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烏は歌う このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-02-09

ガチで批評を書くときに注意していること。


音楽であったり、お店(○○ログとか)のレビューであったり、ゲーム評価であったり…まあなんでもいいんですが、基本的に批評というものは

分析・比較・感想」

の3点からなるものだと思って、読んだり書いたりしています。


「分析」がなく、ただ他のものと比較されたり感想を並べられたりしても、「それがどういうものなのか」がわからない。

「比較」がないと、それが具体的にどうすごかったりどうダメだったりするのかがわかりにくい。

「感想」がないとつまらない。


もちろん、配分はレビュー対象によって、記事のスタイルによって変える必要がある。

なんか頭よさそうな批評がしたければ「分析・比較」の方を、質も量も充実させなければいけない。

好きなものをただ「好きだ!」と叫びたければ、ただただ「おもったこと」を書き綴ればいいんだ。

ただ、「好き」をだれかと共有したければ、分析や比較ができると、より他人に「自分はなにが好きなのか」が伝わりやすい。



分析


それが「何からできていて、どのように組み合わされたものなのか」という分析。


ラーメンの分析がしたければ、まずラーメンって「麺、具、スープ」からできてるよね、ってところからスタート。

その上で、「スープは出汁とタレと脂でできていて…」と何段階か掘り下げて、さらにそれぞれについて「このスープの出汁は白濁系の豚骨で、ほどよい臭みと甘みがあり…」などと詳しく見ていく。

「○○はAとBとCでできている」みたいな分析の基準、というか分析の切り口をあらかじめ決めておくと、余計なことを考えないで済むので分析が楽になりますし、同じジャンルで何度もレビューを書く場合は「評価の基準が一定している」という印象を持たれやすくて、お気に入りされる可能性が高まるかもしれない。


これはラーメンに限らず、とにかく何でも、

「部分、要素にわけて、それぞれの性格を把握しろ」

「それらがどのように組み合わされ、全体ではどのようなものになっているか把握しろ」

って話になりますね。

これは音楽に関してもしょっちゅう言っていることです。


・はじめての楽曲分析(アナリーゼ)。−烏は歌う

http://d.hatena.ne.jp/wander1985/20110823/1314110057



比較


比較には、いわゆる「縦の比較」と「横の比較」があります。

ラーメンで言ったら、比較対象が「近所の店よりボリュームが多い」とか「同系列の店より少し塩辛い」とか、そういうのが横の比較。

昔ながらの味噌ラーメンと比べると…」とか「以前の店主と比べると…」とか歴史的なやつが縦の比較。


「この作品は、どのようなジャンルの流れを汲んでいて、その中でどのような位置を占めているのか」というのは、縦と横の複合的な見方になる。

縦横両方見ないといけないので難しいけれど、だいたい「レビューを見て知りたいこと」ってこれなので、こういう視点でうまく書けると「いいね」されやすくなるかもしれない。


あと、何かを貶すために「それ持ってくる必要あった?」みたいなものを唐突に持ってきて叩く道具にするのはやめよう!炎上するぞ!

基本的に比較ってのは「何が違って、何が同じなのか」を見出すためにするものなので、優劣ありきで比較しようとする態度はちょっと危険。



感想


自分の感性に自信を持とう。

2016-12-20

「上手いだけではダメ」というあれこれについて。

過去にも何度も書いてきたけど、なんかちょっとTwitterの方で反応があったので。


あと最後に気付いたのですが、これは当然ながら「最低限の技術があった上で」の話ですね。

もし大した技術もないのに「上手いだけではダメ」と言われた場合、「いかにも私って上手いでしょうって言わせたいように見える、そういう技術の使い方や態度が鼻につく」と訳すのが適しているかと思います。



「上手いだけではダメ」なら、何が必要なのか1


「上手いだけではダメ」とは一部ではよく言われることですが、何がダメかというと、そこに「個性」がないからです。

こういうと「個性が大事とか、ゆとり教育かよ!世界に一つだけの花とか真に受けてんのかよ!」とか思われがちなので言い換えると、

代替不可能性」

とでも言うものがないと、なかなか世の中に受け入れられていくことは難しい。


「上手いだけではダメ」と言われた場合、半分程度の場合は「そのくらい上手い人ならいくらでもいるし、他に何か売りは無いのでしょうか?」という意味である。

歌でもなんでも、とにかく「こういうのやらせるなら別の人でもよくない?」「このくらいのクオリティならもっと○○できる人を選ぼう!」と思われてしまうのはなかなかに致命的である。

なので、何らかの「代替不能」な要素というか「自分ならではの個性を生かしたウリ」を持っておくのが、「上手いだけではダメ」と言われないためのポイント。


もちろん、

「俺は、世界中のどこを見ても代わりがいないくらい上手くなってやる!」

という決意をもってそのように努力するのは、それはそれで素晴らしいことだし、実際そういう人もいなくはないけれど、まずその道は競争率がめちゃくちゃ高いのであんまりおすすめはしません。

さらに、いわゆる「単なる上手さ(正確性とか超絶技巧とか)」というのは割と行き着く先が想像しやすい(ように素人には思われがちな)ので、素人には過度に安くみられてしまいがち、という損なポイントもあります。


なので、「自分ならではの個性を生かしたウリ」ってのが何なのか、ときどき考える必要があるかもしれない。

と言っても、そんな大した「人より桁外れに優れた部分」だとか「他の人にはたどりつけない境地」だとかが必要なわけでもないんです。

「優れている」とか「こういうのが好きである」というだけでなく、「欠けている」とか「こういうのが許せない」とか、そういう一見するとマイナスっぽい要素も時に芸術家として欠かせない個性になったりする。

身体的な個性であったり、経験や知識による個性であったり、個性というものは必ず人それぞれあるので、それの何をもって「表現」に乗せるのか(乗ってしまっているのか)を考えることはとても大切。

それこそ、だれもが生きてるだけで「元々特別なオンリーワン」なわけですが、それを誇りに(まではしなくてもいいかもしれないが、少なくとも隠したり卑下したりせず)、「だから私を選んで!」とまで思えるメンタルになるには訓練が必要な場合があったりもします。

まあ、もし拾い上げてくれる人がいるならば「私なんて個性も何もないです、生まれてきてすみません」みたいな卑屈メンタルもそれはそれで個性になり得ることもある(拾い上げてくれる人がいれば)。



「上手いだけではダメ」なら、何が必要なのか2


「上手いだけではダメ」と言われた場合、半分程度の場合は「そのくらい上手い人ならいくらでもいるし、他に何か売りは無いのでしょうか?」という意味である。

…では、残りの半分はどういう意味かと言うと、

「上手い(正確である、技術がある、すごい練習をしてきた…)のはわかるが、私の好みではない」「私の知っているものとは違いすぎていて、あまり受け入れられない」

という意味である。

身も蓋もない。


技術というのは「やりたいことを思い通りにやる力」なのであって、「やりたいこと(コンセプト)」が違えば違う技術が必要になってくるわけです。

「上手いだけではダメ」と言われると、「どうして私の技術の素晴らしさがわからないんだ!これだから素人は!愚民どもは!」とどうしても考えてしまいがちであるが、そりゃあ求めるものが違っていたら、わかりあうことはできないのです。


音楽なんかでも、練習や勉強を続けていけば「世界中のだれとでもわかりあえる音楽」が作れるはずだ!みたいな錯覚に陥りがちですが、そんなことはないんじゃないかなーというのはときどき思いださなきゃならない。

この前こんなツイートを見かけたのも、この記事を書くことにした理由のひとつなんですが、「私が思う良い音楽の条件、必要な技術」と「聞く人にとっての良い音楽の条件、必要な技術」が同じとは限らない(というか、全く同じ感覚の人間はいないかもしれない)のです。


例えば、音楽理論では音楽とは「リズム・メロディハーモニー」の三大要素があって、それがどういう単位でどういう構造でループしているかを読み解くことで音楽が理解できる…ということになっていますが、これ(汎)音楽理論ではなく(西洋伝統)音楽理論であって、そういう分析の利かない音楽なんて世界中に山ほどあるわけです。

あとは、「協和音気持ちよくて、不協和音は気持ち悪い」とか、「ハ長調がもっとも落ち着く曲調で、フラットやシャープが増えるほど異質な感じの曲調になる」とか、そういう「本能的な感覚なんじゃないか?」と思うような部分も結構な割合が「文化」というか「慣れ」の範疇に入るそうでして。

そういう感覚のズレを無視して、「私の磨きぬいた技術が通用しないなんて!?」なんて思ってしまってはお互いのためにならないわけです。


「正確な音程」とかよく言うけど、それはあくまで(西洋クラシック音楽の文脈に於いて)「正確な音程」だったりするわけで、西洋クラシック音楽の文脈に詳しくない人からすればちょっと理解されないことも多い。


卑近な例で言えば、私はそこそこ人前でよく喋る職業に就いているのですが、「コンディショニングが上手くいった、会心の声」よりも、「前日に酒を飲みすぎてガラガラになっちゃった、個人的には最悪の声」の方を「味があっていね!実に感情が動かされたよ!」と言われたりしています。

合唱の話でいったら、一般的な人にとっての合唱経験って「クラス合唱」なわけで、「寸分の狂いもないアマチュア合唱団の至高のハーモニー」なんかより「そこらのアイドルグループの音程もリズムもブレッブレの合唱もどき」の方を「こっちの方があったかくて好き!懐かしい感じがする!」みたいに言われちゃうのもよくある話でして。


努力を否定するわけではないけれど、「ある分野に入れ込むと、絶対に世間と感覚はずれてくる」ということは忘れないでいたいところ。


「現地の人」に理解されるには、とにかく「現地の流儀」を学ぶことが何より大事なわけで、よく「過去に大ヒットした音源をよくよく聞き込め!」「(そのジャンルでよく演奏される)スタンダード、ルーツミュージックを大事にしろ!」と言われるのはこのせいです。

そのスタンダードナンバーがそのジャンルに馴染んでいる人の「良し悪しの基準」を作っているわけで、人類の良し悪しの基準に合致したからスタンダードになったわけではないんだなあ。

聞き込んだスタンダードが「血肉になる」とはよく言うけれど、同じ血肉を共有してないと、なかなか素直に「上手い!」とは評価できない。



言わせときゃいい


などなど書いてきましたが、評論する側に「上手いだけではダメ」という権利があるならば、評論される側にだって「開き直る」権利があるわけです。

「上手いだけではダメ」と選ぶ権利が相手にあるのなら、こっちにだって客を選ぶ権利はある。

まして、ある程度世間の評価を確保しないといけないプロではなく、好きでやってるアマチュアの立場なら「こっちがこうやりたいんだから、こうやってるんだ」で突っぱねたっていいわけです。


その上で、「ああ、でも言われてみれば私にはこういう視点が欠けていたな…」「私にはこういう顔も望まれていたのか…」と思って新たなジャンルを開拓するもよし、「お前ら素人に本当の○○を聞かせてやる!教育してやる!」という感じで敢えて今の路線のまま新世界に突っ込んでみるもよし、「そうですか、あなたとは趣味が合いませんね、ご縁がなかったということで…」と完全無視を決め込むもよし。

好きにすればいいんですよ。

2016-11-15

共鳴腔の「長さ」と「広さ」。


いろいろと思うところあってしばらくブログを寝かせてみたけど、これと言って自分の中で何かが変わる気配がないので再開。

これといって深刻な何かがあったわけじゃなく、ただの気まぐれさ。



共鳴腔に関する基本


最近ずっと書いていることのなのですが、

「思い通りの声を出すには、共鳴腔を思い通りの形にすることが必要」

なわけです。


・共鳴に関するイントロダクション。


共鳴腔を広くしたり狭くしたり、長くしたり短くしたりすることで、共鳴の様子を変えることによって、

「高音域や低音域を響かせやすくしたり」

「声の印象を変えたり」

することができます。



共鳴腔に関する基本2


で、その「共鳴の様子を変える」というのはどうやったらできるかというと、共鳴腔の「長さ」を変えるか、共鳴腔の「広さ」を変えるか、という2つが主な方法になってきます。


共鳴腔の「長さ」とは声帯が収まっている喉頭から、声の出口である唇の先端まで距離ということになりますね。

喉頭(のどぼとけ)を下げ、唇を突き出すようにしたときには共鳴腔の「長さ」は最大となります。

逆に、喉頭を上げて唇を引くように口を開けば、共鳴腔の「長さ」は最小となります。


共鳴腔の「広さ」は、概ね3つに分けることができて、

喉頭腔の広さ…喉頭を下げるほど広がり、上げるほど狭まる

咽頭腔の広さ…基本的に「力を抜く」と広がり、「何かを飲み込むような力」が入ると狭まる

口腔の広さ…下あごを下すと広がり、上げると狭まる。また、舌の位置によっても広さが変わる

という感じになっています。


過去記事だとこの記事の一番下の雑な図参照。

・雑な図で見る「喉」の仕組みの話



共鳴腔のコントロール


で、共鳴腔をコントロールする上で大切なのは、

「ほどよく変化させる」

ことになります。

共鳴腔をできるだけ変化させないように発声すると、音域によって「音量」や「出しやすさ」が大きく変わってしまって、「声楽的に使い物にならない音域」というのが広くなってしまいます。

また、「母音の変化」は必ず「共鳴腔の変化」を伴いますので、共鳴腔をほどよく変化させないと、「滑舌が悪い」「言葉にならない」という状態になってしまいがちです。

かといって、変化をつけれるだけつければそれでよいかというとそうでもなく、共鳴腔の変化の「つけ過ぎ」は、「声が一音一音、別人みたいに分離しちゃって気持ち悪い、逆に聞きづらい」という状態につながってしまいます。


なので、「ほどよい変化」を探っていくのが大切なのですが、そのために比較的楽なやり方が、

共鳴腔の「長さ」はあまり変化させず、共鳴腔の「広さ」(主に「口腔」だけを)を変化させる

という方法になるかと思います。

一般的な楽器は「共鳴管の太さは変えられないので、共鳴管の長さを伸び縮みさせて共鳴を変化させる」ってのがほとんどだと思いますが、人間の場合は逆になってしまいますね。


共鳴腔の「長さ」、つまり「喉頭をどのくらいの高さにするか」と「唇の先をどれくらい前に出すか」をあまり変えないで、

共鳴腔の「広さ」、つまり「口腔内をどのくらい開けるか」と「舌の位置を動かして母音をどうするか」を変える

というやり方が基本になります。


こうすることで、

「長さ」の方を変えないことで、声にほどよい統一感が出やすい

口腔内の広さはどうせ母音に伴って変わってしまうので、柔軟に変えてやったほうが自然

喉頭を変に上下させないことで、不要な喉の力みを予防しやすい

などの利点があります。



実践的な話


クラシック的な発声では、「喉頭を下げ、唇を(軽く)突き出すようにする」という形が基本になるでしょう。

つまり、共鳴腔の「長さ」をできるだけ長くすることで、俗にいう「深い響き」とか「豊かな響き」(≒低〜中音域の倍音)を響かせるようにするわけです。

その状態で、母音(口内の開きと舌の位置)を状況に応じてコントロールすることで、声にほどよい変化を持たせることができるわけですね。


アマチュア似非クラシックでありがちな失敗例が、口腔内の「広さ」の方も最大で固めてしまおうとして、結局

「高音で吠えるような発声になってしまう(高音でも口開けすぎ)」

「高音やi、e母音で喉頭が上がってきてしまう(どこかを狭めないと鳴らない音なので)」

「母音の変化に乏しく、何言ってるかさっぱりわかんない」

みたいな感じになってしまうこと。

アマチュア似非クラシック界ではときどき「共鳴腔は大きければ大きいほどエライ!」みたいな発想になってしまいがちなので仕方ないのですが、共鳴腔の「長さ」の方を確保できていれば(特に高音域では)「広さ」はそんなに必要ではないので注意しましょう。


ポップス的な発声では、この辺を気にしすぎると逆に「自然さ」や「面白味」がなくなってしまいがちなのですが、やっぱり「高音域と低音域で声が違いすぎる」とか「滑らかに歌えない、なんか歌がガクガクする」とか「高音域や低音域が苦しい」という状態なら、検討の余地はあるかもしれません。

やはり「あんまり喉頭の位置を変えないこと」「低音域ではややオープンな(a母音交じりの)母音で出し、高音域ではややクローズな(u、о母音交じりの)母音で出してみる」くらいは意識しとくと楽になることがありますね。