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2009-01-21

[]『権力への上昇 - ゲオルギー・マクシミリアーノヴィチ・マレンコフ死後20年によせて』 『権力への上昇 - ゲオルギー・マクシミリアーノヴィチ・マレンコフ死後20年によせて』を含むブックマーク

Власти Мьянмы отпустили приговоренного к тюрьме американца - МК

 かつての共産党の活動家ゲオルギー・マクシミリアーノヴィチ・マレンコフについては、あまり知られていない。スターリンの最も近しい戦友であった彼は、ソ連邦の歴史上最も謎めいた人物と呼ぶことができるだろう。一部の歴史家はマレンコフを冷酷な大量殺人者の一人に含め、またある人々は彼こそが「雪解け」の真の父と呼ぶ。

今、かつて強権を誇ったその党員の死から20年の日を迎えた*1。「政治」の姿をしたオリュンポス山での彼の急激な上昇と凋落を、彼の息子であるゲオルギー・マレンコフがモスコフスキー・コムソモーレツ紙のインタヴューで語った。


 記者:ゲオルギー・ゲオルギエヴィチ*2、当時を知る多くの人々の中で、あなたの父の名前は1930〜50年代の大粛清に強固に結び付けられています。彼はこれについて何か語っていましたか。

 ―父が銃殺を命じた書類に署名したかどうか、私は知りません。粛清に実際に参加したのかどうかも……。家でそのようなことを話し合うことはありませんでした。年金生活に入ってからも父は稀にしか自分の仕事のことを話しませんでした。60年代の初めくらいに祖母から、フルシチョフは父が粛清に関与した証拠を探し出すことを諦めていない、と聞かされました。ただ、父は敵視され粛清された古参党員ではなく、新しい時代の党幹部として、あの時代に働いていたのです。私が知っていること、人々に言えることはそれだけです。ソヴィエトの中枢で起きていた事柄について、私はスターリン死去直後までしか知らないのです。

1953年に父はアメリカの雑誌『大衆の声』をくれました。そこには1946年から1956年まで*3ヴォロクター近郊のラーゲリに収容されていたアメリカの将校が書いた体験記の抜粋が発表されていました。その将校は記事の中で自分の身に起こったことについて、詳細に書いていました。父もその記事に目を通したようですが、私には何も言ってくれませんでした。私はそのとき初めて、そのようなラーゲリ*4が存在することを知ったのです。


 記者:マレンコフ一族はどこから来たのですか。また、ゲオルギー・マクシミリアーノヴィチはどのようにして政界に出たのでしょうか。

 ―マレンコフ一族はマケドニアから来ました。一族の言い伝えによると、初代マレンコフがロシアにやってきたのは19世紀前半のニコライ1世の時代です。一族が最初にどこに住んだかは分かりませんが、父は曾祖父が守備隊長を務めたオレンブルグに生まれました。祖母によると、父はよく知られている彼の履歴に書かれている1月8日ではなく、7日*5に誕生しました。これは父を教会で登録するときに、補祭が数を間違えて誕生日を8日としてしまったのです。

父と彼の二人の兄はオレンブルグのギムナジヤ*6を卒業しました。しかし卒業直後、父は赤軍に志願し、騎兵隊に勤務しました。オレンブルグ、西カザフスタンを転戦したそうです。内戦の終わりにニージニィ・ノヴゴロド生まれのヴァレーリィ・アレクセイエヴナ・ゴルフツォーヴァ、後の私の母と知り合いました(母は貴族の家の生まれでした。)その頃彼女は中央アジアを走り回っていた宣伝列車での任務に就いていました。

内戦が落ち着くと、二人は一緒に暮らし始めました。随分後になって聞いた話ですが、両親は終生、公式に結婚の登録をしなかったそうです。

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赤軍を辞めた後、父はモスクワに出てモスクワ高等技術専門学校に入学しました。父がこの高専を卒業したかどうかは知りません。ただ、父は、K.A.クルーグ教授が大学で研究をするように誘ってくれたと言っていました。しかし父は他の道を選び、党幹部への道を歩み始めました。

祖母は父が政治家になることを望んだのだそうですが、死の直前、父には研究者への道を進めてやるべきだった……、と悲しげに言っていたそうです。


 記者:モスクワに移られてからは、どこに住んでいたのですか。

 ―最初はムィトナヤ通り沿いに住んでいましたが、父が中央委員*7に選ばれた1939年に、私たちはグラノフスカヤ通りにある、中央委員会事務所の近くに引っ越しました。下のフラットにはブジョンヌイ一家が、上にはフルシチョフ一家が住んでいました。フルシチョフとブジョンヌイの記念碑はここにありますが、今に至るまでなぜか父のことを示す記念の銘板はありません。このアパートに私たちは1954年まで住んでいました。

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1954年からはポメラニツェフ横丁の二階建ての気持ちのいい邸宅に引っ越しました。隣の小さな家にフルシチョフ一家も引っ越すことになり、私たちは一緒に引っ越しました。しかし、そのあとすぐに再び引っ越しました。次の住処はレーニン丘*8にある邸宅で、父が党のあらゆる職務から解任された1957年までそこに住みました。

夏と休暇の頃には、モスクワ郊外にある二階建てのダーチャ*9ですごしました。父は家と全てのダーチャに直通電話と外国との直接通信装置を置いていました。けれども、私たち兄弟は自由に父の部屋に入ることができました。

父が休日にダーチャに来るときには、常に分厚いファイルを持った大佐が随行していました。書斎に座って書類に目を通す父を今でも思い出します。ときどき何かを見せてくれたこともあります。そう、スターリンの死の直後、私が15歳の生徒であった頃ですが、私にベリヤ*10に関する未公表の資料を見せてくれました。父は私たちがベリヤについて知ることを望んだのでしょう。その時に、ベリヤが権力を奪取しようとして政敵たちに敗れ、逮捕されたということを読みました。


 記者:あなたの父はスターリンについてどのように言っていましたか。

 ―私は、父がスターリンの死後、彼について話すのを嫌がっているような印象を持っていました。とは言え、父は常にスターリンに関する何かしらを思い出していたようです。

あるときスターリンは父に言ったそうです。「党員の一人がある問題に通じていなかったとしても、それはエチオピア皇帝が高等数学に不案内なようなものだ」と。父は長い間この言葉が人間について何を言わんとしているのか、理解できませんでした。*11

興味深い偶然ですが、戦争中スターリンは父の命を救ったことがあります。当時父はスターラヤ広場にある共産党中央委員会の建物で働いていましたが、スターリンはクレムリンで働いていました。あるとき、スターリンは何かの問題で父を自分のところに呼び出しました。

父がクレムリンについたときに空襲警報が発令されました。後になって分かったことですが、爆弾のうちの一発が中央委員会の父の執務室に命中していたそうです。炸裂こそしていませんでしたが、執務室は完全に破壊されていました。もし父がそこにいたら、非業の死を遂げたことは間違いないでしょう。


 記者:党幹部の中では、ゲオルギー・マクシミリアーノヴィチの友人はいたのですか。また他の幹部とはどのような関わりがありましたか。

 ―私たちの家にはニキータ・フルシチョフがよく来ていました。ブジョンヌィ一家とも家族ぐるみの付き合いがありました。それ以上のことは知りません。

そう、ただ父が内務人民委員ニコライ・エジョフ*12逮捕の指令に関わったことは間違いないと思います。ある時、父は1938年にスターリンに直筆の報告メモを出したことを語りました。そのメモには多くの無実の党員がエジョフの指示で違法に逮捕され、銃殺されたことを記していました。スターリンは黙ってメモを読んだあと、こう言ったそうです。

「これを全部あなたが書いたのかな?」

「はい。私が書きました」

「誰かに見せてはいないだろうね?」

「見せていません」

「うむ、いいだろう」

その直後にエジョフは逮捕され、銃殺されました。


記者:1953年のスターリンの死後、マレンコフは閣僚会議議長*13に任命されました。なぜ彼はこの最高ポストにとどまることができなかったのですか。

―父は優秀な管理者でしたが、策略家ではなかったのです。フルシチョフは(彼は1953年9月に中央委員会第一書記に就任しました。)他者と権力を全く分割ようとはしない人物でしたが。

かつて、父とフルシチョフは友達づきあいをしていたように思います……。ただ、父とニキータ・セルゲイエヴィチ*14は性格と教養のレベルが全く違っていました。フルシチョフは父の成功を妬んでいたのかもしれません。父は人民の間で高い人気があったからです。父は閣僚会議議長の職にあったとき、農民の税負担を軽減し、重工業の平和産業への切り替えプロセスを開始しました。この政策は1955年1月ソヴィエト*15で非難され、父はまもなく辞任し、その地位をニコライ・ブルガーニンに譲りました。

それでも、初めのうち父はソ連邦発電所大臣という職務にありました。二年後、まったく突然にカザフスタンに派遣されました。ウスチカメノゴルスク水力発電所、そのあとエキバストゥーズ国立地方発電所長を務めるためです。このとき、私たちは初めて父と仕事のことについて話し合いました。

1961年、父は党を除名されました。それからの父は復権に向けた努力を一切しませんでした。すでにフルシチョフの作り上げたクレムリンの中に入り込むことができなくなっていたのです。

姉の回想によると、フルシチョフが更迭される少し前にエキバストゥーズに電話があったそうです。母が電話を取ると、電話の人物はフルシチョフの助手を名乗り、父にモスクワに戻ってくるようにとのフルシチョフのメッセージを伝えてきました。父に再び党の要職につくように申し出てきたのです。ニキータ・セルゲイエヴィチは父と相談することを望んでいて、父に受話器を渡すように頼まれました。父はこの伝言について、「その男と話すことなどない」と言い放ちました。


 記者:晩年の彼はどのようなことをしていましたか。

 ―カザフスタンへの11年間の「流刑」の後、1968年にモスクワに戻りました。祖母が死に、父は葬儀に行ってそのままモスクワに留まったのです。フルンゼンスキー区の姉のアパートに住居登録したのですが、ほとんどの時間をカザン通り沿いにあるダーチャで過ごしました。そのダーチャはマケドンカ(マケドニア人)川沿いに建っていたのです。父はこのことにある種の運命を感じていたようでした。

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政治の議論には一切口出ししませんでした。ただ一度、エドゥアルド・シュワルナゼが外務大臣になったときに、「ほう、そりゃ面白い!」と言いました。父がこの人事を称賛していたのか、そうでないのかは分かりません。

1988年の自分自身の死の直前まで、彼はしばしば子供時代のことを、また稀に内戦時代のことを思い出していました。それから、よく基礎科学の本を読んでいました。特に重力理論や相対性理論に興味を持っていました。そういえば、姉の話によると、父は赤軍騎兵隊に務めていたときには、いつも赤軍兵士のための物理の参考書を書いていたそうです。


 記者:ゲオルギー・マクシミリアノヴィチの子孫たちのなかで政界に進んだ人はいますか。

 ―いいえ、誰もいません。私は結晶学の教授で、兄は生物物理学者、姉は建築家です。よく知られたこの姓は私にとって実に煩わしいものですが、何の役にも立ちません。大学院で私のポストは与えられませんでした。

私がモスクワ国立地質学部三年生として学んでいた50年代の終わり頃(両親はまだその頃カザフスタンにいました。)に、とても印象に残る事件がありました。大学に南アフリカから教授が来ていました。この専門家は英語で講義を行い、私にそれを通訳するよう頼みました。講義の後で、この外国人は私の名前を見て、大声でびっくりして叫んだのです。

「マレンコフがシベリアに送られていないとは! ソ連邦のことを見直したよ!」

と。

*1:マレンコフは1988年1月14日に亡くなりました。この記事は去年掲載されたものです。

*2:ゲオルギー・マレンコフの息子のゲオルギー氏、という意味の丁寧な呼びかけ。ロシアでは目上の人にはこのように語りかけます。

*3原文ママなのですが、53年にもらった雑誌に56年の体験は書けませんよね。

*4ラーゲリロシア語で「キャンプ」の意。氏は雑誌の記事によって「矯正収容所」として機能するキャンプがある、ということを知ったということです。

*5:ユリウス暦。グレゴリオ暦では1月12日

*6中等教育学校。中学校みたいなものですが8年ほど通います。結構難しいことを勉強するエリート学校です。

*7:党の最高意思決定機関、中央委員会の委員。

*8:現雀ヶ丘。モスクワが一望できる住宅街。

*9:菜園付き別荘。

*10:ラヴレンチー・ベリヤ。最後の内務人民委員。数少ないマレンコフの支援者だったと言われています。

*11:僕もよく分かりません。どのような地位にいても相応の知識あるいは役割で十分、ということでしょうか。

*12:内務人民委員部とはNKVDのこと。後の内務省。エジョフは2代目の人民委員です。歴代人民委員は全員がその後任者によって逮捕、粛清されています

*13:ソ連邦首相のこと。

*14:フルシチョフの呼び方。

*15:国のことではなく、連邦の最高会議である最高ソヴィエトのこと。

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