「唯識で読み解くダンマパダ」(19)〜人間として生まれたことは素晴らしいことである〜

 今回から第17、18詩句を読んでいきます。
 まず、訳を記します。

(第17詩句)
  悪を行ったものは、今世で後悔し、来世で後悔し、二世において後悔する。
 「私は悪を行った」と後悔し、悪趣におちいって、さらに一層後悔する。
 
(第18詩句)
  福を為し得たものは、今世で喜び、、来世で喜び、、二世において喜ぶ。
 「私は福を為し得た」と喜び、善趣におもむいて、さらに喜ぶ。

 この二つの詩句は、前の第15,16詩句を受けて、内容的には大体同じことを歌っています。
 すなわち、同じく「悪を行ったもの」と「福を為し得たもの」とが対となっていますが、両者が心のありようの表現が次にように相違します。、
 前の詩句との違いをまとめると次のようになります。
             (15,16詩句)     (17,18詩句)
①「悪を行ったもの」 二世において悲嘆する    二世において後悔する
②「福を為し得たもの」二世において歓喜する    二世において喜ぶ

①では、使われて動詞が前詩句では「ショーチャチ」、後詩句では「タプヤチ}で意味として「悲嘆する」と「後悔する」と、やや相違するが、いずれも否定すべき心のありようです。
②では、使われている動詞が前詩句では「モーダテー」、後詩句では「ナンダチ」で、相違しているが、いずれも「喜ぶ」という意味で、肯定すべき心のありようです。
 このように前の二詩句と、この第17,18詩句とでは、心のありようとしては、表現こそ相違しますが、同じ結果をもたらすことが説かれています。
 ただし、第17,18詩句では、「悪趣」と「善趣」という新しい概念が出てきています。
 次に、この概念について説明してみましょう。
 悪趣とはサンスクリットで「ドュルガチ」(durgati)といい、悪い行為が原因で趣き生まれる「地獄・餓鬼・畜生」という、楽がなく唯だ苦のみを受ける生存形態です。
 善趣とは「スガチ」(sugati)といい、善い行為が原因で趣き生まれる「人」と「天」という生存形態です。
 上記の短い二つ詩句では悪趣がなにか、善趣が何かが説かれていませんが、『ダンマパダ』第126詩句で次のように語られています。
 
  ある人は母胎に生まれ、悪を行ったものは地獄に堕ち、
  善趣におもむくものは天におもむき、煩悩が尽きたものは涅槃に入る。

 この詩句の中では悪趣にあたるものが地獄だけ、善趣にあたるものが、天だけしかあげられていません。そして「人」が「ある人は母胎に生まれ」と、興味を引く表現で語られています。母胎とはサンスクリットで「ガルヴァ」(garbha)といい、子宮のことですので、これはすこぶる医学的な表現ですね。
 そして「人」が善趣に含まれていませんが、『瑜伽師地論』等では「善趣とは人天を謂う」と明確に説かれています。
 ここで、人すなわち人間は、なぜ善い生存形態であるかについて一言しておきましょう。
 人間として生まれたから、釈尊の説かれた教えに出会い、修行して、最終的に悟りを得ることができるからです。地獄や餓鬼や畜生に生まれれば、それができませんね。
 これについて、いつも思い出すのが、三帰依文の冒頭の次の一文です。
  「人身受けがたし、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く。この身今生において度せずん    ば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん」
「度する」とは、苦の此岸から楽の彼岸の渡ることです。究極の悟りである無上正覚を得ることです。
「一切は皆な苦である」(一切皆苦)といわれるように、人生は苦しみの連続かもしれません。しかし、この一文から、私たちは、苦のこちら岸から、楽のむこう岸に渡ることができうる、素晴らしい存在であることを、勇気をもって心に刻み込もうではありませんか。人間として生まれたことは、素晴らしく、ありがたいことですね。
 地獄について一言。
「地獄」を使って、「地獄に生まれる」あるいは「地獄に陥る」といいます。そして地獄というと、もう想像を絶する苦しみを味わう場所であると考えますが、地獄には次の二つの意味があります。
①生きもの(有情)の生存形態
②その生きものが住む場所
 悪趣は地獄・餓鬼・畜生であるという場合の地獄は①の意味での地獄です。
①の意味でのサンスクリットはnaraka, ②は niraya です。(「天」についても、天といえば、なにか空の上にある空間的な場所を想定しますが、これも前述した①と②との二つの意味があります。①の意味でのサンスクリットはdeva 、②がsvargaです。よく天人といいますが、これは「天というひと」という意味です。)
 前に記した第126詩句にもどりましょう。この中の「煩悩が尽きたものは涅槃に入る」に注目してみます。
 よく、私たち人間を含めた生きものは生死輪廻するといわれます。生きものの形態には地獄・餓鬼・畜生・人・天の五つがあり、生きものはこの五つのありようを生まれかわり死にかわりする、すなわち五道を輪迴する、このような五つから成る世界である三界(欲界・色界・無色界)は、火で焼かれる家のごとくに煩悩という火が燃え盛っている、と説かれます。したがって天の存在でもそこには苦があり、決して目指べき究極の存在のありようではないのです。
 では究極の存在のありようとはいかなるものか。
 そこを第126詩句では、「煩悩が尽きたものは涅槃に入る」と説かれているのです。
 すなわち、三界から抜け出て涅槃に入ることが最終目的地なのです。
 この詩句の中で「煩悩」と訳した原語は「アースラヴァ」で、お粥を焚くと釜の口から吹き出してくる粥のあわを原意とし、私たちはの身から流れ出る煩悩をいいます
 涅槃とはサンスクリット語の「ニルヴァーナ」にあたるパーリ語「ニッバーナ」の音訳で「火が吹き消された」という意味です。すなわち涅槃とは煩悩という火が吹き消された境界です。
 仏教の目的を一言でいえば、生死の世界から涅槃の世界に至ることです。
 ところで「生死の世界」を唯識思想では「戯論」(けろん)といいます。戯れの語りで作られた世界という意味です。
 本当に私が認識するすべての現象は私が語る言葉によって作られたものです。「自分」も「時間」も「空間」もすべて言葉があるだけです。(このことについてはいずれブログで考えてみましょう。)
 したがって今生も来世も地獄もすべて言葉があるだけです。
 でも釈尊はこれらの言葉を『ダンマパダ』の中で、しばしば使っています。
 だから、たとえば、死後の世界があれば、それはどのような世界か、地獄はあれば恐い、などと不安がり怖れてしまいます。
 しかし、釈尊は、そのようなものが、いわば、有りてあって、実在するであると、決して説かれたのではないのです。
 釈尊智慧と慈悲を持たれた方です。釈尊の慈悲を大慈大悲といいます。そして慈悲は方便です。方便は、言葉で語ることによって、さとしいましめることです。
「今世で悪いことをしたら、来世に地獄に堕ちるぞ」と説くことは、そう説くことによって、結果として地獄に生まれることを強調するのではなくて、「今世で悪いことをする」という原因をいましめているのです。地獄も天も言葉があるだけです。
さらに考えてみます。「今」という時間も言葉が作りだしたものです。真の意味での「いま」という刹那は言葉では言えません。
 だから「今世で悪をなすな、善を行え」といっても、生活の中でそれを具体的に実践するためには、悪とか善とかという、いわゆる二分法的思考を止揚して、真の意味での「いま」になりきり、なりきって生きる以外には方法はありません。
 釈尊もこのことを『ダンマパダ』の中で説かれていますが、これについてもいずれ論じてみましょう。

今回のブログはすこし長くなりましたので、これで終わります。