具現化された死と概念的な死

あの日からもう5年がたちました。時が流れるのは早いですね。

都市というものは恐ろしいもので、無機質な物体で視界のすべてを覆い尽くすことができます。街路樹や屋上緑化にしても所詮は人工的自然物。人間の制御下に造られた疑似自然にしか過ぎません。日常的にそんな中で暮していれば、自然の恐ろしさや人間の儚さを忘れ、ついつい人間は何でもできるのだという誤った錯覚や傲慢さを生みだすことになってしまいます。

昔に比べて人々が他者の死について何も感じなくなる一方で、いざ親しい人や自分の死に直面すると死を受け入れられず、何年も持ちこしたり解離を起こしてしまうのは、都市の中で人間が本来の人の弱さを忘れ、「何でもできる」と傲慢になったツケとは考えられないでしょうか?

あの事故を含め、近年起こった様々な事故に於いて、死に対する人々のヒステリックな反応が私には非常に不自然に見えるのは、実は人々が非難しているのは「不慮の死」そのものではなく、現代の人々が盲目的に信じていた「人間は何でもできる」「人間は少々では死なないのだ」という考えが単なる幻想にしか過ぎなかったということを露わにしたこと、そのことに対しての非難だからなのかもしれません。

その証拠に、「人が死んだんやで!」という言説を唱える人々の中に、事故で亡くなった一人ひとりの人生を知り、ちゃんと思いを馳せた上で「死」に反応した人が一体どれだけいるかということです。「ある一人の死」という具現化された事実ではなく、単なる「死」という実感の乏しい概念に対して反応しているだけじゃないか、と私は思うわけです。具現化の伴わない「(概念的な)死」に対して反応するぐらいならば、あえて反応しない方がよっぽどマシだと思います。

私は今までどちらかというと、「死」ではなく「事故」に対して反応してきました。率直にいえば「具体的な死」については当人と親しい間柄でないゆえに、あまり興味がありませんし(能動的な態度も取らずにマスコミ情報に受動的に接し、お涙頂戴なんてのはあまりに馬鹿げている)、概念的な「死」に対しては人間が生きる以上避けられないものですし、とどのつまりは結果にしか過ぎないと考えるからです。遺族にとっての一番の問題は「一人の具体的な死」であることに間違いはありませんが、それ以外の人々にとっての一番の問題は「死」よりも「事故」であるべきでしょう。常に類似の事象は私たちの身の回りに潜んでおり、明日は我が身かもしれないのですから。

そして、刑事司法や行政のあるべき姿は、それらが遺族だけのためではなく社会全体のために存在しているということを鑑みれば、やはり「(概念的な)死」に対する議論ではなく、「事故」に対する議論を尽くすことに限ると私は思います。つまり、死の責任追及ではなく事故の原因究明や再発防止に目を向けるべきだということです。それがどうもないがしろにされているような気がしてならない。

今の状況は遺族が自然に感じる「一人の死」に対する反応に対して、本来それを感じることのないはずの人々が、人間の傲慢さから生まれた「(概念的)死」に対する反応を援用し、全体として大きな違和感を持った「死」に対する反応を作り上げている状態です。そしてなぜかその歪んだ反応がある意味での「常識」として推奨されている時代。それが何をもたらすかは見てのとおりです。自分で自分の首を絞めている。

初めっから「当事者でない以上、遺族の気持ちなんて分かるわけない」「遺族と社会とは違う」という態度を明示することも私は大いに重要なことだと思います。その上で、遺族には遺族のためのプログラムを用意すればいいのではないかと思います。