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2013-06-11

楢神社

神社は、奈良県天理市楢町に鎮座。
延喜式神名帳添上郡の「奈良豆比古神社」の論社。

祭神
 五十狭芹彦
 鬼子母神

祭神五十狭芹彦は孝霊天皇第二皇子であらせられ、崇神天皇勅命を奉じ四道将軍として山陽道を平定された勲功によって山陽地方では吉備津を平定された勲功によって山陽地方で葉吉備津彦命と称え斎き祀り申しあげている。
当社の伝聞によれば、山陽道平定後、一旦帰京され、再び勅を奉じ北陸道の平定に向かわれ、勲功をお建てになって彼の地で崩御された。その智・仁・勇に秀でられたご神徳を畏敬し慕い申しあげナラツヒコ(奈良豆比古)命と申しあげてあ祀り申しあげている。鬼子母神は、当社の古版木に『往古、加賀国白山の嶺に現れ給いて、御神諱を石川比売命と号し奉る。御本地は訶黎帝母に在し、此神慈照方便深くして抜苦与楽の御神なり。御神誓空しからず和光同慶の眼を開き給い小児を愛し万民撫育し給うこと世の知れる処となり』とある。更に『白山から天真榊に乗って当地に影向あらせられた』とある。この二柱の御神霊を併せ崇めて楢大明神と称え奉り祭祀奉る。

由緒
当社は神護景雲元年(767)九月称徳帝の奏聞を遂げ紳託により宮山に創建された。東大寺二月堂修二会に読誦する東大寺上院神名帳和邇・楢・巻向とみえて和爾坐赤坂比古神社に続いてナラツヒコ(奈良豆比古)神社と読まれる神社や、また、延喜式神名帳の添上郡にみえる奈良豆比古神社に比定する説もあり、当社の伝聞する説話に符合するのであるが、鬼子母神合祀して二柱御神霊を祭祀するようになり楢大明神(楢の宮さん)称え敬われてきた。
明治廃仏毀釈令のおり、ナラツヒコ(奈良豆比古)命を祀る神社であったからであろう。五十狭芹彦神社と改称させられたが、一般には『楢の宮さん』として畏敬され慕われてきた。昭和三十一年に現在の楢神社と改称した。
そもそも、楢の地名は、当方三キロの和邇族の拠点と認められる地域にある西山古墳群の一つから「佐井寺僧道薬師 族姓 楢君 素止奈之孫 和銅七年(714)二月二六日命過」と記載された墓誌が発見された。そこに見られる『大楢君』と称する族姓名に由来すると考えられる。また、大楢君素止奈は六五十年頃の在世と推定出来、飛鳥時代中期斉明天皇時代の人物である。
従って楢の地に、英傑智謀の誉れの高い楢族の遺祖ナラツヒコ命を祭神としたナラツヒコ命神社を創設しても不思議ではないし、神仏混淆の時代であり、しかも、佐井寺在籍の僧侶を擁する氏族とすれば鬼子母神をナラツヒコ命と合祀しても不自然ではない。
他方、ナラツヒコ命と五十狭芹彦命を同一神とする説話は、日本書紀の一書に曰くとして取り上げられていて当社の伝聞にも符号する。それ故に、明治廃仏毀釈令のおり、祭神がナラツヒコ命から五十狭芹彦命となり、神社名がそれにならって動いたとしてもやむ無いことであろう。

文久二年(1861)には春日大社の五十二次式年造営に当たり神殿の払い下げを受ける等御祭神のご神徳高さが伺い知ることが出来る。


「由緒書」(境内にあった印刷物)から抜粋


鳥居
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拝殿
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本殿
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左 恵比須神社 恵比寿須神
右 八幡神社  応神天皇
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