教育勅語

 柴山文科大臣が「教育勅語」の認識を問われ、「現代風に解釈され、あるいはアレンジした形で、道徳などに使うことができる分野というのは十分にある。普遍性をもっている部分がみてとれる」と答弁した。
 至極もっともな回答で、立憲民主や共産党からは批判が噴出しているらしいが、すでにまともな識者たちが、ネットなどを使って反論をし始めている。サヨクマスコミが火を点けて回っても、すぐに消火ができるようになったので、もうそろそろ情報操作による煽動は止めようよ。

教育勅語」というと戦前のおどろおどろしいものと思いがちだけれど、あるいは森友学園で子供たちに唱和させていたので、胡散臭そうに聞こえるけれど、内容はしごく真っ当なものである。
http://chusan.info/kobore8/4132chokugo.htm
 要するに、前段で「神話の時代から国民は忠義・孝養を尽くし、国としてひとつにまとまってきた」ことを言い、中段では「国民の守るべき徳目」を連ねている。「父母に孝行し、兄弟は仲よくし、夫婦は仲睦まじく、朋友はお互いに信じ合い、行いは慎み深く、他者には博愛の手を差し伸べ、学問を修め、仕事に習熟し、それによって知能を啓発し、徳目を成就し、進んで公のために尽力し……」と、人の理想の姿を描く。いいことばかりですよね。
 これをするなと立憲民主や共産党は言っているが、この反対のことをすれば、すげー国民が育ちますわなぁ。
「老親には辛くあたり、兄弟はいがみ合い、夫婦は別居して、友人は裏切り、行動は下品で……」
 立憲民主や共産党は、どういう国民性を求めているのか(苦笑)。
 後段には、やや儒教臭が強くなるものの、人の道、国民の道を示したものであって、なんらサヨクの耳鳴り「軍靴の音」につながるようなものではない。
 ただ、「教育勅語」を絶対視する風潮もいただけないと考える。内容を尊ぶのではなく、その存在を神格化した結果、奉られた「教育勅語」を礼拝しなかった教師を免職に追い込んだ「内村鑑三不敬漢事件」のような対応は「教育勅語」の価値を貶めるものなので、進める方も慎み深くありたい。