wat_hodgyの日記

2018-04-22

もがみ川感走録第61 もがみ川のおしん・その3 18:39

おしんは、雪融けに少し早い時期であったが、心も急いており。早々に炭焼き竃の横に立つ・一冬過ごした山中の掘っ建て小屋を出て、麓の集落を目指した。

その下りの雪道で上って来る憲兵集団とすれ違った。

脱走兵であると見抜かれた俊作兄ちゃんは、たちまち射殺されてその場で他界した。この世の理不尽と目のあたりに遭遇したおしんであった。

春が来ると間もなく算え歳8歳になるおしんは、下山すると。真っすぐ故郷のムラを目指し。単身自分の足で、故郷の実家の戸口に立った。

おしんは、一刻も早く祖母に会い。50銭銀貨をお護り袋の中から、理不尽にも一方的に採上げられこと。

そのいきさつをしゃくり上げながら報告し、祖母から渡された貴重なお宝をムゲに失ったことを謝りたかった。

家に入ると、祖母も母もおしん生存と帰宅を虚心坦懐に喜んでくれた。

その点、父親は内心と外見はウラハラのようで、複雑さを見せつつ終止不機嫌そうであった。

越冬直前の晩秋おしん奉公先から若い者がやって来て、その前の春に先渡しされたコメ俵を違約の代償として暴力的に取り返して帰った。

その時の無念とその措置により受けた家族生存の越冬危機をあらためて憶い出していた。

来訪者の説明どおり、時ならぬ頃つまり奉公の満期到来前におしんは、吾が家に還って来た。奉公先から無断で退去しており、明らかに一方的な契約違反であった。

おしんの帰宅により家族が1名増えると、ただちにその分の食い扶持も捻出する必要があった。

彼等小作人層の暮らしは、それほど貧しいギリギリの生活であった。

まだあった。家長として対外的な配慮もしなければならなかった。

娘が奉公でしくじったとの悪い噂が立つことも懸念しなければならなかった。

平成の現代から100〜110年も遡るムラ社会は、典型的な田舎暮らしだ。近隣に住む他家庭の内情暴きやしくじりがスキャンダルとして集落内を駆け巡った。

TVもラジオも無い時代だからこそ、家の対面=メンツを保ち・世間の波風を防ぐことが、家の主たる彼の仕事でもあった。

母のフジは、おしんは既にこの世に無い者として、全ての仏事を済ませていた。

とまあ、以上がおしんにとって過ぎた1年であった。彼女の希望した就学は、結局叶わなかった。

TVモニターのこちらに居る視聴者には、事件の経過はすべてお見通しであるが。しかし舞台の向こうに居る出演者には、腑に落ちない未解明の課題が一つ残っていた。

何の口上もなく、谷村の家に戻された50円銀貨の落着きどころであった。

米俵を強引に取戻しに来た若い男が、黙って置いて行った望外の大金であった。

その50円銀貨には、何の添書きも説明書きも付いてなかった。

その理由は、この時の指図が女中頭の手配だったからだ。現代人の庶民である我々には常識外の手落ちだが、無学文盲の彼女にそれを求めることは至難であった。

女中頭のような境遇=自己保身のために精一杯我を張ることしか生きようの無い。底辺を成す貧しい階層の民衆は、この時代ニホン国中に満ちあふれていた。

さてその50円銀貨の落着きどころだが。おしんの祖母は、おしんとの別れ際に、自分が内緒でおしんに与えた50円銀貨ではないだろうか?と、内心胸騒ぎのようなものを感じていた。

だが彼女は既に高齢化し、谷村家の当主の母として。この家のこれまでに貢献し・家系の存続に寄与した過去の功労者であったが、既に第一線を退き。いわゆる生産年齢を過ぎた家の厄介物として、積極的発言を戒め・ひっそりと暮らしていた。言わば、楢山節稿のリタイアした老人像であった。

この点もまた現代とはさま違いであり・今昔の観がある。

現代の高齢者だったら、老齢者年金を受給して、その額は少ないにしても国から定期的に給付金を支給されることで、一定の自立した生活を送る国民主権が確立している。

ここで出演者のために、事件の全経過を述べておこう。

2つの空間<奉公先の材木商とおしんの実家>に・時間の経過を通じて登場する出演者は、独りも居なかった。

まず50円銀貨が勝手に消えた朝。元の奉公先の炊事場に。

まず最初に起きて現れたのは、女中頭だった。

迂闊にも上がりかまちに、家計用諸払い財布を置いたまま、そこから消えた。

次に、起きて来たのは、雇い主の主人であった。

フト思い立ち、その財布から50円銀貨を抜出し、自らの軽い財布に収めると、そのまま外出した。彼は皆が起き出す前に、誰にも会わずに出立した。その日は宿泊出張であった。

その次に、おしんが登場した。

やがて戻って来た女中頭は、そこにあるべきでない財布を発見して、おしんを疑い始めた。

身に覚えのない嫌疑をかけられて、おしんは必死に反論した。

反論は、火に油を注ぐ結果を招いた。

あまりの騒ぎに奥から女主人も起き出して来た。

ついにおしんは裸にされた。首から吊るしたお護り袋の中から大枚の50円銀貨が出て来た。

貧しい小作人の小娘が持つ金額としては、不相応な大金であった。おそらく祖母が生涯賭けて貯めた臍繰りの総額であったろう。

ここでも祖母から貰った餞別であると必死に訴えたが。自己保身しか考えない女中頭の胸には全く響かなかった。

その日、おしんは元の奉公先=あの女中頭の前には二度と現れなかった。既に冬真近い田舎道を故郷らしき方向にアタリを付けて、歩き始めていた。

やがて数日後。中期出張から帰宅した主人は、金銭を無断拝借した事実を白状した。

気が急いていたので。たまたま上がりかまちにあった家計用諸払い財布から、事後承諾で良かろうと軽々しく考えて抜いたのであった。

おしんに係る事後処理は、当事者=責任者たる女中頭に託された。

結局、おしんの最初の奉公は、春から晩秋までの只働きに終始した。

おしんは、途次の山越え道で行き倒れ、寒さで絶命する危険に遭遇した。

幸運にも偶然、俊作兄ちゃんに助け出された。

山中で一冬の越冬中に。仮名文字の仕上げと足し算・引き算、九九から掛け算・割り算までを習った。

おしんは、俊作兄ちゃんにとって、教えがいのある筋の良い生徒であった。

俊作兄ちゃんは、逆境にあっての生き方を彼の体験に照らして、身を以ておしんに教えた。

気持を強く持ち、再起の時に備えて、準備怠りなく備える心構えの教えであったろう。

底辺に生まれ育ち、未来が必ずしも明るくないおしんの境遇を見透した教訓であった。

間もなくおしんの次の奉公先が決った。

今度は、酒田のコメ問屋”加賀屋”であった。

2年契約で、コメ5俵の先渡しであった。

おしんの希望する義務教育への就学は、またも消え去っていた。

小作の家の娘には生涯生家のために尽すことが当然に求められた。

戦前の社会ルールは、江戸時代の延長そのままの儒教思潮ベースであった。

先ず家ありき。個人の意志は家長の指図の前に消える。それが社会の風潮であり実態であった。

女 三界に家なし

多くの女のゴールは嫁になることだが。「嫁」なる漢字は、「女」と「家」とから成る。

「女」なる構成字は、家のサイドに添えて置かれているだけだ。

「家」には、立派な屋根=「宀」カンムリが付いている。

屋根の下に居て、ぬくぬく太るのは、家豚だけである。

さて上古の日本列島は、無文字であった。この頃既に大陸中国には文字があった。

情報がカタチとして残る文字を取入れることは、植物が水を受容れるごとく・ごく自然であった。

漢字は表記方法がタテ書きであり。ヨコ書きの英語などとは異なり。ものの見方・考え方もまた異なっていた。

漢字で語られる基調的思想は、儒教であった。これもまたごく自然に上古の日本列島に受容れられた。

階層など為政者・権力者にとって、都合の良いタテ社会のルールが当初から組込まれており。

西洋の古代ローマのように。民衆間の水平的関係や平等的な相互の位置関係を基礎に置くヨコの思潮とは、根本的に異なっていた。

さらに1600年の関ヶ原の戦に勝ち残った徳川家康は、大名の子は大名・足軽の子は足軽なる基層固定の=タテ社会ルールを一層強力に取入れ。長く安定した武家政権を樹立した。このやり方は、敗戦により放棄されるまで日本列島の主導的道徳であった。

今日はこれまでとします

2018-04-11

もがみ川感走録第60 もがみ川のおしん・その2 18:24

おしんが乗せられた筏は、早春の雪融け水に押流され。危うい川流れであったが、どうにか目的地に上陸し、奉公先に落ち着いた。

かなりの脱線だが。私人の事業に雇われる=それだけのコトでしかないのに「奉公」と大袈裟に言う。とかくニホン語は用語の使い方がデタラメだ。

おしんは、材木店で住込雇い人として、幼児の子守りをさせられた。

雇い主の材木店の所在地は、不明だが。後におしんは勤め先を無断で脱出することになる。そこから推定するに生誕地からさほど遠い土地ではなさそうだ。

住込先では女中頭の管理下に置かれるが、縁に恵まれず。最初からしっくり行かなかった。

と言っても本稿では、おしんのストーリーを再現することはしない。

おしんは、赤ん坊を背負いながら、近所の小学校をウロウロしていた。義務教育に挙る年齢だったし、文字や手習いに関心があり。向学心に燃えていたようだ。

実はその事が、女中頭の気に触ったらしい。無学文盲の小作人出身らしい彼女は、小作人に読み書きや学問は要らないとの信念を抱き、おしんにもそれを強制した。しかもそれを広言して憚らなかった。

しかし、子守りをしながら教室の中を覗き込むおしん教室の中から気づいていた人物が居た。左沢尋常小学校の教員<配役・三上寛>は、教育の普及に情熱を抱く博愛精神の持主である。

その晩おしんの雇い主夫妻を訪ね。説得して、おしんの講義参加を認めさせた。

女中頭は、おしんに対し昼食を供しないと宣言した。

その教員は、陰に回って、古い教材を集めたり・昼食代わりの簡単食を提供するなど。おしんの就学を支えた。

しかし、おしん教室通いは、1ヵ月で終った。退校時に同級生から苛めを受けた。おしんは、軽い傷を負ったが、真相について誰にも他言しなかった。もう学校には行かないと単に自ら宣言した。

おしんのドラマに流れる仕掛けられたテーマがある。その一つが苛めである。

女中頭も同級生達も平然と弱い者に対して追い打ちをかける。弱い者・貧しい者は、更なる窮地に追い込まれる。

これはあくまで筆者の独善だが、このドラマにはカタチとトコロを換えて、度々苛めのパターンが登場する。

それがまたドラマを好評に導く観すらある。国民性に内在する性情の一つと言えないこともない。

もっと極論すれば、儒教を基調思想とする東洋アジアの独つの行動パターンですらあるようだ。

財力あるもの・権力の座にあるものには、尚更便益を増すように世間が動いてくれる。これぞ忖度<そんたく>だが。忖度の仕組は弱者に対しては、手のひらを返すように牙を剥く。この表裏一体の精神土壌は、遠く大陸中国春秋戦国時代に編み出された社会思想であるらしい。

いささか脱線した。登校を自ら断念したおしんは、筏乗り師に頼んで、実家へ手紙を届けてもらった。仮名文字ばかりのがんぜない子供が実家の親に出す、初めての便りだった。

ところが、実家の父も母も誰も字を読めなかった。

この日本列島の僅か百年に満たない昔。底辺に生きる小作層の識字率の低さ・就学率の低さには驚くが、それが実態であった。現代に住む我々からは想像も理解もできないほどの惨状に当時はあった。

儒教思潮を悪者にして云々せざるをえないほどの貧困と惨劇が渦巻いていた。

この惨めさは、農奴と呼ぶに相応しいもので。江戸期から戦前まで変らぬ実情であった。ただ呼び名が、水飲み百姓と言うか・小作人と言われるかだけの僅かの差異でしかなかった。

ある日おしんは材木店から無断で脱走した。

原因はどうあれ。雇われる立場からする無断退去は不利でしかなかった。

雇い初めの春先に渡された米俵は、おしんの約束違反をもって、秋深く冬がそこに迫る山里の実家から持出されることとなった。

当事者であるおしんは、翌春の雪融けまで行方不明となり。実家では遂に真相を知らないまま春を迎えた。残された留守家族は、越冬備蓄用のコメを採上げられてしまい、欠食の冬期を過ごしつつ、おしんの安否を気遣った。

おしんは、山を越えたその向こうに故郷の実家があると考えて、一心不乱に歩き出していた。別れ際に祖母が形見にと持たせてくれた50銭銀貨を無茶苦茶な言いがかりでもって一方的に採上げられたことがただ悔しかった。早く祖母に会って、そのことを言募り、無念さと申し訳なさとを伝えたかった。その一心で、心もとない山道へと踏込んだのであった。

折悪しく冬の初めの寒気が暴風と豪雪を伴って、最上川山地を雪景色一色に染め始めていた。おしんは、行き倒れとなり山中に倒れ眠った。フツウであれば、そこで絶命する筈だったが、運よく雪中で銃猟をする猟師によって一命を助けられた。

農閑期になると里の貧農は、雪山に籠って、伐木集材して山中の炭窯で焼き。時々出来た炭を背負い下って、麓の村で食糧に換えてまた窯元のネグラに帰る。その繰返しであった。

おしんを助けた猟師は、おしんが蘇生した時、炭窯の掘立小屋に暮らす2人目の同居人であった。

東京生まれの若者で、ハーモニカなどを持っていて都会的文化を思わせる場違いの人物。名は俊作兄ちゃん<配役・中村雅俊>と言った。

その山中で、雪融けの春まで、妙な組合せの3人暮らしが続いた。

退屈な山暮らしの中で、文字に飢えていたおしんは、俊作兄ちゃん<>の持物から、ある日刊行物を見つけ出した。

慌てて咄嗟に俊作は隠したが、後日それは鳳晶子<後に与謝野姓へ>の反戦歌集であり。人目に触れてはならない発禁本であると説明された。

俊作は、日露戦争従軍した陸軍下士官か何かの経歴を持ち、203高地で負傷し、今は脱走兵として追われている身であった。

俊作はおしんに文字や九九も教えたが、逆境にあってどう生きるべきかなど。人の世の中で、人としてどう生きるべきかを説いて聴かせた。

おしんにとって俊作兄ちゃんは、人生の師として第1号と呼ぶべき存在となった。

炭焼きの爺さんも小作に生まれた苦労多き半生で、頼りと目した2人の息子を戦争で先立たれた境遇から、俊作にもおしんにも優しく接する理解者であった。

やがて、雪深い山の中にも春の息吹が現れ始め、おしんは炭焼きの小屋を出て、皆に別れて実家に向かう旅を覚悟する。

まさにその日、麓から山狩りをする陸軍憲兵隊が登って来た。不意をつかれた俊作は2人の前で、たちまち銃殺されてしまった。

さて、その日露戦争だが。

日本では勝ち戦であったとされる。ニホン人は異常に勝ち負けに拘る国民性だが、それはスポーツの発想でしかなく。実際の戦争では、勝敗に関わらず一度失われた生命は戻らない。

どんな不名誉であっても平和に勝る存在はないし、正義の戦争なぞと言う言い方に意義は全く無い。

戦争は、一度始めると終らせることが実に難しい。勝ち負けなんぞ予め見透せるものでもないし、勝ち負けそれ自体に意義が無いことは既に述べた。

日露戦争は、局地戦段階で日本の国力は疲弊してしまい、以後の戦闘継続が憂慮され、敗勢に転じようとする絶妙のタイミングで、中立国アメリカが休戦調停に乗出してくれた。

ロシア皇帝は、休戦条件として何物も差出そうとしなかったが。小国にして国力の限界を露呈していた日本は、そのまま停戦に応じた。まさに天佑アメリカが、絶妙なタイミングで仲介役を買って出てくれた。

日本海海戦での世界の海戦史に残る劇的勝利旅順港解放など陸上戦での勝利など、緒戦での部分戦闘での勝利は事実である。だが、それをもって戦争全体の勝利混同・同視すべきではない。

日露戦争の結果は、軽挙妄動して安易に戦争に踏み出すことへの警告となるべき深刻さを示していた。

清国欧米列強が食い物にしたように、遅れて開国した後進ニッポンが日清戦争に手を出し、この時は運よく賠償金から台湾1島の植民地権益など想定外の戦利品を手にした。

そこで味を占めて。ロシアにも手を出したが、柳の下にドジョウがいつも居るわけがなく。

戦争が終わってみたら。欧州で募集した戦時外債が多額に残り、償還負担が戦後の財政運営に支障を招いた。

必ず勝つとの信念だけで戦争を始める杜撰さは国民性ともいうべきであろうか?過去から学ばない無反省さが常に付き纏うようだ。

だが。アトで考えると、ロシアから受取っていたものがあることに気がつく。

かつてロシア清国から割譲を受けた満州鉄道の運行権益を日本に再割譲されていた。

たしかに忘れ去られるべき中味の乏しい経済権益でしかなく、維持し続ける維持防衛のための費用負担も大きかった。

しかし、この譲り受けた権益が、後にアメリカとの対立の火種となり、日本帝国を解体へと導く火線となった。

いわゆる満州帝国の建国を招き寄せ、大きな災いとなったのである。

今日はこれまでとします