wat_hodgyの日記

2016-06-28

もがみ川感走録第54  阿古耶の松 23:49

もがみ川は,最上川である。

今日は、阿古耶の松を訪ねて,山形市を語る。

阿古耶(あこや)の松とは、歌枕で知られた地名だが。現在では、千歳山の地に建つ万松寺こそが、その場所であるとされる。

そもそも阿古耶とは人名である。阿古耶姫に由来し。寺に墓があると言うが、その出自は藤原豊充の娘であるとされる。

豊充は、かの高名な藤原鎌足の曾孫に当る人物だと言う。祖父不比等・父が武智麻呂<むちまろ 藤原南家の祖>であり、言わば日本古代史の中心を占めるサラブレッド家族だが。何故か?豊充は、鄙びた山形陸奥牧主として滞在したと言う。とかくこのような地域伝承には、検証不能の有名または無名の人物が、豪華絢爛なる肩書を纏って多出するものだが。阿古耶姫と藤原豊充の娘父にもまた該当する、格別に豪華な構成を誇っているようだ。

さて、阿古耶姫だが。絶世の美女にして・琴の名手であったから、夜な夜な都人士の様相の壮夫が現れ。二人は恋仲になったが、ある日忽然と別れを告げる事態となった。

壮夫が語るに。姫の弾く琴の音にほだされて、姿を替えて人の形で身を表し、遂には将来を語る間柄となったが。実は、千歳山の嶺に立つ老松の精霊であった。

この度伐採されて、名取川の橋材にされることとなり、もう会えない。旨を告げ,忽然と姿を消した。

阿古耶姫は、驚き、嘆き悲しみ。終生千歳山の麓に留まり、庵を結んで、松の霊を供養し。終にこの地で亡くなったと言う。

いわゆる歌枕「阿古耶の松」に纏わる名所=山形市千歳山の地に伝わる伝承だが。千歳山の山容は秀麗である。

さてここで、歌枕の意味を型通り述べておく。

まず、古くから数々の歌に詠み込まれた名所の地が「歌枕」であり。

第2の意味で、「歌枕」は歌人のために編まれた名所案内書をも指す。

とかく詩歌の世界は、史実の究明とは一線を画すべきであろうが。藤原豊充については、一説に信夫郡司<陸奥の国、現・福島県>とする例があるが、この男の実際の出自は不明である。

ここで例によって脱線だが。

阿古耶姫の没年が、古伝承のとおり慶雲年間=8世紀初頭であるとすれば。藤原姓を僭称するメリットは、さほどに無かったものと考えられる。その点からも後世になって架上・修飾された伝承であろう。

脱線ついでに、藤原豊充の職掌に触れる。

山形陸奥牧が置かれたかどうか?だが、実は決め手を欠く。筆者の立場は、懐疑的だが。あるとも・ないとも決め難い。

ただ、後掲の信夫郡司であれば、漠然とだが、さもありなんと考えたい。と言うのは、信夫郡は、陸奥の国の南端に位置し、古代から繊維産業が隆盛した。すぐ南の化内の地=常陸の国と接しているが、藤原氏=厳密には、始めは中臣氏、後に藤原姓を賜り、政治に関与する一部家系が藤原を独占的に名乗った。しかし、当初からの中央貴族ではなく。本来は常陸鹿島を本貫地とする地方出自の豪族であったろう。

更なる脱線だが。

筆者は、鎌足を実在した人物とは考えない。

鎌足の子であると名乗る不比等が創作した人物像であり、完全無欠の能吏型高級官僚として祭り上げられ理想化された架空偶像であろう。

不比等が政治上の実権を握った時代。つまり持統天皇の血統を引く王朝は、大宝律令を制定したり・日本書紀を編纂したり・伊勢神宮を制式化したり。日本歴史の根底を成す神話ストーリーを自在に構想した時期だが。

諸々の不比等創作神話は、実在しなかったと斥けるのが相当である。

天孫降臨などに至っては、持統王朝の皇統に生じた家族間の承継(祖母から孫への相続は,間を繋ぐべき子が夭折し、不在となった事の反映)を、そのままあたかも天上の意志であるかのように偽装した。荒唐無稽の捏造神話なのだが。1,300年も経過して、特定のイデオロギーを背負った宗教家軍事集団によって、史実であるかのように喧伝される不幸な時代があった。再現しないことを切実に危惧される昨今ではある。

いささか念入りの脱線だったが、そろそろ本論に戻る。

それから約300年後のこと。歌枕「阿古耶の松」を探し求めたが終に果さず、生育地の都を遠く離れた陸奥の国・笠島道祖神<現・名取市笠島>の前で、馬から落ちて急死した不運な男がいた。

名前を藤原実方朝臣(ふじわらのさねかた。生年不詳、999没。従四位上 左近衛中将 枕草子作者である清少納言の夫とされる)と言う公家御曹司である。若くして和歌の名手として知られ、小倉山百人一首にも『も草』を詠み込んだ歌が採られている。

彼は山家集奥の細道にも出現する・知る人ぞ知る著名人だが、時の天皇から「歌枕を見てまいれ」と命じられて、遠く陸奥に旅立った。

彼は歌枕を訪ねて、陸奥の国中を探しまわった。しかし、「阿古耶の松」だけは見つからなかった。

実在する阿古耶の松を見つけられなかったことに、有名なある”落ち”がある。

和銅5・712年出羽の国が置かれた。その際,越後の国・出羽郡に、陸奥の国から置賜・最上の2郡を割いて・併せて、出羽の国にした。

よって、長徳元(995)年に陸奥国守として実方朝臣が赴任した時には、阿古耶の松は出羽国のうちであったから、見つからないはず・・・・とまあ、そんな”落ち”となる。

日本紀略源平盛衰記今昔物語集・撰集抄など、あちこちに登場するが。

実方の不運は要するに。

公卿目前の殿上人ポストで左遷されたこと。任地で最期を迎えたこと。若くして才能ある美男子として生まれ時の寵児であったが早く実父に死なれ不遇であった事。時代が丁度源氏物語&枕草子が成立した道長全盛期に当り、傍系の家系でもあり・反道長派の皇族と親交を結んだ事から官人としての昇進は閉ざされた事。などが指摘される。

なお、ここで言う”公卿”とは、公家の最上級官人層のことであり。三位以上の太政官職位にある者を指す。実方は三位目前の四位であり・しかも左近衛中将なる武官府の武人職=顕官たる

太政官職位でなかった。

ところで、実方に陸奥下向を命じた天皇は、一条天皇<いちじょう帝 980〜1011。平安時代中期第66代・在位986〜1011>である。当初の中宮<後に皇后へ>定子は、清少納言が仕えた主として有名だが。その出自は、先の関白・兼家の長男である時の関白・道隆の娘として入内した。この頃この一族は権力に直結しているからか?異常近接しつつ関係が輻輳している。一条天皇の母=詮子は兼家の娘、よって、姑と嫁は互いに叔母・姪の関係だ。

先の関白・兼家は苦労して、最晩年に権力を握ったが、表舞台に立った期間は、僅か3年間と短かった。

兼家には3人の息子がいた。道隆・道兼・道長の3兄弟である。父のアトを継いだ時の関白・長兄・道隆は権力在任5年目に病死した。さらに後継となった次兄・道兼は、関白就任の7日目に急死した。

長徳元(995)年 ついに末弟の道長が、欠ける事のない望月のエースとして全権を手中にした。邪魔者となる兄・故道隆の嫡男=伊周(これちか 道長とは叔父・甥の関係)は、太宰権帥に任じて遠く九州に追いやった。

さて、中宮定子だが、父の道隆に死なれ・兄の伊周も九州に去り、身辺は急速に寂しくなった。最後に権力者として登場した叔父の道長は、娘の彰子<=定子の従姉妹(いとこ)に当る>を中宮に据え、定子皇后に直した。

一条天皇をめぐる2人の女性の対立は、現代では源氏物語&枕草子の作者相互間の代理戦争として捉えられがちである。源氏物語の作者である紫式部は、中宮彰子に仕える女官で、枕草子の作者たる清少納言と並ぶ才女として、当時からこの2人はライバル視されていた。

さて、実方が、元輔の婿になって詠んだ歌と言うのが、拾遺和歌集に載っている。

この元輔とは、清原元輔のことで。清少納言の父である。よって、清少納言と実方朝臣とは、夫婦の関係にあったことになる。

予定した稿は以上である。余白も少ないが、脱線を少々

まず、実方左遷説の信頼度だが、疑問視する見解がある。

「歌枕を見てまいれ」なる言葉は、発せられた状況もやや漠然。

形式罰としての遠島ではないが、事実上の刑であると見れない事もない。

状況とは、ライバル関係にあった藤原行成との抗争だ。公家の冠を奪い・投捨てる行為は、かなり悪質な無礼に当るもので、譴責処分相当と言える。しかも相手の行成は、一条天皇道長のラインに直結する有力官人である。

以下は左遷でないとする見解。

当時、国守の職は美味しい立場になることを意味した。現地赴任する事は、経済的対価を長期に亘って確保する機会をもたらした。売官が流行した時代だから、まさにその通りだ

その点で、陸奥の地は、最遠地で・苦労も危険度も高かったが、黄金・鉄資源・馬・鷹・鷹の羽・海産物類などの物産豊富な地域であった。姻族に当る清原氏の縁故地または近隣地でもある。

しかし、実方は宮中で起した悪事のほとぼりが冷めて都に戻される前に・上手に立回って任地で荒稼ぎする事もないまま急死してしまった。

最後に、山容秀麗な千歳山を抱く地である山形市を概観してみよう。最上川との関係で言えば、須川・立谷川・馬見ヶ崎川を経てとなろう。

歴史に名を表すのは、正平11・改元して延文元(1356)年 出羽按察使(あぜち)・斯波兼頼(しばかねより)の入部・築城の後である。

その子孫たる最上義光が、57万石の大大名になり、城下整備に尽力したが。彼の死後間もなく改易となり、ほぼ徳川幕府直轄もしくは旗本譜代領とされた。その後領主交替が目まぐるしく幕末までに13回の多きに亘り、保科正之を例外として不遇な転入大名が目立つ。

筆者の偏見で、3つにチャームポイントを絞ると。スキーの蔵王・蝉が啼く立石寺・秋晴れの下での芋煮。

歌枕と鉱山先進域ヤマガタの繋がりもまた、古くて新しいテーマである。

日本列島経済後進性から脱却して既に久しい、加えてコスト面と外国為替上の課題から我が国の全ての鉱山業は競争力低下による休止状態が長い。しかし、石油産出も加えて秋田新潟山形の三県は、日本最大の鉱山先進域である。

ただ、地下資源の場合、埋蔵量に達し、資源枯渇〜休山閉鎖になった時点で、急激に忘れ去られてしまい。歴史の闇に消えてしまうことが早い。

今回の舞台である千歳山も、そのような事情があるかもしれない。

角川源義が、『歌枕考』の中で、意味深長な言葉を残している。

・・・蝦夷征伐の軍事的、政治史的考察こそが、歌枕研究の要であろう・・・と

筆者的理解であると限定しておこう