正義について

 夕べ、読書会。課題図書はちょっと古いけれど、マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)である。この本がワシャの書棚には2冊挿してある。平成22年の夏に駅前の本屋さんで買ったものと、この3月にブックオフで200円コーナーにあったのを購入したものである。
 平成22年には、「ハーバード白熱教室」がNHKで放送され、ミーハーなワシャはそれに影響されて、まず1冊目を買った。しかし、「正義」(ジャスティス)という強烈な題に馴染めなかった。全10章のうちの3章くらいまでは読んだんですよ、でもどうにも読み進められず、お蔵入りになってしまった。

 時が過ぎて、前回の読書会でこの本が次回の課題作となった。ワシャは買ったはずだと思って、書庫を探したのだが、これがなかなか見つからない。まぁ仕方がない。手間を掛けて探しているより、ブックオフで200円の本を入手してきたほうが早い。ということで、買ってきた途端に奥の棚から見つかることってよくある話で〜。

 2冊を書庫と寝室に置いて、読み始めたのが4月に入ってすぐのことだった。やはり読みにくい本ではある。さっきも書いたけど、「正義」という人迷惑な社会規範が胡散臭い。これは司馬遼太郎さんも書いておられるのだけれど、幕末以前の日本にはなかった規範だ。ちょうどその頃に「ジャスティス」という概念が輸入され、それが「正義」と名を変えた。
 司馬さんは言う。
《正義という多分に剣と血のにおいのする自己貫徹的精神は、善とか善人とべつの世界に属している。》
《正義という電球が脳の中に輝いてしまった人間は、極端な殉教者になるか、極端な加害者にならざるをえない。》
《正義というものは、人間が人間社会を維持しようとして生み出したもっとも虚構といえるかもしれない。たしかに自然と現実からみれば、虚構に過ぎない。が、その虚構なしに人間はその社会を維持できないという強迫観念を持っている。》
「正義」という規範は、一神教的な風土のない日本という特殊な民草には理解できないのではないか。山や樹、雨やせせらぎ、峡谷や滝、獣や蟲、ありとあらゆるものに神が宿る。そんな風景の中で「ジャステス!」などと神と悪魔、善悪、好悪、敵味方をズバッと切り分けることが儀表となる文化が育つわけがない。

「正義」を叫んだ者どもが、東京裁判でなにをしたか。「正義」を叫んで、チベットでは大虐殺が行われている。南京の話しでも朝鮮慰安婦の話でも、まず飛び出してくるのが「正義」である。戦争に敗北した国家にそもそも「正義」などないから「正義」を叫ぶ者たちのやりたい放題となる。
 マイケル・サンデル氏がすべての市民に向けて「諸々の前提はあってもこれから正義の話をしよう」という呼びかけはいいことだと思う。そこから人はなにを目指すべきかを深く考えたい。

 ちなみに司馬さんは、《(多神教的な)こういう風土のなかで、なにか自分を許容する、自分の不節操を許容してきたのではないか》と言われる。
 司馬さんの言い方も難しいけれど、要は欧米のような「黒」「白」といったジャッジの付け方ではなく、「ぼやっとにじんだ墨絵のグラデーション」のような不節操な許容が、日本的「正義」なのではないか……と思っている。
 そんな立ち位置で『これからの「正義」の話をしよう』に挑んだので、なかなかすんなりとは頭に定着しなかった。
 しかし、読書仲間に政治家がいて、その人はかなり咀嚼をして理解していた。第10章「正義と共通善」については、道徳と政治についても述べられていて、大いに参考になったと熱く語っていた。

 ということで、夕べの読書会は白熱教室になった。