wat_hodgyの日記

2016-11-27

北上川夜窓抄 その27<実方と歌枕c> 作:左馬遼  16:42

時は平安中期、西暦紀元1000年の頃のことである。

このシリーズ内・部門稿の記述も想像以上に手間取ってしまい。今日が第3稿である。

そこで、<実方と歌枕>なるパーシャル・タイトルを、今日思いついて俄に追加した。

さて、懸案の清少納言が登場する。

実名は不詳である。

貴族階級に属するが、当時の女性はまさに、〔 姫=秘めの存在 〕であり。

父母が呼ぶ実名が、公にされることも、まして記録文献に残されることも、またなかった。

清少納言の場合は、当時有数の高名な才媛で。女官として宮中勤めを果しながら、なお実名は謎だから、当時の女性の扱いが如何に現代と懸離れているか理解できよう。

生没年もまた不詳である。

その活躍の時代が、藤原実方藤原道長源氏物語の作者とされる紫式部と重なることが知られ、枕草子の作者とされる。

その枕草子だが、現在伝世する・有名な文学古典だ。

あくまでも筆者の個人的見解ではあるが・・・・

如何に当時から「紙=草子」が、貴重品であったにしても。一介の女性の枕元にあった、単なる書き付けメモの類いが、後世に残り・世に広まるであろうと、当人は想像したであろうか?

つまり、枕草子普通名詞でしかなく。日記として伝える意図を以て創作された資料と見るべきでない。従って、現代残る枕草子全文を清少納言の実作と見る事に異を唱えたい。

さて、本論に戻ろう

清少納言なる呼び名の由来である。

一説に生家=清原家の家格が、少納言相当だからとする見解がある。

出典根拠が不明であり。家格なる考えが、何時頃に成立したのかも判然としない。

おそらく後世の命名であろう。因みに清原氏は、延暦23・804年臣籍降下した家柄である。初代が舎人親王の孫に当る皇族出自系だ。

次に、歴史文献などから復元された彼女の生涯を略記する。

天元4・981年陸奥守・橘則光(たちばなののりみつ)と結婚し、嫡男=則長を産んだ。

その後離別し、一条天皇中宮定子のもとに出仕して、約10年間女官を勤めた。

更に、摂津守・藤原棟世と再婚し。歌人として知られる小馬命婦を産んだ。とされるも、その時期は不明である。

枕草子第299段に、有名な香炉峰の雪についての記事があるが。漢詩「白氏文集」にある故事を踏まえて、ソツなく対応した才媛として、その名声は、一挙に宮中に伝わった。

当時の女性に漢学の素養は、求められておらなかったからだ。

しかも、後世的理解では、清少納言が仕えた中宮定子サイドは、新興・隆昌著しい道長サイドに追い上げられて、没落の一途にあったらしい。

しかも、道長が率いる政治集団は、最期の勝利を勝ち得たが、その女官団の中に紫式部がいた。

この2人は、当代の相並び立つ2大政治集団の代表たる才媛として、後世必要以上にフィーチャーされ過ぎた感がある。

平安中期の三十六歌仙とされ、歌の名手でもある。

  よをこめて  とりのそらねは  はかるとも

     よにあふさかの  せきはゆるさじ

これは、小倉山百人一首のNo.62に採られている。後拾遺和歌集より

藤原定家は、併せて。No.36に清原深養父(=清少納言の曾祖父) No.42に清原元輔(=清少納言の父)の歌を選んでいる。 

実方とは、歌での縁から恋愛関係に及んだのであろうか? 

さて、余談だ。

まず、生家である清原家の家学=貴族の家に伝わる職業としておこう=は、明経道である。

そのような家系に生まれたから、清少納言漢詩文に長けていたのであろう。

また、明経道は、大学寮の4大修業過程の1だが。後世の清原家が儒教に関与している。このことから、明経道の何たるか?を推定してもらいたい。

因みに、大学寮は、我が国律令制における官吏登用のエリート育成プログラムだが。このような中国由来の学問などを家門職制とする家系から出世して、実権者に登り詰めた者はまず見当たらない。

しかも、縁故主義が幅を利かすシマグニ=エスニック・ローカル社会には、結局 科挙制 は導入されなかった。権門ルートに連なる縁者が、高位高官を独占世襲する。これがシマグニ・ルールとなり・当然視する風潮が根づいた。

更なる脱線だが、清少納言の最初の夫が属した橘氏<たちばな・うじ>も、大学寮に関与した家系である。

橘氏の初代は、皇族美奴王<みぬ>と県犬養橘三千代<後に藤原不比等の妻となる>との間に生まれ、臣籍降下の際に母方の姓を継いだ。とされる

なお、橘氏は、古代以来の4大賜姓の1だが。大仏開眼で知られる聖武天皇の頃、政権首座の地位に18年間も在職したものの、その後裔は忘れられた。

さて、脱線の最後に、東北の清原氏について述べておきたい。

陸奥話記」によれば、出羽仙北俘囚主との前書があり。

前九年役において、陸奥守・源頼義に応じて、陸奥国奥6郡を支配する豪族安倍氏を撃った。その功績により、康平6・1063年清原武則が、鎮守府将軍に任じられた。歴史家=今村義孝氏は、鎮守府将軍陸奥国軍政長官職と解し・在地豪族が任じられるのは異例としている。

その後、清原氏の内紛に端を発した後三年役で、清原氏源氏対立した。

戦後 奥州の支配権は、いわゆる奥州藤原氏に移った<初代の藤原清衡清原氏と姻戚だが、母の再嫁先を撃破した>。

今村氏は、在地豪族の清原氏を中央の清原氏とは別家系とみているようだが。同系とみてよいと、筆者は考える。

ところで、筆者は、前九年・後三年なる地名に出くわして、いささかニヤリとした思い出がある。いずれも数年前の出来事だが、前九年の方は、盛岡市内をドライブ中に、偶然発見した交差点の名である。

他方の後三年のほうは、ややっこしい。JR奥羽本線の駅名である。”ごさんねん・えき”では、『ごさんねんのえき』と1音違いだから、紛れやすい。

ところで、敗れ去った清原氏の本拠だが。通説は、秋田県中南部横手市周辺とする。文献には「ぬまの柵」などが出てくる。

一方、大仙市払田に払田柵<ほったのさく>がある。筆者は何度も訪ねているが、主丘の正面から見える鳥海山の眺望は凄みがある。この遺蹟払田柵は、実は地名から援用した暫定的仮称とも呼ぶべきものである。

と言うのは。水田耕作中に地中から発見された木柵の連続群を発掘し続ける過程で、ほぼ全貌が解明された。言わば、考古学的成果が先行した遺蹟だが。比定すべき文献施設が未だ見つからず、該当する既知の古代遺跡のどれに当るかが確定していない、言わば”幻の柵”である。

筆者はズブの素人だが、位置的に清原氏の属将が拠点とした可能性を考えたい

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遺蹟・払田柵の主丘部・遺構から鳥海山を撮影した

陸奥話記 (古典文庫 (70))

陸奥話記 (古典文庫 (70))