wat_hodgyの日記

2015-02-25

おもう川の記 No.46  阿武隈川の16 22:15

阿武隈川に因む人物・人脈のシリーズ第3テーマ。三春藩主たる安倍・安藤・秋田氏の系図を繙く第5稿=最後の話である。

三春領内諸家に伝わる安倍・安藤・秋田系譜では、家租を大彦命(おおひこのみこと)としている。

古代人名辞典<2巻398頁>によれば、大彦命は孝元大王皇子・生母皇后第1子にして、阿倍臣・越国造・膳臣・阿閇臣・狭狭城山君・筑紫国造伊賀臣など7族の始祖。崇神大王時四道将軍の一人として北陸に向かった<以上、書紀>。

古事記・孝元巻に、大毘古命<但し第2字”毘”は仮字、正しくは田を扁に・比を旁に置く>=孝元大王皇子・生母が皇后。その子らが阿倍臣・膳臣の租となったとある。また崇神巻に高志国に遣わされ・更に東方十二道に遣わされたが、相津でその子建沼河別と行遇った。

姓氏録・河内王朝皇別に後裔の名が多く出てくる。紹運録に建沼河別命・高橋氏租・崇神皇后=垂仁大王の母の父としている。

以上いささか長い引用だが。”おおひこorおおびこ”を安倍・安藤・秋田氏の租とすることは、引用文献からすれば、まず疑うべきでないとなる。

だがしかし、孝元大王<第8代天皇とされる>は、文献批判により欠史八代とされ実在性が疑わしい。崇神大王<第10代天皇とされる>は、欠史八代に繋がるものの実在可能性が高い大王の初代とする説がある。

次に、考古学の成果に移ろう。

埼玉古墳群(在・埼玉県行田市稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣<国宝>中に出現する”乎獲居臣<オワケの臣>の上祖名意富比脆<上祖、名はオホヒコ。但し名の第4字”脆”は仮字、正しくは扁の月を土に替える>の事である。鉄剣は1968の発掘調査で出土し・銘文は1978のX線照射調査により判明した。

ここに出現した”オホヒコ”は、上掲の”おおひこorおおびこ”と音が重なる。果して同一人か別人か?が、関心事だが。結論を急げば、容易に結論に達しえないとするのが正答となろう。

何故なら、おおは字を宛てれば”大”・ひこも”彦”でしかなく、どちらも美称に過ぎず・単なる一般名詞の羅列に過ぎない。あえて、解釈を強行すれば、立派なアレをぶら下げる男くらいの意味だ。やや危ないが、固有名詞に相当するものが無い以上、実在を疑うべしとなる。

稲荷山金銘剣が出ると、いささか脱線でも一応触れておきたいことがある。

オホヒコ以下オワケの臣まで連続8代の父子の存在が気になる。冒頭と末尾にと2度名を出すオワケの臣が、埋蔵剣の所有者=金象嵌の作成依頼者と目される。しかも銘文によれば、『辛亥年にワカタケル大王に杖刀人首<たちはきのおさ>として仕え、天下を左治した』との、大層な記事が目につく。

因みに、筆者が最初にアクセスしたのは国語学者大野晋の著書からだが、彼と歴史学者京大教授岸俊男が銘文文字解読者であったらしい。

その解読の実態と成果の発表による好事家の話題沸騰をパラレルにチェックすると、両者とも故人となってしまった今日現在においても、この地方の考古学の次元の低さに立腹すら覚える。

少し踏込んで検討してみよう

亥年を471年・531年に当てる見解があるが、埼玉古墳群<国指定史跡>の築造時期が5世紀末〜7世紀とされることから、まず相当だ。

大野晋は531年を採用している。都合9人の固有名詞に当てた漢字が当時の中国大陸でどう詠まれていたか?つまり音価を特定し・解読に結びつける立場から、より妥当なほうの年号へと傾いているらしい。

しかし、解読の問題は、歴史学の常識や考古学的成果全体との整合性を欠くことにある。

まず「天下左治」とは、即ち権力者の身辺にあって治天下を佐けること(中国・周の故事では、初代建国者・武王が先朝殷を討伐して間もなく死去したので、丞相周公が第2代幼児王・成王を補佐したとされる。我が国では、天武・持統の鴛鴦ペアが有名だが、こっちは女が男をリードしたためか「天下左治」でなく・佐けて天下を定む=日本書紀=としている)を意味する。

その点で、杖刀人首の官職はせいぜい宮殿門衛長官クラスでしなかく。”身辺近くにあって佐ける”とまでは解せないし、仮にそのような政治上の大人物だっとしても、遥か遠い地の武藏国造の墳墓群に葬られる可能性はまず無いと考えられる。それが歴史知識の常識だから、ワカタケル大王と詠むことにそもそも無理がある。

よって、倭王武に仕えたと解することも成立ちにくい。江田船山古墳出土銀象嵌鉄剣と併せ詠みして、ヤマト王権の勢力範囲を九州から東国までに及ぼす牽強付会の妄説を展開する例を仄聞するが、所詮妄説でしかない。

次に、考古学調査の経緯について踏込む。

稲荷山古墳の発掘時、墳頂に埋葬槨(かく)が2つあった。主人クラスと思われる中央部に据えられた粘土槨の方は、既に盗掘された形跡があった。よって、発掘成果は殆ど無かった。

他方の礫槨は脇のほうに据えられており、主人に仕える立場の人物が合葬されたものと思われたが、こっちのほうは盗掘が無く、多数の出土物を得ることができた。

埼玉古墳群の存在を一夜にして、世界に広報せしめた”金象嵌鉄剣”は、この副葬者と覚しき人物のほうの埋葬槨にあった。真<神>は細部に宿ると言うが、メディアが発行部数拡大を求めて?センセーショナルに報じた「天下左治」の対象者は、せいぜい死後一緒に同じ墓に入るような地域人的権力者でしかなく。列島全体を統べるワカタケル大王規模とは言いがたい人物であることが判る。

繰返すが。考古学的成果全体との整合性を保ちながら、用意周到に解読作業が行われるべきであることは言うまでもない。

象嵌文字の誤読が、稲荷山引いては埼玉古墳群全体の考古学的価値に対する正当な評価をも歪めてしまった。

仮に百歩譲ってこの考古学成果を真っ当に正面から受けとめるとすれば、天皇称号を使って無い=大王号である=ことの再確認である。

天皇称号をこの時代から使う史書は日本書紀だ。後世の架上加筆された、時代軸過早の記事に。後世の歴史研究者は、軽挙妄動してはならない。

さて、本論に立ち戻ろう

安倍・安藤・秋田氏は、秋田でも三春でも古四王神社を祀った。

こしおうの文字は、腰王・胡四王・高志王・越王など色々当てられる。新潟在住の歴史研究家桑原正史氏によれば、新潟県東半分から山形秋田岩手宮城福島の各県に判明分だけで96の神社があると言う<河北新報1980.11.3日付記事>。

筆者の知るは、秋田城の古四王神社山形県西置賜郡小国町大滝の古四王神社だ。

後者については、青葉高著の「野菜」319頁と「小国町史」1966小国町発行に詳しい。

小国町史96〜106頁に、約20箇所の神社分布を図で示し。西村真次氏や竹越与三郎氏の学説を引用して、古志族の渡来・古志族が携えて招来した太古のコメ=古志種について詳しく記述している。

ある驚きをもって、ここで紹介したいのは、古志族は中央アジア発源のツングース遊牧民であること。朝鮮半島の北半部に高句麗建国したが、軍事的圧迫を逃れてボートピープル化し、安住の地である列島に渡来した。その末裔が祀る神が「こしおう神」であると明記してあることだ。

蝦狄<カテキ>と蝦夷<カイ>の区別は、鎌倉時代以降曖昧になっているが、上掲2著に従えば、三春藩主家の安倍・安藤・秋田氏は、蝦狄の王者格に当る名家と言うことになるようだ。

最後に、三春たる地名の由来だが、春の代表的名花=ウメ・モモ・サクラの3つが、一度に花開く土地であることに因むと言う。

あの高名な滝桜の並びなきスケールの地にふさわしい地名でもある。