すべてのものは紙一重

この短い人生の中で、幸か不幸か、何度か社会を騒がすような大事件を身近に見てきていつも思うことは、不祥事とか事件とかってのは日常と紙一重ってこと。世間は、とんでもない悪人がしでかしていると思い込んでいるようだが、それこそ世間知らずも甚だしい。

ひょんなことから連鎖的に、あるいは惰性で不祥事とか事件というのは起こっていく。きっかけはほんのちょっとしたこと。偶然が重なることでこういった事件は起こる。ある意味で自然の神秘のようなものに近い。必然的なものも全く見いだせないわけではないが、それは物事がある程度進み始めて、止めるに止められない状況になってからでないと見分けるのは難しい。組織の誰も止められない。惰性と自然の法則で物事は進んでいく。

ブログとかでそういう事件を見つけては、マスゴミと一緒になって自分が正義になった気で批判とかをしている奴をみると、こいつ本物のバカだな、と笑ってやりたくなるものだ。

正義もいない、悪もいない、すべては運と偶然と時間の流れ。ただそれだけだ。いつも側にあるのは紙一重の危険性。逆に言えば、そうやって生きざるを得ないのが人間というものだろう。

命の考え方

実習をすると稀に患者さんの死に直面することがある。私も実習中に2人の死期を看取った。たぶん、医学生の中でも多い部類に入るのではないか。

よく命は大事にしなさい、と紋切り型に言われる。学校でも親にもそう教えられるし、大人になっても左翼系マスゴミから毎日のように「教えこまれる」。教える側も「カラスは黒色」「水は冷たい、湯は温かい」と同じような感覚で教えこむので、反発したり疑問に思う人も多いはずだ。そして、教えられる側もよく考えないままこの言葉をなんとなく信奉してしまうので、「命は絶対的なもの」という誤った考えを身につけてしまう。

しかし、実際に何人かの死に直面すると、この言葉が本当に言いたかったこと、そして今の社会にはびこる常識の浅はかさに気づく。

命というのは儚い。ちょっとしたことで失われる。絶対的なものもなんでもない。まるで水面に浮かぶ泡のようにちょっとした刺激で消える。私の見た患者さんもちょっとした治療が引き金となり、数十分もしないうちに連鎖的に病態が悪くなってそのまま亡くなった。

「命を大事に」というのは、決してその価値が絶対的なものだからではない。命とは時の流れの中でふっと偶然に紡ぎだされる気まぐれなもの。ガラスのように壊れやすいから、大事に扱わないとすぐに失われてしまうからなんだ。

増える自殺。「生きている価値がないから」、と思うことによって起こると言われる。しかし、これだけ壊れやすい命の実態を知ってしまうと、生きることや死ぬことにこだわるだけの価値があるとは思えない。

多くの人が「ガラスは割れるもの」という認識を持っているのと同様、命もちょっとしたことで壊れてしまう。大事に運んでいても、割ってしまうこともある。そんな儚きものをあえて無理やり割る必要性もない。そこまでの価値は見いだせない。嫌なら勝手に割れる日を待てばいい。

命は大事に、そして命の本当の姿は決して重いものではない。むしろ軽すぎるぐらいだ。軽すぎて壊せない、壊したくない。一日だけふわりと舞い上がるカゲロウのように。

それが僕の「命の考え方」だ。

思想としての法律の稚拙性

現代の法律というのは基本的にロックやホッブズの時代の思想をベースとして国民国家自然権を中心とした考え方になっているが、哲学や現代思想の領域ではすでにポストモダンの時代に入っており、ロックやホッブズの提唱した概念の正当さは相当の範囲で失われつつある(つまり人間は理性で行動すべきであり、できるという考え方は妥当ではないことが判明している)
しかし、未だ現行の法体系はその現実に目を向けずじまいであり、憲法に基づき「共通の価値」や「正義」などという合意の不可能な理性的概念に基づく統治を目指そうとしている(等しきは等しくという考えにも反対する人も多いこの世の中である)。
この文化と法体系との間の時代の齟齬というものが、現在の法治に対する民衆の不満に繋がっており、その差は法曹の常識を多少いじくろうとも解決できるような距離にはない。常識の違いの問題は、もはや平均の違いではなく偏差の違いになっているからだ。
「ある一つのものや概念で支配する」という考えを基本とした法治は徐々に国民からの信頼を失いつつあり、これからは法治をいかにして除外していくかという方向に人々の関心が傾いていくであろう。強いて言うならば国民国家のような一律の法律に基づいた統治ではなく、現状での国際法のように、個人や共同体が合意できる部分から草の根的に合意して新たな法を紡ぎ直し、合意が形成できずに法が及ばない範囲においては人的な手法での統治が目標とされていくだろう。

法曹の中には自らが理想とした法の支配に真っ向から対立するポストモダン概念を快く思っていない物も多いが、机上の法律の世界ではなく現実の世界に身をおいてみれば、現代という時代がいかにすべてが「バラバラ」な時代であるかということが認識出来るはずだ。今や大学では学生の自治システムは個人主義によって根本から崩壊しており、東大ですら自治会の解散が議論されている。ばらばらを皆が好むので、全体共通の行事を施行することには極めて困難を伴う。人々の中には昔ならば到底理解出来ない常識を持つものが溢れ、またその逆方向の極端な常識を持つものもたくさんいる。そして多数は消失し、多数の少数派が乱立しているような状況だ。あるテーマについて問うてみれば、彼らはある一つの意見に集中することもあるが、別のテーマでは完全にばらばらになってしまう。これらをマトリックスにして細かく分類してみれば、多数派などというものは決して存在しない。

今、草の根的に若者の間で浸透しつつある静かな個人主義とそれにともなう既存体制の内的崩壊。これこそがポストモダンの本当の姿であって、バブル期のポストモダンは本物ではないのだ。その偽ポストモダンに基づいてポストモダンを批判していては時代に伴う本質の変化を見落とすことになるだろう。

妥当な判決かと

3人巻き添え死「不自然な弁解」少年に禁固刑
以前このブログでも、危険運転過失致死にすべきか通常の自動車運転過失致死にすべきかで紛糾したことがありましたね。私は危険運転というのは明らかな危険暴走行為に対して適応すべきものであって(飲酒運転、50km/h以上の速度オーバー、赤信号の故意冒進等)、信号の変わり目に起こった見落としのような事故は危険運転に当たらずという主張をしました。検察も概ね同じような見解だったようで、自動車運転過失致死で起訴し、判決も妥当なものだと思います。事故においては結果よりも過程が重視されるべきです。

なんか嫌な予感

羽田が21日から随分と変わるようですが、AIS-Japanというパイロット向けの航路情報サイトで飛行経路を見ていると嫌な予感しかしません。しばらく羽田発着便は控えようかな・・・。衝突の可能性は少ないにしても、ニアミスの件数は相当増えそうな気がします。

医師の給料は政治で決まる

医師の年収ってどのくらいかというと、まあ働く病院や人によって(バイトの有無によっても)差はありますが、卒後5年ぐらいまでは300〜700万ぐらいが多いです。なぜかというとこの期間はトレーニングの期間であって、まだ一人前ではないからです。卒後5年から10年ぐらいは500〜900万弱ぐらいの人が多いでしょうかね。医師としてはとりあえず一人前だが、専門医としてはまだまだトレーニングの時期ですから。大学病院では日雇いのような非正規雇用のところも多いですね。

卒後10年を越して民間病院の医長クラスになってくると、1000万の大台を超える人が出てきます。大学病院はカネがないので助教クラスでも600万とかその程度なんですが。そこから先は業績や勤務先の財務状況、院内での地位によって給料は大きく変動します。卒後20年ぐらいで1200万、卒後25年の部長クラスで1200万〜2000万ぐらいがいいところです。大学病院にいるともっと安いです。

時々みかける年収3000万とか5000万というのは、要するに訳あり物件です。たとえば僻地で誰も住みたがらないとか、海岸線沿い300kmに産婦人科医が一人しかいなくて年中無休状態でやらないといけないとか、麻酔科医が足りなくて手術ができないので、すぐにでも確保したくて病院が高給を提示したりとか。時々これが標準と思っているおバカさんがいるので困るんですが・・・。そこまでもらえる人がたくさんいるのは、アメリカに代表されるような一部の欧米先進国ぐらいです。

開業すると倒産廃業のリスクは常にありますし、経営とか広告は基本的に自分でやらないといけませんが、やりようによっては2000万から3000万ぐらいの年収を確保することができます。町の中小企業と同様に、一部の物品を経費として算入して節税することもできますからね。でも最近の都心部では開業密度が高く、1000万いかない人も結構多いです。二層化しているようですね。

さて、このようにまあ標準的な医師の給料というものを提示してみましたが、そもそも医師の給料は診療報酬によって大きく左右されます。医療機関が治療行為を行った時にトータルで支払われる料金のことです。診療報酬は原則点数で決められており、1点が10円。手術や検査の項目ごとに細かく定められており、日本のほとんどの医療機関はこの厚労省が決めた診療報酬に沿ってサービスを行ない料金を徴収しています。いわゆる保険医療機関という立ち位置です。

たとえば平日の通常時間に特に健康に大きな問題がない人が風邪をひいて初診で昔ながらの開業医にかかり、胸部X線検査を受けて、処方せんを書いてもらったとすると、初診料270点(2700円)、胸部単純写真撮影が60点(600円)、胸部単純写真診断(読影)が85点(850円)、フィルム代10点ぐらい(100円)、処方せん交付が68点(680点)なので、合計で4930円(病院の設備・人員配置によって加算が生じること有)となります。これが医療機関がこの患者について総額で貰える額です。(初診は診察カードやカルテを作らないといけなかったり、問診や診察前の情報収集に手間がかかることもあり、やや高めに設定されています。同一疾病の再診では50点ぐらいです)

日本の保険では若い人は3割負担なので窓口での支払いは1500円弱ぐらいになりますね。残りはレセプトを通じて、加入している公的な健康保険組合から支払われます。高いと思いましたか、妥当だと思いましたか、それとも安いと思いましたか?

飲食店などの通常のお店で一回3000円とか5000円と言われれば高い気もしますが、一台何百万もする(しかもメンテも必要)高額機械が沢山置いてあり、建物も専門基準に沿って設計、看護師や受付スタッフも何人もいると思えば、(健康のことを扱っているということを抜きにして)経営的に考えてもそこまで高いとは思えません。応援医師や看護師といった専門スタッフの人件費だってバカになりません。飲食店なら数人のスタッフで同時に20人近い客をさばくこともできますが、診療所ではせいぜい診察、採血、点滴等で3人さばくのが精一杯でしょう。実際、病院の多くはこれでも赤字なのです。

さて、この診療報酬を上げ下げすることで日本の医療制度は成り立ってきました。厚労省が「次の医療はBではなくA+Bにしたいなぁ」と思えば、「Aという行為をやったら30点加算、そのかわり今までのBの点数を20点下げるからね」とするわけです。そうするとBに加えAをやった場合は10点の増収になり、やらなかった場合は20点の減収になるので、医療機関はこぞってAをやるようになります。そしてAが全国の医療機関に浸透して償却分をだいたい回収できたら加算を廃止し、Aを加えることをBの報酬条件に点数を元に戻すのです。

この診療報酬の金額は全国一律なので、自由診療でもしない限りぼったくられることはまずありません。加算をすべきかしないかとか細かい条件でモメることはありますが、普通の安ワイン一本10万円とかそういうことはないのが特徴です。一方でどれだけ腕の良い医者が診療しても点数は変わらないので、共産主義的な側面はかなり強いです。私は常に「日本の医療は共産主義」と言っています。でも、医療についてはそれでいいとも思ってます。はっきりした理由もなく、共産主義というだけで目くじらを立てるのは一種の思考停止だと思います。

前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。医師の給料が診療報酬によって大きく左右されることは分かりましたが、診療報酬を左右するのは一体なんでしょうか?

それは政治です。診療報酬は中医協中央社会保険医療協議会)という厚労省の諮問機関で方針が決定されますが、この中医協は病院や医師会といった医療提供側、健康保険組合、中立的立場として公益委員の集まりで構成されています。かつては医師会の発言が強かったのですが、汚職事件への反省や医療費抑制政策を目的として、最近では公益委員の数が増えています。また与党による政治的影響が強い委員会で、自民党時代には厚生族議員が水面下の協議をしていましたし、民主党政権になってからは民主党候補を推薦した数少ない医師会の会長が中医協委員になっています。(民主党がクリーンだと思ったら大間違いということはこういうことです。自らの権力掌握のために自民党同様に政治的な小細工はやっています)

ただし、中医協はあくまで細かい診療報酬の配分を決める委員会であって、その上部には日本の医療費の総額目標を決める組織や人々が存在します。小泉時代であれば経済財政諮問会議であり、民主党の場合ははっきりしたものは存在しませんが内閣が政治的に決めています。(政治が決めないといけない理由は日本の医療費支払いの大部分が、公費や公的保険料に由来するからです。そういう点では医師は私立病院勤務であっても準公務員のようなものです)

つまり、日本の診療報酬は政治によって大きく左右されるのです。ということは・・・当然ながら医師の給料も政治によって大きく左右されます。

かつての自民党政権であれば政治が安定していたので、診療報酬も安定していましたが、昨今は政治が不安定なので診療報酬にも不確定要素が増しています。日本の場合、医療制度の上部には必ず政治が存在しているので、国民の風潮や政党の風潮によって医師の給料は変わります。

一部で他の先進国並みに医師給料の大幅な増額を求める意見が出ていますが、医師の給料が国民感情をベースとした政治に大きく左右され、日本の国民感情が妬みや批判に支配されている昨今の状況を考えれば、大幅な増額は揺り戻しや反感を生む原因であり、慎重に対処すべきという意見です。むしろやって欲しいのは医療補助職の増加と、そのための診療報酬増額です。

警察や検察のない世界を見てみたい

一ヶ月ぶりですが、表題のとおりです。法律や警察というものは結局のところ、「人間が完璧でなければならない」という達成しえない幻想を人々に抱かせ、またそれに縛れすぎて自死を選ぶ人を量産させるだけだということが、最近明らかになっているように思います。産業革命以来、都市化の進行と共に法治国家の重要性は増しましたが、あまりにもコミュニティの崩壊や制度疲労を起こしており、解決の道筋すら見つからない問題が山積しています。都市化の進行はお上への依存をもたらし、財政の崩壊をももたらしました。私はそろそろ都市化をやめて法治国家もやめたほうが人間本来の生き方に合っているのではないか、と思うようになりました。

急には難しいですがこの少子化を逆手に都市から町へ、お上からコミュニティへ、そして法から掟への逆行を推進していかなければ、誰も希望はもてないでしょう。地上の星は私たちが蔑み、廃しようとしてきた身近なものにこそあるものです。