もがみ川感走録 第23 川魚

もがみ川は、最上川である。
最上川の特産物を採上げるコーナーである。直前の稿でサトイモとカブを掘下げてみた。
因みにサトイモとカブは、最上川流域の・つまり最上川の川水が地下水となって、潤す土地が産み出す産物だ。いずれも他の地域に見られない特異な産物として紹介した。
今日は、バランスを考え。最上川の川そのもが産み出すモノ=川魚を採上げようと、力を入れて探ってみたが。筆者の力不足を認めざるを得ない経過となっている。
これまでの経験を思い出してみる。酒田市内の大衆小料理屋で粋のよいシャケ料理を食べている。
よって最上川のどこかで、食材と言い・調理の水準と言い、申し分の無い題材に行き当たれるものと思っていた。
しかし、今のところ苦心惨憺するも当りがまったく無い。困った困った
シャケの話が出たついでに、かつて筆者がシャケ買いした事がある人工孵化場の話題に触れる事としたい。
シャケに因む川の名は、月光川に日向川である。
いずれも山形県飽海(あくみ)郡のうち・つまり酒田市の北に位置する小河川である。
狭義に言えば、最上川の領域外となるゾーンだが・・・・
月光(がっこう)川と日向(にっこう)川とは、2川1対として命名されたと述べる本がある。俄に決めがたいが、月光・日光の両菩薩は、薬師如来の脇侍を勤める仏像<三尊形式>だ。鳥海山修験道との関連をあながち否定すべきでないようだ。
日向川の方は音声によらず字形に注目したい。「光」でなく「向」の字であることをお忘れなく。
ところが、更に厄介なのが、かの有名な吉田東伍の『大日本地名辞書』だ。「月向川」と書いてあるから、なんともややこしい。
どちらも秋田県との県境を成す鳥海山の南麓・美田揃いの穀倉地帯たる庄内平野の北端を形成する2つの流れだが、人工孵化場のあるのは、北のほうを流れる月光川である。
対する日向川のシャケだが、その昔遡上していたとする伝承のみ残る。
人工河口に切替するための工事をした6年間(安政5・1858〜文久2・1862)の間に、寄り付かなくなったらしい。
2つの河川とも、その河川延長は20kmに満たない長さでしかないが、暴れ川としては有史以来流域住民を悩ませて来た歴史をもっている。
河口と水源域との標高差が大きくかつ河川長が短い・つまり流れが急峻である事が背景にある。
月光川は、河口付近でその名を吹浦(ふくら)川と変えるが。河口付近にある海岸温泉から見上げると、玲瓏鳥海山の山頂は、東北東わずか直線約15kmの近さに聳えている。まさに指呼の距離だが、吹浦は情報をくださる福吹寿老の居住地。その地を訪ねて何度も高峰を見上げた昔を思い出す。
因みに、その鳥海山だが、庄内平野・本荘平野=南・北のいずれサイドから仰ぎ見ても秀麗な山容であり。
地元では親しみをこめて”出羽の富士”と読んでいる。標高2,236m 日本百名山、花の百名山、地質百選、日本百景に選ばれている。ただ、あまり真下にいると、忘れた頃突然として噴煙を垂れ流すことがあり。暴れ牛の恐さを憶いださせるものがある。
浦川近くの海岸もそうだが、日本海岸は白砂青松のコトバどおり、いずこも松の緑が延々と続き、癒される。これもまた聞いてみると、長年の人工の業、先人の血と涙と汗の結晶なのだと言う。
日本海の荒波と強風は、とくに冬の季節が恐ろしいばかりだ。渚寄りの海岸が、最も高い砂丘になっていて、後背=風下側の農耕地を見降ろす景観である。
それ等日本海岸固有の地形・景観は、荒波と強風が長い年月の間に造り上げたものらしい。
その飛び砂により、内陸の田んぼや畑、時に町並みそのものが、砂に埋められる事を防ぐために、防砂林として松林を植え・育てたという。
まだある。荒波が河口川底の砂を押し上げ。ある日突然に、漁船が、海に出られなくなる不都合があったらしい。
現代では、度々の浚渫工事を回避するため、外海に張り出させて外港堤防を構築する事が多い。素人目には、河川規模・停泊船舶数に比べて、やや過大の囲い海面を見かけるのは。そのためらしい
最後に日向川の由来を簡略に述べる。
酒田市米島付近で、支流=荒瀬川と合流する。荒瀬川方向に少し遡ると、酒田市郊外の水田地帯の中に城輪(きのわ)なる難読地名がある。
地名からも連想させるが、その地は出羽の柵址<古代の城柵遺蹟>・出羽国府跡<律令官衙遺蹟>と比定される。
戦前・戦後数度の発掘調査により広大なスケールの地下遺構と土器類・文様瓦などの残闕が出土している。なお、現地に官衙形式をイメージさせる復元風建造物が建っている。
日向川の下流は、国道7号線を北方向に横切ってから、西にある日本海に注ぐ。
藩政時代の河口付替工事について上述したが、やや詳しく述べると、幕末の頃・工期6年・延べ人員20万人を投入して、高さ30mの海岸砂丘を幅300m・長さ2.5kmに渡って切り崩したという。
その人工放水路構築以前の日向川は、北流にターンするポイント付近<酒田市下市神>で、逆方向の南に流れていた。
当初の河口は、小湊または古湊だが。この旧河口は現在の工業港=酒田北港の区域内であるとされる。
この新・旧の川筋である地一帯には、別名がある。宮海(みやうみ)と呼ぶ、やや広い地域呼称である。
この地の中心商業港湾は、上古・古代〜近・現代を通じて酒田港だが。
古代律令期に、専用官港があったものと筆者は考えている。民間人が使用する港とは別に、班田租税米などを積み出す官港が、出羽国府比定地から直線<ほぼ平地移動>距離にして約7km弱の位置に設けられたと想定したい。
序でながら、他所に類似例がないかと考えてみた。
越前国府<比定地は福井県越前市。2005武生市今立町が合併>に付属する官港として、河野浦(こうのうら 2005より福井県南越前町)が、該当する事に気がついた。
河野浦は、敦賀湾の湾口部に立地するごく小さな海港だが、敦賀より海上20kmほぼ真北方向に位置しており。国府比定地との直線距離は約10km強の低地丘陵越のルートとなる。
しかし、港としてはごく小さく、敦賀港が持つ圧倒的商港地位には及ばない。
その河野浦とは、つい先日再対面した。
トランヴェール3月号60頁(JR東日本のサービス誌。3月14日開業延伸した北陸新幹線の車内備付け広報誌)に、”北前船主の館・左近家”とあり、河野浦の認識を深める契機となった。