wat_hodgyの日記

2017-07-24

高尾山独呟百句 No.10 by左馬遼嶺 00:09

沖にシマ  白雲青海  胸さわぐ

〔駄足呟語〕

先月は、ひょんなことから沖縄に行った。

着いた日が、沖縄梅雨明けであった。晴天に恵まれ、よく歩いた。

沖縄訪問は、昨年の暮れに引続いて2回目だが。観光など自由な時間があったので、事実上最初の訪問となった。

あの2段ブルーの海の色は、このシマ独特の光景だ、美しい。

海の向こうのニライカナイの世界は、想像に及ばないが。

ウタキ<御嶽>とノロ<御巫>の構成による精神世界は、この度世界遺産登録成った沖の島と重なるものが多々あるように想えた。

ウタキからは、金製や緑色玉製の勾玉も出土している。

ノロの果す役割から、古代の卑弥呼(ひみこ)像と重なる印象を抱いた。

邪馬台国の所在地候補としての沖縄琉球を直感した。

やや時代は下るが、ここで琉球王国国王と聞得大王<きこえのおおきみ>の関係が、邪馬台国ヒミコと男王の関係を彷彿とさせた。

沖縄は、第二次世界大戦太平洋戦争の最後の地上戦が戦われたシマであったから、歴史的文物の多くが既に失われた。

現存して沖縄象徴するもの。それは県立博物館にある「万国津梁の鐘」(ばんこくしんりょう)が、その代表であろう。

国の重要文化財でもある。

表面には、琉球相国寺の僧が選んだ漢文が刻まれ、1458年琉球国王が造らせた意図が伺える。

立国の国是。大陸中国・半島韓国・列島日本との中間に位置する海陸交通の好適地であり。それを利して貿易盛んな海洋国として立つことを高らかに唄っているようだ。

夜光貝とその加工品である螺鈿細工もこのシマの特産だが。

これ等南海産の大型貝は、権力者が持つべきものとして珍重された。

列島各地の上代古墳副葬品の発掘例=考古学的な成果から伺える。

閑話休題

古希を過ぎて沖縄に始めて足を踏み入れたとは、大いに遅きに失する。

これまでの縁故地であった新潟金沢との絡みで、以下に沖縄俯瞰してみよう。

まず金沢だ ・・・ (1)富山売薬とその略史

わが故郷の家に置きクスリがあった。少年時代に体調を崩すと、まず家の片隅にある紙の箱から、紙の袋に入った飲み薬が出てきて、服用させられ、朝を待った。

置きグスリは、富山の売薬さんが、預けて行く。

その後 年に2回ほど廻ってきて、使った薬代を精算し・補充薬を置いて帰った。

たまたま居合わせる子供には紙風船などをくれた。

このような行商のやり方を「先用後利」と言い、富山売薬商・仲間組に雇われた行商人固有の訪問セールス手法であったようだ。

その行商人が持歩いた懸場帳には、置き薬の名称・配置数、預け先の住所・氏名・家族構成など周辺個人データが記載された。

懸場<かけば>とは、今日で言う商圏だが。最盛期と想われる幕末期には、列島全体を22ブロックに区分し、22の仲間組が藩庁の管理下で運営され、行商人の数も4千人を超すと言う。

まさに出稼ぎの国である。

富山売薬は、漢方薬の類であり。交通至便・西洋医学コンビニドラグストアの現代では、その持つ効用が失われつつある。

おい。富山売薬は富山だろう。金沢ではないよ。

その通り。しかし、それは明治よりこっちの常識である。

富山なる地名は、江戸時代に存在したかどうか?ここでは明らかにしない。

後述する越中薩摩組は、研究用語らしく。薩摩に出入りした者達は、富山を隠し八尾から来た者と唱えたと言う。それほどに、ザビエルが上陸した薩摩の地では浄土真宗アレルギーが強く。日本海側地域を嫌悪したらしい。

八尾であれば、詠みは異なるものの河内国(=現・大阪府)にも・越中国にもあるから紛れやすい。

あの悪名高い明治期の廃仏毀釈もまた、そんな薩摩心情に由来した歴史上の大誤算であったかもしれない。

加賀本藩城下町金沢>藩・前田氏は、加賀能登越中の都合三国の大守であった。

加賀藩第3代藩主・前田利常は、藩領を分割し、次男のために支藩を開き、石高10万石・城持ち大名に据えた。

本藩支藩とも転封されることなく幕末まで存続した。

支藩は、神通川流域に拠を持ち、富山藩と呼ばれた。

立山連峰など列島有数の高山群を背後に持つ富山平野神通川流域は、洪水多発もあり、当時の基本経済財であるコメの生産は振わなかった。

国内平和に推移した徳川幕藩期、列島全域に約300の大名が分散配置され、藩領内は政治・経済的に自律統治された。

支藩富山藩は、財政的に常にピンチであり。殖産興業を積極的に図る必要があった。

富山売薬は、その地に製薬産業を興し、結果的に成功し、現代に続く地域産業へと発展した。興業・存続・定着するまでに長い間の創意工夫と粘り強い努力があった。

以下に簡略に述べるのは、売薬盛業の契機となった江戸城腹痛突発事件である。

時は、1690年。処は、江戸城内。

関ヶ原戦闘から90年・大阪落城からは75年が過ぎていた。

大名の子は大名の身分世襲制は定着し、殿さまにとって、参勤交代江戸に上り・江戸城内で将軍に拝謁することが、最大の役務である平和な時代が定着していた。

その城内で緊張のあまりか?腹痛を催したのは、何と陸奥国・三春藩主石高5万石 現・福島県。滝桜で有名)にして、第2代・秋田輝季(あきたてるすえ 1649〜1720)。

その急場を救ったのが、前田正甫(まえだまさとし 1649〜1706 第2代富山藩主)。

クスリの名は、反魂丹(はんごんたん)であったと言う。

もちろん効果はてきめんであったろう。忽ち癒えて、秋田輝季は、年に何度も無い大役を美事に果たしたことであろう。

携行薬の話とその効能の話は、じんわりと江戸城内から城詰めの茶坊主を経由して各所に詰める300諸侯の耳に入ったのであろう・・・各藩の登城日は分散され・詰め所も江戸城内に7ヵ所ほどあり・表高に応じ異なっていた

領内経営に熱心な殿さまにとって、我が身の保身もさることながら。領民とくに毎日農耕作業に従事する百姓の健康管理は、重大な関心事でもあった。

かと言って、領内の財貨がクスリの代価として藩外に流出する。それは回避さるべし、クスリも欲しい。その兼ね合いが痛し痒しであった。

では、富山売薬が江戸期に一世風靡する前、民間薬は、どうであったろうか?

実は庶民レベルの生活は、解明されてないのが。この国の歴史である。

以下は、筆者による勝手な想像だが。修験者が民間向けの和漢薬を持歩き、需要に応じて頒布していたことであろう。

そのクスリの名は、陀羅尼助<だらにすけ>と言い。役行者<えんのぎょうじゃ 修験道の祖>が1300年前に開発したと言われる。

文武天皇の治世に疫病が大流行した時に、広く用いられたらしい。

現在は、奈良当麻寺<たいま・寺>・中之坊で入手することができる。

藩外からの売薬購入のニーズを受けて、富山藩では、”他領商売勝手”の令を発布し、藩民の領外旅行や領内産物である和漢薬の領外持出=他領での販売を自由化した。

富山製薬のシーズは、地域の伝承によればこうだ。

16世紀中頃、唐人座があって、製薬が行われていたと言う。

産業になるほど盛んにしたのは、殿さまの力だと言う。

藩主・正甫は、生来病弱であった。幼少から和漢薬に興味を持ち、あれこれ合薬の研究に熱心に取組み、反魂丹の基剤となる自家薬を開発させ・常時携行していたと言う。

自前の個人薬を印籠に容れて腰に吊るす、用意万端いつでも・どこにでも行く。如何にも殿さまらしい豪勢さではある。

他領への行商人立入りも、トップセールスを利用したか?

ターゲットの藩領を統治する大名に対して、藩主・正甫から江戸城腹痛突発事件を話題にしながら、やんわりと申し入れたのではないだろうか?

全国300藩すべて他領往来禁止<=パラダイム原則>の時代だから、トップ・ダウンでタブーを切り拓く意味と効果は大きかったことであろう。

ここまで書いてきて、まだ沖縄とのパイプは見えない。

売薬は、クスリ九層倍と言う言葉があるくらいに、利幅は大きい。

さればこそ、製薬コストは極力ダウンする必要があった。

製薬原料である薬種は、国産のものもあったが僅少。基幹材は、唐産の生薬などであった。

当時、唐もの薬種は、大阪道修町(どしょう・町)から仕入れていた。

いわゆる長崎出島口ルートの幕府官許貿易による将来物であったから、量的制約と価格高留まりは、必定であった。

富山売薬が飛躍するための障害壁はそこにあった。

(2)越中薩摩組と密田家の概要

その壁を見事にクリアーした集団があった。

列島中に総数22あった売薬仲間組の一つ”越中薩摩組”の暗躍である。

薩摩は、列島最南端を領有する大藩で、領主島津氏は、薩摩大隅・日向の三国と奄美諸島を統治する大守<幕藩期を通じて石高は56〜72〜77万石で推移>であった。

最も奥まった九州南端鎌倉期以前から継続統治した島津氏だが。その領地地理特性を概観すれば、火山性シラス土壌の台地が多くて。幕藩期の基幹的経済財であるコメの生産には不適であり、参勤交代の導入により、財政的に一層苦境に立たされる遠隔・僻地の大大名でもあった。

その遠地に売薬行商人が他領から入って来ることを、薩摩藩は全く許そうとする気配がなかった。

薩摩藩の財政は、富山藩以上にピンチであったので、藩外から行商が入ることなど、聞く耳持たずの状態であった。開かずの壁は、とても高かった。

しかし、途は探せば、見つかるもの。

時に、島津重豪(しまずしげひで 1745〜1833。第8代幕藩大名・氏の主第25代。当主在位1755〜87。隠居後も在世中は院政を敷いた。お家騒動多発の因か?)が、登場した。

この時(文政期・1820年頃)、藩の借財既に500万両のピークに達していたと言う。

重豪は、加治木・島津家より入婿し。齢11歳で城主となった。後年隠居後80歳を過ぎてシーボルトと会見するなど世に蘭癖大名と呼ばれた人物だ。

最大の業績は、調所広郷(ずしょひろさと 1776〜1849)を抜擢し、財政改革を成し遂げさせたことにある。

因みに、その成果だが。藩の金庫に正価250万両が所蔵されたと言う。

時は天保11・1840年藩主は斉興(なりおき=重豪の孫。第10代・氏主第27代)に代っていた。

ここで振返るとしよう。

宿痾とも言うべき長年の放漫な藩財政の赤字累積が、僅か20年程度の短期間で解消し・しかも豊富な蓄財に転じ、遂には幕末期の活発な軍事活動の礎になった。

いくら”ズショ・マジック”でも、話が出来過ぎではないか?おおいに眉唾だと想いたい。

しかし、事実は小説よりも奇なりである。

ここに富山売薬が絡んでいたとなれば、話は盛上がりそうだが。それは史料が乏しいので今のところ立証困難である。

説明できるストーリィはこうだ。

鹿児島藩島津家領地に、奄美諸島奄美大島徳之島があった。更に1609年以来武力統制下に置いていた琉球王国があった。

この2つの地域の特産物サトウキビによる黒糖琉球口経由の唐物輸入。この2つが財政再建の主役であったらしい。

黒糖増産のための労働強化と流通過程への専売制導入は、相当に苛酷であったと言えよう。

この財政再建は、主導者であり、城下士出身の茶道職から身を起こし、遂には家老にまで登り詰めたズショの手腕に拠るところが大きい。

後にズショは、幕府から密貿易の嫌疑を受け、取り調べを受ける寸前に謎の突然死を遂げた。

累を上位者に及ぼさないための覚悟の自死であったようだ。

前置が少々長過ぎた。島津事情を熟知している読者がいれば、筆者の誤りをご指摘・ご指導戴きたい。

さて、密田家だが。当主は、代々林蔵の名を襲名し。”越中薩摩組”の支配役を勤めることが多かった。

東北から九州まで列島中に最大の”懸場”を保有する大商人であった。

明治以降北陸銀行北陸電力・製薬業=広貫堂などの設立に関与し、蓄積した資本の活用と培われた経営の才を発揮した様子が伺える。

史料によれば、弘化4・1847年越中薩摩組は、鹿児島年寄木村家と取引していた。

だがしかし、この時より薩摩藩内の富山売薬が始まったと考えるべきでない。

北前船の研究より推測すれば、文政期・1820年頃から越中薩摩組の事業活動が急劇に拡大している。

シュガー需要を全国規模で解明することもまた難題だ。同時並行的に薩摩ルートが拡大する大きな一因となった輸送品であったろう。

時代相において文化・文政期は、民衆消費の拡大期であったし。この頃砂糖のニーズが一般化・常態化著しかったことであろう。

越中薩摩組”の事業内容は、他藩での売薬と異なり、極めて特殊であった。

薩摩側に昆布を引渡すことで、薩摩藩内での売薬行商が認められ、商圏が維持できた。

当時コンブは、列島の特産物で、大陸中国向けの輸出品であった。

原産地が北海道北東北に限定されている。そのコンブは、薬種でもあり、調理における旨味のもとでもある。

現代においてもコンブの消費が、他県に比べて特異に多いのが、富山沖縄大阪・石川金沢などである。かつて北前船が運んだ名残であるかもしれない。

密田家は、北前船を所有して、北海道生産地において直接買付し、薩摩側に引渡した。

以上は、富山市呉羽山丘陵にある民俗民芸村・売薬資料館において取材し・学芸員から指導を受けた知見の一端である。

コンブと唐物である生薬などの薬種を受渡した場所=第2の縁故地新潟へと舞台が移る。

(3)北前船が寄港する新潟

新潟日本海側最大の都市、2回に分けて都合10年ほど滞在した。

江戸新潟町は、信濃川阿賀野川なる2大河川の河口に形成された天然の港湾都市新潟・沼垂<ぬったり>・蒲原の3津があり、2つの藩に管轄が跨がり、訴訟が絶えなかった。

幕末通商条約開港5港のうちに指定されたが、冬期間の風雨が強く。外国船から忌避される傾向があったが、信濃川・魚野川を通じて陸路経由で関東圏に通ずる海陸交通の要衝であるなどの有利さから、江戸時代から今日まで重要港湾であり続けている。

さて、抜荷<ぬけに>と言えば、薩摩船と言うのが日本海側では、ほぼ常識化していた。

ただ、その実態や真相となると、事の性格上あまり解明されていない。

幕府から断続的に・一方的に発令される禁制品の売買禁止や奢侈品の取引規制の対象とされる品物は、唐産物の白糸・更紗・茶器(=陶器)&毛氈<=欧州産か>などであった。

この産品は、いずれも海禁政策を採用し貿易と外交を独占していた幕府に巨利をもたらした。

従って、いわゆる抜荷とは、長崎口の官許ルート外で将来される輸入品で。簡略に言えば、密輸品である。

上掲の贅沢品の他に。産業用原料たる唐もの生薬などの薬種・光明朱なども薩摩船が、琉球口ルートを経由して国内に運び込んだらしい。

因みに光明朱は、輪島漆器の原料素材である。後述する海老江に近接する村上に郷土特産物の堆朱生産があること。上述密田家の屋号が能登屋であることから。能登輪島新潟との結びつきが伺える。

呼び名は、薩摩船でも。外観・実態は、国内運航帆船である。積荷が抜荷であるデリケートさから特定の運送業者が選抜されたらしい。

加賀藩の手船と称して公用運航した銭屋五兵衛が、罪に問われて、獄死したのは。密輸に関与したことを藩庁に遡及させないための尻尾斬りであったとされる。

その点で、大守加賀藩と並ぶ大守薩摩藩とを結ぶ廻船業の要には、加賀本藩と立てつつ粘り強く生きた支藩富山藩の売薬産業と”越中薩摩組”の存在が伺える。

薩摩藩家老調所広郷自死した事情も、つまるところ銭屋五兵衛と同じであった。

その抜荷の上陸地点の一つが、海老江<えびえ・村。越後国岩船郡=現・新潟県村上市>であった。

数年前に現地を訪ねた。鳥瞰すれば、阿賀野川荒川の間に挟まれた田園にして、前面の海岸は、岩礁も無いであろうと思われる・およそ60kmもダラダラ続く砂浜で、北前船が沖泊まりしやすい地形である。

そうなれば、遠見に目立つと言う別の懸念が生ずるが、漁港をつくる入江や浦も無いただ平坦な海岸線で、典型的な人口過疎の海岸であるから、その懸念は乏しい。

海老江現地に立ってみれば、旧胎内川水面に臨む小さく平凡なクリークだ。日蓮宗の寺があり、境内の外れ付近に、往時の水運事情を述べた説明板がある。

かつて、その周囲に会津藩の米蔵が建っていたとある。現地は明治以降に胎内川の改修工事により、相当に景観が変った。

改修工事とは、日本海に直接放水するための人工放水路を設ける大工事だったが、その工事の後もときどき洪水が襲う、言わば氾濫原・水郷地帯である。

改修工事前の胎内川は、一度荒川に注いだ後に日本海に注いでいた。海老江の川幅も相応に広かったことであろう。

実は、海老江新潟町の間は海路に拠らず、内水面を経由して通航する事ができる。

荒川の中流域水面から天然に形成された内陸の水路を通って、阿賀野川から信濃川へと達するルートである。

それは今も昔も変わってないこの地域の農業灌漑事情によるものだが、かつては内陸水運としての活用もなされたらしい。

ところで。あの芭蕉は、「奥の細道」に越後の事は何も書いてない。

鼠ケ関の次は、市振の遊女へ話題が移るのみである。

それを補うために、曾良随行記を読む。

村上に泊った翌日に、乙宝寺を参詣し。築地<ついじ・村。越後国(北)蒲原郡。現・胎内市、旧中条町海老江に隣接の村>に泊まり。翌日新潟まで達している。

築地村〜新潟町間は、直線40km程度だから、ほぼ1日行程。陸路も考えられるが、アイ風出ると曾良随行記に書いてあり。内陸水面を舟に乗って移動した事が考えられる。

この芭蕉一行が利用した内水面は、現在も残っているであろうから、検証は可能である。

さて、沖どりなどで、海老江に上陸した船荷だが。この内水面を経由して、新潟港や新潟町へは上流側から・新潟町を藩領として統治する譜代大名牧野氏の城下町長岡へは信濃川を遡上する事で・米蔵の持主である親藩大名会津松平家城下町会津若松へは阿賀野川阿賀川を遡りさえすれば、水路経由でダイレクトに運び込む事ができた。

海老江の畔は、幕藩期を通じて旗本領に指定された。いわゆる派遣代官統治だが、この地が我が国有数の洪水常襲地域である事もあり、領知替が繁雑であったため、近辺の外様大名領並の管理はなされなかった。その手薄さに、薩摩船は付け入った。抜荷を受渡するに、絶好の海面・河岸であったと言えよう。

天保6・1835年前面の越佐海峡で難破した船が、村松浜に漂着した。その中に抜荷があった。

次いで、天保11・1840年にも抜荷が発覚摘発された。

それを踏まえて、幕府は貿易特権を護るべく、新潟町を上知して幕府直轄領とし、新潟奉行所を設置した。併せて、海防の強化も行った。後世通商条約開港5港のうちに指定される布石となっている

(あとがき)

まずもってここまで読んで頂いた読者に感謝を申し上げたい。

冒頭に述べたとおり、ごく身近なテーマに絞り、盆栽仕立てで終る筈が、意想外に広がってしまった。

オスプレイほどの当て外れで、想定外の不時着となってしまった。

北海道産のコンブと沖縄黒糖。つまり列島両端の特産物が、中間の本州域=新潟海岸から能登半島で交換されていた。水面下での密着連動に驚いた。

幕末期の倒幕で主役を果たした薩・長2藩の活躍は広く認められているが、その陰で近代的軍事装備を可能にしたファイナンスの蓄積面で、加賀富山の本・支藩が縁の下的貢献をしたことも見えて来た。

長州藩領の下関は、海運輸送の要である。

長門周防国の大守毛利氏(城下は萩・山口で36・9万石)に、藩営の経済事業にして特別会計で運営された越荷<こしに>会所事業があった。本稿ではあえて取り上げなかった。

越荷とは、実に意味深な命名だが。必ずしも北海道産俵物だけを指したわけではないかもしれない。相対現金引取ルールが適用された塩・砂糖・抜荷なども含めて越荷であったかもしれない。

越荷会所の蓄積金が、長州藩における倒幕のための資金源であったらしい。

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