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生まれたばかりの自分がいる部屋のドアを開けて

2011-12-01

勝つ為に戦う人々を

 ある人への返信としてツイッターに非公開で書いたのを、多少の手直ししてまとめなおしたものです。

 仰られることは、この原発震災と放射能汚染に、3.11以降あなたはどのように向き合ってきたのですかという問いかけだと、私は受け止めました。被災地にいる人びとが否応なしに向き合わされた現実と、そういうあなたどのように向き合ったのですかと。
 正直に打ち明けるなら、私も謂わば“逃げた”人間なので、他人のことをとやかくいえる資格はないと思っています。それはどういうことなのかというと、つまりは、自分の死を受け入れたのです。これは私に家族が(猫以外に)いないから可能なことで(こうした事態になったとき、家族を背負って立つという自信を持てなかったからこそ、家族を持とうとはしなかったので、その選択は妥当だったのかもしれませんが)、無責任で卑怯な、この現実に対する感情の折り合いのつけ方であると思っています。
 もっと強い人間であれば、もう少しましな向き合いかたができていたでしょう。以前フォローさせてもらっていた方がアカウントを消したのも、私のようなのに失望されたからという気がずっとしていて、申し訳なく思っています。
 私から離れて見ても、原発震災と放射能汚染という現実は、背負うこともできないのに背負わされ、向き合うことすら難しいのに向き合わされたものだと思っています。人びとが議論に走ることは、ひとつには、人の手にはもはやどうしようもないその現実からの逃避行動となっていることは否定できないと思ってます。
 受け入れがたい現実を前にして、私のように自分の死を見つめたり、議論にふけってあるべきだった姿を見つけようとしたり、ただもうこれら全てのことは起きなかったのだと無感覚・無関心に落ちる、そして共有するのはただ無力感のみというのが、いまの状況ではないかと思っています。
 原発事故が現実化したにもかかわらず、この社会の支配層は、まるで何も起きなかったかのように振舞っています。破局へとむかう航路を、そのまま真っすぐ、まるで私たちなど存在しないかのように。「まちがった方向へ走る船の上では、正しい方向へ歩いてもそれほど進めない」*1のです。こうした社会体制に対する無力感、怒り、苛立ちがあります。
 この無力感で覆われた岩盤に穴を開けたいと思っている人は多いはずです。そのなかで、ただ異を唱えるだけではなく、こうしたら変えられるんだという根拠(「理論付け」)が欲しくなるという気持ちは、理解はできます。ただ、見ていて、それが行動・運動の最適化の議論となっているという気がします。
 そうした「最適化」の議論では、恐らく多くの人びとが、自分自身の労力が最小化されるように、訴えるのではないでしょうか。ならば何もしないというのが、最も“合理的“なはずです。被曝の害をできるだけ少なく見積もろうとしている人たちは、その点で非常に“合理的“です。
 また、政府・行政組織に訴えかけてそれを変えるということは、ご承知のとおり、非常に困難なことなので、政府には何も要求しないという条件をつければ、かける労力も小さくなるはずで、結果として自己責任論を唱えようとする人は引きも切りません。御用市民となるのは、最も易いことです。
 自己責任論がこの社会に姿を現したのは、イラク日本人人質事件*2のときだったと思います。このときはじめて、国家統治者が大っぴらに「国民」を切り捨てようとする態度に出たのを見て、もはや彼らには国を保つ意思がないのだと、それまで所謂“政治的無関心層“であった私も愕然としました。
 もっと驚いたのは、国家統治者が自己責任論を唱え、「国民」を切り捨てようとしたことを、少なくない数の「国民」が好しとし、それに喝采を送ったことでした。このとき、それまで私のなかにぼんやりとでもあったという気がするこの国への帰属意識が断ち切られました。
 その後、派遣村など反貧困運動で多少の揺り戻しがありましたが、依然としてこの流れが続いています。統治機構が社会的な保障を最小化し、それを自助努力と貧民同士の相互扶助へと代えようとする流れです。原発震災以降は、それが「応援」などという美辞麗句で糊塗されるようにもなりました。
 五木寛之氏が『人間の覚悟』のなかで「国を愛し、国に保護されてはいるが、最後まで国が国民を守ってくれる、などと思ってはいけない。国に頼らない、という覚悟をきめる必要があるのである」*3と書いていて、震災後にそれを紹介したことがあります。
 私も原発震災以降、もはやこんな世界でなど生きていたくはないと何度も思ったのですが、かといって自分にできることなど大してなく、ずっと悩んでいます。国家は「国民」を見捨てましたが、「国民」に見捨てられては困ると考えています。だから「国民」を見捨てながら、より強く支配・寄生しようとしている。「応援」して逃げさせない。
 この国で最も自立的・自律的に生きていたといえる飯館村の人たちは、原発事故によりその生存基盤となっていた土地を奪われることになりました。3.11で、土地と結びついて生きることをリスクと考えなければならない世界となりました。
 3.11で、もし何かあったときには、ボストンバックに金を詰めて安全な国に逃げていけるような職業、金融業者、もしかしたら火山学者なんてのもそうかもしれませんが(笑)、そうした職業に就くことがもっともリスクが低いという、グローバリストの理想のような世界となりました。
 このような逆さま世界(私からはそう見える)でどう生きていけばいいのか、私は答えを見出せていません。とにかく自分が立っていると思えるところから、思ったことをいい、行動していく、その位のことしか思いつきません。この支配から少しでも脱け出す道を見つけ出したいと思っています。
 
 私が返信をもらって「ダメージを受けた」のは、その真摯な訴えを聞いても何もできることがない、その思いに向き合うことすらできないように思えたからです。慈悲の〈悲〉であるカルナー*4すら、自分の中にはないように思えたからです。それがつらくて、あのとき思わず「逃げたいな」と思ったのです。

 

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