思考の歪み

思考の歪みって自分では思いつかないけど、結構大きな影を落とすよなって話。

僕は色々な人に思いっきり心配をかけて、今もなおそういう心配の渦中にいるわけですが、一つ際立ってウワァって思った出来事が、兄貴に元気ー?ってきかれたときに元気って言いたくないこと。
なんでだろうなって思ったときに出てきたのが、元気じゃないって言ってかわいそうとか同情して欲しいんだなっていうことがありました。それもまたなんでかなーって思ったけど、あれだ。誰かに俺を見てて欲しいんだな。誰でもいいから、俺を見てほしい。そういうあれだ。

行動できないっていうのは行動しない先に何もないんだけど、そこに気にしてくれる人がいたら、その人が「大丈夫か?何かあった?」って言ってくれるわけで。
親愛とか深い愛とかを家族以外の第三者から受けられない代わりに兄貴とか本当に身近な友人から大丈夫じゃないって言ってなんとかしてもらおうとか思ってる。思ってないけど、思ってる。

でもさ、そんなんじゃ解決しないっていうのわかってるのにね。こんな状態が10年も20年も続いたら、いかにお前が老人破産しないようにするとかって言われても、その人たちの生活があるわけで。だから、頼ったり、助けてなんておいそれと言えない。時々、気まぐれに元気?って聞かれた時にふつーとかそういう匂わせるようなこと言ってさ0。そんなんが、好かれるわけないのにな。
いつか、誰にも見られないようにして、ひっそり忘れられていくだけなんだぜ

なんていうか、サボテンみたいだな。少ない水でも生きていけるように進化していった。適者生存ていうのかねー。サボテンはそういう植物だから、良いも悪いもないけれど、人の育ちの上で「同情」や「憐れみ」を愛だと考えてそれを獲得せんために頑張るっていうのは悲しいことだよな。
虐待を受けた子どもたちの中にもこういう考え方で育ってきてしまった人がいるのかな。
幸せになってほしいな。

ひと

人と人をつなぐことがたくさんの病を寛解させて行くのに重要じゃないかっていう話。

これ病気に関わらずだと思うんですけど、人とのつながりって、何をおいても重要になってくるファクターだと思うんですよ。これって、本当に人嫌いな人だとしても、つながっている感覚って、本当に重要で、孤独による様々な体験や技術習得の喪失とかで本当はできたかもしれないとかやれたかもしれないっていう想いは多分死ぬまで残ってくると思うんですよ。
いじめとか誰かに笑われたとかで学校生活を楽しめなかった人とかは多分、楽しそうにしてる人を見るたびに心が崩れるくらいのたうち回ると思うし。

3年間浪人(ほぼ引きこもり)をしてわかったことは、何をおいても辛いのは独りであるということなんですよ。誰にも自分の存在を認知してもらえないとか、誰にも自分を記憶してもらえないとか、どんな話をしても笑ってもらえないし、そもそもそんな機会がないっていう。
辛くて辛くてたまらなかったことしか覚えてませぬ。もう戻りたくないなと思うんですけど、いかんせん人と繋がるのがゴミのように苦手でびっくりするくらい繋がれない。繋がるという感覚が持てない。これがね、重大な感じでして。


人は変わらない。現実は変わらない。だから、自分が変わることで生きる世界への見方を変えるんだっていうじゃないですか。あれって本当のことで本当だからこそ受け入れてやり遂げるのがものごっついつらい。
本当は人の中に入っていくっていうのは難しいことじゃないのに、いろいろ考えてしまうが故に難しいものになってしまう。
人の気持ちをわかる人にとか人の立場をわかるよう育つのが良いことだと言われてますけど、一概にそういう風に断定してしまうのはよくないことだとおもいます。
それをうまく自分の中で咀嚼していなせる子はいいんです。でも、そうじゃなくて、額面通りにしか受け取れない子はどうしても、その言葉を金科玉条として、自分の中の根幹のルールにしてしまうわけです。

私は私なのだから、本当は相手の気持ちの全てを理解できるはずはないのです。
だから、言葉という武器を得たのに。人の立場を頑張って頑張って考えて、どうしよう、私がこう動いたらって夢想する。でも、その人はそんなこと考えてないかもしれないし、そうして欲しくないかもしれない。
だから、言葉を尽くして、対話を続けるしかないんです。

人の中に入っていくことが苦手な人は、慮りすぎて、聞いちゃいけないんじゃないかっていう質問を作り出すことに躍起になります。そうなると、最終的に出身地や趣味でさえ聞くことが強くなってしまう。
そうして、人嫌いや人の中に入ってくことが苦手になってしまったりね。

言葉足らず。気にしい。嫌われないよ。言葉から始めよう。人をつなぐのは言葉。そして、言葉。あと態度。
聞くことから。話すことから。伝えることから。

ベビーシッターとかにみる叫びについて

なんか、いろいろシッター問題でわちゃわちゃしたとかしないとかって聞いたんですけど、あれって本当にバッシングしたくてバッシングしたわけじゃなくて、そういう若い層の無意識の刷り込みと叫びが関係してるんじゃなんじゃないかなって思ったわけです。

母親はこうあるべきっていう女性自身での制限がそういう一人の人間としての自己実現とか人生を楽しむっていう行動が許せなくなっていく。
「あんたを育てるのにどれだけ苦労したと思ってるの?」とか「誰が育てたと思ってるの?」とかそういう言葉の裏側には、親になったからには子どもに全て捧げるっていうものが当たり前になっていて。子どもが可愛いから、確実にそうなっていく側面はあると思うんだけど、そうであればあるほど自分が「何者」であるのかわからなくなっていく。外での肩書きがあれば、自分は「○○会社で働く佐藤です」とか言えるけど、そうじゃない場合は、赤ちゃんとの関係に埋没していくわけで。

子どもを育てるにはほぼ100%の自己犠牲が必要!みたいになっていることが結構辛いと思う。当事者にとってもこれから結婚を考えている人にとっても。子どもが生まれてからも母親としての人生以外にもその人の人生があるわけで。
だから、私がこんなに苦労してるのに、なんであの人はシッターを雇って!!!!ってなるよりかは、自分のあり方がどうかっていうのを考えるほうが心が落ち着くんじゃないかな。その子赤子から子どもへ育っていく過程でも我慢してっていうよりかはどうしたら生き良くなるかっていう感覚が重要になっていくんだろうな。そのためにはシッターを呼んでもいいと思うのさ。久々のデートっていうのは、親が近くにいれば、そのおじいちゃんやおばあちゃんにあたるひとに任せるけど、いなかったら、尚追い詰められていくじゃん。その連鎖をとめるにはどこかで空気穴を作ることだって必要なんだよ。

と書いたところで、ここまで旦那さん不在っていう面へ目を向けないっていうところが自分の中でも見つめ直さなきゃいけないポイントなのかなぁと思う。
小室淑恵さんが働き方のことをtedで講演して話題になってたけど、あれって子どもの成長的な意味でもお母さんの心の安定的な意味でも人生的な意味でも結婚的な意味でも重要なんじゃないだろうか。
9:00〜22:00とかの仕事でどうやって自分が好きであることとか楽しいと思ってることやるんだよとか家事に上手くコミットして行くんだよとか子どもと関わっていくんだよって思ってたけど、やっぱり働き方を見直さないと難しいよなぁ。でも、そんな簡単に働き方なんか変えられないし、会社側だってそんな簡単に働き方をかえるようなこころみをうちだすわけがない。自分が経験を重ねてないうちに俺みたいになんのスキルも何のコネも何もないっていう感覚からこういう物を見つめていくっていうのは無理だよなぁ。だって、そういうものがないんだから、しのごの言わずに頑張って働くっていうのが正しいスタイルでしょっていう風に思うし。

夫婦や働き方やたくさんの考え方が変わらない限り、こういうシッターに関する話題は尽きていかないんだろうなぁ。

どっちでもないという選択肢。

家族とかそういう話。

親は子を選べないし、子は親を選べない。
もっと鼻が高ければとか頭がよければとかもっとダンディとか綺麗で物分かりの良い親だったらとか沢山の想いを抱えて過ごしている人も少なくないと思います。

もっと言うと機能不全家族だったり、裏切られたり、そういうわけでもないけど、日々の積み重ねでどうしようもなく自分で家族に対して身動きが取れなくなってしまっている人も多くいるんじゃないかなって思うのです。そうじゃなくて、家族が大好き!って親の側も子どもの側も思える関係であれば、僕はそれ以上に幸せなことはないと思ってます。

日本人は、親を嫌いとか子どもを嫌いって言うことを全く受け入れられないところがあると思います。その人のバックグラウンドとかを全て取っ払って、その好きか嫌いかというところをフォーカスして、「好きであるのが当たり前」派は嫌いという人たちに向けて、ビックリするくらい攻撃を開始するわけですね。

子ども側が「親を好きになれなくて困っています」というモヤモヤを抱えて相談している場合、それは好きになることが前提で、当たり前というところから話が発進しています。
嫌うということがどれだけ非人道的な行為なのかそれだけを生まれてから死ぬまで擦り込まれているから、そういう風に悩んでしまう部分もあるでしょう。
これは子どもにかぎらず、親の立場だって同じことが言えると思います。「子どもを好きになれなくて困っています」と。
本当に嫌いである場合、それが普通である場合、きっと親側も子ども側もそれを相談しないとおもいます。当たり前であることが当たり前にならないモヤモヤもあると同時に嫌いになりたくない、でも好きになりたいけど、なれないという本当の不安があるのでしょうね。
でも、何故、「普通」というグレーゾーンがまかり通る日本において、この問題を語る上では二項のみでの語り合いになるのでしょうか? 家族ってそんなに単純なものなのでしょうか??
僕はこういうときこそ、普通っていう言葉を使うべきなんじゃないのかと常々思います。そうやって頑張って考えて、でもやっぱり好きになれない、でもやっぱり嫌いになんかなれない!という人は絶対にたくさんいると思うのです。それだったら「どちらでもない」とか「普通」っていう言葉で表してもいいんじゃないでしょうか。ここの「どちらでもない」という言葉は決して、全く考えてないからこその言葉じゃなくて、考えて考えて考えた先の苦しみと理解と認知の勲章の証だと考えるべきだと思うのです。だって、手放しに好きと言えないし、嫌いだなんて、尚々絶対に言いたくない。

でも、本当にどうしてもどう考えても好きになれない人もいると思います。虐待とか肉体的精神的折檻を受けましたっていうクソな親や子どもである際は、憎いって言っても全く問題ないと思うのだけど、何で世の人はそんなに家族は繋がりあっているものだとしたいのでしょう?
だから、そういう人は嫌いと言い続けて、縁を選んでもいいのだと思います。
ただ、僕はそういうどうしても憎いという人を除いて、後に続く子どもが親よりも強い(寿命的にも思考的にも。たとえ、本当に親の背中は広いと思っても)という状況を鑑みて、出来る限り、親が亡くなる直前とかに嘘でも言いづらくても苦しくても怒りがこみ上げても「あなたの子どもで良かった、産んでくれてありがとう」と優しい嘘をついて上げるのが子どもの最後の子どもとしての役割かなと思います。それは好きとか嫌いとかを別にして、やっぱり、そういう道徳的な大団円的な言葉で締めたがるんだなと言われても、それはすべきではないかなと思います。

それ以外はね、本当にどちらでもないかなって思えるまで持っていけたらいいよね。
子どもから「どちらでもない」って言われたら、親はショックを受けると思うけど、あなたの子育ては間違ってないと思う。
親から「どちらでもない」って言われたらそれはそれでショックだけど、人としてもう自立の時期が来てるってことなのかもしれないね。家族だけど、もう親と子っていう関係を越えて、遠くにいる友人として過ごしていけたらいいのかもね。

私の心アンロック

制限を外すということ。

なんか、生きる上で自分の心に寄り添いながら生きていくのは難しいのかなぁと考えたり考えなかったり。知らないうちにたくさんの物事に縛られて生きていくっていうのは、なんでなのかなぁって思うわけなのですが、これがわかったら、きっと日本人はもっと全体的に幸せになっていくのだろうなぁ。

日本人には15歳、18歳、22歳の時に「現実を見る」というある種の脅迫を伴って、自分の限界という誰も見たこともない何かを突きつけられるわけです。
「もっと頑張っている人がいるのに」
「お前なんかができるわけない」
「はやく、やめて現実を見なよ」
「もっとあなたにむいてることがあるんじゃないの」
「現実」「現実」「現実」「現実」それと「お金」「お金」「お金」
幾重にも心に鍵をかけながら、自分に鎧を纏いながら、誰かが決めたルールに則って、「きちんと」生きていく。
そうじゃない人もいる。どこかでその間違いに気づき、もしくはそのルールなんて嘘っぱちだと突っぱねて、生きてきた人。

誰かがつつがなく生きられるように頑張った人の先には自分の意思がない。
自分が好きなもの、自分の嫌いなもの、自分の腹が立つこと、自分が怖いと思うもの。そういうものにとってもとっても鈍感なのだ。びっくりするくらい、相手のそういうものに敏感なのに自分の光や闇をまるでないもののようにして過ごしているのです。
誰かの幸せを願い、幸せにするために行動してしまう人は、実は自分を不幸せにするように動いてしまっているのでする。

誰かの幸せを願う人との徹底的な差異は、それが他者と私という関係性を越えて、他者が自分に溶け合ってしまうところにあるのです。貴方の幸せは貴方の幸せはじゃなくて、貴方の幸せが私の幸せになってしまっているのでする。

こうやって、生きてきた人にとって自分がこれから選択をして生きていこうとするのはとても難しい。だって、自分の感情に鈍感で、今まで自分がどういうものなのかを考えるのではなく、他者にどう役立つのか考えて生きてきたのだから。
自我の芽生えという期間がある。でも、そのひとにとっての自我は未だ目覚めていないのかもしれない。

僕は「いい子」がクソほど嫌いです。というより頑張ったね、そんなに頑張らなくていいよ。好きなことやろうって言いたくなる。怒られていいよ、叱られていいよ。そのままだと16歳になった時、とっても辛いよって言いたくなっちゃうから。
自分にとってのいい子と他人にとってのいい子は違うんだよ。他人にとっていい子でいても他人はあなたに何も与えてはくれないんだよ。如何に貴方が他人に尽くしても、他人は永劫そのことを覚えていないし、尽くしたとも思っていないかもしれない。それに他人は貴方の決めたルールには絶対従ってはくれない。だから、他人が思ういい子になんかなんなくていいよ。ルールなんてないよ。やりたいことやりな。愚かな質問だってしていいし、怒ってもいい。

あと、さっさと恋しな。
俺もたくさん鍵かけた扉を前に今、必死で鍵を開けるために頑張ってるんだ。

どれだけ鍵を開けた本当の自分が辛辣でも嘘をついていくよりは楽だ。もう嘘をつくのはやめた。
毎度毎度、話がまとまらないなぁ。

out of the hole

相談する事と打ち明けるという事。

明日合宿で卒論の中間発表とかあるのに、まして、まったく卒論進んでないのに、何かぼんやり思いついたから書いてみようと思ったやーつを全部終わった上で再構成して書いてみたやーつ。

誰かに悩みを話そうと思った時に、その悩みを細分化して様々なセグメントに分けたうえで多分、日本人は悩みを話すと思うのね。

例えば、最近恋愛がうまくいかなくて、結婚したいのにどんどん焦りだけ募ってしまって・・・とかだった場合、恋愛上手、既婚者、恋愛に比重を置いていたら、若い人に。結婚したいところに比重を置いていたら、先輩みたいに分けて、総合したうえで誰かを決定すると思うんだけど。

日本人はさらに自分でそこに関しての努力をしているか否かを付随するような感じがして。
つまり、誰かに相談するときは、そのことに関しての「一定」の努力を見せてからの人にお話を賜るっていう感じ。
もう、気軽さの欠片もねぇよ、そんなもん。確かに努力という キーワードって、自分が何かをする上で重要になるファクターだけど、それに縛られてしまったら、相談もクソもありゃしないよねっていう。

日本人て相談下手じゃないかなぁ。
聞きたいことが山ほどあるのに、何事もまず自分で努力をしてみてから。でも、何をどうしたらいいかわからないのにどうやって努力するのだろう。
よく耳にするお母さんが赤ちゃんを殺してしまうっていう話だって、お母さんがもっと頑張れば救われたのかといえばそうじゃない。赤ちゃんが泣く量を減らしていけたらいいかって。そういうことでもない。
相談するっていうのは、自分の人生をよりよくするために愚かな質問をどれだけ身近な人に出来るかっていうことで。それすらもクリアできない日本はどれだけ、追い詰められてるんだよっていう。努力理論もうやめようよ。
最大級に考えて、どうしたらいいかわからないから相談するんだよ。 っていうか、そこまで考えたくねーよ。
相談上手は生き上手なのかな。こんなこと聞いちゃってとか思わずに率直に思ったことを聞くっていうことは、生きやすい。それが一部しか浸透してないってことは愚かな質問をするということが如何に蛮行なのかっていうこと日本人が勝手に思っちゃってるわけで。
その裏側には、空気を読むとかそういうところから漏れ出る何か、めんどくさい察せよ的なものがあるからなのかなぁ。そこまで、察せないくせに人に要求しちゃダメだよ。人の行動の50手先を示すことなんてできないだろ。先読みは、人を喜ばせるために使うべきであって、人が怒らないように行動するために空気とかそういうものを使っちゃいけないよなぁ。

もう過ぎ去ったことなのだから・・・という言葉の重み

「過去 」「現在」「未来」僕たちは3つのタイムスパンを順序良く越えつつ、時にはトラヴァースしながら、人生をガシガシ運営しているわけで。

「正常」と言われている人たちからすると、もしくはそういう人たちを見ると、過去をきちんと踏み台にして現在を生きていて、きちんとその現在の先には未来がある。
だから、現在をそのまま生きていけば、きちんと未来につながるだろうという無意識的な意識が可視化できない状態で装備されている。

一方で、過去を踏み台にして現在につなげることができない人もいる。というより、たくさんの問題を抱えている人たちの多くが、今現在、過去を生きているのではないだろうか。踏み台にあしをかけて、思いっきりすっ転ぶ。もしくは越えられない。越えようとしない。
だから、そのまま生きるっていうことは、現在を生きているという感じではなくて、過去を生きているっていうことで。順を経て、未来につながる足がかりを作るのに、この人たちは、未来を本当の意味で可視化できない。だってそこにないんだもの。過去にとらわれている。


思い出の破片探し

過去に生きている人は、いわば、その時に起き残してしまった思い出の破片を探るように過去へタイムトラベルをして、過去という現在をを生きている。見つからないこともそれが間違っていることも分かっている。でも、誰も「もういいよ」って言ってくれない。言ってくれても満足できない。血だらけになりながら、無理にタイムスリップをして、もう起き残してきた思い出の破片が何かわからない状態でその時の思いにしがみついている。

「無気力感」「怒り」「悲しみ」「やるせなさ」「イライラ」
その当時、自分が抱えていた想いだけを装備して、ただ、破片を探そうと頑張った結果勇者であろうとした人々は自分が気づかないうちに魔王へと変貌していく。そして、この魔王は、誰かに何かを気づいて欲しく咆哮をあげるのだ。自分が魔王になってしまったことも気づかず、何故、相手に攻撃されるのか理解できないまま、ただひたすらに。


そうだん、だだん、だん、だ、だんだん。

何か相談するという場面において、そう言った過去の物事に対して相談した相手に対して「もう過ぎ去ったことなのだから、頑張って今を生きよう」という慰めやアドバイスをよく耳にする。
だが、本当にそうなのだろうか???アドバイザーにとっては現在から見た過去の出来事だから、確かに過去の出来事なのだ。だが、相談者にとってはそうではないのだ。時間軸がまるっきり違ってしまっている。
なぜなら、彼らにとっての現在とは、今まさに過ぎている時間ではなく、その出来事が起こった時間であり、それは時間軸の上で考えれば、過去なのである。

つまり、その言葉は、その人たちには届かない。こいつは、今までの話をまるっきり聴いちゃいねぇと自分とアドバイザーに対して、エベレストもビックリの高さで、マリアナ海溝よりも暗い深さで、豊臣秀吉のハリボテの城作戦もビックリの速度で壁を作る。

話を聞くということはとても難しい。共感するという事柄も本当はとても難しい。その人の力になるという事は一番難しい。
その魔王は沢山の想いやトラウマや抱え込んだのちに勇者から魔王になってしまった。だが、その魔王を救えるのもまた、他ならぬ人なのである。勇者かもしれない、魔王かもしれない、ただの人かもしれない。だが、紛れもなく他者なのである。
自分が見失った破片について諦める、置き換える。方法はさまざまにあるだろう。
だけれど、その見失った破片に絡みついている想いやトラウマごとロープでぐるぐる巻きにして、苦しみながら、引っこ抜いていくのがその人がもう一度自分の中の想いと向き合っていくために重要なのだ。きっと、ひっこぬけた際には綺麗な庭団子を残してくれる何処ぞの神様に転職してくれるだろう。

もう過ぎ去ったこと。本当に本人がそう思えるまでに、何年、何十年とかかるだろうが、勝ち取ることが割とガチで重要なのである。

ただ、だからと言って現在と未来を犠牲にしてはいけない。過去に生きすぎてはいけない、今もなお、10年間の魔王化と闘っている僕は思うのです。

自分が見失った破片探しは、終わりどころを見つけないと、たくさんの弊害を引き起こします。立ち止まるということは、過ぎていく時の流れをよそに成長するということを諦めてしまうことです。
その当時出来たであろうイベントや成長する機会を自分から覆って見えないようにして、過去だけを見るように差し向けます。ハッと気がついたときには自分だけ置いてけぼりを食ったことに気づくのです。
自分では、そのつもりがなく、相手から見たら、明らかに「なぜそういうことをするのか」という思いに駆られます。理解しようと努めても、あまりにも頑固すぎるために相手も立ち去ってしまうことが多いでしょう。現在と未来を見据えられない人間と話していてもつまらないですからね。

もう、戻ってはこないのです。

もう、思い描いても、手に入れることはできないのです。

あなたは十分頑張ったよ。忘れないでいいから、その過去ごと受け入れるから、あなたもしっかり消化出来るように一緒に生きていこう。

破片が何だったのか思いだして、取り戻そうとしないで、新しく誰かと構築していくのです。ないかわからなくなってしまった破片は時々、もしくは結構頻繁に顔を出すでしょう。自分でも、どうしたらいいのかわからない感情を伴って。
だから、そういう時は、しっかり自分を褒めてあげるのです。けっして、失った時間を数えてはいけない。あなたの過去もしっかり、今につながっているのだ。
はやく、一緒に芽吹きを感じよう。魔王様よ。