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2017-06-19

『賭ける仏教』 (4)「賭ける」ということ

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賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話

賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話

(3)のつづき

 本書がなぜ『賭ける仏教』というタイトルなのかは、本書の全てを読むことで理解されるべきなのでしょうけれども、端的に書かれている箇所を挙げるとすれば、ここでしょう。

 おそらく私には、いわゆる信仰はない。道元禅師のいう「信」や「正信」といわれるものしかない。その正体は「理由はわからないが、生きていくほうに賭ける」ということだ。だから私は、仏教を「信じている」とは言わない。「頼りにしている」と言う。

 引用元:本書 p.66

 結局、いまのところ、自己の由来も、生の意味も、何一つ分からないままなのです。そこで、生きることが苦しいのならば、自ら命を絶つという選択肢もあるのだけれども、そうはせず、よく分からないままに仏教に賭けるわけです。南さんは、「仏教が一番当たりそうだ」と「予想」し、生きることに賭けておられるわけです。

 死んでみたら、実は神様などおらず、極楽天国地獄も無かったという場合、そこは言語の体系外になるわけですから、そもそも認識」ということが不可能で、信仰者も無神論者もどちらも生前と同じ「自分」という存在自覚することの出来ない有るのか無いのか分からないような何かにどうにかなったりならなかったりするのみです。一方で、実は神様がいたならば、信仰者は「よかった〜」となるわけですが、無神論者は後悔することでしょう。そういうことであれば、神がいようといまいと、信仰することは“負けのない賭け”だということになるわけです。これ、「パスカルの賭け」という話だそうで、私は、本書で知りました。しかしまあ、そういう理由信仰を持つというのは、ひどい話だと思います。

 宗教は「賭け」なのだという捉え方は、私にとっては目から鱗でした。なにか間違いのない確証を得て信仰するものではない・・・と。もっと言えば、多くの人は自殺することが能力的に可能なのに生きることを選択していて、それだって「賭け」ではないかということを意識させられました。生きるのがつらく、悩みが深く、やむなく考え過ぎるくらい考えてしまった時に、なぜ自分が生きることに賭けようとするのか、それにはなんらかの自分を納得させる言語的な説明が必要になるわけですが、なんらかの宗教(あるいは思想哲学科学芸術など)の論理が仮設的にでも人を生きることに賭けさせる道筋を与えてくれる場合が大いにあるということなのでしょう。

 「人生ギャンブルだ」などという凡庸な例えがありますが、それも考えてみれば、あながちウソではないような気がします。日常でもしょっちゅう、はっきり確証を得ないまま「これがいいだろう」と賭けて判断していることの連続なわけで、自分が振った賽の目によって、良い結果がもたらされるのか、悪い結果がもたらされるのかなんて、思いもよらないことなのですけれども、私はすっかりそのことを忘れていたのでした。

 どこに住むか?今日のお昼は何を食べるか?飲み会で近くに座っている初対面の人に声をかけるか?連休旅行はどこに行くか?今日は傘を持って出かけるか?電気製品国産品を選ぶか?どの歯科医虫歯治療してもらうか?新しい連続ドラマを観るか?お茶コーヒーのどちらを飲むか?どの学校に進学するか?どの仕事に就くのか?出勤時にどの交通機関を利用するか?会議で反対意見を発言するか?この人と結婚するか?子どもを産むか?とある特定の子育て法や療育法に従うか?子ども早期教育を受けさせるか?少し熱っぽいので、お休みするか?評判の良い先生自分の子を任せるか?子どもスマホを持たせるか?子ども宿題をやるようにうるさく言うか?家のローンを組むか?『賭ける仏教』を読むか?・・・どれも、事前にどんな結果が待っているのか、99パーセントと言えば分かることはあるかもしれませんが、100パーセント分かることなんか、ひとつもなく、やってみなければ分からないのではありませんか?

 全て「賭け」の連続であり、それどころか「賭け」しかないとも言えそうでもあり、人生リスクだらけなのです。しかし、そういうことでは危険で恐くて仕方ないので、リスクを減らし、できるだけ「賭け」の要素を減らそうとして、例えば、まわりのみんな大勢がやっていることを自分もやっておけば大丈夫・・・という方策もあるでしょう。こういうことと「世間」は関係あるかもしれません。

 あるいは、ここでリスク軽減のため、「科学」だの「エビデンス」だのというものが利用されるという見方もできるでしょう。確かにこうした近代がもたらした恩恵により、相当に危険な賭けを回避することができる場合も多くあるように思います。

 しかしながら、いくら「みんながやっている」とか「科学」とか「エビデンス」などというものがあったとしても、もちろん、それらは100パーセントに近い確率で結果を予測できる場合もあるわけですが、原発事故アメリカ大統領選挙の話を持ち出すまでもなく、想定外あるいは予想外の因子が加わってくると、制御された環境下での実験とは異なり、途端に予測できない事態に陥ることもあり得るでしょうから、究極的には、リスクがゼロにはならないのはもちろんのこと、場合によっては非常に危険な結果をもたらす選択ともなり得る・・・と、ちょっと考えれば気付けることでしょう。だから、科学標榜するものですら、厳密には「賭ける」と言ってよい事態になっている現実に、私は思い至るわけです。

 あなたの購入した現代科学技術の結晶とでも言うべき家電製品は、あなたがコンセントにつないでスイッチを入れるまでは本当に使えるのかどうか確実には分からないのです。

 本ブログ的に言えば、どの子育て法・療育法・教育法を選択するか?どの先生指導者とともに歩んでいくか?を考える場合も、結局のところ、それが科学標榜するものであったとしても、どうしても「賭け」となってしまうのではないか?という可能性をここで敢えて強調しておきたいわけであります。あなたはその先生なり指導者なりに、100パーセント確実とは言えない状況下で「賭ける」選択をしている可能性があって、さらに言えば、「賭ける」しかないのかもしれません。あるいは、ここで「従わない」という選択も「賭け」でしかない可能性があって、さらに言えば、「賭ける」しかないのかもしれません。

 きっと、我々は安全でありたいと欲望するから、本当はいつも賭けていることを意識のはるか彼方に追いやって、忘れ去って、一応は安心している・・・ということなのかもしれません。

 ここで岡本太郎さんを思い起こしてみます。「賭ける」という言葉は、岡本太郎さんの著書で多く目にした記憶が、私にはあるからです。

 繰り返していう。うまくいくとか、いかないとか、そんなことはどうでもいいんだ。結果とは関係ない。めげるような人は、自分運命を真剣に賭けなかったからだ。

 自分運命を賭ければ、必ず意志がわいてくる。もし、意志がわいてこなければ運命に対する真剣味が足りない証拠だ。

 引用元:『自分の中に毒を持て』 岡本太郎著(青春出版社プレイブックス) pp.65-66

自分の中に毒を持て(文) (青春文庫)

自分の中に毒を持て(文) (青春文庫)

 こういうことになってくると、「賭ける」ということが、「世間」を超えた個を芽生えさせ、より深い生のリアリティを生じさせる可能性を感じます。岡本太郎さんは、人生の岐路に立った時、必ず、自分が危険を感じる、「こっちに行ったら駄目だ」と思うほうに進むことに賭けたそうですが、私は初めてそれを拝読した時に、そこまですればどれほど生きることのリアリティが感じられることかと、感動せずにはおられなかったです。まあ、そこまですることをもう普通に十分楽しく生きておられる方にお薦めしちゃダメだろうとは思いますが、結果ではなくて、「賭ける」行為そのものを意識して行った時にこそ、自分とは原初的には不確実な存在(ひょっとしたら存在していないのかも)であるにも拘らず、自分についてのリアリティがより深く感じ取れてくるということがあるようなのです。常に安全に生きるよりも、リアリティ。こうした文脈での「賭ける」という言葉は、決して悪い言葉ではないと感じます。ただし、賭けるのか、賭けないのか、どちらを選択するのかは、自由だと思いますが・・・でも、この選択自体が、すでに「賭け」のようですね。

 ついでに賭けたくない人のためにお節介させていただくと、本エントリー文脈からすると、あらゆるものの相対化を進めようとするから、「賭ける」しかなくなるわけでしょう。賭け事がイヤだったら、「絶対」が間違いなくある世界観をどうやって持つかを考えていかなくてはならないでしょうけれども、それはそれで至難の業のような気もします。「空海」に突破へのヒントがあるかもしれません。

(つづく)

2014-05-28

『賭ける仏教』 (3)言語と「余り」

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賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話

賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話

(2)のつづき

 読み進めるうちに、本書でたびたび語られている仏教世界観は、言語学者のソシュールが「ラング」という概念を通じて語った、つまりは「我々人間が見ている世界言語があるからそのように見えている」といった世界観(「メタ世界観」とでも言うほうがふさわしいか?)と共通しているように思えてくるのですが、果たしてこれらは同じということでよいのか?…というところが気になってきました。そこで、いろいろ調べてみたところ、日本ソシュール言語学第一人者であった故・丸山圭三郎さんがこれにお墨付きを与えている言説に出くわしました。

 ソシュール思想が、東洋ナーガールジュナ龍樹)たちの〈空〉観の、いわば無意識継承であるとみなされるのは、彼が、人間文化とは非本能的過剰物である欲望(本書、第I章参照)を生み出す言葉によって作られた〈記号〉である、と考えたからにほかならない。彼によれば、記号とは何らかの実体(即自的に存在する事物や観念)の標識ではなく、その逆に、実体錯視される文化内の諸カテゴリー価値を生み出す源なのである。

 記号が何らかのオリジナルをゆびさす代替物のように見えていたのは、恣意的分割線が物化した結果生ずる錯視による。ソシュール記号学とは、歴史的に構成ずみの制度内で用いられている〈文化の諸記号〉の研究であるとともに、人間文化そのものをシミュラークルとして捉え、その本質を発生の場におりていって解明する〈文化という記号〉の研究であった。

 引用元:『言葉狂気エロス丸山圭三郎著(講談社現代新書pp.62-63

 ラカンのいう〈無意識〉という名の言葉は、ソシュールが示唆した〈深層意識〉の言葉であり、さらに古くは、東洋言語哲学が探求した意識の深層における言葉に近い。二世紀から三世紀にかけて活躍した大乗仏教学者ナーガールジュナの『中論』に基づいて般若空観を宣揚した〈中観派〉の考え方は、ソシュールフロイトラカン思想を先取りしているとさえ思われるほどである。(後略)

 引用元:同前 p.98



 そんなわけで、南さんが語っておられる言語観がソシュール言語学に似ているということでよいのではないか…という気がここでますますしてくるわけであります。さらには、「ラング」と言ったときに出てくる「我々人間が見ている世界言語によって分節化されているからそのように見えている」…みたいな解説は、それだからこそ、むしろ「言葉で言い切ってしまえる世界を信じたらまちがうぞ」といった指摘をするところに徐々に重点が置かれていって然るべきで、本書でも、そのように言っているように読めました。

 もしこの世界が本当に言語だけでできているならば、言語機能だけですべてが完結してしまうはずだろう。ところが実際はそうではない。言語機能自体が何かに依拠し、依存して存在している。

 誤解してもらっては困るのは、言語学言語哲学でいわれるように、あるひとつの語の意味が、他の語や言語全体に依存していると言いたいのではない。言語構造それ自体の全体が、言語構造ではない「何か」に依存してできあがっているのではないか、ということ。われわれの生、われわれが現実世界と思っているものは、その「何か」に根ざしているが、そこに気づかないまま、言語というものを実体とみなして生きている。私たちの認知構造、脳の構造は、言葉実体として生きていくようにできている。そこにとてつもない矛盾がある。この矛盾が「無明」であるという気がする。

 引用元:本書 p.86

 さてさて、これはよく読むと「ソシュール言語学とは違う」という話で、南さんが言われていることは、「ラング」だけで世界は完結せず、言語の外部に依存している…ということのように読めるのです。つまりここで、仏教ソシュールと違うのではないか?という見方が出てきているわけなのです。しかし、丸山さんの論じられたところからすると、ソシュールは「ラング」だけを考えていたわけではなかったということが、ふと思い出されてきます。ここは誤解を生じやすいところであると思います。上の引用文で南さんが示唆しておられる「何か」というのは、ソシュール自身は重視していたはずなのに語りたがらず、尚且つ、弟子たちには軽視されていたという「パロール」に含まれているのではないか?…といったところにアタリをつけて、その付近を探索してみる価値はあるかもしれません。そのあたりの事情は、栗本慎一郎さんによるこの解説が、(これでも)シンプルで分かり良いと存じますので、引用させていただきます。

 人間がもともと持っている、事物に対する了解言葉かえるのは、個人が発話したり、文章記述を行ったりする行為を通じてだが、この行為による言葉パロールと呼ぶ。共同体共通了解事項として、ある程度以上体系化されたラングに較べて、パロール個人的で、不安定、偶発的な要素をたくさん秘めている。

 ソシュールはしかし、このパロールのありかたに、ひどくこだわっていた。そこがもう一つ明確にならないから、彼は一冊も本を書かなかった。彼の弟子たちが講義録をもとに『一般言語学講義』なる本を出版したときも、それについての部分は除かれてしまったのだ。丸山は、『一般言語学講義』の不明確な部分を追究し、ソシュールの原意をとりうるところまで研究を進めた人である。

 パロールとは何かということは、人間はなぜ発話するのか、ということに等しいと私は思う。そこが解決されねば、ソシュール問題はほんとうに解決されたことにはならない。丸山独自な文化記号学への試みは、生命論を展望に入れて、ここに迫っている。それは、真摯学者として、当然踏みこむべきステップだと私は思うが、現実にはほとんど誰もやらないのである。

 ソシュールラングパロール論は、しかし、日本でもおもにラング論に即して受け入れられた。それが記号論ブームにつながりもした。

 引用元:『鉄の処女栗本慎一郎著(光文社カッパサイエンスpp.228-229


 ダメ押しで、丸山さんがこのあたりをどう語っておられたのかも、かなり難しいですが、一応、引用しておきます。

 著者が、《構成された構造》であるラング対置して《構成する構造主体》と呼んだパロールもつ社会性がこれであって、くり返すまでもなくこのパロールは単なる生理的発声現象物質音といったシュプスタンスとは違い、一つの構造を有するものである。これは、イディオレクトの概念にも近い、個人価値観イデオロギーを支える言語・意識構造にほかならないが、これまた当然のこととして既成のラングという大きな構造の中にくみこまれ、否応なしに規制されている構造でもある。一方においてラングパロール産物として成立し、他方においてパロールラング規制されるように、この二つは作り作られる永続的な相互依存関係におかれている。このパロールこそは、物質的なものに働きかけて、それをのり超え、しかもそれを保有しながら、具体的実践を行う社会行動の本質であり、歴史社会の中にあってそれを動的なものにする《否定の契機、反構造的契機》である。(後略)

 引用元:『ソシュール思想丸山圭三郎著(岩波書店)p.280

ソシュールの思想

ソシュールの思想

 『ソシュール思想』あたりではこんなものですが、晩年丸山さんが、この「パロール」についてもっともっと踏み込んで語り出したことは、そこそこ知られていることであります。いずれ、そのあたりの本についても拙ブログで考えて参ります。


 さて、こうした言語問題を、南さんは西洋哲学にも触れつつも、あくまで仏教者としての立場で語って下さいます。そういうところで、仏教の凄味を、私は感じずにはおれません。なぜかというと、西洋哲学が言及するはるか昔に、すでに原始仏教がこのような世界観言語観を持っていたことを、私は知らなかったからです。しかし、ある意味、それは当たり前かもしれません。そもそもだいたいが、日本のごく一般に伝わる仏教現代西洋哲学と同じようなものであったと捉えるのは、ほとんど間違いでしょう。南さんは、原始仏典や『正法眼蔵』を理解するのに、仏教書が役に立たなかったので、ハイデガーウィトゲンシュタイン等々の西洋思想を援用しつつ仏教を考えてこられたようであります。


 さてさて、しかしながら、仏教内部でも、こうした議論の中で顕わになってくる「言語体系の外部」とでも言うべきものをどう扱うかについては、ブレがあるようで、そのあたりも、本書から読み取ることができ、大変興味深いです。

 私のソシュール経由の言語観を、本書を通して発展させて捉え直すと、世界を分節し、カテゴリー分けしている言葉境界線は、普段は閉じていて、いつも暮らしている日常言語体系が織り成す世界の中に我々は閉じ込められており、我々の「欲望」の大部分でさえ本能によるものではなく、言語人間が浸潤された結果生じている有り様であるわけです。しかし、時に、その言葉境界線がこじあけられ、そこが裂け目となって、言語の向こう側の、いわば世界の「潜勢力」のようなものが、ちらっと見えてしまうことがあるということなのでしょうか。

 まあ実際、そういうものは、受け手に準備ができているかどうかにもよりますが、ものすごい芸術であるとか、文学であるとか、学問であるとか、命に関わる局面であるとか、身体を使った深いワークであるとか、異文化交流であるとか…そういったところにおいて垣間見ることができるものだと、私は思います。

 空海は、それを「真言大日如来言葉)」であると説き、日常言語とは違う「言語」であると言い切った…ということのようです。

 南さんは、「私が強い関心を持つ日本仏教者は、道元禅師以外では、この空海上人親鸞聖人だ」と語っておられます。特に空海は、生を肯定することを、とことんごまかさず追求した…と、とりあえずは高評価され、「道元禅師と並ぶくらいの思想性の深さを空海には感じる」とまで言っておられますが、しかしながら、同時に「彼の全面肯定論理は、私にはどうしてもなじめない」とも言っておられます。

 南さんは、自己肯定というものは、そのまま自己肯定することで示すことはできないとしています。ちょっとややこしいですが、自己否定する行為において、その否定可能にするためには、その否定肯定しなくてはならないわけで、その肯定する深い力がその基盤にあるということを反照的に示すことによってしか自己肯定は成り立たない…ということのように私には読めました。

 そういうことになれば、私などが「自己肯定」などと日頃の支援の場面で説くのは、とんでもなく浅薄なものだったということになるわけで、そのあたりのものの考え方をもう一度見直してみる必要を感じるわけですが、一方で、「ところが空海上人は、自己肯定そのものをとりだせると言い、現につかみ出して見せたようなところがある」と、本書にあるわけです。

 では、空海は、なぜ、自己肯定を直接的にすることができたのでしょうか。それは、どうやら、言語体系の外部に「真言」があると言ってしまったことで可能になったことのようです。空海には、言語に対する強い信頼がある…とも言えるようです。

 それに対して空海は、「お前たちが使ってる言語ロゴス世界、すなわち皮相な世界に過ぎない。その裏に真言、すなわち真のことばがある」と言う。これこそ全面的存在肯定だ。これは強い。この思想全面的に納得できたら、どんなによかっただろう。

 引用元:本書 p.69


 さて、道元禅師の門下である南さんは、「外部」は、「わからない」としか言えないと説かれます。

 だいたい言語を超えたものを名指ししてはいけないんだ。「言語を超えたもの」とすら呼んではいけない。そう言った瞬間に、別のものにすりかわってしまうから。

 道元禅師の著作を読んでいると、語りつづけることに対する抵抗感としてしか、語りえないものは現れない」と言っているように思う。

 禅師は「非思量」とか「不思量」ということばを使うが、この「非思量」や「不思量」に何か実体があるわけではない。つぎつぎと直前の「思量」(思い、考え)を否定しながら進んでいくとき、その過程に何ともいえない摩擦感や抵抗感がある。ことばでは言いきれない何かが残っている感覚がある。この無限運動のような否定のくりかえしのなかにしか、ある種の非言語圏は現れてこないのではないか、と思う。いつまでたっても言い切ることができず、それゆえ、いつまでたっても「余り」が出る。

 引用元:本書 p.71

 これは、ウィトゲンシュタインではないですか!

 …いや、私、ウィトゲンシュタインは読んでいないんですけれど(苦笑)、それでも、またしても、仏教の凄味を感じます。

 まあ、別に厳しい修行をしなくとも、一般の人でも、ちょっとセンシティブになれば、自分の思いを「ああいう言い方も違う」「こういう言い方も違う」と、いくら語ってみても語りつくせない感覚自分に残っていることには、気づくことでしょう。

 しかしながら、この言葉で言いきれない「余り」があるものだという前提で考える仏教者と、そこがよく分かっていない仏教者がおられるようで、そこで大きな誤謬が起きているということのようです。…というか、よく分かっていない人のほうが多いようで、みんなはその「余り」に名前をつけたがるということになってしまうわけです。名前をつけても、それでも、どこまで行っても「余り」は出るわけですが、いつのまにやら、自分は全てを言い尽くしたような気になってしまうところに、大きな誤謬があるということでしょうか。

 やっぱり、ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙しなければならぬ」のようです。

 本書からすると、ナーガールジュナ龍樹)も、天台大師智擇癲道元禅師も、親鸞聖人も、この「余り」に気をつけていたことが窺い知れるようなのですが、その後の仏教は、この「余り」を丸め込んで、割り切れるようにしてしまい、ゆえに思想が変質していかざるを得なかったということのようです。

 さらに本書から読み取れるに、この「余り」を名指ししてしまった人が、ある絶対化された真理を手に入れたと言い出し、「自我肥大化インフレーション」に陥り、世の中に危険な状態をもたらす場合があるようです。

 そういえば、死後の世界はこうなっている…などと語ってしまう人がいますが、あれは、「語りえないこと」を語り、「余り」を名指ししているわけですね。これは、死んだらどうなるかは、「言語で語れない」「わからない」としなくてはならないはずでしょう。それだったら、キューブラー・ロスさんとか、どんな語り方をしていたのか、確認し直さなければなりませんね…。

 そういうことになると、これは一部の精神世界新興宗教学術学会コミュニティをはじめ、カリスマを頂点に据える形の集団が陥りがちな問題と関わってきそうですが、本書では、特にオウム真理教について、ところどころで言及があります。要するに、「世間」で生きることに困難を感じる者たちが信者となり、日本仏教歴史において、かつて道元が掲げていたもののそれ以来はじめての「出家主義」を真っ向から標榜し、しかしながら、なんとも皮肉なことに教団内に自分たちの「世間」を新たに構築してしまうという落とし穴に陥ってしまい、結局「出家主義」とは言えないようなものになってしまった経緯があるわけなのですが、一方で、オウムは、いわば「世間教」にすぎない伝統仏教に対する敵意のようなものから、道元に近いモチベーションでもって新しい独自の言語体系を編み出そうとしていたという見方もできるわけなのです。そこで、あの教祖は、この「余り」について、「真我」という概念を持ち込み、「語り得ないもの」を「究極のもの」として語ってしまったが故に、「語り得ないもの」は別のものに変質してしまい、彼が「自我肥大化インフレーション」に陥ってしまったことも相まって、いわば「余り」の部分に逆襲されてしまった・・・という解釈があり得るようです。

 オウムは、日本仏教の一番見たくない部分を見せつけたんだ。

 引用元:本書 p.16

 そういえば、あの教祖マントラ真言)を唱えるわけですが、それにしても真言宗がそんなに危険な宗教には思えないわけで、この違いは何なのか?という疑問が湧いてきます。「世間教」の枠を守っているからかもしれませんが、私は結局、本書でこのあたりを整理することはできませんでした。

 しかしながら、“癒し”のようなものに傾倒されている方の多くは、自己肯定自己肯定により直接的に成し遂げようとしている場合がほとんどでしょうけれど、これは、空海が示した「余り」を出さないまま「語りえないもの」を言語化できてしまうといったモデルが根底にないと、成し得ない方略である可能性に、私は本書を通して思い至るわけです。空海は、ここを徹底して考え抜いたようですが、巷に溢れる自己肯定に、空海ほどの深みがあるのか問い直してみる必要はあるかもしれません。少なくとも一部では、気分のようなもので自己肯定して、真実であろうとなかろうと、それでうまくいっているはずだから突き詰める必要もない…という雰囲気があるように思いますが、悪気はなくとも、こうしたものが、自我肥大化を惹き起こす可能性もないとは言えないわけで、私は今のところそのあたりがよく分かっていないので、もっと思索を深めつつも、少なくとも用心する必要はあるな…と感じるわけです。


 前述の通り、私は、ウィトゲンシュタインを読んでいません。ですから、そういうことについては信用の置けるようなことが言えませんが、ウィトゲンシュタイン的な言語観を、栗本慎一郎さんの著作を通して20年位前に覗いてみたくらいのことはあって、それ以来、そっちの言語観を気にかけてきておりますから、空海よりも、道元に傾倒できそうな気がいたします。かつて、お大師さんの祠が庭にある借家に住んでいたこともあるので、空海にも親しみはありますが、でも、言語体系の外部を「真言」と名前をつけてしまう立場には(あくまで、私個人は)馴染めそうにありません。そういうことで、やっぱりとっくの昔から、すべてを言語で言い尽くすことなんてできないだろうと考えていた私が、ここに来て、本書により、自己肯定により自己肯定をする支援というものを自分が行うことのジレンマに気づいてしまったということがあるわけです。そうした立場の危険性について検討してみる必要を感じさせられました。ものすごい、大変なテーマを授かりました。

(つづく)

2013-04-29

『賭ける仏教』 (2)「世間」をめぐって

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賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話

賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話

(1)のつづき

 中世ドイツが専門の歴史学者である故・阿部謹也さんが言われた「世間」という概念があります。驚いたことに、古来から現代に至るまで日本にあるのは、個人を前提とした「社会」では決してなく、それとは全く別物の「世間」であり、「世間」即ち、自分の関わっている人間関係の枠内に派生する「掟」を守ることが何よりも優先されるべきことであるので、自分意思や欲求を抑え込むことにより、「個」を確立させないまま安定を保とうとするのが、我々日本人のありようである・・・という話でしょうか。この「掟」に対して、「そんなの関係ねぇ」とばかりに無視をしたり、あるいは、うっかり「個」を目覚しく芽生えさせてしまい、どうしても譲れない事情ができてしまって逆らったりすると、「世間知らず」などと言われ、「世間」から排除されてしまうわけです。

 仏教にも「世間」という用語があるようで、その知識のある読者にはまた私とは違った微妙な意味合いが伝わってくるところなのでしょうけれども、『賭ける仏教』では、最初の方で、阿部謹也さんの言われる「世間」と、仏教で言う「世間」を絡めて話を展開している様相です。私は、阿部さんの「世間」についてはずっと昔に拝読していたものの、今となっては記憶の彼方に押しやっていたところで、それを南さんが援用し、さらに発展させ、日本仏教の(というか日本人の)歴史解釈する(恐らくは)独自の切り口を示していかれる流れにすっかり釘付けとなり、「世間」という概念が、いかに仏教に限らず、今の自分対峙させられている問題を読み解いていくのに重要な概念であるのかを思い知らされた限りでした。

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

 要するに、日本には元々「世間教」とでも言うべきものがあって、日本に持ち込まれた仏教は、時間の経過とともに徐々に変質し、結局、仏教の皮をかぶった「世間教」になってしまう・・・ということのようです。

 そしてなんと、この厄介な問題を鎌倉時代初期にすでに意識していた日本人存在していたということのようで、日本における曹洞宗開祖である道元禅師は、「原始仏教」「仏陀の説いた仏教そのもの」を目指し、それまでの「世間教」の枠組みを越えるため、『正法眼蔵』で、新しい、非常に強烈な言語体系を作り出したのだと、南さんは語っておられます。

 しかし、こうした本物を目指す仏教日本に普及させようという試みが成功したかというと、それはそうもいかなかったようです。

 ところがそんな言語体系は定着しないし通じない。そのうち、ほとんど誰にも理解されないまま変質し、解釈の枠組みが、禅師本来のものとは明らかに異なってしまった。

(中略)

 結局、『正法眼蔵解釈歴史は、「世間」の枠組みに『眼蔵』を合わせていく歴史、逆にいえば、『眼蔵』のなかに「世間仏教の中身を入れこんでいく歴史だったといわざるをえない。

 引用元:本書 p.23


 さてさて、これは仏教に限った話ではないと、私は思いました。新しい療育法や教育法や育児法等々を、外国から輸入してきたり、オリジナルで編み出したりして、それを日本に普及させるというような場合をみると、「これはもしかしたら、輸入者開発者からすると、とんでもない伝わり方をしているんじゃないか?」というような気がすることがしばしばあって、ある時、かなり有名な某メソッドオリジナルに触れたことのある当事者に直接質問できる機会を得てここぞとばかりに確かめてみたらやっぱりそうだった・・・ということが私の経験として実際にあって、それは「世間教」に変質してしまった結果であったのだと解釈できた時、私にとってのかなり多くの謎が解けました。

 本書を拝読すると、オリジナルから「世間教」への変質は例外的なものではないと認識するべきだという気がしてきます。つまり、今、あなたや私が頼りにしている○○法は、とうの昔に「世間教」になっている可能性が高いと、疑ってかかった方が良いということです。極端に思われるかもしれませんが、そこまで一般化して考えてみると、実は行き詰まりの突破口がそこにあることに気付いてきます。(しかし、道元禅師の例をみてみれば、そう簡単に突破はできないことも分かってくるわけなのですが。)

 たとえどんなに合理的に編み出されたメソッドですら、もともと日本には「世間教」という大いなる下地が意識されないうちに固定化されていて、いくらメソッドをその下地に書き込んでみたところで、いつのまにかそれは「世間教」に呑み込まれた別物になってしまうわけです。

 この現象は、故・山本七平さんが1970年代にすでに『空気研究』で説かれた「水=通常性」という概念でも解釈可能で、やはりかなり一般化して捉えてよい厄介な日本人性質としてもっともっと知られるべきでしょう。裏返して言えば、「世間教」や「水=通常性」という概念が普及していくことが、これらを乗り越えるのだったら乗り越えるべき遥かなる道のりの入り口になるのではないでしょうか。もちろん、乗り越えないという選択もあるわけですが。

 (前略)・・・われわれの社会にはこの「水」の連続らしきもの、すなわち何か強力な消化酵素のようなものがあり、それに会うと、すべての対象はまず何となく輪郭がぼやけ、ついでに形がくずれ、やがて溶解されて影も形もなくなり、どこかに吸収され、名のみ残って実体は消えてしまうという、実に奇妙な経過をたどるからである。(中略)

 とはいえ、こういったなんらかの消化酵素があるらしいことは、もう半世紀近い昔に、何となく人びとに気づかれていた。たとえば内村鑑三はこの作用を一種の腐食にたとえ、日本は雨が多いから、外来のどんな思想制度もたえず「水」を差しつづけられて、やがて腐食されて実体を失い、名のみ残って内容は変質し、日本という風土の中に消化吸収されてしまうという、面白い観察をのべている。(中略)

 だが、これは何も西欧文明乃至はキリスト教の場合だけでなく、外来のあらゆる文明について言えることである。たとえば日本仏教国だといわれる。これは今では世界的な定義で、外国地図などでは日本仏教圏に入れているから、確かに「名」は残っている。だがしかし、専門学者浄土宗仏教ではなく、浄土宗のような思想仏教にはないという。もっとも啓蒙的な本は、日本仏教に敬意を表してここまでははっきりとは断言していない。が、しかし、ペンギン叢書の「仏教」を一読されればよい。浄土宗についての的確な説明があり、これを相当に高く評価しているが、最後は「これが果たして仏教なりや?」という言葉で終っている。儒教となるとさらに面白い徳川時代日本儒教の影響を徹底的に受けたそうだが、しかし科挙制度は取り入れていない。いわば骨組みはどこかで骨抜きにされ、肉の部分は何となく溶解吸収され、結局は、儒教体制という形にならずに消えてしまったという経過をたどっている。

 引用元:『空気研究山本七平著(文春文庫pp.93-94

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))


 以上の視点からすると、現状では、新メソッド日本オリジナル通りに普及させることは不可能に近いという話になるでしょう。「世間」を意識していないなら尚更、いずれ伝播のされ方がコントロール利かない状態に陥るのだと思われます。もっとも、日本が「世間」でなく「社会」を成立させるに至れば、こういう問題も解決するのでしょうが、それは当分無理な話でしょう。


 さてさて、本書から私が読めたところでは、道元禅師以降の仏教は、再び「世間教」になってしまった上に、江戸時代には、檀家制度ができて、寺が行政機関として民衆を従わせる権力を持ち、悩める人をとりこめなくても僧侶は食っていけるようになったことが逆に災いし、宗教としては無力化する一方だったようです。昭和高度成長期に至っても、明らかに世の人々の苦悩はあふれんばかりで、新興宗教や街角の占い師などにすがる人々は後を絶たないというのに、伝統仏教は、こうした人々の多くからは頼りにされないまま・・・という状況になっていたわけです。

 子育てに纏わる相談においては、子ども本人や親本人の気質や性格を問題解釈の中核に据えるべきではなく(無論、そこが大事な場合もありますが)、「世間」に抑圧されているから悩まざるを得なくなっているのだ・・・と解釈する方が妥当ではないかというケースを、しばしば私は仕事経験してきていて、それは本ブログでこれまで何度か強調して述べさせていただいたことでもあります(『脱サイコセラピー論』『うしろ向きに馬に乗る』)。そうしたことに絡んで考えてみると、現代に至り、それこそ、世間教は世の中を鎮めているようでありながら、実はそのせいで人心が惑わされ、苦悩が生み出されている・・・という見方に首肯される方も多くおられるのではないかという気配を感じますが、如何でしょうか?そんな話にまで行き着くと、私は、世間教ではなく、本書で言うところの「生き方の参照原理なり生の基準としての仏教」が復活してくるかどうかが問われている・・・という南さんの着想に希望を託したくもなってくるわけなのです。もはや、「世間」という概念を知り尽くした上で普及させる思想メソッドでなければ、通用しないと思うわけなのです。

(つづく)

2013-03-19

『賭ける仏教』 (1)イントロダクション

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賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話

賭ける仏教: 出家の本懐を問う6つの対話

 著者の南直哉(みなみじきさい)さんは、曹洞宗和尚さんだそうです。某元社長とは全くの別人です。

 「仮想問答」とのことですが、実際の問答の相手は・・・なんとなく分かりますよね。

 以前、私は、「生や死や、それに絡んだ生き方についての探求なんて、心理学とかカウンセラーじゃなくて、昔から伝統的な宗教がやってきたことだし、その分野でやったほうがよっぽど安全仕事ができるじゃないか」・・・みたいなことを書かせていただきました。『間主観カウンセリング』の時です。

 しかしながら、あの時抱いた私の伝統的な宗教に対する期待なんか、今日では、単発の事例としては叶うこともあろうでしょうけれども、一般化した営みとしては、なかなか希望を持てない状況になってきていることが、『賭ける仏教』を拝読するにつれ、窺い知れてくるのでありました。まあ、だから私も決して無神論者ではないのに特定の宗教帰依していないのであって、これは薄々と何処かしら、私が「(私の場合、)宗教によって自分人生が救われることはない」というようなことをすでに思い込み、いっちょまえに見切りをつけてきたせいではないか・・・と、その理由を考えることができるわけです。今ここで私は、自分のことなのに推量しているような書き方をしましたが、なぜならそれは、本書を読むまで私はそのことを自覚していなかったからです。多分、世の少なくない人が似たような感じではないかという気がいたします。

 ところが、このまま伝統宗教堕落していく・・・と、あきらめなきゃいけない状況なのかというと、それはそうでもないのかも・・・と、それなりの希望を持って言うこともできるようです。

 科学進歩した結果、人間は「生命」の領域のことについてまで、少しは操作できるようになってきています。それ故に、例えば、「どこまで人間遺伝子に手を加えてよいのか?」などという問いにも向き合わざるを得ない局面に達しているようで、けれども、そんなメタな問いに対する答えを科学の閉じた言語体系の中に見出すことはできないだろう・・・という予感も大いに有り得て、そうなると、その答えを言語体系の外に通ずる宗教が(言語体系の外を言語で語ることはできないはずなので、そのスレスレのところで)示さなくてはならなくなるだろう・・・と、これは宗教にとっては謂わば復興のチャンスが訪れているのではないか?という見方もできるわけです。本書で南さんがそこのところを語っておられます。実はなんと、ここにきて伝統宗教は需要が高まってきているのかもしれないのです。(まあ、宗教家ではなく、優れた思想家かなんかが答えてしまうかもしれないですけれどね・・・。)

 閉塞感だらけの今日に至り、伝統宗教一部の人たちも抜け目なく、これから人間がどう生きていけばいいのかを、新たに問い直しておられるようです。本書を拝読するにつけ、私は、思わず猛烈に、仏教に興味をそそられてくるのでありました。例えば、南さんの次のような言葉を通して、僭越ながら、仏教のこれからに期待を寄せたくなってくるのであります。

今日現代仏教について、訊きたい。


 その言い方からして、きみはよい印象を持ってないな。


−そりゃそうさ。「葬式仏教」という批判もずいぶん長いが、葬式はいらない、と公然といわれるようになったら、その批判も極まれりだ。死にゆく人の世話もできず、死んだあとの家族ケアもしない。そもそも、現代的な問題意識が欠けているともいわれている。そのあたりを和尚はどう考えているの?


 それはそのとおりで、大方は、指摘されれば一言もないところだな。ただ、最近は若い僧侶仏教者を中心に、従来の檀家や教団を越えて、社会と直接結びつく活動をする人たちが現れてきたことも事実だ。

 しかし、そういう事例があるにしろ、私がいま痛切に感じているのは、残念なことに、それ以前の問題なんだ。もちろん寺のありよう、僧侶のありようは問われなければならない。ただしその前提として、僧侶には「自分にとって仏教とは何なのか」をはっきりさせてもらいたい。


−そうか、そこからの話か。


 もうひとつ、仏教に真剣な関心を持ってくれる人たちには言ってもよいと思うのだが、仏教をあまりわかりやすいものだと思ってもらってはまずい。そう思わせるべきでもない。仏教は、必要な人と必要でない人がやっぱりいる、と私は思う。


−前にも仏教を必要とするのは全人口のなかの圧倒的な少数派だと言ってたね。仏教マイナー宗教思想であり、他の宗教と比べると圧倒的に弱いとも。確かに仏教インドではイスラムに敗れて滅び、チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ中国の侵攻によって亡命を余儀なくされたように、外敵と戦えばほとんど負けている。進化論を持ちだすのは場違いかもしれないが、仏教仏教が必要な人というのは、本当なら進化のなかで淘汰されるべき弱い存在なのかもしれないな。


 強者生存という考えが正しいなら滅ぶべき存在かもしれないが−しかし進化論においても必ずしもそうではないと思うが−生き残ることがなぜ善だと決まっているのか。滅んで何が悪いのか、ともいえるだろう。そもそも人類絶滅して何が悪い、という発想だって当然ありうる。

 (中略)

 環境保護というのなら環境破壊する人間がいなくなればいい。安楽死を認めるなら人類ごと安楽死させる方法もあっていい。

 (中略)

 仏教はどう考えても、人間であることや人類が存続することを、無条件でいいという考え方ではない。「成仏」とはある意味人間ではなくなる」こと。要は、「人間」はダメなのだ。けっして人間であることを全面的に肯定する思想ではない。少数派になるのも当然だろう。


 引用元:本書 pp.120-123

 只事ではなく、すごいではないですか!「人間ってダメなんだ」という前提で説いてみせて、最終的には希望を持って受け止めることが可能・・・なんていうのは、栗本慎一郎さんや岸田秀さん以来ではないですか?あるいは、ニーチェ以来か?・・・あっ、仏教の方がずっと古いんだった。これでみなさんが本書を読んでみたいと思われないのでしたら、もうそれはそれでいいのではないでしょうか。

パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か

パンツをはいたサル―人間は、どういう生物か

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

ものぐさ精神分析 (中公文庫)

この人を見よ (新潮文庫)

この人を見よ (新潮文庫)

 他、仏教のオリジナリティを担っているという「十二支縁起」の解釈がいろいろありすぎて、意味が分からないままになっている問題を指摘した上で、著者自身の解釈を明らかにしておられます。日本仏教教団では、独身修行僧で一生を終えることは難しく、いずれは住職にならなくてはいけない・・・といった問題を指摘され、修行僧住職、一般信者の位置づけに関わる提言もされています。修業僧は、性欲をどうしているのかについて、かなり正直で赤裸々な話もして下さっています。南さんが菩提寺院代を務めておられる恐山の話もあります。すごい和尚さんだ。

 まだまだ仏教初心者の私にはよく分からない話も含めて語られていることが諸々あって、だからここで私は仏教教義解釈について云々したい気分には毛頭なれませんし、私が「何が正しい仏教か」を説くなんて滅相もないことであると自覚いたしております。しかしながら、私の関わる領域の諸問題を本書に則って私が読めたところから論じようと試み始めると、どうしても教義について自分がどう解釈したのかの露出を避けられない文脈が出来てきて、そこを恐れると今度は殆ど内容のない文章しか書けなくなってしまいます。それでは勿体無さすぎる。ただただ本書には、少なくとも私自身の世界観に変革を迫る実感を伴った、そして刺激的かと言えば刺激がありすぎるくらいインパクトのある言説がそこそこございましたので、私の偏った仏教解釈誤謬も混ざり込んでしまうであろうことを敢えてお断りさせていただいた上で、本ブログの「子育て関連」という視点において重要であると感じられた論点を、予定では(2)から(5)のエントリーに整理し、(仏教そのものではなく)本書が私にどんな示唆を与えてくれたのか?というあたりを掘り下げて参ります。

(つづく)

2012-11-05

『うしろ向きに馬に乗る』

| 17:13 | 『うしろ向きに馬に乗る』を含むブックマーク 『うしろ向きに馬に乗る』のブックマークコメント

 「プロセスワーク」とか「プロセス志向心理学」とかいうものがあって、その入門に良いと言われているらしい本です。すでに何らかの身体ワークのようなものにそれなりに慣れている方なら、深い一冊になりそうでしたが、人によってはさっぱり意味が分からないということになりそうです。私自身にしてみれば、これを読んだくらいでプロセスワークを分かった気になってはいけないと思いましたが、これは間違いなくすごいことが書かれている本であります。これを知らずに死ぬのはもったいないでしょう。

 私がミンデルさんを読もうと思った動機は、ヘリンガーさんの時と似たようなもので、プロセスワークが個人の問題解決にとどまらず、集団を対象とする「グループワーク」やら「ワールドワーク」なる方法を持っていることに興味を抱いたからです。だってもう、今となっては、楽しく生きる力環境に恵まれた人ならばともかく、もし、成り行きで苦しい人生袋小路に迷い込んでしまったのなら、いくら個人の問題だけに取り組み続けていても、キリがないでしょう?

 個人が元気になっても、すぐ社会世間)に打ちのめされてしまう。それで、そんなに簡単に社会が変わるものでもないから、元気でいつづけるために、なんとなくそんな社会とは関わらないように(少なくとも、深入りしないように)するパターンがあるのだけれど、それでは決して元気じゃないんじゃないかと自分で思い始める場合もあるわけで、それを元気にうっかり派手にやってしまうとカルト化するなどということもあるかもしれないです。ほどよい路線として、吉田兼好みたいな隠遁生活を肯定的に目指そうという個人が出現していても、とっくにおかしくなくなってきている気がしますが、ここのところ、そんなものも含む「無縁」というものを肯定的に捉える立場で積極的な主張がなされたといえば、島田裕巳さんと中沢新一さんと池田信夫さんくらいのものでしょう。せいぜい、世間が形成されない程度に、リアルもしくはネットを通じて気の合う誰かとちょっとだけ(ひょっとしたらたくさんも可能かもしれないですけど)繋がろうと画策するくらいの隠遁加減(?)であれば、元気も出るかもしれません。まあ、本物の隠遁生活をやっておられる方が、社会世間)に向けて立場を表明するなんてことがあったら矛盾してしまうわけで、だからこれはみんなが知らないだけで、どこかですでに実践している方がおられるかもしれないです。でも、こういったやり方じゃ、一般のサラリーマンなどを今後も続けていきたい方たちにとっては、ありえない話にしかなりません。

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

人はひとりで死ぬ 「無縁社会」を生きるために (NHK出版新書)

人はひとりで死ぬ 「無縁社会」を生きるために (NHK出版新書)

大阪アースダイバー

大阪アースダイバー

 そこでやっぱり、世間の中にあっても「人の目に惑わされるな、自分自身に従うんだ」などと心底思えるようになって、建設的になんとか社会適応し、自己実現を果たすなどという“個人の問題解決”といった路線ぐらいしか頼るものはなくなってくるわけですが、小沢牧子さんあたりを読めば分かるように、個人単位で問題を立ててばかりいると、社会とか組織のレベルでは問題を改善する必要がどんどんなくなってくるため、むしろ、心理療法などというものが、単なる社会制度(あるいは世間)を維持させるための道具に堕している可能性だってあるわけです。だから、これらを乗り越えていく必要がある。グループワークやワールドワークは、その突破口になるかもしれないと、私はそこらあたりの勉強も始めてみようと思い立ったのでした。

「心の専門家」はいらない (新書y)

「心の専門家」はいらない (新書y)

 本書では、私の知りたいその集団や組織に関するあたりのことは、終わりの方になって、「エサレン研究所とのワーク」という章でようやく触れだしてくれたくらいのことでした。まあ、それにしても組織的には相当な修羅場と化しているエサレン研究所が、ワークを通して統合されていく様が描かれていて、私がいままで通ってきた職場のいくつかのうち、あの職場にもこの職場にもこんなことが起こるのであったら、もっと楽しい職場になっただろうに(もちろん、もともと楽しい職場もたくさんありましたよ(汗))・・・などと思わずにはいられない記録でありました。しかしながら、グループワークやワールドワークを知るには、まだまだ、この程度の情報では不十分でしょう。本書はあくまで入門書という位置づけで、いずれ読むであろうミンデルさんの『紛争の心理学』に行き着くステップとして、ひいては、プロセスワークセッションを受けてみたり、セミナーに参加してみたりするところまでに行き着くステップとして、プロセスワークの全体像を掴むために、私は読んだのでありました。

 いやいや、それにしても、ここから読んでよかったと思いました。とても刺激的な、世界観がどんどん更新されていくような話が満載の本でした。

 私の解釈では、「エッジ」と「チャンネル」という概念を理解することから、いろんなワークの展開のヴァリエーションが広がり、プロセスを楽しむことが始まるようです。あー、これ、間違ってはいないとは思うんですけれど、こういうところを真っ先に強調して取っ付き易くするのは、教育療育子育て業界に、とってもありがちな啓蒙の仕方で、真髄に及ぶことなく表面的にしか言い表すことが出来ていない、いい加減な話かもしれませんから、ちゃんとお分かりになられたいみなさんは、是非、本書をちゃんとお読みになられることをお薦めいたします。

 そんなわけで、“全てを言い尽くせない”・・・ということを前提に続きを。「エッジ」って、つまり、新しい自分に変わっていこうというときに、ここをこれ以上、越えないように抵抗してしまう境界・・・といったところでしょうか。これ、特別な人にしかないということではなく、誰にでもあるもので、実際に、この概念で捉えられる現象は、自分も含めて身の回りで頻繁に起きています。とても役に立つ概念です。気を付けていなければ分からないですけれど。

 あれ?これって、どこかで聞いた話ではないですか?・・・そう、『幸福否定の構造』の「抵抗」ですよ。ミンデルさんによれば、エッジの手前にくると、病気の症状が現れるといいます。病気というものは、エッジを越える手前にずっといるからなってしまうというのです。要するに、今の自分を越えようとする欲求と越えたくない欲求とがぶつかり合って、身体上に症状を惹き起こすと解釈されるようです。「病は気から」と言うけれども、あれはこういう話だったかもしれないです。それで、逆に自分の今抱えている症状を入り口にして自分を注意深く観察していくと、気付いていなかった自分がなろうとしている自分が意識にのぼり、その欲求と自己一致することができれば、その症状はもうサインを出す必要がなくなるため、消失するという・・・常識からすると、嘘みたいな話ですが、「信じられない」という前に、この本に書かれているワークを試してみて損はないでしょう。しかし、こういうのってワークを体験する人にも向き不向きがあると思うので、「どうやっても、何も起きない」という人は、とりあえずは、プロセスワークがあなたには役に立たないということでしょうから、残念。

 あー、あと、エッジにくると眠くなることもあるようです。瞑想中に眠ってしまうことありますね。きっとエッジを越えかけていたんですよ。会議中に眠くなったら、そこに自分のエッジがあると勘繰ることもできます。ただの睡眠不足かもしれませんが。あと、相談中に、眠気を訴えられることがあります。深刻な相談をしている人が眠いわけはないんですけれど、その理由が分かりました。ついでに言えば、眠気についても「幸福否定」のため出現する「抵抗」と同じではないかと思うわけです。

 さて、そのエッジを越えて自己一致するための方策として、「チャンネル」という考え方が役に立つわけです。本書では、「聴覚チャンネル」「視覚チャンネル」「身体感覚チャンネル」「動作チャンネル」がよく出てきます。まあ、読んでいるうちに覚えちゃいますので、詳しくは本書をどうぞ。それで例えば、ミンデルさんは、「身体に問題を持つことは夢を見るようなもの」と仰っていて、まあ、夢は見るものだから「視覚チャンネル」なわけだけれども、その視覚チャンネルをプロセスしていたらエッジになって、そこでよりエッジを越えやすい道を探し始めて、その夢に出てきている人がなんて言っているか?などというあたりをプロセスし始めると「聴覚チャンネル」、その夢につながったそもそもの身体症状の苦しい感じを味わいプロセスしつづけたら「身体チャンネル」、その夢の登場人物がやっている動作を忠実に再現しようとプロセスし始めたら「動作チャンネル」・・・という具合に、違うチャンネルに入って、自分の感じているものを増幅させながら自己一致し、気付きにいたるようにプロセスしていくわけです。場合によっては、ここにエッジがある・・・と気付いたところでワークを終了した方がいいこともあるようです。むやみとエッジを越えるのは危険なので、できるだけやんわりとやっていくことを薦めているみたいですね。

 本書を読んでいるうちに、日常のいたるところ、あらゆる瞬間に、自分の抱えている問題を解決する糸口が顔を出していることが分かってきます。逆に言えば、今、この瞬間においても、自分の姿勢や所作のひとつひとつや話している言葉は、まだ気付けていない自分自身の将来の姿を見出す入り口になっているということなわけです。これは、驚異的な事実です。しかしながら、「自覚」がないと、何も起きません。「自覚」をもって、次々に進展していく事態を自然に流れるままに「観察」し、プロセスしつづければ、大きな気付きに至るのですが、エッジがあるので、なかなかこれが難しいことになってしまうのです。しかし、エッジを越えられなければ、同じ問題は何度も何度も繰り返し現れるそうなので、チャンスは何度でもあります。でも、通常、自覚されないままに、同じ問題が何度も起こり続けることになるのでしょう。

 自分内面に抱えている葛藤を、不思議なことに、なぜかまわりの人が現実にやってみせてしまうという「ドリームアップ」という現象があるそうです。自分が逆に、相手の葛藤をドリームアップしていることもあるということでしょう。そういえば、仕事で、今日相談はほとんど同じテーマばかりだった・・・ということがあります。電話相談を受けてみると、一日、なぜか同じテーマ相談ばかりになることがある・・・という話も聞いたことがあります。つまり、相談を受ける人の方が、自分の葛藤を解決しておかないと、来談者が巻き込まれてしまうということになるわけです。それで、早いうちに「自覚」をして、プロセスすればいいんですけれど、これに延々気付かないでいると、ちょっとまずいわけですよね。

 しかしながら、「同じ問題は何度も繰り返す」とか「ドリーム・アップ」について、「それは、あってはならないことだ」などと言い切ってしまっていいのかどうか?・・・ということになると、やっぱりミンデルさんは、方法論を言っているだけで、これは良いことであれは悪いことだ・・・といった価値観を示しているわけではないと、そういうことでいいのでしょう。しかも、「エッジは、越えなくてはならない」とは言っていないのは確かで、エッジを越えるかどうかは、本人が決めることらしい・・・と、本書で十分、読み取れます。一貫して、優しいのだと思います。

 ミンデルさんに倣えば、成長とは、“自分の今までの誤った考え方を捨てて、正しい考え方に改めていく”ことではなく、“今までの自分と新しい自分が「統合」されていく”ということになるでしょう。この「統合」という発想が、私が本書から得られた、最大の収穫でした。今までの自分は捨てなくていいのです。今までの自分は間違っていないのです。そして、相談する者が相談される者を統合するだけでなく、相談される者も相談する者を統合するという次元があり得るのです。これなら、「上から目線」のスタイルから脱却できます。そして、ゆくゆくは、自分世界中のあらゆる人や考え方を統合していき、世界のすべてと一体となるところを目指して、成長していけばいいわけです。こんなに優しいスタイルが、あったとは!!ただ、どうすれば相矛盾する2つのアイデンティティ統合することができるのか、その都度、見つけ出していかなくてはなりません。そのひらめきに至るために、その2つのアイデンティティを十分に増幅し、お互いの言い分が十分に出揃っていくその流れを、自覚を持ってプロセスしていくという方法があるというわけなのです。

 ミンデルさんは、自身がやっているのは、「アート」に近いと仰っています。心理学より「アート」と言う方がしっくりくるのだそうです。そういえば、「癒されること」や「弛緩すること」と、「生きること」は、そもそも別物だったのです。そして、なにより生きてナンボではないですか。心理学より「アート」したいではないですか。病気は癒されるもので、緊張は弛緩されるものであると考えられがちだけれども、どちらも大事自分人生の一部であると考える方が優しいわけで、そこからなんらかの表現されるものや希求されるものが現れてくるのなら、その入り口をあっさりなくしてしまうのはもったいないプロセスワークが明らかにしたのは、こうした一見ネガティブなものに逆らわずに従ってみるというやり方で、自分人生が思いも寄らないより楽しいものになるということなのでしょう。そして、その入り口はあらゆる人生の瞬間で、誰もが見向きもしないような些細なところに転がっている。『うしろ向きに馬に乗る』というのは、そういうことのメタファーなわけです。本書が読めたら、そういう感じがよく分かってきます。


 さて、ここからは長いオマケ。もうひとつ、私には今のところ、どうしても整理し切れないのですけれども、読後にこれは重要だと気付き、独自に思索を巡らせてみたことがあるので、書いておきます。

 「エッジ」と「(幸福否定の)抵抗」は、問題意識や視点が全く違うところから出てきた概念なので、解釈対処の仕方などをひっくるめて同じだとは決して言えないものですが、既述の通り、指している現象としてはかなり重なっているはずであると私は思うわけです。そしてさらに、これはとんでもない発想であるかもしれませんが、禅の「魔境」なるものも、「エッジ」や「抵抗」と重なる概念ではないのか?・・・と、とにかく、そんなことがひらめきました。まあ、本書に、プロセスワークが禅からも影響を受けていることが述べられていたので、あながちとんでもない発想ではないかもしれないです。

 およそ何事をなす上にも、これを邪魔するところの魔事・魔障というものがあるものであるが、参禅上にも内魔・外魔など(内心の妄想と外界の誘惑)沢山の魔障があって、いろいろ修行の邪魔をするものである。

 その内魔にも種々あるけれども、今は煩悩魔だけを挙げて注意をうながすこととする。

 その煩悩魔とは、千差無量の妨げをするところの心の上の魔である。例えば、いろいろの屁理屈を考え出して坐禅をやめようとしたり、また坐禅が進むにつれて種々珍しい感想や境界が現われてくると、それに心酔して修行がにぶったり、あるいはまたさまざまの幻覚が現われると、それを実在であるかと誤認して怖れたり、喜んだりするような類である。

 外魔とは、自分病気をするとか、用事が多くて修行の暇がなくなるとか、他人が修行を妨げるとかいう類である。

 誰しもこの魔境には苦しめられるが、これに負けてしまっては徹底した修行はとうていできるものではない。だから真剣に参禅する人は是非ともこの魔境に打ち克って、勇敢に修行を続行しなければならないのである。

 〈中略)

 坐禅を熱心に実行していると、種々雑多なる変った気特が起る。今まで気にかけなかったような小さいことに心がとらわれて、腹が立ったり、立たなかったり、またこれまで気になったことが気にならなくなったり、それから、事実ないものが見えたり、音が聞えたり、戸障子があるのに外が見えたり等々、人によってまちまちではあるが、ずいぶんさまざまの変ったことがあるものである。この中、一番多いのは、眼に種々のものが見えるところの魔境である。接心会などになると、熱心な人は二、三日も坐ると、もういろいろな魔境が出てくる。これらの魔境というものは、現代心理学言葉を借りていうと、ようするに、幻覚作用である。

 なぜこういうものが見えるかというわけは、いちおうの道理は夢を見るのと同じ道理で、既往に於ける経験(たびたびいうとおり一度経験したことは潜在意識に明らかに印象して、永久に絶対無くならない)が半睡状態までおちいった時に出てきて立ち働く、これが夢である。さて、この夢というものは眼の睡めている時は見ないし、また熟睡の時にも見ない、半睡状態の時に限り見るのである。魔境もまたまたしかりであって、禅定の力によって前六識、すなわち顕在意識の分別妄想の突端がおさまると、そこに第七識、すなわち潜在意識が幻覚作用を起して出てくるのである。かような性質のものであるから、それに決して心を奪われないよう、また邪魔にしないよう、相手にもならぬよう、用心することが絶対に肝要なのである。

  引用元:『正しい坐禅の心得』 原田祖岳著(大蔵出版pp.91-93

正しい坐禅の心得

正しい坐禅の心得

 「エッジ」も「魔境」も、それぞれ言い表せる範囲が完全に重なり合うわけではない概念であるように感じますが、「夢を見るのと同じ道理」とまで言ってしまえば、かなりこの2つはダブってきます。ところがです、ここからがよく分からなくなってくるわけですが、例えば次のようなエピソードの場合・・・

 ・・・接心中開枕後、例によって山門前の勅使岩という岩石の上で坐禅をはじめた。その後ろには夜目にも雲突くような杉の大樹が四、五本そびえている。時は真夜中の一時ごろだ、一生懸命工夫三昧である。と、その大樹の上から突然、ハハハ・・・・・・と恐ろしく大きな朗かな声で笑うものがある。正法盛んならば魔も盛んなりというて、こうしたことはこの道場修行する者のしばしば経験することで、天狗というものだときいていたが、その天狗はどうやら後ろの杉の樹の上にいるらしい。だが熱心に打成一片に坐るばかりだ。平気で坐っていた。十分間も過ぎると大鉈で五、六度トントンと木を切る音をさせる。また十分間も過ぎると切る音をさせる、が依然として、こちらは坐禅三昧だ。ところが、今度は頭の上でストンストンと大鉈で樹を切る音がしはじめた。しかし、相変わらずこちらはなんともない、相手にしない。ストンストンはますます続く、しかも烈しくなってきた。そうこうするうちに「この野郎!」という気になってきた。おれの成道を邪魔する気かと怒鳴ってやった。そのうちにうす気味悪くなってきて、とうとう蒲団を持って帰って来てしまった。完全に敗北だ。

 これは、この野郎と思った時に、もう魔境につかまってしまったのであった。(中略)ところがそれを眺めたり、相手になったりして、道草を食っていればたちまちお休みとなって、九仞の功を一簀に欠くことになってしまう。なんとも口惜しいではないか。

 正法の佛法のみが、かくのごとく教え、かくのごとく本当の正定に入らしめるのであって、日蓮宗弘法大師真言宗などでは、この魔境を盛んに方便として用いている。方便として使う場合には、方便と知って用いるならば悪くはないが、第二流、第三流の末輩どもがそれのみを振りまわして騒ぐから、全く外道におちいっているような実状である。

  引用元:同前 pp.96-98

・・・と、これがプロセスワークだったら、「天狗がどんな声なのかをもっとはっきりイメージしてみよう」とか、「天狗が大鉈で木を切る動作をやってみよう」とか、「あなたは天狗に何と言ってやりたいか、その続きをやってみませんか」などと、天狗の相手をとことんやり尽くそうとするのではないかと思われるわけです。正に「うしろ向きに馬に乗る」っすね!(笑)

 そういうことで、このような同じ現象に対するアプローチの違いがなぜ生じるのか?という問題の存在に、ここで当然気付いてくるわけですが、まずもって、今の私に答え切る腕力はございません、残念ながら。

 しかしながら、いろいろ考えてみたことを書かせていただくと、そもそもが、坐禅は「悟り」というなんだか説明のしようのない状態に至る方法であるのに対し、プロセスワーク自分の「欲求」に自己一致していく、いわば現世利益のための方法であると思われ、だったら両者は目標として目指しているものが違うのは明らかなわけで、それなら当然、アプローチも違うだろうと考えることができそうです。

 これはなかなか説得力のある説明を考えた・・・と、自分でも思ってしまいましたが、そこまで言っておきながら、元も子もないことに、もっと細かく検証してみようとすると、果たして、本当にプロセスワークと禅は、違うアプローチをしているのか?というそもそもの前提における疑いが、捨て難く、出てきてしまいました。

 例えば、先の引用での、魔境に対しては「心を奪われないよう、また邪魔にしないよう、相手にもならぬよう、用心すること」という言い方が、厳格にはいったいどの程度のバランスを指しているのかをあまり明らかに示さない感じになっていて(まあ、それでいいのだと思いますが)、場合によってはプロセスワークくらいの魔境への関わりをした方が、魔境を早く乗り越えやすいということはあるのかもしれないです。プロセスワークですっきりしたところで、坐禅を再開するとか?・・・って、これでは矛盾するような気がしないでもないですけれど。魔境に出会ってプロセスするために坐禅するのか、坐禅修行を進めるためにプロセスワークで魔境を乗り越えるのか?・・・訳が分からなくなりそうです。「日蓮宗弘法大師真言宗などでは、この魔境を盛んに方便として用いている」とも、引用にありましたが、これらの宗派が具体的にどんな方法を用いていて、そして、禅との対立点はどこなのか、興味が湧いてくるところであります。

 そんなことで、この問題の近辺には、宝がざくざく眠っている予感がします。私といたしましては、禅やプロセスワークについて、もっと研究して、ここのところをもっと詳しく論じることのできる腕力を付けて参りたいものでございます。あっ、これ、私の二次プロセス(私がなりたい新しいアイデンティティ)っすね!ふむふむ、ここで書くのをやめるということは、ここにエッジがあるということでしょうか〈笑)。