Hatena::ブログ(Diary)

Poetisme nocturne

2017-02-21 このエントリーを含むブックマーク

ラリー・コリエルが亡くなった


はじめて観たのは、30数年前、五反田の簡易保険ホールでのことだった。

友人がどういうわけかタダ券をもっていて、それにお呼ばれしたかっこうだった。


開演時間が迫っても広いホールの客席は、どうしたのだろうというくらいガラガラだった。


ラリー・コリエルは夜で、たしか昼間も別のコンサートがあったはず。

友人は昼からそれもみていたが、そのうちに気分が悪くなったという。


こちらが到着した頃には明らかに具合が悪そうで、夜のコンサートのあいだはロビーの、トイレの近くで過ごしていた。

多少気にはなったけれど、本人も大丈夫というので、こちらは客席でコンサートが始まるのを待っていた。


その頃ラリー・コリエルはギター1本でオーケストラ曲を演奏するというようなことを試みていた。

その日の演目はストラヴィンスキイの「火の鳥」だった。

ギター1本で「火の鳥」。


結局、客席は埋まらず、コリエルがギターケースをもってステージにあらわれたときは、なんだか申し訳ないような、いたたまれないような妙な気分になったのを覚えている。


たしかギターはオベーションだった。

チューニングをしながら、客席がまばらなことについて、たしか冗談か何かをいっていたと思う。


演奏をはじめると、ガラガラの客席にギターの音が静かに鳴り響いた。

PAがあったのかどうかは覚えていない。

記憶にあるのはアコースティック・ギターの生音。


当時は有名なラリー・コリエルがみられれば、とりあえずよくて、正直なところ、この試みがいまひとつピンときていなかった。


でも、客席はガラガラなのにすごくていねいに演奏している姿がとても印象に残った。

その日からラリー・コリエルは自分にとっては特別なギタリストになった。


演奏が終わると、大きな音がするようにできるだけ強く拍手をした。


グロッキー状態の友人はちゃんとアパートの部屋まで送り届けてあげたので、義理は果たしたと思う。

病院に行くようにといったところ、翌日になって、きのうが嘘のようにすっきりしていると電話をかけてきたっけ。


いまラリー・コリエルの「火の鳥」を調べてみたけれど、どうもCDは入手困難のようだ……。

また聴いてみたい。


そのラリー・コリエルが亡くなったことを今日ネットニュースで知った。

なんだかとても残念な気がする。


どうぞ安らかにお眠りください。

2017-01-01 このエントリーを含むブックマーク

旧年中はたいへんお世話になりました。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

2016-12-27 このエントリーを含むブックマーク

黒坂圭太監督最新作品『マチェーリカ/MATIERICA』(2016)

今日、黒坂圭太監督の最新作品『マチェーリカ/MATIERICA』の関係者試写会があり、とくに関係者というわけではなかったが特別に参加させていただいてきた。

何かとんでもないものを観た/観せられた、というのがエンドクレジットが終わって最初に思ったことだった。ひとことでいうなら抽象映画、抽象アニメーションということになるだろうが、これまでに創られた作品のどれにも似ていない。

あえていうならジョーダン・ベルソンあたりを思い起こさせるような、自然(たとえば大地、大気といったもの想像していただきたい)の生成変化を視覚化・映像化したものと表現できないこともないが、決定的に違っているのは、少なくとも視覚的な側面については鉛筆によって描かれたドローイングにすべてがもとづいているという点だ(黒坂監督は以前、鉛筆が自分にとっての「カメラ」だといったことがある)。

そういう意味では DIR EN GREY のミュージックヴィデオ『輪郭』(2012)の後半部、よりわかりやすいかたちでは『陽気な風景たち』(2015)に直接連なるものだといえるだろうか。実際にこの作品とともに現出しているのも、文字通りの意味でも比喩的な意味でも「風景」と呼べるだろう。いずれにしても、『緑子/MIDORI‐KO』(2010)がひとつの完成形となるドローイング・アニメーションの形態から解き放たれるようにして、あるいは逃れるようにして黒坂監督が新たな領野に踏み込んでいっていることは疑いを容れない。

いや、それだけではない。黒坂監督にとって新しい段階というだけでなく、映像/アニメーション作品の形式、あり方としても新しいものが創り出されてしまっているのではないだろうか。たぶん観る者を選ぶところがあるだろうし、さまざまな意見が出されるだろう(個人的には批評評論に、あるいは映像研究に携わる者がこれをどう評価するかという点がいまからたいへん興味深い)。しかし、新機軸を打ち出す作品にとってそれは宿命のようなものだし、この映画にとってはむしろそのこと自体がひとつの勲章となるにちがいない。

この作品についてもうひとつ注目しなければならないのは、鈴木治行氏の音楽が果たしている役割の大きさで、これなくしては『マチェーリカ/MATIERICA』は成立しえなかったのではないかとさえ思えるほどだ。「映像と音楽のコラボレーション」とはよくいわれる謳い文句のひとつだが、たんにそこで両者が同居しているだけで、共同作業シナジーが実現されていない作品も少なくない。

だが、この作品についてはこの表現を使わざるをえない。あえて分けるならそれぞれ視覚的側面と聴覚的側面を担っている映像と音楽(むしろ「音響」と呼ぶべきか)が、ここでは一方が他方に従属するのではなく、それぞれみずからを主張しながら、結果として『マチェーリカ/MATIERICA』と呼ばれるものを創りあげており、観ていると、それを目撃する場として作品が存在しているようにも思えてくる。そのスリリングな共感覚協働は類い稀な経験をもたらしてくれるにちがいない。

ところで、タイトルの「マチェーリカ」とは、黒坂監督の作品コンセプトにおいては主人公少女のことで、この作品は彼女が「覚醒」、「思考停止」、「自己崩壊」、「復活」という4つのステージをへて「変貌」していく「物語」として構想されている。しかしながら、前述のとおり、これは抽象映画であり、それゆえにマチェーリカはいわゆる人物として描かれるわけではない。彼女は「カオスな空間を彷徨う一筋の“筆跡”」であり、その変貌を、鉛筆という「カメラ」をとおして黒坂監督は凝視し、映し出していくのだ。

こうした作品コンセプトがどう実現されてるのかを検証していくのもひとつの見方となるだろうし、はじめから無視してしまうのも、作品との向き合い方としてまったくまちがってはいない。それをどう受け取るにせよ、黒坂圭太がまたしても「とんでもない」作品をつくってしまったという事実だけはかわることがない。

2016-12-25 このエントリーを含むブックマーク

11月の終わりからから今日までほぼひと月のあいだ、右の手の甲の感覚が麻痺している。

目覚めたとき手がしびれていていても、ほうっておけば知らないあいだに治ってしまものだ。ところが、一向に改善せず、その状態が数日つづいたら……、さすがにヤバいと思うだろう。

だから、まずは近くの小さな病院で診てもらい、その後そこで紹介された、遠くの大きな病院で精密検査MRI検査)まで受けてきた。


結論からいうと大事に至ることはなさそうだし、そもそも自分身体の具合についてこんなかたちで報告するつもりもなかった。

だが、医者の話によれば、誰でも簡単に同様の状態になりうるらしい。

もしそうなら、情報としてお知らせしておいても悪くないのではないか──とくに何かをつくったり、楽器を演奏したりと、手の機能仕事に直結するような方にとっては役立つのではないか──と思い、これを書いておくことにした。


まず症状はといえば、右の手の甲、親指の爪の下から指の付け根にかけてと、人差し指と中指の第2関節から手首にかけてのあたりの感覚がなくなっている(てのひらは問題ない)。

その一方で、手や腕に力を入れたり、動かしたりすることはまったく問題なくできる。つまり、よくいうところの日常生活には支障がない。

これが1ヶ月近くつづいている。


こういう状態をふつう「しびれ(痺れ)」と呼ぶようだが、これは幅のある言葉のようで、ビリビリ、ジンジン、ピリピリ、ジーンとするあの感じから、感覚がなくなっている状態までふくんでいる。慣れない正座を長時間したときの足(脚)のしびれを思い出してもらえれば、どういうことかはおわかりいただけるだろう。

わたしの手の甲の場合は、前者がまったくないとはいえないが、基本的には後者のほうで、感覚の麻痺というほうが正しいように思える。


さて、最初に行った小さな病院では、診察の詳細は省くが、

・頸椎椎間板ヘルニア

を疑われた。要するに、神経のつけ根、首に問題があるのではないかということだ。

ただし、もしそうなら首に痛みがあるはずだが、それはまったくない。さしあたり、

・末梢神経の回復を促すビタミン剤を2週間服用し、

・首の牽引をする

ということになった。


牽引をすると、右の肩から肘にかけて何か効果があるようにも思えるが、2週間経っても症状が改善することはなかった。先生からは大きな病院で検査をするように勧められ、紹介状を書いてもらった。


大きな病院には2回行った。

初日に症状とこれまでの経緯を話すと、先生は(首のことはほとんどまったく気にかけず)手と腕の状態をあれこれ調べはじめた。

とくに右の二の腕の側面(外側の筋肉のあたり)を押したり、軽く叩くようにしたりしながら、どうかと何度かたずねられた。前腕部の、手首の関節から数センチあたりのところも同じように調べられた。こちらとしては違和感もなければ、麻痺している部分に何か関係があるとも思えなかった。

その後の問診では腕が圧迫されるようなことがあったかどうかについて訊かれたが、とくに思い当たることはなかった。


先生の診断では、

・橈骨(とうこつ)神経麻痺

可能性があるということだった。

この症状は「ハネムーン症候群」と呼ばれることもあるという

・腕枕をしたまま眠ってしまうとなることがある

かららしい。なんでも

・二の腕を3時間程度圧迫するだけでなるとのことだ。

ほかに原因の可能性があるとすれば、上腕部の手首の近くのところの圧迫などだという。

上記の診察はこうしたことを確かめるためだった。


だが、もし橈骨神経麻痺なら、ふつうは

運動機能も知覚機能も麻痺してしまい、手が力なくだらりとしてしまうという。

ところが、こちらは知覚神経は麻痺していても、運動神経はほとんどまったく支障がなく、どうも症状として「不思議」なものに思えるようだ。

いちおう日をあらためて、MRI検査もしておくことになった。


翌々日にこの精密検査と診察があった。

MRI体験はなかなかのもので、書こうと思えばいくらでも書けるが、ここでは控えておく。

(ちなみに、Twitterには「ひとことでいうなら、鉄の処女拷問器具〕状態になって、2001年宇宙の旅に出る感じだ。時間は15分ほど。「ブリキの太鼓」のオスカルがもしこれを1時間も受けたら、大きな叫び声をあげて、きっと機械を粉々にしてしまうだろうと思った」と書いておいた。今回の一連のことについて自分のために取っているメモはすでに相当な長さになっている。)


MRI検査の結果をみるかぎり、首の神経はまったく問題ないというのが先生の診断だった。つまり頸椎椎間板ヘルニアではない。

すると、橈骨神経麻痺の可能性が高いようだが、前述のとおり、もしそうならふつうは運動と知覚の両方が麻痺するのだという。

ところが、運動神経は問題なく、知覚神経のみに支障があるという「不思議」な状態にある。

しかも腕や手首に何かあったのならともかく、覚えている範囲では何もなく、また診察で何か問題が発覚したわけでもない。

先生としても、これ以上のことはわからないらしい。


病名はともかく、知覚神経は回復するのかどうか。先生がいうには、

・回復するだろうが、場合によっては1年以上の時間がかかることもある。

なんでも

・神経が回復するのは1日1ミリで、

もし二の腕に何か問題があって右手のしびれが生じているのだとすると、その距離の分だけ時間がかかる。もし手首のあたりが原因なら距離が近いので、回復するまでの日数も短くなるのだという。


あらためて3時間の腕枕程度のことでこのような(あるいはもっとひどい)状態になるのか確認したところ、あっさり「そうだ」との返事。

・寝相が悪く、腕が圧迫されるだけでもなる可能性があるらしい。

もしそうなら(自分の場合はたぶんこれ)、防ぎようがないではないかとも思ったが、それはもう口にしなかった。

いずれにしても、しばらく様子をみるということになった。進行するようなことがあったら話はべつだが、そうでなければ次回の診察は1月の下旬ということになった。


いまのところ大きく改善されているとはいいがたい。

とはいえ、ここ数日、手の甲の、手首から3センチくらいのところの感覚が若干もどってきたような気がしないでもない。このまま治ってくれればいいのだが、そうだとしても時間は相当かかりそうだ。


***


以上のとおりです。みなさんもどうぞお気をつけください。

2016-08-08 このエントリーを含むブックマーク

自分が書いた論文のいくつかが大学のリポジトリから PDF で公開されています

自分のHP仕事リストからそこへ飛べるようにリンクをはってみました。

http://d.hatena.ne.jp/wakagi/

よろしければどうぞご覧ください。


来週、広島国際アニメーションフェスティバルがはじまります。

今回は少しだけかかわっています。

あまり暑くならなければいいのですが……。