「はい、あとは所長のサインだけです。来週水曜日の便でこちらに届きます。」


「信用できない。水曜日にワガに出張するぞ。そこで他の打ち合わせといっしょに私が直接研究所本部に行くから、書類を私に手渡すように手配しろ。」




ブルキナファソでは郵便局はあるのだが、日本の様な正確さはない。皆無だ、と言っても良い。そのため、通常からブルキナベは長距離バスの定期便の運転手に小金を渡して、いっしょに荷物や手紙を配送してもらう。これが一番確実で早いという。確かにこれなら、電話でバスの到着時刻を相手に教えておけば、バスの発着所で数時間のうちに郵便物を受け取る事ができる。しかし、それだと、何の為の郵便局なのかな、と思う。


震災後、日本各地に散った同窓生、研究仲間、後輩達から続々とメールが届いた。メールは国内に限らず、アメリカ、イギリス、ブラジル、中国、イスラエル、と戦友達が渡航した先からも寄せられた。ありがたいことだ。私は不安定なネット回線から、必死で皆にメールを打った。日本国内のニュースは知らないが、こちらで見る事が出来たのはBBC,CNN,France24などのニュース映像だ。日本国内と海外のニュース映像の一番大きな違いをご存知だろうか。今回の震災で言えば、「死体を写すか、否か」であろう。こちらでみる映像は、空爆を受けたアジア、と言われても分からない様な映像であるのは日本と同じだが、あちらこちらに映し出される累々たる死体の映像だけが日本とは違うだろう。気が滅入る。また、馴染みのある隣県の福島、が「フクシマ・フクシマ」とカタカナで発音され、連呼されるのには我慢ならなかった。自分の身内が外部の者達から貶められている気がしたのだ。



私はテレビもラジオも消して、仕事に集中していた。今、私にできることは何も無い。冷酷かも知れないが、事実だったのではないか。3月には大小多数の打ち合わせ、会議、私の研究所本部への提出書類、次年度の活動計画書の提出、予算案の作成、その他諸々、と盛りだくさんの状況だった。それでも私はさらに、5月の休暇明けに予定していたNiger(ニジェール)への出張も3月に付け加えた。Nigerはブルキナファソのとなりであるから、車でもほぼ一日で行く事ができる。こちらのstaffは基本的に西アフリカ国内であればパスポートを必要としないのだ。特に国立の研究機関のスタッフであれば、研究所が公式に出す国際出張命令書を持っていれば、国境でのやりとりも問題が無い。私だけがNigerのビザを申請していた。そのためのやり取りがブルキナファソの国立研究所と緊急で行われ、私はごり押しで寄り切った。忙しさに自分でさらに首を絞めた形だ。理由は簡単。自分自身から考える時間を奪っていたのだ。



忙しさが私を支えていた。次々に舞い込む仕事、意味の分からないトラブル、出張に打ち合わせ、報告書書き。ちょっとでも時間が空いてしまうと、「俺ならこうする」「こういう事態にはこう動く」などと、もし私が大学の助手を続けていた場合の震災への対処を考えてしまう。あのラボのあの機械は地震後に動き続けると、エラーで水素ガスが発生してしまう、すぐにポンプを手動で閉めねば、あのラボは危険な薬品が多い、窓を全開にして立ち入り禁止にせねば、近隣の人が困っているはずだ、体育館を解放して避難所にしなくては、自衛隊松島基地から人が出ているはずだ、彼らの宿泊地も大学内に設置するのだ、そうすれば人手が稼げる。非常時の大学の備蓄食料を再整理しなくては、まずは非難している人と学生を腹一杯にするのが先決だ、などなど。意味の無い事なのだが、考えてしまう。私は歴代の助手の人たちに負けないほど、大学内に精通しているつもりだった。




「止めよう。先生達とて修羅場を越えて来た猛者ばかりだ。大丈夫だろう。」



休日になると、仕事は一旦ストップして、貯まった家事をこなす。デスクワークが多いときは身体を動かす時間がとても大切だ。汗だくになりながら、1人には広すぎる家を隅々まで掃除して洗い物を片付ける。ハルマッタンを経てみて、大きな問題点を見つけていた。それは天井の隅から絶えず埃が落ちてくる事に気がついたのだ。通常はほとんど風も吹かないから、気にならなかったのだが、ハルマッタンの強風が吹くたびに、天井の四隅から埃が落ち始めた。四隅にはそれぞれ壁に塗りたくったペンキが溝を塞いでいたのだが、乾期の尋常ならざる低湿度はペンキをボロボロにしてしまい、空いた隙間からペンキのカスと埃がまい落ちる事になった。なんせ、築30年の家だ。


首都出張時に買い込んだシリコンシーラントをコーキングガンにセットして、私は家中の隙間を埋めて行く。汗だくになり、梯子をかけ、天井の4隅を必死で埋めて行く。そのうち、疲れで腕が震える。こんなことは研究所に言って、業者にやらせればいいのだが、10ヶ月の現地経験はどのような家のトラブルであれ、外注するとろくな事にならない、と私に教えてくれていた。温水器を直させたときには、3日後に回路部が火花を吹いた。これに温水器のパイプから水漏れが加わり、辺りには220ボルトの火花が花を咲かせていた。だから、私が匂いで漏電を関知していなければ、トイレに入ったついでに死んでいただろう。私は植物学者だが、高校は工業高校で機械と電気工学を叩き込まれている。電気と水が反応するときの匂いを誤ったりはしない。まだある、エアコンの水漏れを直させたときも、冷媒ガスを誤って抜いてしまい、猛暑の中エアコンが使えなくなったりした。また、水道の圧が低くなって、ろくにシャワーが浴びれなくなったときは、水道管のフィルターの目詰まりを私が指摘したが、業者は見当違いに水道管を掘り起こし、更にはそれに傷をつけて、庭一面が水浸しになった。これなら私が修理した方がよっぽど早いし、ストレスも無いと言う訳だ。


ついでにニジェールへの出張準備もしてしまう。とはいえ、3日程度の視察になるから、準備は簡単だ。これが終われば、後は日本への帰国が待っている。二つのトランクはすでに準備ができており、玄関の脇に並んでいる。中身はスカスカだ。なんせ、こちらから持ち帰るのはお土産物くらいで、あとは戻ったときに使う物ばかりだから、置いて行けば良い。むしろ、東京に着いた時点で、買い出しを行い、宮城へ向かう前に救援物資を調達する必要があった。米やカセットコンロ、東京に居る義兄にお願いして事前に買い出しをしておいてもらう手筈だ。このときはまだ、東京から仙台への移動手段すら無い状況で、福島を通る事が難しそうだったから、大学時代の同級生に協力してもらい、新潟から山形を経由して仙台に向かう準備を進めていた。ガソリンが枯渇しているなら、歩いて行く、そう決心していた。


「ドクター、ニジェールには私の車を使ってくれ。」



「いいのか?イサカ。それは助かるよ。俺の車はいつ止まるか分からんし」



相棒のイサカはメリンダ・ビル・ゲイツ財団のプロジェクトにも参加しており、最近30年間使い込んだNISSAN PatrolからFordの新車に乗り換えていた。普段なら羨ましいとか、皮肉とかを言う所だが、イサカほどの科学者が今までボロボロの車に文句言わずに乗っていた事の方が凄いし、彼が新車を手に入れるのは誰も異存が無いことだった。しかも彼は私にレンタルした研究所の車が度々トラブルを起こし、私が怒っている事に気を使ってくれているのだ。それに加えて、2月に起きた学生デモはブルキナファソの国民に火種を残した。3月に行なわれた若い軍人の暴行事件に対して、当然の事ではあるが、裁判所は有罪を言い渡した。これに対して、各地の陸軍駐屯地で不穏な動きが見られる、と新聞が警告していた。ニジェールに向かう途中の都市、Fadaには大きな陸軍キャンプがある。この付近で車のトラブルが起きるのは危険である。学生デモと軍人の裁判はまったく別件に見えるが、デモが起こした動乱の火種はいつ軍部の若者に飛び火するか、予断を許さない状況だった。また、ニジェール国境付近には、盗賊や山賊、果てはアルカイダの一部が外国人を狙った誘拐事件を起こす事が度々ニュースで報道されていた。だから、国境を越える車の運転手は、近くのレストランで集まり、即席のキャラバンを編成して国境を越えると聞いていた。この付近での車の故障は文字通り、死活問題になりかねない。私としても他の新車をレンタルしてでも状態の良い車を準備するつもりであった。渡りに船の申し出であった。



思えば、陸路で国境を越えるのは初めての経験である。島国の日本人特有の物かも知れない。3月下旬、イサカに借りた新型のフォード4WDと中堅のドライバー・ウスマンを伴って、私はニジェールの首都ニアメーに向かった。国境と言っても、あっさりとしていて、道にゲートがあるだけ。景色もブルキナファソニジェールでは何も変わらなかったから、どこからニジェールなのか、さっぱりわからなかった。しかもニジェールのビザを取って来たのに、一度も使う事が無かった。ビザの申請料を損した。




今回のニアメー出張の目的は、これから共同研究をする研究所の「分析能力」を査定する為だ。ブルキナファソの実験の中には、土壌肥沃土を測定する項目があるのだが、Sariaの実験室は埃まみれで、トカゲやネズミが出るし、器具に砂埃が着いている様な実験室のデータは信用できない。しかたなく、外注で測定をしてくれる研究所を探していたのだが、私の研究所の本部に送付するよりも、ニアメーの姉妹研究所にサンプルを送付する方が安いと見積もりが出た。そこで、その研究所の知り合いに連絡をして、「視察」を行う事にしたのだ。




「研究所、とりわけ何かしらの分析を行なう実験室において、最も重要な物は何であるか?」




「やはり測定器とそれを扱う科学者の力量です」




私は修行を兼ねて連れて来たスタッフのオノに、聞いてみた。彼女の答えは不正解。安定した電気、高額な測定機器、豊富な試薬、物品などなど。これらも不正解だ。どれも重要だが、「最も」では無い。答えは「水」である。少なくとも私は学校でそう習った。あらゆる試薬の溶媒となり、また、実験が終わった後の機器を洗う際にも必要となる、水。私が実験を習った生化学の先生は、「自分が実験をする場合、その施設で最も高純度な水しか使うな!」と教えてくれた。一般にはあまり知られていないが、少なくとも生物学の実験者は何種類かの水を使い分けている。試薬調合に使用する超純水、人口気象室の噴霧器などにも使用される高純水、他にも脱イオン水、純水、滅菌水、蒸留水にそして時には水道水だ。この実験の基本である水の扱いが出来ていない実験室は、そこから生まれるすべてのデータが怪しくなる。だから、これから訪れる施設も、水をどのように精製し、水を作る装置を如何にメンテナンスしているかを見れば彼らの腕を査定できる。極論すれば他の装置などどうでも良いのだ。



ニアメーにある某研究所。スタッフのオノはそれとなく水に関係する装置を眺めたり、写真を撮ったりしている。そうそう、そうやって科学者や技術者の力量を読めるようになるのよ。まあ、結果として、頼んでも良いかな、と言う感じだった。


Nigerへの出張は思わぬ副産物を与えてくれた。それはボチボチ高速なネット回線である。ここも国際研究所(国連機関)のひとつであり、それなりの装備が我々のゲストハウスにも付随していた。そこで思いもかけない、あるいは最高のニュースを得る事ができた。


私が努めていた大学は、本校(?)が東京の神田にある。その関係で、震災後は神田の校舎が石巻の大学の情報発信をしてくれていた。ネット検索を駆使して、そこに行き着く事が出来た。そこには大学関係者の安否情報があり、私の師匠や同僚が無事である事を知った。さらに研究所時代の同僚の方に連絡を取る事が出来、彼女が師匠からの伝言を預かっている事を知った。それは師匠が知り合いに向けた生存報告であったのだが、その文言に熱い物が込み上げるのを禁じ得なかった。



「みなさん、〇〇(師匠の名前)は生きております。津波は大学の手前で止まり、建物は無事でした。他は悲惨で凄惨としか言えません。しかし今日は震災後初めての郵便物が届きました。大学にきた初めての郵便、私宛のそれは、〇〇君(私の名前)の論文の別刷りでした。学者にとって大学にとって、これほど希望が湧き出る郵便物はありません。(中略)」



論文が掲載されると、その別刷りが著者に配布される。これは我々の伝統だ。私の論文がちょうど年末に受理されていた。その論文が届いたのだ。


私にできることが、あったのだな。






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第34話  悪循環 / Negative spiral


「先生、恋人はいますか?」



「お、定番だね。残念ながら、結婚しているよ。ちなみに年齢は想像に任せます」



無邪気な笑みの中に、10代後半の好奇心が潜む。そんな70個の瞳が私を見つめている。今の私なら、彼女達の「若さ」に少したじろぐかも知れない。でもそのころの私は、常に「新鮮な21歳が補給」される特殊な職場にいたから、若さに対して免疫を持っていた。大学の研究室で助手をしていると、毎年「卒業研究生」を受け入れる。彼ら(彼女ら)は常に21歳の若者として、毎年新しい年代の顔を見せてくれる。だから、このときの私は彼女達の無邪気さと好奇心とが入り交じった視線を、上手く躱す術にも長けていた。


場所は高等看護学校の一室、物理・化学・生物学という彼女達、準看護師にとっては所謂「教養科目」の担当教師として、私は教壇に立っていた。一般の方には馴染みが無いだろうが、準看護師は正規の看護師の一段下に設定されている役職であり、色々と立場的に弱い。ややもすると使いっ走りとも言われるが、叩き上げの看護師の登竜門とも言える。現場に一番近い人たちだ。彼女ら(ときに彼ら)が正規の看護師になる場合、高等看護学校で専門過程を修め、国家資格を更新しなくてはならない。専門課程は、例えば、「解剖学」・「生理学」・「看護学」・「免疫学」などなどの、プロ用の専門教育だ。しかしながら、多くの准看護師がそうであるように、高校卒業の資格しか持たない彼女達には、高等看護学校で「一般教養」を習得する必要があるのだ。


多くの場合、高等看護学校では専門科目の講師に困る事はない。なぜなら、近くに病院があれば、そこには多くの「専門家」がいるわけだ。高等看護学校はまた、地元の医師会が隣接されており、講師の調達に事欠かない。ただし、「一般教養」においてはそうはいかない。多くの医師が高い学歴を持っているのは間違いないが、平時の尋常ならざる忙しさからすると、とても「一般教養」までは手が回らない。そうすると、学校を管理する医師会はこれらの科目の為に講師を新たに調達する必要がある。医師会が大学や大学病院のそばにあれば問題は無いが、地理的に不利な場所にある医師会では、この「一般教養」を教える事が出来る講師を調達するのが極めて難しくなる。



私の師匠は、元々旧帝大の医学部の人だった。助手時代、びっくりするような低給で辟易していた私に、「修行」を兼ねたアルバイトとして、師匠が持って来たのがこの「講師」の仕事だった。流石にスポンサーは医師会、いい給与と条件だった。だが、それよりも新鮮に、そして鮮烈に私の記憶に残ったのは、若き現場の看護師達の姿だった。意思に燃え、それでいて十代後半の悪戯っぽい仕草や怠惰を捨てきれず、日々の過酷な労働に追われつつも、新しい知識の(専門科目ではない)吸収に純粋な喜びを示してくれる。私もアルバイト感覚を改め、彼女達に精一杯科学の魅力を伝えようと、誠心誠意をつくして授業を行った。化学を教えるには、錬金術師のおとぎ話から、遺伝学を教えるには、古事記から日本誕生の秘密と、日本最古の男尊女卑の話を引き合いに出し、彼女達にとっていままで面倒な教科書の暗記科目でしかなかった科学に、私なりに光を当てたつもりだった。大学で教えるときとはひと味違う、充実した知への欲求とそれを得る喜びを我々はちょっとだけでも共有できたと思う。楽しい時間だった。




「・・・・また、昔の夢か・・・・」



帰国が近づいていた2月下旬、なぜか昔の夢を良く見るようになっていた。センチメンタリズムなどごみ箱に捨ててしまえ、と平時思っている私は、この連続する夢に辟易としていた。教えた学生達、がなぜかよく夢に出る。



起き上がると、マットレスに人の形の染みが出来ている。私の汗だ。昨日もまた停電があり、暑くて仕様がない状態で、無理矢理に寝たのだ。窓を開ければ少しはましだろうが、虫が嫌いな私にその勇気はない。何が入ってくるか知れたものではない。暑苦しくとも、停電が復旧する事を願いつつ横になっていたのだが、いつの間にか寝てしまっていたようだ。昨日はシャワーすら浴びていない。正確には浴びる事が出来なかった。Saria村の研究所内は水道に村の地下水を使っている。そのため、研究所の一角に巨大な水のタンクがあり、そこにポンプを使って地下水をくみ上げ、位置エネルギーの力を使って、研究所内に水道を走らせている。水は結構、美味しい(もちろん煮沸消毒してから飲むが)。ところが、タイミングが悪いと、このタンクの残水が少ない状態で停電してしまい、断水してもポンプが停電で動かず、停電と断水のダブルパンチを食らわされる事になる。停電はなんとかしのげるが、断水は厳しい。今更ながらに、人は水無しでは生活できない事を思い知る。




「ドクター、今日はどうしましょうか?」



「そうだな、電気が無いとパソコン仕事はできないから、倉庫の棚卸しをしてくれ。特に農薬と肥料の残量をもう一度調べて報告してくれ」



オフィスに行ったものの、電気が無いと仕事がきつい。ずいぶんと人はパソコンに依存する仕事形態を取るようになったものだ。停電も15時間を超えると、携帯電話の中継機もやられて、(特定の電話会社の)電話も通じなくなる。こんなときは、同じように所内で時間を持て余している他の科学者と議論をするのにちょうど良い。その日も、パソコンが使えずに所在無さげにしている、Saria研究所の所長と相棒のイサカを捕まえて、プロジェクトの次の仕事内容やSaria stationのインフラ(特にインターネット)について話し合っていた。


2011年2月22日だった。所長室の外が騒がしい。どうやらスタッフ達の送迎を担当している運転手が、物品と物流を管理するマテリアル・チーフに何か慌てて相談しているらしい。そこに研究所の守衛達も混じって、騒がしくなっていた。



「なんだろうね?」



「おい、マダム!」



所長が秘書を呼びつけて、騒ぎの原因を問いただす。すぐにマテリアルチーフが所長室に現れて、説明を始めた。所長のLamienは一瞬顔を曇らせた。イサカはすぐに電話を取り出すが、通話が出来ないようだ。



Saria村から幹線道路に出るときに必ず通る、Poaの話は以前に触れた。ここにはSariaから一番近い警察署がある。といっても、交番程度の大きさしかない。Sariaで何かあれば、ここPoaの警察官がSariaまで駆けつけるのだが、悪路を12km走ってこなくてはならない。だから私はこのPoaの警察署には早々に諦めを付け、自己防衛に力を入れていた。当時は万が一、家に強盗でも入ろうものなら、相手を殺めてしまう覚悟すら持っていた。怖い話だが、こちらでは自己防衛が基本だ。そしてさらに怖い話だが、防衛の為に悪漢を殺害しても「ほぼ」罪に問われないとスタッフに聞かされていた。ちょっと話が逸れたが、このPoaの警察署が「事件」を起こしていた。



当時、通学途中の学生がPoaの警察官に止められた。そこで何らかのやり取りがあったのだろうが、結果として学生は警官の暴行によって意識不明に陥った。その後、Poaの管轄権をもつKoudougou市の警察署から、学生が「病死」したと発表があった。明らかな事実の隠蔽である。これに怒ったKoudougou市の学生が大規模なデモを始めたのだった。SariaのスタッフはほとんどがこのKoudougou市に住んでおり、研究所の送迎車で毎日通勤している。そのため、デモの影響で帰りの車を出すかどうかを相談しているという事だった。


私は即座にデモの規模を聞き取り、オフィスへと戻った。関係各所に連絡を入れる為だ。まず、私が所属する国際研究所の同僚とセキュリティマネージャーにメールを書く、しかし停電で送信できない。次に「緊急用」の携帯電話のsim cardを取り出し、辛うじて通話できる状態で大使館と某国際協力事業団へと連絡を入れた。特に某国際協力事業団の隊員が数名Koudougou市にいることを知っていたからだ。幸い、大事には至っていないようだった。大使館はKoudougou市から近い私の居住地区の安全性を憂慮していた。こちらで私は2台の携帯電話と3社のsim cardを持っている。こちらでは一台の携帯電話に2〜3社のsimを入れて同時に使う事ができる。このような緊急事態に備えて、私も準備をしていたのだ。


午後になると停電は復旧したが、事態は想像よりも悪い方向へと進んだ。どうしても送信しなければならない数通のメールがあったため、私はKoudougou市に出張する予定を午後に入れていたのだ。スタッフの話では大した危険は無いという事だった。しかし、念のためにUSBのネット接続機器が動作する場所まで近づき、メールが送信されたと同時に帰ってくる事にした。




「なあ、ヌフ、日本だとデモとかは形ばかりで、安全な物だ。こっちではどうなんだ?」


「ドクター、ブルキナベは時々やり過ぎるけど、ここは大丈夫ですよ」



老齢なドライバー・ヌフはその豊富な経験談で私の気持ちを落ち着けようとしてくれているようだった。しかし、彼の目も、Koudougou市の入り口付近で鋭い光を放ち始めた。前方から多くの黒煙が立ち上っていたからだ。危険が近い、彼の目はそう言っていた。



道路の両脇の私道にはタイヤが積み上げられ、ガソリンだろうか、何かがかけられた上に火が放たれて濛々とした黒煙を巻き上げている。道路脇の店はすべて閉まっており、人が居ない。まるで戦争映画だ。嫌な予感がする。私とヌフは急いでメールの送信を確認すると、もっと見て回りたいという好奇心と恐怖心を戦わせて、結局、Saria村に引き返す道を選択した。この判断は当たり前ながら、正しかった。


夕闇が迫るKoudougou市の西の空が嫌な色に染まっていた、ちょうどそのとき、暴徒と課した学生と日頃から警察官の横暴に怒りを貯めていた市民とが加わり、黒い濁流となった怒りのデモ隊は市内を暴れるに飽き足らず、ついにKoudougou市の警察本署へとなだれ込んでいた。学生達は警察車両に火を放ち、警察署の壁から、本署施設までを破壊し、火を放った。恐れをなした警官達は自らのオフィスを捨て、方々へと逃げて行ったそうだ。むしろ幸いだ。彼らが銃器で応戦していたら、事態は取り返しのつかない事になっていただろう。



翌日からは様子を見る為に、私のスタッフには休暇を与えた。なるべく家にいるようにと。そして情報が入ったら、電話で知らせて欲しいと頼んでおいた。久々に、こちらの人の「爆発力」を見た気がする。普段温厚なブルキナベも一度「火」がつくと、我々日本人がイメージする「暴徒と化す黒人」となるのだ。その怒りのエネルギーは凄まじい。特に「大義名分」が加わったとき、普段の真面目さがこのエネルギーに油を注ぐのだ。


不幸中の幸いで、Koudougou市にいた日本人達も無事だったようだ。市民も暴れるだけ暴れて、誰が殺されるでもなかったようだ。暴徒は警察署を焼き払い、鬱憤が晴れたのか、またいつもの日常へと戻ったらしい。ただし、この事件がニュースとなり国中に広がったとき、憂さ晴らしでは済まされない「何か」を国民に植え付けたようだ。事実、この後の出張中も、至る所の警察署(交番)周辺で投石などのデモに出くわすようになった。規模こそ小さい物の、それを目にすると、否応なく危険な空気を肌で感じる事になる。このままでは終わらないかもな、と。



しかし、人間は強かだ。Koudougou市のデモから数週間が経つと、いつものSariaに戻っていた。3月に入ると、いよいよ年次休暇と年度締めの為の追い込みが始まった。毎日が忙しく、また、毎日のようにどうでも良いトラブル処理を迫られ、疲れのため夢を見る事も無くなった。


家にある書斎での残業中(といってもすでに朝になっていたけど)、珍しく書斎からもネットに繋がる好条件の日だった。妻からメールが入る。この時間なら日本は3月11日の午後だろうか。



宮城県沖地震発生。家族は無事。停電中。」



短いメールで携帯から送信されていた。私の家は宮城県にある。地震が起こると、たびたび携帯が不通になることがある。多くの人が一斉に安否確認やメールを打つ為だ。宮城に生まれ育ち、それを十分に承知していた私は、(そのときは愚かにも)慌てずに「余震に気をつけてね」などと返信していた。妻からの返事は無かった。妻も同様に宮城出身で、地震後の携帯不通を承知しているから、不通になる前に素早く短いメールで状況を報告したのだと思っていた。それは事実であったが、まだこの時点では「何が起きたのか」をSariaからでは知りようが無かったのだ。



徹夜明けのまま、事務所に行き、午後になった。すると、食事中のはずのスタッフ達が血相を変えて事務所にやってきた。すぐに食堂のある場所まで連れて行かれた。そう、Sariaで唯一テレビが見られるのがこの食堂なのだ。そこにはフランス24というフランスの衛星放送の映像が繰り返し流れていた。




そこで見た画をなんと言えば良いのだろう。



そのときの気持ちを何と言えばいいのだろう。




メールも電話もすでに宮城県を含む東北地方へは通じなくなっていた。唯一の救いは、少なくとも妻と息子は無事である、という極めて利己的だが、動かしがたい安堵感だけである。


私の家は宮城県にある、そして私が教鞭をとっていた大学は石巻市にある、私が立った看護学校の教壇は気仙沼市にある。私の家族が、恩師達が、友人達が、手塩にかけた学生達が、そこにいるはずだった。




「馬鹿野郎!!!!」




普段は口は悪くとも直接の暴力を嫌う私が、日本語で怒号を発し、手元の椅子を掴んであさっての方向へと投げつける。食堂の隅に積んであった机にぶつかり、周囲の空き瓶が粉々に砕け散る。周りにいたスタッフや食堂の従業員の顔から血の気が失せるのがわかった。私の顔にはアフリカに単身赴任してから最大の怒気が満ちていたはずだ。





馬鹿野郎どもが、「あの夢」が別れの挨拶のつもりじゃないだろうな。






宮城県沖地震と妻が言ったそれは、後に東日本大震災と呼称を変えた。











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第33話 神々の警告 / Messenger of God.


釣りの極意は待つことにあるという。これは良く誤解されている。ただ待てば良い、ということではないのだ。魚がきちんと餌に食らいつき、ハリがかかるまで、ハリが口の中に入るのを待て、ということだ。人にメシ時があるのと同じく、魚にも飯の時間がある。一般には早朝と夕方がそれにあたり、「マズメ」と呼ばれる、釣り師のゴールデンタイムだ。海の釣りではこれに潮の満ち引きが加わり、川の釣りでは天候と水温そして対象魚の習性が大きく釣果に影響を及ぼす。


また、釣り場をどこにして腰を下ろすかも重要だ。何も無い所に魚はいない。構造物があるところを狙うのだ。海ならケーソンの継ぎ目・カケアガリ・潮の流れが堪る場所などなど、川なら流木がある場所、支流の合流点、大きな木の影になっている場所、大きな岩の近くや流れが緩やかになる地点、更に水面への自分の影の映り込みやその角度にも注意を払う。渓流を狙うなら、ちょっとつまずいて、石ころでも水に落とせばその釣り場は一日使えなくなると心しておく事だ。


ここのように大きなため池になっている場合は、風がある日の水面を良く観察するんだ。水面は風に煽られて波を立てる。よく見ているとその波が一定ではないはずだ。波が伝わるとき、少なからず水底の影響が現れる。広く深さが均一な場所では小さな波が規則正しく動く。水底に構造物があると、その規則正しい波がわずかに歪む。場合によっては波が2種類に見える事もあるだろう。そのときは2種類の波の境界線に、水深の違いや流木が沈んでいたり岩があったりと何かの構造がある。


大きな魚は水深の深い流れの無い場所にいると思いがちだ。それは当たっているのだが、奴らが食べるのは小魚だ。小魚は比較的澱みの無い流れがある場所を好む。池と言っても流れが淀む箇所はあるんだ。普段はそこに大型魚がいるだろうが、お前らの装備ではそこまで糸が届かないだろう。ならば、魚のメシ時に小魚が集まりそうな場所(大事なのは小魚が多い場所ではない)と深みの境界線ギリギリを見極め、罠を張るのだ。




「ふーん。」



「・・・・あれ?リアクション薄くないか・・・これ奥義だぞ?」



Saria村からほど近いPoaという村。幹線道路沿いだがここの良い所は巨大なwater researve (ため池)があることだ。雨期の間は川の一部なのだが、その流れの途中を大きく穿っておく、そうすると乾期に川の水が涸れて、川が消失してもこのため池だけは残るのだ。そうなると普段川に住んでいる魚も水場を求めてこのため池に集まるというわけだ。絶好の釣り場だ。



以前は私が釣りをしていると、それは周辺の子供達(時に大人も)にとっては格好の見せ物だった。嫌になるほどの好奇の視線を浴びる事になる。しかし、ここPoaには2点だけ違いがある。一つは、ここで釣り友達になった奴が、周辺の学校の教師なのだ。つまり子供らにとっては(日本ではなくこっちの話だ)絶対に逆らえない存在なのだ。彼が一言注意するだけで、私を好奇の目でみるガキどもはクモの子を散らす。二つ目はこのPoaの長老と私が知り合いになったのだ。もともとプロジェクトのパートナーであるイサカの友達であった長老はササゲ豆の新品種を試そうとしていて、私が栽培法のコツや種子の購入を口利きしてあげたのだ。なんせSaria村から首都Ouagadougouに出る為には必ずこのPoaを通る訳だから、長老が道ばたのマキ(簡易食堂、自分で経営している)に座っていれば毎回挨拶を交わす仲にもなるわけだ。長老の客人となれば、誰も私に嫌な思いをさせる事は出来なくなる。ジロジロと私の一挙手一投足を冷やかし半分で見物するとかは論外なのだ。結果として、Poaでの釣りは誰に邪魔をされる事も無く極めて快適にできるのだ。



今日は日頃の憂さ晴らしに、5時起きしてこの釣り場へと釣り糸を垂れに来ていた。まあ、上には上がいて、学校の先生は私が釣り場に着いたときにはすでに3本の竿を出していた。その後、9時を過ぎると先生のバイクを見つけた生徒達がお手伝いを兼ねて、我々の釣りを見学にきたから先生に通訳を頼んで子供らに釣りの講釈をしていたのだ。ハリを上げると、魚がいようがいまいが、生徒達がさっと新しいミミズを付けてくれる。魚がかかるとそれを外して、同様に新しい餌を付けてくれる。う〜ん、贅沢な釣りだ。



子供らは私の講釈に一定の敬意を払いつつも、長い話には興味を失う。特に若い世代は、「教えられる」ことより「刺激を与えられる」ことを望むものだ。これは日本も同じだろう。年寄りの説教は効果が薄く(それが如何に真実を捉えていても)、刺激を求めてどこかへと出かけて行くのが若者の特権とも言える。9時を過ぎると魚の動きも無くなり、日差しが強くなる。私も竿から注意を逸らし、ふと周辺に目を向けた。そして、驚きで身が固まった。



「ばかな、こんな近くまで寄ってくる事は無かったのに・・・・」



そこには、池の主であり、何でも食べるブルキナベですら「神の使い」「聖なる生き物」として崇拝し決して傷つけたりしない生物、クロコダイルが甲羅干しをしていた。




写真は私が撮ったものですが、Poaのクロコダイルではありません。参考まで。




神の使いはもの言わず、私を見つめていた。そう、このため池には数十頭のクロコダイルが住んでいる。ちょっとスリルのある釣り場でもあるのだ。しかし、普段は私が釣り糸を垂れるコンクリート製の岸には寄ってこず、反対側の草地で甲羅干しをしているはずだった。今にして思うと、これが神々の警告だったのかも知れない。



2月下旬、私は浮かれ気味にブルキナファソの首都Ouagadougouの工芸村(アーティスト村)に居た。日本の友人達へのお土産物を買いに来たのだ。そう、私の年次休暇(Anuual leave)が近づいていたからだ。私の所属するような国際研究所では、主たる所属科学者は外国人だ。アフリカの研究所に居ると、何だかんだで有給が貯まる。ほとんどがアフリカに国籍を持たない研究者だから、休暇を取得するとなれば、それぞれの母国へと帰りたいのが人情だ。しかもこちらでは、有給や休暇の感覚が日本とは違う。それは文字通りのバカンスを意味しており、帰国の為の往復チケットはすでに契約時の年俸に含まれている。公費で帰れるのだ(年1回だけだが)。


だから、有給を1年貯めて、丸々1ヶ月ほど休暇を取って母国へと帰り、ゆっくりと英気を養うのが普通なのだ。私にとっては初めての海外暮らし、他の研究者と違って、たった1人で支所も無い国で1年間奮闘したのだ。郷愁の念にかられるのは当然だ。仕事のためとはいえ、結婚して1年足らずの妻と生後3ヶ月の息子と離ればなれになったのだ。「もうすぐ会える」と言う感覚は、自分が想像していた以上に大きなものだった。気がつかないうちに、嬉しさが周囲のスタッフ達にも伝わっていたようだ。



「ドクター、最近は生き生きとしていますね。」



「そうか?いつもと同じだと思うが。」



「家族に会えるのは誰でも嬉しいのもですよ。どことなく寂しげな上司を見るのは私たちもつらいですから。」



ふーん、そんな風に思っていてくれたのか。嬉しいけど、私もまだまだ修行が足りないな。悟られるとは。


「でもブルキナの神々が許しますかね?神々はドクターがブルキナを離れる事を望まないようですよ?」



やめてくれよ。何か冗談に聞こえないのだよ。これが第2の警告だった。


不思議な事だが、この数十分後、私は何を思ったのかエールフランスブルキナファソ支店に来ていた。休暇を1週間前倒して、すでに4月と指定して予約していたチケットを、3月末の出発便に変更してもらう事にしたのだ。研究所にはあれこれと理由を付けて了承を取り付けた。普段の私には無い、大胆な、というか突拍子もない予定変更だった。


なぜこんな無理を断行したのか。家族の顔を早くみたい、それもあっただろう。息子の初めての誕生日に間に合いたい、思いのほか仕事の進展が良かった、これも理由だった。しかし、本当の所、私にもなぜこんな思いつきで行動したのか、よく分からなかった。



この「英断」は以降の2つの事件によって正当化されることになる。

別に正当化されなくてもよかったのに。









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第32話 ごめんなさいとブルキナベ / Oh, sorry.


「僕はもうすでに20カ国は旅して来ましたよ」




「へえ、それはすごいね。」




「いろんな国の色んな文化を肌で感じたいんですよ。」




年が明けて2011年(1人での年越しの侘しさは書きたくない)。

私は1人の日本人大学生と出会った。彼は海外旅行が趣味で、旅先で出会う様々な人々との交流を楽しんでいた。

若さ。というものだろうか。自分が年を取ったとは思うが、年寄りだとは思わない。若い人にも、体力はともかく、負ける要素が見当たらないとすら自負している。しかし、感じる。若さ、と形容するのが尤も相応しいこの感覚。


良いものだ。自分が歳を重ねたからではなく、彼が幼いという意味でもなく、感覚として感じる、若さという風。




「で、ブルキナファソへは何しに来たんだい?」




「ホームステイをして、まあ語学研修と言ってもフランス語はできますし、あえて言うなら、異文化交流でしょうかね。」




「そうか、フランス語が堪能というのはうらやましい話だよ。」




「でですね。今はモシ語を習っていますよ。そのなかで、面白いことに気がついたんです」



彼が言うにはブルキナファソの主要部族、モシ族には「ありがとう」と「ごめんなさい」が無いという。ブルキナファソの人々(ブルキナベ)は農耕民族だ。そこでは「助け合い」はすでに前提で織り込み済みのこと。何か困ったことがあったら、手を差し伸べるのがあたりまえ。わざわざ口に出すまでもないのだと。「しょうがないな」の一言で、済んでしまう。


ふーん、そうかな。そういう側面はあるかもね。


じゃあ、「ごめんなさい」は?

これはアフリカの人に良くある癖で、とにかく言い訳しまくる、言い逃れしまくるのだそうだ。このときはおっとりとした農耕民族も、好戦的になるだと。


ふーん、まあそういうところもあるね。



「いろいろな国を見てるから、だいたいその土地の人の感じはすぐに掴めるんですよ。なんて言うんですかね、sorryという言葉自体はあっても、そこに大した意味が無いというか。現地の人の家にホームステイして長いですし、気持ちは通じていると思いますよ。僕が言いたいのは単語としてあるかどうかではなくて、心の中でどう解釈するかということですよ。本質的な意味でね。その意味で、彼らは口では謝罪するけど、実質にはごめんなさいとは言っていないんですよね。・・・・・・云々」




彼は某有名大学に在学しており、語学も優秀。海外経験も豊富だ。弁もたつし、論理構成も良く出来ている。しかしそこが落とし穴だ。すぐに自分の世界の定規に照らし合わせて、そこで整合性がとれると、「こういうことだ」と分類してしまう。そして全部を理解した気になってしまう。


これもまた、「若さ」だ。




「老婆心ではないけれど、ひとつ良い話をしよう」



「なんです?こういっては何ですけど、モシ族の歴史や風習、彼らの気性なんかはもう掴めましたよ?」



「そうかもね。まあちょっとほっこりする話だから、聞いて損は無いよ。」




・・私も年を取って丸くなったのかな。以前なら、論理武装した相手を徹底的に叩きのめしてでも、間違いを是正しようとしただろう。相手が傷つくなんて、知ったことではない、とね。まあ、これもまた、「歳を取る」ことの良い所かも知れない。



「・・・・・つまり?」



ま、そう急がないで。私の気性は決して穏やかではない。特に仕事中は。アフリカだろうがどこだろうが、自分のポリシーは曲げない。また一緒に仕事をするなら最低限の「仕事の品質」は保ってもらう。言い訳は許さない、妥協もしない。「できない」は許さない。とういう態度を取るんだ。



「まあ、それらは日本の社会人には当たり前だろうし、言うまでもないことじゃないですか?」




勿論そうだよ。でもアフリカでこれを求めるのは容易なことではない。

私のスタッフ達にはこれがとてもキツいことだった。何かにつけて私が雷を落とす。泣こうがわめこうが一向に引かない。やるまで逃がさない。冗談抜きで、私のスタッフは毎日泣いていたんだ。




「・・・・・・・」




もちろん、うっかりミスは誰にでもある。でもうっかりでは済まされないミスもある。明らかに職務怠慢であることもある。私は気まぐれだけど、避けられないミスに対してまで激怒するほど甲斐性なしでもない。でもスタッフ達にはそんなこと分からないんだよ。何かミスすれば、こいつは雷をおとしてくる、とね。まあ、行き過ぎは良くないけど、緊張感を持って仕事をするなら、それでいいや、と放ったらかしていたんだ。

そんなとき、そのミスは起きた。初歩的な連絡ミスから、出張の途中で身動きが取れなくなったんだ。しかし避けられない理由というのもあった。それはまあ省こうか。とにかく私のスタッフ達は戦慄していた。なぜなら、当時私が最も大事にしていたのは「時間」だから。恐る恐るではあったけど、そのとき彼(彼女)がつぶやいた。


「マムスグリ」と。

君のモシ語の辞書にはあるかい?マムスグリ




「そうですね、えーと、確か"マム"は"あなた"、"スグリ"は家とか屋根?じゃないですか?それが何だって言うんです?」





流石に優秀だ、その語学力には脱帽だよ。でもね、語学は所詮「語学」でしかない。伝えるべき「何か」と、受け取る「何か」を持っていなければ、無意味なもんだよ。通訳の仕事には向いてるかもね。いや、本当の意味では通訳の仕事にも就けないか。

マムスグリ、君の言う通り、「あなたの屋根」だ。これが何を意味しているか、本当にわからないのかい?これはね「あなたの屋根で私を休ませて」という意味だ。つまり「あなたの屋根で私を雨から守ってほしい」、「あなたが私のことを許したと、私にそっと教えて下さい」と言う意味が込められているんだ。


これがモシ族の「ごめんなさい」だよ。




「・・・・・・・・」




優秀なことは良いことだ、誇らしい。記憶力が優れていることも、語学に堪能なことも、素晴らしい。でも勉強という括りの中でしか生きていないなら、本を一冊持ち歩けばそれで済む。世界を旅するならば、そこに住む人を本気で理解したいなら、理屈よりも大事なことがあると、私は思う。





科学者たる私の言うことではないのかなぁ・・・







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第31話 巷に雨の降るごとく我が心に涙降る / Il pleure dans mon coeur Comme il pleut sur la ville


「そのお皿、片付けてあげるよ?ムシュー」



「ん?そうか、ありがとう」



出張の途中、道ばたのマキ(簡易食堂みたいなもの)で食事をとっていた。メニューはリ・ソース、トマト味。こちらで一般的なトマトソースのぶっかけ飯だ。まあ、美味い所もあるが、大半がそうでもない。食えれば良いかな、という時に食べる。それでも油たっぷりのソースに些か胸焼けがして、半分程度は残していた。それを陰からずっと見ていた子供が、「片付けてあげる」といってよって来たのだ。



以前にも紹介したが、彼は小脇に空き缶をぶら下げている。ストリートチルドレンだ。


このときの彼はこの写真の子ではありません。




彼は、私の皿の残りご飯を素早く空き缶へと放り込む。そして空いた皿を店の従業員に渡そうとした。その瞬間、すばやい平手打ちが彼を襲った。従業員が彼の小脇から空き缶を奪おうとする。彼は抵抗し、なおも平手打ちを食らう。


私は「やめろ」というのを寸前で堪えていた。店側からすれば、私の行為こそが「やめろ」の対象だと悟ったのだ。これが癖になると、ストリートチルドレンが寄ってくる、それは店側にとって営業妨害に等しいのだ。私は自分の軽率な行動を悔いた。


ドライバーのヌフ(65歳)でさえも、間に入ることができない。見ているしか無い。これは彼らのビジネスであり、干渉できないことを知っているのだ。非難されるべきは、私だった。私は堪らずに席を立ち、タバコを吸うために外へ出る振りをして、彼らの間に割って入った。そしてその瞬間に子供は逃去り、私は「悪いな」という苦笑を従業員に向けて、灼熱の太陽の元でタバコに火を入れた。




時々、こうした現実を見せつけられる。心が痛まないほど擦れていはいないのだが、悩まされるほど純粋でもなくなった。これは「生きる」という現実の一面なのだ。理学の世界に生き、世界で誰も知らない謎を手中に収める興奮に魅せられた。その過程で、評価されにくく、独りよがりになりがちなその世界に疑問を持つようになった。隣の実学の世界は、自分たちの成果がどれほど目の前の人々を助けるのかを、ひたすら鼓舞していた。そんな実学の世界を覗こうと、私も農学へと足を踏み入れた。


されど、実学の世界といえ、目の前の彼らを直接に救うことができずにいる。私のプロジェクトのお金があれば、彼らストリートチルドレンを学校に通わせ、まともな職に就けることも出来るだろう。しかし、その人数は限られる。どうやってその子供達を選ぶのか。それには意味があるのか。私の心は、No、と言っている。あえて「心が」と書いたのは、その理由を理論化できていないからだ。口には出せない。こんなとき、純粋に真理を探究するためだけに研ぎすまされる、あの理学の世界が美しく見える。同時に、それがある種の「世界の現実」とは隔絶された世界であることも今は理解できる。私の根っこは理学屋だ。だから必要以上に感傷的にはならないし、即座に援助だ、ODAだ、とお涙頂戴の理屈には傾倒しない。その金がどう使われるかを、この目で見ているからだ。


私の進めているプロジェクトは、この現実の世界に幾ばくかの変化をもたらす可能性を秘めている。それも、直接に貧困層をターゲットとした、そして、彼ら自身で実行/継続できる手法として。それが私を支えている。しかし同時に、その過程は「理学的に」さして美しくない。美しくないとは、「極めて独創的で、誰も考えたことが無い研究」というわけではない、という意味だ。だから、他の人に、「あなたの仕事はとても素晴らしい」とか「とても意味のあることをしている」などと表面的に言われても、私には何も響くものが無い。



「コーラをもう一本くれ」


灼熱の大気は暴君のように大地から水を奪う。いつしか、心まで枯れそうになる気がした。私は慌ててコカコーラで喉を湿らせた。こんなときは、冷えたビールなどを煽れれば、多少は気分が晴れるのだろう。しかし、私は飲めない体質だ。こういうときは、タバコが辛い。






「きゃははあ、やめてよ!」



「あはは、こっちよ!」

乾期でも枯れない川は、ブルキナでは珍しい。そのひとつが、黒ボルタ川だ。プロジェクトの進行状況の確認と打ち合わせを兼ねて、ナイジェリアから里村博士が来たとき、相棒のイサカは我々を大好きな釣りに誘った。以前にも書いたが、私も太公望を自負している。二つ返事で釣り道具を持参した。


私が住んでいるSaria村から2時間ほどで黒ボルタ川の釣りポイントに着く。黒ボルタ川には、カニを取るためのアミが仕掛けてあり、それを引き上げるために、少女達が腰まで水に浸かって作業をしていた。しかしまあ、この気温、年端も行かない少女達だ。当然ながら、水遊びを兼ねた仕事というわけだ。



それを眺めつつ、私は次々にナマズや名前も分からない魚を釣り上げて行った。一回の投げ込みで、ほぼ確実に1匹の魚を釣り上げる私に、地元の釣りキチである子供らは驚きを隠さなかった。すぐに私の周りを取り囲み、その一挙手一投足を固唾をのんで見守っている。時には私が魚を外す間に、私が投げ込んでいた場所に自分たちの釣り糸を投げ入れたりしている。結構、邪魔だ。


その様子を、少し離れた場所から里村が眺めていた。彼も私同様の釣りキチだが、朝から熱を出して、半ば休憩がてらに釣り糸を垂れていた。その顔は、発熱と無関係に寂しげだった。その理由を私は知っている、いや、共有している。だから、何も言わない。イサカも自分の釣り糸に集中しているが、恐らくは彼も気がついている。しかし男達は何も言わない。ただ、釣り糸を垂れ、その時間を共有するだけだ。



里村が帰った後、私のスタッフのオノが言った。



「Dr. 里村は仕事をしているときとは別の顔がありますね。何だか、とても寂しそうな。」



「さすがに女性だな、オノ。彼は家族を日本に置いてきている。その寂しさはなかなか隠せるものではない。だが、彼もプロだ。周りには隠し通すさ。気がつくのはそれを共有する者と、君のように鋭い女性だけだろう。」



「彼の心には雨が降っているのですね。」



ほう、なかなかエスプリの利いた、味なことを言うじゃないか。



「最近はSaria村も雨ですね。」



・・・・それは余計なお世話だ。




乾期のブルキナファソ。雨は、あと数ヶ月は降らない。ここだけでも湿っぽくしておこう。

















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第30話 会議は踊る / Der Kongress tanzt




「ドクター?」



「ん?トイレだ。すぐ戻る。」



半分は嘘だ。トイレと称してタバコを吹かしに行くのだ。会議室は侃侃諤諤の様相を呈している。乾期の仕事のうちでも比較的重要なものがある。農閑期でもあるこのシーズンに普段は農作業やその他の仕事で忙しい人々を集めた会議を行うのだ。会議も様々あって、科学者同士が意見を交換するDiscussion主体のものは気が楽でいい。他にも私が世話になっている国立農業研究所の会議で私が進めているプロジェクトの紹介+成果報告があったり、研究のための実験圃場をおいている農村を管轄している地方農水局の局長達との折衝もある。前回出張したナイジェリアは、私が所属する国際研究所の本部があり、その定例会議に参加するためのものであった。



今回私が主催し、かつ、嫌気がさしてタバコを吸いにエスケープしているのは、ちょっと毛色が違う。これはStakeholders meetingと呼ばれる会議で、私が推進するプロジェクトに関係するStakeholder達を集めて、プロジェクトの広報、成果報告、問題やその解決策を探るのである。具体的には農業政策に関わる地方農水局局長、その上部組織である広域農水局局長、これに国立農業研究所で私の専門とするササゲについて国の政策を管轄する科学者、同研究所のササゲ専門の科学者数名、同研究所の社会経済学者が列席する。これだけ見ると、通常のちょっとお偉方さんの会議に見えるが、それだけではない。大規模種子生産農家、種子流通業者、農業案件にかかわるNGOの代表者、農業資材および種子の販売業者社長、私が訓練している種子生産農家(一般の農民達)がこれに加わっている。


少し前の種子生産の話でも触れたが、この国の種子生産体制を強化するのもプロジェクトの目的の一つである。しかし、だからと言ってブルキナファソの農業省やその大臣、次官連中と議論を交わすのは私の仕事ではない。最上位層の連中と政治的な仕事をするのは、大使館や国連、そして国際協力事業団の偉い人たちの仕事だ。私のターゲットはあくまで、最下層にいる農民達なのだ。



「なんだこの肥料は?こいつはフェイクだ。これはスリランカで使用が中止されている肥料で、カドミウムが混ざっている劣悪品だぞ。」



「えっ、そうなんですか。知らなかった。安かったから・・・」



「農民学校でも教えただろう?安い肥料や農薬は思わぬしっぺ返しをもらうことになると。これが良い例だ。こいつは施肥をするとき、そしてその後の農作物を食べるとき、カドミウムも同時に摂取してしまい、肝臓の病気になるんだ。」



「そっ、そんな・・・でも村の近くではこれしか手に入らんのです」




ある村で、収穫後の種子の保存方法を指導していたとき、保存されている肥料を見つけて驚いた。この(とある国製の)肥料は、先進国で禁止されている成分が入っており、規制が無いアフリカなどに大量に流入していると聞いていた、厄介な代物だった。国連とWHOが調査した所によると、ヒ素カドミウムが混ざっていて、施肥効果が低いだけでなく、肝臓病を引き起こすことがわかっている。しかしブルキナファソを始め、多くのアフリカの国々はまだまだ農薬や肥料に対する法整備が整っていない。その間隙をついて、かの国は劣悪品を安価に、大量に売り込むのだ。


かの国のやり方も嫌いだが、もっと大きな問題がこの会話の中に隠れている。それは「安かった」と「これしか無い」というキーワードだ。農民学校に参加してくれた生徒達は、農薬の危険性や肥料の効果を学ぶ。良く勉強している生徒達などは、共同でお金を出し合って肥料を購入したりしている。これもプロジェクトのトレーニングの成果ではある。しかし問題は、常に彼らが安価なものを求めてしまうこと、そしてそもそも劣悪な商品にしかアクセスできないことが問題なのだ。市場原理を考えれば、高品質な商品も売れなければ意味が無い。すると業者は最も需要があるもの(安いもの)しか仕入れない。結果として、良質な商品へのアクセスが制限される。しかし、ブルキナファソにもフェイクを嫌い、良いものを扱う業者がある。もう一つの問題は多くの農民達がその事実を知らないことだ。自分の村の周辺のことが現実で、それ以外のニュースはすべてラジオとテレビの中の仮想現実なのだ。



会議の出席者に民間の業者や大規模種子生産農家、そしてNGOの関係者を招いているのは、私が指導する農民達が自ら良い情報・良い商品へのアクセス方法を構築させるのが狙いなのだ。同時に自分たち以外の生産者や業者がどのような規模で、そしてどこで、どんな活動をしているのかを実際に本人達の口から聞かせるのだ。特に農業資材業者や種子を買い付けてくれる種子流通業者などとの関係作りは重要なことだ。本来これらの仕事は地方農水局や広域農水局の仕事であり、彼らが農民を助けるべきなのだ。そこの局長達を呼び出して、この様を見せつけているのは、暗に「お前ら仕事してないだろう」という私からのメッセージだ。



お偉いさんが嫌いな私だが、農村を管轄する農水局は無視できない。農民達の作物生産に直接に影響力を持つ彼らがヘソを曲げようものなら、私が指導する農民にも影響が生じるからだ。例えば、政府は種子生産農家の肥料購入に補助金を出しているが、これは地方農水局が実質取り扱っていて、彼らが協力しないと補助金が支払われない。従って、しぶしぶ彼らにも招待状を送ったという経緯がある。しかし、こいつらがこの会議を引っ掻き回しているのだ。会議の冒頭、私はこのプロジェクトのターゲットが小規模の農民達であること、これは援助政策ではなく研究プロジェクトであること(だから科学者である私がここにいるのだ)、あえて規模は最小(農村単位)にして経済効果を見ることもプロジェクトの目的であること、ブルキナファソの農業生産のいくつかの問題に対してこのプロジェクトの成果で克服する糸口を作れること、などを切々と伝えた。それに対して、ある局長が挙手して述べたのが



「で、私たちのper-diem(日当みたいなもの)はいつ払ってくれるのか?今日のホテル代も払ってくれるか?いくら出るの?」



私は言葉を失った。農民達の意見ならまだ我慢できる。しかしお前らは国の担当官であり、エリートではないのか。金欲しさに今日の会議に来たというのか。私の目付きが鋭くなり、眉間に皺が刻まれたのを、隣の席に座っていたDr. イサカ(私のパートナー)がすかさず見取った。


「まあまあ、マダム。その件は昼食のときにでも私から話しますよ。心配せずとも、きっちりと支払います。まずは現状の農業生産の問題点から提起して行きましょうか」



イサカは例え大統領が相手だろうと、この東洋人は自分が気に入らない相手に容赦しないこと、媚びへつらったりしないことを知っている。慌てて間に入ってくれたのだ。だいたいこの地方農水局の連中は気に入らない。何かというとエリート風を吹かせて、馬鹿の一つ覚えのように「プロコール(契約書)を作ろう」・「うちにはいくら落としてくれるのか」・「協力を望むなら出すもの出せ」と言った要求をストレートにしてくる。他のプロジェクト(海外資金)の連中は支払っているらしい、しかも私から見れば無駄で法外な金額を。さらに私は日本人ときている。金を持っていると見られているのだ。笑わせるな。私はそんなに大人じゃないし、無能な連中にくれてやる金など1銭も無い、このプロジェクトの金は日本の税金なのだ。



まあ、世事に長けた猛者から見れば、私のやり方は稚拙かも知れない。くそっ、分かってるいるはずだ俺だって。合理的に考えれば、多少の「交際費」は合法の範囲内だろう。それから得られる利益を考えれば。もっと上手く世渡りできてもいいはずだ、俺だって。自分の心の中に問う。



・・・・・ああ、そうだ、年を食うと取り戻すのに苦労する。理屈にならないこの感覚。わかってる、上手くやる方法は。でもな、ここで引き下がったり、妥協したりしたら、明日からまっすぐ歩けなくなるんだ。この言葉にできない感覚は、俺の背骨なんだ。



「何度も話していますが、このプロジェクトはユニークですし、決して農業省やあなた達のインフラを援助するためのものではありません。今日皆さんを呼んだのは、皆さんが管轄する農村にある問題点を整理し、種子生産農家の独立を如何に補助できるかを教えてほしいのです。」



私はイサカの機転に冷静さを取り戻し(内心は燃えてきているが)、もう一度会議の趣旨を提示した。すかさず、国立農業研究所Saria stationの所長であるDr. Lamienがchair manとして会議の流れを作り出す。事前に、会議が揉めたときは、私が怒る/イサカが仲裁/Lamienが会議の主軸を正す、という役割を3人で話し合っていたのだ。これこそ「根回し」というものだ。まあ冒頭から揉めるとは思わなかったが。



オドオドとしていた私のスタッフ達も安心したのか、会議の様子を写真撮影し始めたり、議事録を取り始める。各局長達は各農水局には何が足りていないのか、国政策のどこに問題があるのかを盛んに話し始める。Lamienは時折種子生産農家に話をふり、彼らの現状を上手く報告させるように仕向ける。巧くいっているように思えたが、だんだん雲行きが怪しくなってくる。そう、見慣れた風景が目の前に現れるのだ。




侃侃諤諤の様子。喧々諤々ではありません。念のため。



フランス語圏であるブルキナファソは、フランス人の議論好きの気質も受け継いでいるらしい。皆、話すのが大好きだ。とにかく話が長い。何か意見を言わないとアホだと思われるらしく、会議と関係のないことでもとにかく、自分の意見として発言しようとする。結果、会議が長引き、私の脳内ニコチン濃度が危険域にまで低下するのだ。



各村を回って、チーフ達に挨拶回りをしても、同様に話が長い。そして、私が嫌いなのは必ずと言っていいほど、陳情大会が始まるのだ。「あれが足りない」・「これが無いからできない」・「国の政策が悪い」といった言い回しが延々と続く。これが大嫌いだ。以前も書いたが、私は言い訳するやつは嫌いだし、何かのせいにして自分の現状を正当化したり、自分を悲劇の主人公にするやつが嫌いだ。こちらの会議はややもすると、この「言い訳合戦」・「何かのせいだから・・合戦」になってしまう。今回も例に漏れず、陳情合戦と言い訳合戦が始まった。



(なぜ、こいつらは意見をまとめるとか、流れに沿った議論ができないのだろうか。)



会議中、そんなことを考え始めた。彼らとて、ここで言いたいことを言いたい放題に言ったからといって、事態が善処するとは本気で考えていないと思う。そう思わせる内容なのだ。アフリカに赴任して、彼らの議論好きやてんで好き勝手に参加者が発言して、出た意見を取りまとめる気配すら見せない「会議」のやり方に戸惑う外国人は多い。我々がイメージする「会議」とは、特定の議題に対して意見を出し合い、最終的に意見を取りまとめたり多数決の採決が行われ、特定の答えを導きだそうとする行為だ。しかし、アフリカの「会議」や話し合いには、最初から意見の取りまとめだとか、まとめようと言う提案すらない場合があるのだ。



もしかすると、フランス語圏だから議論が好きとか、アフリカ人によくある「だめもとでも言ってみよう」、言い訳しとけば何とかなる、という気質に対する我々外国人の考え方自体が偏見なのではないだろうか。何かあるかもしれない。答えになり得るかは不明だが、ある本に書いてあった一文が興味深い見解を示していた。書名を失念したが記憶の限り引き出してみる。



「アフリカの人々(この本では西アフリカではなく中央アフリカに近い地域を指していた)は「言葉」に対して独特の感性を持っている。彼らは会議や話し合いを通じて、能動的に結論を出そうとしているのではなく、各自が口にした意見や言葉があたかも「呪文」のように作用し、それ自体がなにがしかの現象や結果を引き起こすと考えている。だから、一見すると各々がてんで勝手な主張を出来る限り言ってしまおうとしているように見えるが、それは発言し、言葉として人の前にそれを示すことが重要だからだ。」



日本的に言う所の「言霊(ことだま)」の考え方に近いだろうか。意外かも知れないが、言霊というのはきちんと英語にもある(the spirit which is present in words/ belief that uttering a thought breathes life into it などと言い回される)。それが現代の生活の中にも(彼らが意識するとしないに拘らず)生きているのかも知れない。そう考えると納得できる様な内容なのだ。それに何かアフリカの神秘みたいで面白そうだ。



「いい加減にしたらどうだ。こんなに時間をかけて、愚痴の言い合いをしても埒があかない。それなら我が"King Agro"は生産された種子を1000CFA/kgで落札して、さっさとブルキナ中に広めるぞ。」




おっと、意外にも私への援護射撃が始まった。口火を切ったのは、民間業者の社長達だ。さすがにビジネスマンだ。要点を心得ているし、即座に行動に移すことが出来る資本力も持っている。彼ら優良な会社がもっと農民とパイプを作ることが出来れば、と思い今回の会議に誘ったのだ(どうやってそのような「社長達」と知り合いになったかは企業秘密だ)。ヨチヨチ歩きを始めた種子生産農家からすれば、大会社を率いている彼ら社長達はまだ「海のものとも山のものとも」という存在だろう。だが、多少リスクを冒そうとも彼ら優良企業とパイプを作り、取引を始めるのは種子生産農家達の自立を促進するはずだ。



「だいたいこの国は我々民間業者が種子の取引に介入することを妨害している節がある。」



おお、そうなのか。これは初耳だ。良い情報が得られた。




「それはお前ら民間業者に任せておくと、種子の品質や管理に問題が生じるからだ。」



すかさず農水局が反論を始める。お前らの管理もずいぶん杜撰だぞ。



「そんなことは無い、農水局の横槍がなければ上手くやるさ。だいたいお前らの仕事が・・・・・」




あれれ、何かこちらも愚痴っぽくなってきたぞ。





「ドクター?」




「ん?タバコだ、皆にはトイレに行ったと言っておいてくれ」




会議は踊る、されど進まず。ウィーン会議(1814年)に対して、フランス代表だったタレーランが皮肉を混めて言った言葉だ。



会議は予定より3時間も延長せざるを得なかった。最終的には私とイサカとLamienが散々苦労して意見をまとめ、各々の代表者が役割分担を再確認し、来年の同会議に向けて達成あるいは改善すべき問題点を整理した。農民達は様々な意見や、お偉いさんの考え方、民間業者との繋がりを構築したから、まあ会議は成功と言えるだろう。





やっぱりフランスの文化かな、合わねーな私には。







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第29話 青い稲妻が私を攻める / parched earth



「グ、グハッ!」




「ドクター!?」



「大変だ、ドクターが血を・・・・」



騒然となるオフィスとスタッフ達。流し台には私が吐き出した赤茶色の液体が流れている。流しの前のガラス戸には勢い余ったしぶきが赤い点々になり付いている。突然気道に入り込んだこの赤茶色の液体に、私の体が拒絶反応を示し、一気に口腔外へと吐き出された。




「な、何だ!?血?違う違う、これはうがい薬だ!」



そう、乾期のたしなみ、日に3回のイソジンだ。私が茶色い液体を口から吐いたものだから、流しの近くにいたスタッフ達が驚いてしまったのだ。考え事をしながらウガイをしていたからムセタだけだ、すまんすまん。




乾期のブルキナファソ、それはもうカラカラだ。ただでさえ、年間の降水量が600-800mm程度のSaria村は私のオフィスだ。さらにその96%は雨期の6月から8月の3ヶ月に降ってしまう。となると、他の日はすべて曇りか晴れしか無いのだ。道路(未舗装)は車やバイクが通るたびに濛々と土煙を巻き上げる。出張中などは、窓を閉め切っていても鼻の中が真っ赤になる(こちらの土は赤土なのだ)。そうなると、当然のように喉や目をいためたり、風邪を引くことが多くなる。私はこれらに対処するのに、日に3回のイソジン、仕事帰りには点眼薬で目を洗浄することを日課にしていた。これもプロの仕事のうちだ。






土色の世界がひたすら続く。もうカラカラ。




これに加えて、西アフリカは11月から2月頃にかけて、ハマターン(ハルマッタン)で有名な貿易風が吹き荒れる。この風はサハラ砂漠から吹いてくるもので、非常に乾燥しているだけでなく、風塵・砂塵を伴うことが多い。場合によっては目の前が(というか風景全部が)黄色の世界になる。中国の黄砂なんて多分比較にならない。これは写真に撮っても上手く写らないのが残念だが、なかなか(室内から見る分には)奇麗に見える。実際には視界が悪くなるため、都市部では自動車事故が増加し、目の病気や気管支炎の患者が増える、何よりどのような隙間からでも家の中に入り込むため、日々の掃除がえらく大変、など良いことが無い。一説には砂塵自体にある種のバクテリアが巣食っており、これを取り込むために肺炎や気管支炎になるとも聞いたが、詳しくは知らない。


ハマターンが吹かない日は、全体的に土色の世界だ。木々は力を失い、草花は跡形もなく姿を消す。残ったわずかな緑は飢えた家畜達に根こそぎ刈り取られる。唯一の救いは(救いになるのだろうか)、晴天の空が続くことだ。これほどに天気の心配をしないことがあっただろうか。なにせ、晴れの日しかないのだ。ちょっと雲が出ることがあっても、雨は降らない。ほんと、アホみたいに晴れの日ばかりが続く。



気温は相変わらずというか、ますます上昇し毎日が40℃近くまで上がる有様だ。これも1月から2月にかけては、北風が吹き込んでこちらの人が言うには「かなり寒くなる」らしい。だが、冷え込む前のこの暑さは、私にとっては終わりの無いアフリカの坩堝を彷彿とさせる。



まあ、気温だけを聞くと日本の方には気が遠くなるかもしれないが、意外と耐えられる。湿度が低いからだ。日本の夏は蒸しかえる様な湿気に、夏の日差しが相乗りし文字通り「うだる様な」暑さになる。しかしこちらは湿度が30%程度の「砂漠」並だから、かいた汗がすぐに蒸発してしまい、シャツなどを濡らすことはほとんどない(外にいれば)。結果、不快感はあまりない。また、直射日光が降り注ぐ外にいても、木陰などは存外に涼しい。植物の恩恵であり、植物学者である私の臨時喫煙所だ(タバコも植物の恩恵だ)。



ただ、気をつけないとあっという間に脱水症状になるから、気候になれていない私の様な外国人は、かいた汗の量を見誤り危ないことになる。しかしそれも慣れてくると事前に察知できるようになる。それが頭痛である。脱水症状はまず軽い頭痛を伴うためだ。体調不良も何でもそうだ。いきなりってことは無い、必ず先に「知らせ」があるのだ。



「20年かけてここまで育てたんだ。実の子供みたいなもんだ」


「じゃあ危険かどうかがすぐに分かるんですか?」


「スネル、ダダをこねる・・・・」


「機嫌の悪い日には朝食を食べない?」


「ああ、親に歯向かうにもいきなりってことはことは無い。必ず先に知らせがくる」



お好きな方にはお分かりでしょうか。なんせ中学生のときの記憶を掘り起こしているから引用が不正確かもしれないが、「オネアミスの翼」という日本のアニメ映画でエンジニア(工学博士)と主人公の会話から引いた好きな台詞です。確かロケットエンジンのテストをしていて主人公の「こんなに近くで見ていて大丈夫か?」という台詞に博士が答えるシーンだったと思う。工学屋らしい危機管理に対する哲学が隠っていて、当時工学屋を目指していた私の心に今も残っている。結局、子供(エンジン)の知らせを察知して自分だけ走って逃げた博士が、その直後のエンジン爆発事故で死んじゃうんだけど。


これは中2の夏休みに、たまたまテレビでやっていたものだ。内容はえらく哲学的で、とても夏休みの子供向けアニメとは呼べない代物であった(私は好きだけど)。宗教と政治、エンジニアやパイオニア達が求める理想と哲学、人間の深部と深淵が描き出されていた。結構えげつない映画だった(でも私は好き)。ついでとばかりに、これを題材にして夏休みの宿題で出ていた弁論文を書き上げたのも覚えている。なぜならその弁論のせいで、担任に呼び出されて不愉快な「取り調べ」を受けたからだ。



「なんか変な新興宗教にでも勧誘されたのか?」



「アホ言え。私は無神論者だ。」



内容は良く覚えていないが、確か「先駆者が求める理想と現実とは、その志と達成度が高いほどに政治的あるいは宗教的に利用され、最終的にオリジナルの作者の意図に反して脚色を施され、多くの聴衆の心を打つ美しい歴史として記録される。この意味で大業を成したるものは広義で宗教家であり、政治家である。先駆者として求められるべき資質である、気高い精神は失われる。そうでなくては歴史に残らないというのは人間の深部が露呈した結果だ。本能には記述されていない、嫉妬と憎悪、そして心の底では本当の革新を求めていないイヤらしき敗残者が高貴さを上手に覆い隠そうとする。歴史とはまさに高貴な精神が陵辱されたポルノに他ならない。」とか言うことを延々と原稿用紙6枚くらいに書いた気がする。



・・・・・中2の学生が夏休み明けにこんな小難しいことを作文で書いてきたら、教師は不安になるかもしれない。まあ、私は夏休み前からこんなだった気がするけど。思い起こしてみるとかなり稚拙だし、独善的で見識が狭い。いくら弁論文が好き放題を書いていいとは言え、悪ふざけが過ぎたかもしれない。今なら、「ただし、科学の報告書を除いては。」と付け加えるだろう。あ、いやどうかなぁ、言い切れないかも知れないのが悲しい。アフリカの長すぎる「夏」はときどき私に夏休みの思い出を呼び起こさせる。ボケる前に思い出した時点で記録を残しておこう。



乾期の話を続けると、確かに12月も暮れが近づくと、昼はともかく、夜は少しだけ冷えるようになってくる。といっても20℃を切るまではいかない。それでも湿度が低いために、ちょっと肌寒さを感じることはある。赴任当初、スタッフの強い勧めで「寒いとき用」の毛布を入手していた。まあ、マルシェで安物の適当な毛布を買っておいただけだ。しかし、これがまあひどい。中国製のペラペラの毛布だ。だが、厚い毛布だと寝苦しいし、ちょうどいいかも知れないと思ったのだ。


「知らせ」は突然訪れた。肌寒さを感じた夜、思い出してこの毛布を倉庫から引っ張りだしてきたのだ。そのとき、指先に痛みが走った。一瞬、蜂かサソリかと警戒したが、何も付着してはいない。この知らせをきちんと読み取るべきだった。


ブルキナファソの乾期は容赦ない。お肌が荒れるなどは、女性には大問題だろうが男の私にはそれほど苦にはならない。ひげ剃り後の肌が痛いだけだ。しかし帯電体質の私にもうひとつの悪夢を呼ぶ。そう静電気である。ドアはもちろん、鉄製のものに触れようものなら発電・発雷だ。これが結構イライラする。信じられないかも知れないが、蛇口を捻って水を出し、手を洗うとしよう。まずは蛇口でバチッ、水が出ると同時に痛みで手が引っ込む。ため息をつきながら手を水に当てた瞬間にバチッ。手を引くという動作だけで帯電できるものだろうか?しかし再現性(何度も同じ条件で同じ現象が再現できること)を確認したから、認めざるを得ない事実だ。


そんな私がペラペラの化学繊維の毛布に包まったらどうなるのか?まず体中の体毛が逆立つ。次いで体毛と触れていた生地が離れると、そこでバチッとくるのだ。寝ているのだから、寝返りくらいうつ。そのたびにあちこちで発電する訳だ。仕方なく、空になった虫除けスプレーに水を入れて、毛布の上からシュッと4回くらい霧水を打つ。が、これも焼け石に水、いや化学繊維毛布に水か。・・・・・寝られるか。あまりの不快感に私は起き上がろうとした。





「・・・・・美しい・・・・・」




真っ暗な寝室に、青い稲妻が走っていた。毛布がこすれ合う部分に静電気が生じ、火花を散らしていたのだ。これが幻想的でなかなかに美しい。



アフリカの乾期、恐るべし。いや、これ火事にならないのか?
諦めた私は洗濯済みのカゴからバスタオル2枚を出して、これで寝ることにした。あの毛布は?面白いから、またやろうと思い、かつ、だれか客が来たときにだまって貸し出そうと思って、大事に倉庫にしまってある。





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