wat_hodgyの日記

2018-02-21

高尾山独吟百句 No.16 by左馬遼嶺 15:57

ゴミ出しも  少しラクなり  雨水ころ

〔駄足独語

ゴミ出しは、ゴキブリ亭主ならぬはみ出し男がこの数年超も、否、気が遠くなるほど長いこと担当している家事分担である。

持病が悪化したことをもって、70歳も過ぎてから不慮の転居となり。今の下駄履き長屋に住んでからは、共用の入口からざっと10mほどの位置に専用の一時集積場所がある。

この北陸の雨がちの土地、とにかく近いのは助かる。

雨水とは、二十四節気による。

雨水(うすい)は、暦に書いてはいないが。概ね2月18乃至19日頃で。雪が雨に変る頃の意味らしい。

立春啓蟄中間に位置する15日間くらいと理解しているが、確信はない。

旧暦による暮らしでは、もうそこに雪融けの春が迫っている感じである。

閑話休題

亭主のゴミ出しは、TVのシーンなどでやってみせるからだろう。ほぼ、固定化した日常業務とみなされていて、抗い難いものがある。まして、ゴキブリなどと修飾語が付く我が輩では致し方ないものがある

さて、今日ただ今の時点で、冬を語るべきかどうか?実は迷っている。

過ぎた冬をなどと、書くと。冬将軍の怒りを買って、この冬何度目かの猛威がまたまた襲ってくる懸念なしとしないからだ。

過ぎようとしている冬は、例年になく大雪だった。

北陸は、京都から下って、愛発ノ関(あらち 古代3関の1だが、考古学的には所在地未確定で、敦賀付近の広大な同地名のうちに所在したであろう)が、言わば南の端であり。敦賀の港<福井県>に至る。

これとは別ルートに、木ノ芽峠越えなる山がちの街道があり。これを越えれば、まさしく『越』=北陸となろう。

以上が南の端、ついでに反対の端も触れておこう。

こっちは、松尾芭蕉の「奥の細道」にも出てくる親不知・小不知の懸崖である。

よって、この間に挟まれる福井県の一部と石川県能登半島を含む特異な地形)と富山県北陸となる。

古代の『越(こし)』は、もっと広い空間概念であったろう。

この地域の気候は、言わば盆から先は雨がちとなり、その雨が雪に変り。春まで悪天候に閉ざされる。

現実にこの冬も連続66時間国道上に立ち往生した長距離トラックがメディア報道された。

近年にない”Oh雪”だった。この数年のゲリラ豪雨の降雪ヴァージョンまたはクラスター爆弾豪雪と呼ぶタイプかもしれない。

言わば、北国はどこも雪が降るゾーンだが、豪雪なる降りかたは、北陸固有のものかもしれないと思っている。

かつて、38<サンパチ>とか56<ゴウロク>などの昭和年号を冠した豪雪の記憶が北陸人にはあるらしい。

さてはて、そのような呼び方が、北陸以外の降雪地帯にあるだろうか?

寡聞にして覚えがない。

忘れた頃にやって来るから、備えがない。

従って、次に向けての備えも考えないし・対策もまた講じない。

そのような地域の住民気質が、豪雪の土壌でもあると言えないこともない。

宗教に対して熱心な風土と重なる、基調的精神風土であるかもしれない。

さて、この冬の豪雪は、どう呼ばれるだろうか?

年号は平成になっている。西暦では2018だ。

イチハチ豪雪とでも記憶されるのだろうか?

数字の8は、横に倒すと無限大の記号『∞』である。

・・・これからも果てしなく降るとは考えたくないぞ・・・

実は変ったのは、年号だけではない。

北陸新幹線が開通してから最初の豪雪だった。

北陸新幹線は、東京金沢間であるが、雪の影響を克服して、ほぼ平常運転を維持した。

新幹線以外の在来線=特に京都大阪名古屋方面への在来線特急は、相当長期間継続して運休した。

航空便もまたほぼ全航路運航しなかった。

豪雪にも関わらず、外部との連絡が途絶えなかった。

いわゆる新幹線開通効果だ。

しかし、それを利用してやって来る観光客に対する備えの方は、残念ながら旧来のまま”豪雪下の居眠り状態”であった。

スーパー&コンビニも数日間に亘って片肺の品揃え状態であった。加えて観光客への気配りなど出来る状況ではなかったというべきであろう。

ホクリクの夜明けはこれからとなろうか?

否・豪雪の朝はもう来ないことを祈ろう

2018-02-04

もがみ川感走録第57 西郷南洲・続 09:16

南洲翁遺訓の創出〜刊行に、鹿児島の地から遠く離れた旧・鶴岡藩の主従が大挙して関わっていた。

何故庄内びとは、そのような振舞に出たのであろうか?その背景を知るために、西郷隆盛の詳細な行動を押さえてみた。

慶応4・1868年9月27日に庄内藩は、官軍に対して降伏した。

これを以て鳥羽・伏見の戦い江戸城無血開城上野彰義隊撃破に次ぐ奥羽越列藩同盟軍と官軍の戦いである東北戦争が終わった。

この時点で、何度目かの戦場への出馬を要請されて、遠く鹿児島の地から馳せ参じた西郷は、庄内の地のどこかに身を置いていた。そして11月始め頃鹿児島に戻ったと言う。

北陸道鎮撫に向かった官軍が苦戦したのは、河井継之助が統治する長岡藩地と鶴岡藩が守備する庄内戦場の両場面のみであった。

西郷の役名は、薩摩藩出征軍・総差引<北陸道派遣軍司令官>であったが。この方面には総鎮撫官軍武家参謀として黒田清隆山県有朋が在陣していた。

東北戦争終結後、西郷はこの2人に対して、敗軍の鶴岡藩処分を指示してから、立ち去ったとされる。

旧・鶴岡藩の主従は、意外に寛大な処分に驚ろいた。

背後に西郷の配意があったことを知って鶴岡藩主従は、後の明治3・1870年、大挙して遠く鹿児島の地に西郷を訪ねて行った。

では何故?西郷は敗者=鶴岡藩兵に対し寛大な処置に出たのであろうか?

既に150年以上を経過した今日、西郷の内心を伺う事は難しいと思えるが。実はそうでもない。

先にも引用した大佛次郎が残した著作がある。

大佛は、勝てば官軍的なる偏りを持つことなく・幅広く史料を収集・掲載している。

天皇の世紀13巻・103〜122頁」に江戸三田にあった薩摩屋敷焼討ちのことが書いてある。

そのため、今日からでも比較的容易く西郷の肚の裡を探ることができる。

焼討ち事件が起きたのは、慶応3・1867年12月25日の深夜〜早朝であった。

その頃幕府から依頼されて。江戸市中の治安取締・住民安寧の重責を担っていたのは、譜代大名鶴岡藩とその配下たる新徴組であった。

大佛はその年の10月から江戸と関東郡部の情勢推移を描いているが。

各地で刃傷・発砲・放火などの乱暴狼藉が連発していた。

その多くは、薩摩藩の中枢が企画したテロ指令を受けての組織的後方破壊行動であった。

その実働隊を束ねていたのは、薩摩藩の家中・益満休之助&郷士・伊牟田尚平であった。

加えて薩摩藩は、天障院篤姫薩摩から公家近衛家養女を経て第13代将軍家定の御台所に入嫁>の警護を掲げて浪人を募集増徴し、ピーク500人超の悪党集団を三田の藩邸内に抱えた。

その浪人組頭目の名を紹介しておくとしよう。いずれも悪名高い面々だ

   相楽総三 = 元・旗本家臣

   落合直亮 = 武蔵の浪人

   権田直助 = 武蔵の浪人

   更にその中には土佐藩板垣退助から西郷が依頼されて引受けた

   筑波山屯集浪士の残党も含まれていた。

彼等の仕事は、市中各所での破壊行動で。市中取締隊が駆けつけると薩摩藩邸に逃込むのを常態としていた。

江戸城二の丸放火と庄内藩詰所への発砲など、相次ぐ異常事態続発に激高した幕府側約3千人の市中取締隊は、下手人が逃げ込んだ薩摩藩邸を取囲んだ。

鶴岡藩兵を中核とし大砲を備えており、幕府との打合せを踏まえて、薩摩藩邸に対し犯人の引渡を求めた。

その時、突然薩摩藩邸が炎上した。

幕府を統括する将軍慶喜は既に上京して久しく。長期間の将軍江戸不在でもあり、本来たる幕閣は、軍事組織でありながら、意思決定機能が麻痺していた。

当夜の宿直当番であった幕閣・若年寄役は、直後自死を遂げたので真相不明だが。幕府決定として攻撃命令が発せられたとの確証はない。

或いは、薩摩屋敷側が自ら火を放った可能性なしとしない。

何故なら、薩摩西郷の本意は、ありとあらゆる手段を講じて幕府を挑発し、軍事紛争に牽きずりだすことにあった。とにかく幕府を刺激し・戦闘に引込み・幕軍を軍事的に粉砕して・幕府を倒壊させ、関ヶ原以来の雪辱を図ることにあった。

真相不明ながら。薩摩江戸三田藩炎上の情報は、12月28日慶喜以下幕府勢が蝟集する大阪城に伝わった。しかも、情報が歪められており、江戸留守居の幕閣が判然たる意志をもって起した快挙であると伝わった。

大佛は、これがキッカケとなって、鳥羽・伏見の戦いへと幕府軍を駆立てたとみている。

となれば。西郷が構想した謀略は、鶴岡藩の主導が契機となって、見事にヒットしたわけである。

鳥羽・伏見の戦いは、翌・慶応4・1868年1月2日京都の南郊において勃発した。薩摩会津の間で、戦端が開かれた。

明治政変を概観した時、この戦いは本来的に必要性が認められない軍事対決でしかない。

西郷の筋書きどおり、後方撹乱の異常テロ行動が大規模内戦の口火となった。

西郷の肚の裡を知っている者は、その当時居らなかったことであろう。

筆者がここで展開した妄想たくましい推定もまた的を外していることであろう。

かくも西郷は、茫洋とした多義性を備えた複雑・不可解な人物であった。

西郷は、各方面の戦闘が終わったノチも、その都度ごと律儀に鹿児島に戻っている。

後世、明治新政府の重鎮に据えられ、陸軍のトップに就くが。彼に立身出世の意欲乏しく、恬淡としていたらしい。

最後に、彼の言を紹介して筆を置くこととする

  児孫のために美田を買わず

これは、西郷が親友の大久保利通に寄せた「偶成の詩」にある一句だと言う。

いかにも西郷の人柄を示しているようでもある。

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〔参考図書・文献〕

マニフェスト・ディステイニィは、増田義郎著「太平洋ー開かれた海の歴史」集英社新書2004刊行に拠った

明治政変に係る歴史事象は、大佛次郎著「天皇の世紀・全17巻未完結」朝日文庫1977〜刊行に拠った

米国史は、「小学館大百科全書」第1巻648頁以下の年表から筆者において抜書きした

その他の個々件名については、ウイキペディアを随時参照した